寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3740話) デイの皆さん

2024年10月14日 | 人生
 “デイサービスを受けるべく6月から介護施設に週2日、送迎バスで通っています。施設では新聞や本を読んだり、筆で写経したり、体操やカラオケをしたり・・・。中でも、通うようになってできた友人とのおしゃべりは格別。施設で提供される昼食もおいしくて、訪問の楽しみの一つとなっています。
 スタッフは皆親切です。私が椅子から立ち上がろうとしたとき、転ばないようにとさっと手を差し伸べてくれます。家族との連絡ノートでは、その日の取り組み状況や健康状態を丁寧に書いてくれます。それを妻は毎回目にして安心しているよう。スタッフの皆さん、これからもよろしくお願いします。”(9月23日付け中日新聞)


 三重県大台町の小西さん(男・82)の投稿文です。高齢になれば体の衰えは避けられないことである。いくら健康でも、ぽっくりいかない限り、いつかは誰かに頼らざるをえない。小西さんは週2回のデイサービスを受けられるようになった。そしてこの様に楽しく感謝の日々である。本当によかった。
 ところがこうは言えない人が多そうである。行ってもつまらない。何もすることもなくポケット過ごして返って悪くなってしまう。もう行きたくない。そんな声をたくさん聞く。ボクの母も長いこと施設でお世話になった。その状況を見てきた。2人とも老人施設にはできるだけお世話になりたくないと思っている。先日、サロンで在宅医療について話しを聞いた。今はかなりのことを在宅で受けられるようになっていることを知った。昔に比べ選択肢は増えている。いろいろ知識も得て、その時の状況に応じた適切な選択をしたい。



(第3732話) 最愛の亡妻

2024年09月28日 | 人生
 “2月中旬、66年連れ添った妻を亡くしました。病院から妻が危篤という連絡を受けて私は駆けつけました。私が声をかけても妻は反応しませんでしたが、ティッシュに水を含ませて口に入れたらかすかに吸ったようでした。30分ほどして逝きました。86歳でした。
 妻とは40年近く布団店を営んできました。息子3人を育てつつ、家事を担い、私の母の介護も頑張ってくれ、何かと苦労をかけました。20年ほど前に店を閉じてからは妻と2人で全国各地を旅行しました。
 妻は5年前に転倒して股関節を骨折し、車椅子生活を余儀なくされました。胆のうを患って入院したこともありました。私はこれまでの感謝を込めて、妻へはできる限りの介護に努めました。最愛の妻を失って半年。懐かしい写真を見返しては在りし日の思い出に浸っていますが、やはり寂しいです。”(9月2日付け中日新聞)


 岐阜県下呂市の熊崎さん(男・91)の投稿文です。夫婦生活66年、86歳の妻を亡くした91歳の男性の嘆き。最愛の亡妻と言われる。夫婦、普通に生活しているときは空気のようなもの、あまり意識しなこともある。ところが亡くなると大きな悲嘆に暮れる。空気ですから、なくなっては大変です。悲嘆は少ないのが良いでしょう。ではどうすればいいのか。お互い生存中によく尽くすことでしょうか。よく尽くしたら悲嘆は少ないのでしょうか。いや、返って大きいのかもしれません。夫婦仲が悪いのであれば悲嘆も少ないでしょうが、良ければ良いだけで大きいでしょう。これが自然でしょう。これで良いと思います。
 ボクは結婚のいきさつからして大変だった。そうしてもう59年過ぎた。どちらかが亡くなった時、どうなるだろう。ボクはなってみなければ分からない。妻は以外に冷静かもしれない。



(第3729話) 目指せ100歳

2024年09月21日 | 人生
 “100歳の作家、佐藤愛子さんのエッセーを基にした映画「九十歳。何かめでたい」を見た。主演の草笛光子さんは90歳。ストーリーが進むうちに演じる草笛さんが若返って見えてきたのは、佐藤さんの元気の秘訣である飽くなき探求心と好奇心を演技で体現できたからだろう。
 スクリーンの前で、10年ほど前に老衰のため90歳で逝った母が私の脳裏に浮かんでは消えた。死後すぐに母の担当医から「長寿でした」と言われ、私は母の生きた年齢を目標にしたが、さらにその先のI00歳を目指そうと思った。私はこれまで以上に、ウオーキングや野菜作り、絵手紙といった趣味に励もうと考えている。”(8月27日付け中日新聞)


 愛知県安城市の主婦・浅見さん(74)の投稿文です。ボクは先日バスの中で「老後資金が足りません!」を見ました。草笛光子さんの溌剌とした演技、これが90歳近い人かと信じられない思いで見ました。健康器具のPRでもよく見ますね。浅見さんのお母さんは90歳で亡くなりました。そして更に上の100歳を目指すと言われます。お母さんの上を目指すのは当然でしょう、時代は進み、寿命も延びています。人生100年時代と言われるこの時代です。励んでください。
 ボクの母親は老衰で96歳で亡くなりました。父親は68歳でした。父親はすでに超えました。次は母親です。男と女は平均寿命も違います。でも100年時代です。まずは母親を目指そうと思っています。その間、どうして過ごして行くか、これも問題です。今の生活は充実していると言っていいでしょう。この期間を少しでも長くし、その後です。励みたいと思います。



(第3700話) 母子の姿

2024年07月20日 | 人生
 “近くの入浴施設に行くと、50代ほどの女性が母親らしき人の背中を洗い流していた。その日は、くしくも「母の日」。思わず涙がこぼれ落ちた。
 10年ぐらい前までの数年間、私は岐阜県郡上市の実家に毎週帰省しては、自力での入浴が難しくなった母を連れて周辺の温泉施設に行った。湯船に漬かり母の笑顔を見るのが楽しみだった。いつものように母の背中を私が洗っていたら、70代ぐらいの女性が「お母さんですか? いいですね。私もやりたいけど、もういないんです」と声をかけてきた。その母は既に逝き、あのときの女性の言葉が今回一層身に染みた。見かけたあの母子にとって、この日がかけがえのない思い出になることを願わずにいられなかった。”(6月22日付け中日新聞)


 岐阜県関市の主婦・伊藤さん(74)の投稿文です。娘さんが母親の背中を流す、何といういい風景であろう。母娘の姿でこれ以上いい風景を探すのは難しい。伊藤さんもされていた時期があった。そんな風景を見て、昔の出来事を思い出された。それは、伊藤さんが母親の背中を流していたとき、羨ましがられたことである。この短い文の中に3人の娘さんが登場する。それぞれの時の立場がある。
 「親孝行したい頃に親はなし」、こんな思いを抱いた人の多さ、数え切れないであろう。親子というのはそんなことが多いのである。悲しい宿命である。でも成長しなければいけない。いつまでも同じ過ちを繰り返していてはいけない。



(第3688話) 星野富弘さん

2024年06月25日 | 人生
 “詩人で画家の星野富弘さんが亡くなりました。私が星野さんを知ったのは39年前、初めての子どもである長女の出産直後。体調不良で入院してわが子に母乳をやれない悲しさ、その世話を母に頼んだ申し訳なさから病室で泣いてばかりいました。そんな折、隣のベッドの中年女性が差し出してくれたのが星野さんの詩画集「四季抄 風の旅」でした。奇麗な字や絵が並んでいました。星野さんは中学校教諭だった24歳のときの部活動指導中、事故に遭って手足が不自由になりました。筆を口にくわえて書いたのがこの詩画集で、その中の「一度だけ腕が動くなら母の肩をたたきたい」というフレーズを読み涙がこぼれ落ちました。
 10日ほどで退院し、この本を早速買い求めました。その後も落ち込んだときには必ず開き、何度も励まされてきました。合掌。”(5月28日付け中日新聞)


 愛知県愛西市の主婦・日比野さん(66)の投稿文です。わが家にも星野富弘さんの本が数冊あった。妻が買ってきたのである。ある講演でこの本を薦められたという。そして最初に求めたのがこの詩画集「四季抄 風の旅」でした。その後求めた本は妻が人にくれてやったようである。そして今も残っているのはこの本1冊である。さっそく引っ張り出してきて読んだ。絵も字も素朴で、心地よい。筆を口に加えて書いたとは、とても思えない。人間は命さえあれば、何ができるか計り知れない、その見本の気がする。命とはそうものであるのだろう。ボクはこの歳まで、順調すぎるほどに過ぎてきた、と思っている。癌の手術はしたが、手足をもぎ取られることはなかった。そして多くの人は、多少の不運はあったろうがこのように過ごしてきた。人間、生きとし生きる人はない。ボクは今年傘寿である。これからがいよいよ本番である。何が起ころうと受け入れ、人生を全うしたいものである。



(第3687話) 中日ビル

2024年06月23日 | 人生
 “新たな中日ビルが名古屋市中区で全面開業した。1966(昭和41)年にできた旧ビルには私が小学生のとき家族でよく屋上の回転展望レストランに行った。「名古屋テレビ塔」やデパートの屋上遊園地を見つつ、ほぽ1時間で1周する都会の眺望を楽しんだ。大人になっても脚本家の講演を聴いたりクリスマスイルミネーションを見たりするために訪ねた。建て替えが発表された後の2018年夏、同僚と見納めとばかりに屋上ビアガーデンに行き、記念写真に納まった。
 新ビルでは歌手宇崎竜童さんの弾き語りライブを聞き、78歳と思えない声量に元気をもらった。今後も折に触れて訪問したいと思っている。”(5月23日付け中日新聞)


 愛知県北名古屋市の訪問看護師・古橋さん(女・59)の投稿文です。「中日ビル」、この地域の人には何かと思い出があるであろう。できたのが昭和41年とは、ボクが名古屋へ通勤し始める少し前である。回転レストランには1回だけ入ったことがある。そしてこの文を書きながら、思い出したことがある。このビルに入っている会社に就職試験を受けに行ったことがる。その会社に行っていたら、別の人生になっていたであろう。新ビルの完成も新聞で知ったのみで、まだ行っていない。いつになるか分からないが、行ってみたいものである。
 ボクがこの投稿文を取り上げたのは、別の思い出があるのである。妻と知り合い、結婚も約束した。妻は料理を習いたい、と言うことで、このビルでやっていた料理教室へ通うことになった。そしてボクは、この教室の終わるまで、ロビーで妻を待っていたのである。そしてデートの出かけた。青春の思い出である。



(第3686話) 笑う家族

2024年06月21日 | 人生
 “私は20年後、好きな人たちに囲まれて皆と笑って生活していたい。好きな人たちは思いつく順に友人、両親、未来の奥さんか。
 私にとっての身近な大人である両親はいつも笑顔で、はたから見ても人生を楽しんでいるのが分かる。おそらく大人は、子どもの私からしたら想像できないぐらいの苦労やつらさもいろいろあるはずだろうに、そんなことはみじんも感じさせない。そんな両親がいつしか私の憧れとなり、今属するこの家族みたいな家庭を自分も築きたいと思うようになった。この前亡くなった祖母が言っていたように「笑う家族には福来たる」は真理だと思う。
 私にもこの先、さまざまな壁が立ちはだかるだろう。その都度、笑い飛ばしてやろうと思っている。何たって私は「笑う家族には福来たる」を実践した加藤家の一員なのだから。”(5月22日付け中日新聞)


 岐阜県土岐市の中学生・加藤さん(女・14)の投稿文です。中学生が、自分の両親について、また家族についてこれだけのことを言う、これはできることではないと思う。「笑う家族」と誇りに思っている。そしてそれを将来の自分でもありたいと思う。まさに背中を見せての子供の教育である。子供は親の背中を見て育つ。「笑う家族には福来たる」、また「笑いは人の薬」という言葉もある。笑いは薬と同程度の効用がある。いや、薬以上だと思う。薬には副作用もある。笑いにも副作用があるとすれば、それは良い副作用である。どんどん人をにこやかにしていく。ボクも昔は「笑顔の〇さん」と言われたものである。いつしかそれを忘れていた。最近少し取り戻してきたと思う。人生晩年に向けて、より良い人生にしていきたいものである。それにしても加藤さんの「加藤家の一員なのだから」の言葉には驚いた。素晴らしい。



(第3676話) 聞かずに後悔

2024年06月01日 | 人生
 “31年前、78歳で逝った父は1936(昭和11)年、陸軍に召集され、中国に4年いました。除隊して結婚し、母が私を身ごもった直後に再召集を受け、太平洋戦争が始まるや東南アジアを転々として戦時中の43年に軍務を解かれました。通信兵だった経験を生かし、通信メーカーで働き終戦を迎えました。
 私と同年代の人が最近、戦死したとされる父の遺骨を捜すケースが多いそう。思い起こせば私が学生のときの同級生で、父を戦争で亡くした人は少なくありませんでした。私だって運命の歯車が大きく狂っていたとしたら、父の遺骨にこだわったかもしれません。改めて父の戦争体験談を聞いてこなかったことを後悔し、父が自らの軍歴を記した紙を読み返している今日この頃です。”(5月7日付け中日新聞)


 愛知県春日井市の主婦・河原さん(82)の投稿文です。今82歳の方が31年前に亡くなった父親のことを思い出されている。そしてもっといろいろ聞いておけば良かったと、後悔されている。往々にしてあることであり、そしてボクもしかりである。亡くなったときはそれ程に思わないが、時が経つに従ってこの思いは大きくなっていく。ボクがそうであるからである。父自身の事、又環境のこと、いろいろである。こういう歳にならないと分からないのであろうか。でもその時では遅すぎる。父は戦争で負傷している。このことについても何も知らない。
 子供や孫が後悔しないように、こちらから時を捉えて積極的に話して置いた方が良いと思う。多分鬱陶しがられると思うが、後々感謝されると思う。



(第3675話) 文通66年

2024年05月30日 | 人生

 “66年来のペンフレンドがいる。小学校4年生のとき、児童向け学習雑誌の絵画コーナーに応募したら私の作品が入選し、その上位だった特選に輝いたのが山口県・下関駅が描かれた水彩画だった。その素晴らしさに感動して私と同学年の作者に手紙を書いたのが文通の始まりだった。以降、私は平均して月に2度ほど手紙を送っている。
 互いの学校や家族の近況報告を書き合ってすぐに意気投合した。中学校、高校、大学へと進み、やがて関東に移った彼女は画家となった。私は英語教師として学習塾や高校で教えてきた。ともに結婚と出産を経験し、仕事も含めて文通の話題は尽きない。絵本を出し、挿絵も描いている彼女のは、たいてい絵手紙風だった。
 これまで直接顔を合わせたのは3回だけだが、手紙のやりとりだけで十分に意思疎通でき、互いを十分感じられている。”(5月6日付け中日新聞)

 愛知県刈谷市の主婦・重野さん(76)の投稿文です。人生長くやっていると、何十年と継続していることもできてくる。ボクも日記やこの「話・話」 、そして川柳やウォークなど2,3はある。でも66年は凄い。小学4年から76歳までである。文通である。平均月に2回とある。会ったのは3度と言われる。よほど気が合ったのであろう。生きがいであった。それでなければできない。元は絵の入選である。一人は画家にまでなられるのであるから、才能があった。そして重野さんも教師となられる。釣り合いがとれていたと思う。
 そしてこのきっかけは、重野さんが手紙を書かれたことである。これがなかったら、ありえなかった。何が幸いするか分からない。まずは行動を起こすことである。そしてこの二人は何年続くのだろう。平均年齢的に言えば、まだ15年は行けるだろう。


(第3654話) 進路の選択

2024年04月12日 | 人生

 “教員歴14年目にして2度目の高校3年生担任を務め、1日の卒業式で送り出しました。前回の卒業生の担任は10年前。前任校の進学向けクラスでした。ほとんどが大学を受験する中、クラス室長の男子生徒は皆より早く社会に出ることを望み進学も就職もせず、あえてフリーターとなりました。進路指導をする私も当初それが彼の意向とはいえ、「これでいいのか」と悩みましたが、彼の性格や誠実さを知るうちに彼の選択を信じることにしました。高校卒業後、彼は自転車会社のアルバイト、店長を経て今やその会社の社長をしているそうです。
 今回送り出したクラスでも大半の生徒が進学を希望しました。残念ながら卒業しても進学先が決まらない生徒もいます。生徒は十人十色、進路選択に正解はありません。卒業生を信じ、卒業後も私は彼らを応援したいと思います。”(3月9日付け中日新聞)

 愛知県北名古屋市の高校教員・小川さん(女・37)の投稿文です。優秀な生徒が、高校で止めてフリーターになるという。進路指導の先生は驚いた。就職するというならまだしも、フリーターである。でもこの生徒は後に店長、社長にもなるのである。この生徒なりの考えがあったのであろうか。人間学歴でないことや、人柄が重要なこともボクにも分かっているつもりだ。でもそれが分かるのは結果を見てである。事前にどこまで信じられるだろうか。
 この話を聞くと、ボクの孫のことを思わざるを得ない。大学を中退、今24歳、フリーターである。今時間を見つけて絵を描いている。何とか自活しているようであるが、それで生活ができるとは思えない。30歳までに自分の道を見つけるとボクの前で言ったので、今はそれを信じるのみである。先生と同じ状況かもしれない。