寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2496話) あなたに必要?

2017年08月30日 | その他

 “電車やバスなどで優先席に座っている若者をよく見かけます。皆さんはそんな光景をどのように思いますか?何も感じないでしょうか。私はとても違和感を覚えます。優先席はお年寄りや体に障がいがある人など長時間立っていることが不可能な人が座るための席です。そこに健康な若い人がよく座っているのです。もしかすると座っている若い人には見た目には分からないような何か特別な理由があるのかもしれません。ですが私には、ただ座りたくて座っている人も結構いるような気がしてなりません。
 本当に優先席を必要としている人が、そこに座っている健康な人に「席を譲ってください」とはなかなか言いだしにくいものです。いま一度、優先席のあり方を考え直すべきではないでしょうか。”(8月13日付け中日新聞

 津市の高校生・池谷さん(女・17)の投稿文です。電車の優先席の話は尽きない。それだけ身近な話で、座らなくてもいい人が座っているからである。座らなくてもいい人でも、空いていれば座ってもいいが、その時は周りに気をつけねばいけない。必要な人が来たと思ったらサッと立てばいいのである。それが立たないから問題になるのである。こういう話になると、必ず「若い人でも必要な人はある」という話が出てくる。優先席に座っている人は、それが必要な人ということであればこんな話は出て来ない。必要な人を立たせてスマホに夢中になっているから問題なのである。72歳のボクでさえ優先席に座るときは気を使う。ボクより必要な人はいないか、そんな人が乗り込んでこなかったか、気になるのである。気にするくらいなら座らない方が楽である。だからまず一般席の空きを見つけるのである。日本の電車の優先席と歩行者優先の横断歩道は、ないと同じである。全く無視されている。こんな社会でいいのだろうか。池谷さんの言葉をよくかみしめて欲しいものである。


(第2495話) 夫より長生き

2017年08月28日 | 人生

 “七月三十一日付本欄「夫より長生きしなきゃ」を読み、私も同じ気持ちです。夫婦といえども生まれてくるときは別々ですし、あの世へ行くのも大半が別々だと思いますが、私は妻として夫の世話をするのは当然だと考えています。
 二十二歳のときに三歳上の夫と結婚して五十年がたちました。最近は今後の生き方について二人でよく話し合います。夫が後期高齢者となった今、私はできる限り面倒をみたいと考えています。私は専業主婦で、夫は家事をほとんどやりません。もし私に万が一のことがあって夫が一人で暮らすことになったら、分からないことだらけだと思います。だから夫より一日でも長生きして、世話をしなきゃと心に決めています。”(8月13日付け中日新聞)

 岐阜県瑞穂市の主婦・鹿野さん(72)の投稿文です。男が残されると哀れという話がある。また妻に先立たれた夫はすぐにおかしくなるとも、またすぐに後を追うとも言われる。これはいろいろな条件があると思うが、一般に言って男は弱いのである。平均寿命を見れば一目瞭然である。7年からの差は強い、弱いの何物でもない。それでも女は弱い立場であるなどと言って騒いでいるのは、自分の都合が悪いところだけを見ている気がする。女は欲張りだ。
 我が家と鹿野さんの夫妻の関係は、歳が二つばかり違うだけで全くよく似ている。妻の立場から言えば「23歳の時に2歳年上の夫と結婚して、48年たちました」と言うことになる。長女ができて退職したから、ほとんど専業主婦のようなものです。さて鹿野さんは「夫より一日でも長生きして、世話をしなきゃと心に決めています」と言っておられるが、我が妻はどうだろうか。このようには言わないのである。このような話になると「私が先に逝く」と論争になるのである。ボクは「男が先に逝くのが自然である。そうなっている」とうそぶいている。人間の寿命など誰にも分からないのであるから、たわいもない言い合いである。しかし、鹿野さんは立派だ。この言葉を聞かせてやりたい。口だけでもこう言ってもらえると安心である。


(第2494話) ファスナー問題

2017年08月26日 | 出来事

 “夏のワンピースは、後ろ開きファスナーの場合が多い。ワンピースは好きだが、後ろ開きでファスナーとなると、とても苦手だ。急いでいる時など布をかんでしまって慌てて脱ぎ、状況を元に戻すのに大汗をかかねばならない。若い頃から、このやっかいな「ファスナー問題」には悩まされてきた。
 しかし、欧米映画の中の女性たちはこの問題に悩まないようだ。画面にみる女性の身支度の仕上げは背中のファスナーを上げることと、ネックレスの金具を留めること。この二つは言われなくても、側にいる男性がすることが多いからだ。男性は支度の終わった女性に「きれいだよ」とささやき、腕を組んでお出かけだ。こんなシーンを映画の中で幾度も見た。ところがつい最近、似たようなシーンが私に巡ってきた。
 着替えていたら、近くに偶然夫がいたので背中のファスナーを上げてくれるよう頼んだ。夫は上げてくれたが、ひとこと言った。「こんなこともできんようになったの?」。ガーンである。ショックであった。映画の見すぎか、はたまた頼む人を間違えたか。この夏も「ファスナー問題」は解決しないままである。”(8月11日付け朝日新聞)

 福岡県福津市の主婦・坂井さん(73)の投稿文です。坂井さんは外国映画に少し影響されすぎの気がするが、これは小説の面白さがある。日本の家庭ではどこでも起こりうることであろう。ボクも頼まれてフャスナーの上げ下げやネックレスを留めることを時折してきた。以前からしているので、坂井さんのご主人のようなことは言わないだろうし、言った覚えもない。余分なこと言って恨まれることはない。
 確かに日本の男は妻が喜びそうなことはなかなか言わない。「愛している」などとは間違っても言わないだろう。それを非難するが、では妻の方からはどうだろう。これも多分ほとんど言わないだろう。男が言うもの、女は受けるものと思っている感がある。言って欲しければ先に言えばいいのに・・・まずは与えよ!である・・・などと言っているとぶっ倒されるであろうか。


(第2493話) 三つの「な」

2017年08月24日 | 教訓

 “今から四十五年前の昭和四十七年十月、父の葬儀の時の話です。長男(昭和五年生まれ)、次男(同七年)、三男(同十年)、末っ子の私(同十六年)の四人が久しぶりにそろい、父の話になりました。
 長男がしみじみと「父との約束守れたなあ」と言いました。私が「何の約束」と聞くと、「義理を欠く、な」「新聞に載る、な」「親より先に死ぬ、な」の三つの「な」だと教えてくれました。「な」はテンションを上げて言うそうで、小学生時代に夕飯前に、長男、次男、三男が三つを順番に、言わされていたといいます。
 ある日、次男が「よいことをして新聞に載ってもだめか」と言うと、父は「ガキがいいことせんでもええんじゃ。よいことは大人になってからにせよ」。またこれも次男が「病気とか事故で先に死んでもだめか」と聞くと、父は「どんな理由があれ、親より先に逝くなんて。順番が違うだろうと怒鳴ってやる」。
 その兄たちも、時代が変わり、自分の子どもができて、三つの「な」になるほどとうなずいたそうです。最後に残った長男も二年前に死去して、三つの「な」について話す三人はもういません。”(8月9日付け中日新聞)

 三重県四日市市の加藤さん(女・76)の投稿文です。家庭によっていろいろな教えがあるものだと感心する。間違いでない限り、そんな主張があるのもいいものである。そこには生きてきた証し、自己主張がある。無味乾燥ではないのだ。加藤さんのお父さんはどんな人生からこのような三つの「な」を主張されたのであろうか。特に「新聞に載る、な」については違和感があるが、そこには大きな何かがあったのであろう。良いことでも新聞に名が載るというのは、大きな影響を及ぼすことがある。宝くじや拾得物などで大きなお金が入ったことが新聞に載ったら、寄付の依頼が絶えなかったという話がある。善意の話でも100%良いことばかりではない。他人はどこかに非難することを見つけ出すものである。こう思えば加藤さんのお父さんの言われることは納得できる。「親より先に死ぬ、な」は全くそうである。人間の死など思うようにならないものだが、それでも親より早く死ぬことは一番の親不孝である。これだけ長寿社会になると、逆縁も多くなるのではなかろうか。幸いにボクは親をすべて見送った。次はボクの番だが・・・逆縁にならないようにして欲しいものだ。


(第2492話) 生卵

2017年08月22日 | 知識

 “一年前、ベトナムから日本に来ました。先に来日していた姉が迎えに来てくれ、すぐに牛丼店へ行きました。姉が注文した「ねぎたま牛丼」を見て、私はびっくりしました。ネギがたっぷりの牛丼の上に、何と生卵がのっていたのです。姉が「生卵を、ご飯と混ぜてから食べるんだよ」と教えてくれました。私は「とても食べられない」と思いましたが、食べたら本当においしかったです。
 日本より暑いベトナムでは、生卵を食べることはほとんどありません。姉から「生卵は健康に良いんだよ」とも聞きました。私は今では外食のたびに生卵とご飯を食べています。これまで日本でいろいろな驚きがありましたが、生卵を食べることが一番面白かったです。”(8月3日付け中日新聞)

 愛知県一宮市の留学生・ウォー・ゴック・ユー・トゥイ(男・22)の投稿文です。食べ物もこのように変わるのか、まさに所変われば、です。生卵が好きな日本人は多いでしょう。ベトナムでは食べないとは・・・日本人のこれほどの好物を食べないのだ。日本に来て生卵のおいしさを知って感激されたとは、嬉しいことだ。世界中の嗜好を見れば驚くことばかりであろう。外国へ行く妙味がここにある。
 ネギ玉丼はボクの好物である。牛丼に生卵をかけると全く味が違ってくる。そこにネギのシャキシャキ感が加わると更に味が違う。最近は牛丼店へ行くと、いつもネギ玉丼である。昔の麦ご飯に生卵がごちそうであった頃と比べると、今は牛丼にネギ玉であるから、比較にならない高級化である。でも喜びは麦飯に生卵の方が大きかったと思う。ちなみにボクがカツ丼やさんへ行くと、いつも味噌カツ丼である。辛子を付け、生のキャベツと一緒に食べるとまたおいしい。


(第2491話) 君の先輩

2017年08月20日 | 出来事

 “母の介護も兼ねて北海道に帰省した折、56年ぶりに小学校を訪ねた。高台にある小学校への道を歩くと、懐かしいグラウンドが開けてきた。二宮金次郎の銅像は見当たらない。当時はマンモス校だった。盛大に行われた運動会の様子が脳裏によみがえってきた。
 帰ろうとすると、下校中の3、4年生らしき4、5人の男の子が「こんにちは」と声をかけてきた。ちょっと驚いた。「おばさんね、56年前にここの生徒だったんだよ」と言うと、「じゃ、おばさん先輩!」と思いもかけない言葉が返ってきた。なんてすてきな響きでしょう。
 うれしくなって、「二宮金次郎って知ってる?」と聞くと、校庭の花壇の近くにあると教えてくれた。校庭に戻り、見つけた銅像は思っていたより小さかった。広かったグラウンドも下から見上げていた銅像も、みんな小さかった。そうだ、小学生だったんだもの、と胸に響いた。
 それにしても「先輩」かあ。人生の先輩として子どもたちの手本になれるよう生きていきたいものだ。帰り道、当時のままのさびついた鉄の手すりを、自分も手すりもいとおしみながら伝って降りた。”(8月1日付け朝日新聞)

 千葉県八千代市の主婦・角井さん(69)の投稿文です。何十年ぶりに母校を訪れる。懐かしい場面が思い出されるだろう。何十年ぶりとなると大きく変わっているだろう。どこに面影が残っているか気になるところだ。そこで、今の児童に先輩と呼ばれる。先輩と呼ばれるとこれもいい気分にさせるものである。ただ先に所属していたと言うことだけだが、先輩という言葉には仲間という意味に敬いの気持ちが込められている。
 二宮金次郎像か・・・中学校にあることは知っているが、小学校はどうなっているのだろうか。今度行ったら気をつけてみよう。今月からグラウンドゴルフの会員になり、その練習が毎日曜日小学校のグラウンドで行われている。母校に行く機会ができた。60年以上前とは全く様変わりであるが、幸いに同じ場所に小学校はある。考えてみればこれは嬉しいことである。またいろいろな思い出ができるだろう。


(第2490話) 集まり無言

2017年08月18日 | 出来事

 “家族でレストランに行った際、隣に小学生の六人組がいた。最近の小学生の大人っぽさには驚かされるが、私が最も驚いたのは六人とも一言も話さずにスマートフォンをいじっていたことだ。小学生はわざわざ集まったのに一体何をやっているのか。画面をちらっと見たら無料通信アプリのLINE(ライン)だった。おそらく集まっている他の五人以外の子とだろう。その場にいない友人と顔を合わさないで「話す」のなら、目の前にいる友人と一緒にいる必要があるのか? LINEの相手と一緒に遊べば良いのでは? 私にはこのように次々と疑問が頭に浮かんできた。
 このような光景をよく見かけるような気がする。誰かと一緒にいるときぐらいは他の人とつながらず、目の前にいる人と向きあうべきでは? とはいえ私もスマホ世代。こんな考えを持つ私の方が世間についていけていないのだろうか。”(8月1日付け中日新聞)

 名古屋市の高校生・愛知さん(女・17)の投稿文です。ボクらの世代ならすぐに言いそうなことだが、17才の高校生の意見である。まさにスマホ世代が言うのだから、よく言ってくれたと思う。目の前の人と無言で何のために集まっているのか、全くおかしな話であるが、もうこうなって随分たつ気がする。今高校生の孫が小学生の頃はゲームであった。集まっては皆黙ってゲームをしている。孫はゲーム機を持っていなかった。随分辛い思いをしたろうが、素直に育ってくれた。今もスマホは持っていないようだ。
 喫茶店では大人も結構それぞれ新聞や雑誌を読んでいる風景を目にする。特に夫婦はそうだ。ボクは人と会っていたら絶対と言っていいほど、それらは手にしない。妻と行ってもお互い手にしない。コーヒーを飲み会話をする、コミュニケーションの場である。これがその場の過ごし方、生かし方であると思っている。


(第2489話) 肩書なくても

2017年08月16日 | 人生

 “定年退職後は現役時代の肩書が無効となり、「ただの人」になることを肝に銘じて暮らす必要があるとよく聞きます。高い役職に就いていた方の心の中にはさぞや大きな葛藤があると想像します。けれど老後は心も「断捨離」して、新しい生きがいを求めて歩んでいくべきだと思います。
 昔よりも寿命が延びて第二の人生の課題が増えてきた昨今、一人一人の力量が問われているのではないでしょうか。そんな中、教育現場で働き、学校長まで努めた人は退職後も肩書きにこだわっているケースが多いような気がします。生涯学習講座の講師や地域の集まりなどで「元校長」と紹介された人の話す内容が「上から目線」でがっかりしたことがたびたびありました。
 老いていくということは持っているものを一つずつ失っていくということだと思います。校長だけでなく誰しも「元○△」という肩書から解放されて、軽やかな心で輝いて生きていきたいものです。”(7月31日付け中日新聞)

 岐阜県瑞穂市の塾アルバイト・関口さん(男・63)の投稿文です。さてまた男には難しい問題である。「話・話」第2486話の「妻と夫婦の定年塾」と同じような課題である。男は現役時代の肩書きから離れられないのだ。出世した人程大変だ。それだけ魅力があったのだろうし、未練が残っているのだ。長年使ってきた言葉遣いは、意識していてもついつい出てしまう。ただの人になりきれないのだ。ボクも全く要注意なのだ。特に今年は老人クラブ連合会長などと言う偉い役に就いている。人前で話すことも多い。そして今は全く思うがままに発言している。今の立場での発言ならいいが、昔の立場で発言をしていないか・・・・気になるが、自分ではよく分からない。でも、ボクの第一の人生ではそれ程にちやほやされたという意識はない。でも校長さんは大変だと思う。校長さんはいつも人に話を説く立場である。元校長という肩書きもつくだろう。第二の人生だからと言ってここから抜け出すのは大変である。余程心しないとこの投稿文のようになるだろう。


(第2488話) スマホが欲しい

2017年08月14日 | その他

 “「欲しい物は?」と聞かれたら「スマホ」と答えるだろう。実際のところ、私には操作する能力はないのだが。ただ、私くらいの年代の人間はみんなそう思っているに違いない、と勝手に思い込んでいる。
 二つ折りのガラケーの修理のため店に入った。話がスマホに及んだ。「こういうのがあるといいよね」と欲しいそぶりを見せた。だが、今はほは電話の機能しか使わない。私のこうした使用状況に気づき、店員は首を左右に振った。それで全てが終わった。
 そんな私でも若いときは時代の先端をいく買い物をしたものだった。家庭用ビデオは発売と同時に買った。肩にかついで撮影した。翌日肩が痛んだ。電卓もいの一番に購入した。8桁まで計算可能をウリにした品物だった。デジカメの購入も早かった。今では古物だ。久しぶりにカメラを取り出して昔の画面を懐かしんでいたら、プツンと画面が消えた。壊れたらしい。いまは、専用のゴーグルをつけて、別の空間にいるように感じるVR(仮想現実)に興味津々だ。スマホでもできる。やっぱり、多機能満載のスマホに魅力を感じる。”(7月30日付け朝日新聞)

 新湯市の幼稚園理事長・斎藤さん(男・84)の投稿文です。84才か・・・でも、先端の器具を使いこなしたと言われるので、スマホも無理ではないと思う。ボクも今年6月半ばから、ガラケー電話からスマホに変えた。少し悩んだが、スマホにする決断は早かった。そして使ってみて、慣れるのも早かった。スマホはタブレットに電話機能を持たせたものと感じた。ボクはタブレットを使ってきている。そして皆がスマホに夢中になるのが分かった。確かに便利だし、いろいろな使い方があるし、使い方によってはのめり込むだろう。動画やゲームやラインなど誘因はたくさん転がっている。それだけに使い方は要注意だ。
 ボクも斎藤さんほどではないが、先端器具を早く使ってきた方であろう。家庭用ビデオやビデオカメラ、デジカメなども早い方であったと思う。8ミリカメラも使った。使った効果はあったと思う。その中でも、パソコンを覚え、ホームページを開いたことは大きかった。この歳でこれが使えるのは大きなボクの利点である。町内会幹部役員などは多くが高齢者であり、使えない人が多い。資料作りを一々若い人に頼んでいては、自分でするより何倍も労力を要するし、思うものもできない。ボクは自分で作るので、次々いろいろ発信してきた。特に今の老人クラブ連合会長は本領発揮である。やはり人間、挑戦は大切である。斎藤さんは84才にして幼稚園理事長さんである。スマホは大いに役立つと思う。


(第2487話) 畑に根付く

2017年08月12日 | 知識

 “近所で畑を借りて野菜を作っている。今年は良いタマネギができてうれしかった。去年は300本が全部ピンポン球ぐらいで、しかも半分は、「とう立ち」してしまった。
 実家の母はタマネギを作るのが得意で、近所の人たちに買ってもらっていた時期もあった。その母が言っていたことを思い出し、今年は植え付け場所へ早めの1月に施肥をしておいたのが良かったようだ。施肥の際、苗が霜で浮き上がらないように軽く土を踏んでおいた。苗は元気だったが、去年のようになってしまわないか少し心配だった。4月になると小さな玉ができはじめた。「肥料より耕作」との言葉を思い出し、回りの土を2回ぐらい起こしてやった。すると急に大きくなり始め、5月にはソフトボールほどに育ったのが押し合いへし合いするようになった。
 収穫は晴天に恵まれ、4個ずつ束ねて軒下につるした。その後で草取りをしていると、土中から太さ1ミリ、長さ20センチくらいの張りめぐらされたような真っ白な根が無数に出てきた。これらが栄養をどんどん集めて送り込んでいたのだ。母が言っていた「冬の間は根が育つ」を実感した。”(7月28日付け朝日新聞)

 三重県いなべ市の主婦・梅山さん(69)の投稿文です。野菜作りは全く複雑である。こうすれば絶対に良いと言うものではない。土、気候などいろいろなものに作用される。全く同じ条件にはならない。放っておいても結構出来ることもあるし、いくら丁寧にやってもうまく行かないこともある。それでも熱心になればやはり報いられることは多い。人生と同じである。
 梅山さんは、収穫後に根が一面に張っていることに感動された。栄養の多くは根から取るのであるから当然ではあるが、根は見えないところにある。見て改めて気づくのである。知らないことろで努力がされていたのである。わが家のタマネギも今年は大きなものができたが、とう立ちも多かった。種を蒔く時期が早いととう立ちが多いとある。少しの気温に影響されるのである。「肥料より耕作」という言葉は知らなかった。固まった土に空気を補充せよと言うことであろうか。ともかく野菜作りは一筋縄ではいかないだけに面白い。猫の額ほどの畑だと更に楽しい。