寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2761話) 放課

2019年03月22日 | 知識

 “「『放課』と一緒で方言ですよ」。一宮市の多くの小中学校が体育館を「屋運」と呼ぶ理由を調べる中、愛知教育大副学長の中田敏夫さん(66)に言われた。東京出身の私にとって、この「放課」もなかなかなじめない言葉。「放課後とは違うの?」との疑問がいつも浮かんでしまうからだ。
 放課は県内で学校の授業と授業の合間を指す。授業後の時間は全国的にも「放課後」と呼ぶが、授業間は「休み時間」だと思う。なぜこの地域だけこう呼ぶのか。調べると、明治時代の規則に準じ、昔は全国的に放課を使ったそう。屋運同様、変えずに使い続けた「オンリーワン」だった。
 「愛知には、方言のような学校用語が結構ある」と中田さん。模造紙を「B紙」と言うのも独特らしい。着任から二年。やっと「放課」の疑問も解けた。今後、学校にアポイントを取る際は「放課に合わせて行きますね」と気兼ねなく言えそうだ。”(3月7日付け中日新聞)

 「モーニング」と言う記事欄からです。ボクは今まで、この記事に出てくる「放課」も「屋運」も「B紙」も方言と思っていなかった。この新聞記事を読んでも「そうなのか」と思う程度である。この後も方言だからできるだけ使わないようにしよう、とはとても思えない。そのようなことを気にしていたらもう書けないし、話せない。ボクの手元に「一宮地方の方言集め」と言う本がある。その中から、ボクには方言と思っていない、いくつかを拾い出してみる。あいさ(間)、あんじる(心配する)、うらっぽ(梢)、かいもん(買い物)、きしょく(気持ち)、きつい(強い)、くど(かまど)・・・・拾い出したらキリがない。多分この「話・話」でも方言と知らず、いくつも使ってきたのではなかろうか。人前で話す機会の多いボクであるが、今でも語尾になまりがある。会話を文章にされると、ボクだとすぐに解ってしまう。今更である。気にしないでいる。方言は面白い。話題にもなる。こうして記事にされるとより興味が増す。

コメント

(第2760話) 高校四年生

2019年03月20日 | 人生

 “三月。巣立ちの季節を迎えた。私の青春時代のヒット曲に歌手舟木一夫さんの「高校三年生」がある。今もこの曲を耳にするたび、若かった高校時代やその後亡くなった同級生を思い出しては目頭が熱くなる。
 私は家庭の事情で中学校を卒業して民間の工場に就職し、働きながら二十一歳で名古屋市の定時制高校に入学した。仕事を終えて会社の寮の食堂で早めに夕食を食べさせてもらい、夕暮れの道を高校へと急いだ。同級生は年齢も仕事もさまざまで、夜遅くまで一緒に学んだ日々は本当に楽しかった。四年間通って卒業した。
 高校を卒業できたおかげて公務員に転職し、それからも働きながら夜間制の大学に進んだ。振り返れば高校生活は私の人生の分岐点となる、かけがえのない四年間だった。若い学生の皆さん、悩むことはたくさんあると思いますが、それぞれの青春時代を精いっぱい生きてください。”(3月2日付け中日新聞)

 愛知県東海市のアルバイト・山下さん(男・71)の投稿文です。ボクの妻も全く同じような人生です。妻も中学を卒業すると市内の病院に事務員として就職した。しかし、高校に進学したいという思いは断ちがたく、翌年、市内の定時制高校に入学した。そして4年生になると、名古屋の夜間大学に通うために、名古屋で勤められる公務員試験を受けた。そして4月、名古屋の役所に勤めながら夜間大学にも通うようになった。共に目標を達成したのである。年齢も今71歳、山下さんと全く同じです。
 ついでにその後も少し書きましょう。ボクは4年制大学を卒業すると名古屋にある職場に就職をした。そして1年後は、ボクは妻と同じ夜間大学へ入学するのです。そこで知り合い、結婚するのです。だからボクは夜間学校について大きな思いがあるのです。夜学生の多くは、働いた後で学びに来ます。それだけの苦労しながら学びに来るのですから、学ぶ意欲は大きいのです。そんな場をいろいろ見ました。妻と出会ったこともありますが、夜学生を味わった体験は非常によかったと思っています。

コメント

(第2759話) 私塾「興民義塾」

2019年03月18日 | 出来事

 “大正初期に創立した一宮市南小渕の私塾「興民義塾」の創設者中村慶吾さんと、初代塾長の安藤秋三郎さんを顕彰する石碑に、案内板が設けられた。「郷土の中心となる有為な青年を育てたい」との熱意から生まれ、千人を超える青年が無償で学んだ夜間学校。設置に携わった地域住民たちは「世のため人のために尽くした先人の偉大な貢献を知ってほしい」と願う。
 興民義塾は一九一七(大正六)年、同市南小渕出身の中村さんが私財を投じ、地元の禅林寺を借りて開塾し、翌年には南小渕に塾舎を新築した。塾長には現在の丹陽町重吉出身で、京都大で学んだ法学士、安藤さんが就いた。
 修学年限は二年間。週三日、午後五時半~九時に、国語や道徳、歴史経済など幅広い科目を学んだ。学費は無料とし、尋常高等小学校卒業程度の学力があり、十七歳以上なら誰でも入塾できた。(後略)”(2月27日付け中日新聞)

 記事からです。興民義塾、もう記憶から思い出すこともなかったことが、新聞記事を読んで突然よみがえった。今は空き地となっているあの場所に興民義塾があった。ボクの家から1.5km程いったところである。新聞には61年閉塾とあるから、ボクの中学生時代まで開校していたことになる。ボクの記憶は閉校した建物である。夜学とあるから、昼間は閉じた感じだったかも知れない。父が行っていたと聞いた気がする。尋常高等小学校卒業程度の学力があり、十七歳以上なら誰でも入塾できたとあるから、そうであろう。父は学歴に尋常高等小学校卒と書いていた。
 この記事には写真が添付されていた。その中に知り合いが写っていた。早速に電話をして、話を聞いた。そして先日のサロンでこの新聞の話をした。ここで学んだという人が見えた。私が質問する形で、皆の前で話して貰った。新聞に書いてないことがたくさん聞けた。生の話である。自分の父が行っていた、と言う人もいた。この後は興民義塾に関連した話で盛り上がった。サロンは高齢者の集まりである。昔のことを掘り起こして話題にしよう。

 

コメント

(第2758話) 素敵な親子

2019年03月16日 | 出来事

 “ある日の夜、インターホンが鳴り出てみると、若いお母さんと小学校低学年と思われる男の子、幼稚園くらいの女の子が立っていました。「何事?」と思ったら、男の子が先日、石を蹴りながら歩いていて、その石がわが家の自転車に当たって傷をつけてしまったかもしれないというのです。男の子はそのことをお母さんに言い出すことができず、何日もモヤモヤしていたとのこと。それでも勇気を出してお母さんに告白し、一緒に謝りに来てくれたのでした。
 平身低頭で謝られるお母さんの姿に、「いいのいいの、もう傷だらけだし気にしないで。ぼく、正直に言って偉かったね、感動しちゃった」と思わず言いましたら、若いお母さんは涙ぐんでいました。きっと子ども以上に、不安な気持ちでいっぱいだったのでしょう。思わず抱き締めたくなってしまいました。なんて正直で、なんてすてきな親子なのでしょう。
 お母さんに正直に告白した男の子もすばらしいけれど、それを受け止めて謝罪に来られたお母さんもすばらしいと、私の心は感動に満ちあふれていました。どうかこの親子がいつまでも信頼し合って、お幸せでありますように、と願わずにはいられませんでした。”(2月22日付け中日新聞)

 愛知県蟹江町のパート・中垣さん(女・49)の投稿文です。謝罪された親子にとって、これは非常によかったと思う。もしこれが、子供が話さなかったり、親が「そんな程度のこと黙っていればいい」と言ったら、どんな方向になるか知れない。こうしたことは意外に心に残るのである。生涯の小さな重荷になるかも知れない。ひょっとしたら子供が間違った道に進むかも知れない。実はボクも似たような思い出がある。小学4、5年生だったと思うが、学校の帰りに石を投げ合っていた。それが大人の人に近くに飛び、多分叱られたと思う。帰って親にすぐ話した。そして、すぐ親と謝りに行った。そして「さすが〇〇さんの息子だ」と褒められた。この親子と全く同じである。こうして今でも覚えている。こうしたことは、その時はうまくや過ごしたつもりでも、心の重荷になるのである。重荷になることは少しでも減らしておいた方がいい。ゆめ、親が子供の重荷になるようなことは絶対してはならない。

コメント

(第2757話) ありのままで

2019年03月14日 | 活動

 “同窓会の案内状をいただきました。四月の花の咲くころ、喜寿の記念とのことです。四年前に出席したとき、「次の同窓会でも、元気で会おうね」と約束しました。一人一人の笑顔を思い出し、わくわくしながら、もう当日に思いをはせている私。
 でも私は、すっかり白髪になりました。というのも、一年前から髪を染めることをやめたのです。ありのままで過ごそうと。通知をいただき、「もう一度、若返ってみようかな」とここ数日、気持ちがぐらつき始めました。主人はとっくに白髪です。昨年、主人が両膝の手術、私が腰の手術。お互いに足腰が悪く、歩くのもとぼとぼの状態です。十五年前にがんの手術で片目を失い、頬と目にガーゼを当てています。これもありのままで過ごそうと、義眼も入れず過ごしてきました。ごま塩の頭髪と肌のしわ、年相応かな。一年が過ぎ、以前の染めた髪の色はなくなり、自然の白髪となりました。シャンプーしながら、迷う自分を見つめ叱りました。
 「心は若いときのまま、髪と肌はありのままで」出席しよう。決意を新たに、今は皆で元気でお会いできるよう体調を整えること。とにかく出席の返事を出そう。”(2月21日付け中日新聞)

 長野県飯田市の主婦・林さん(77)の投稿文です。女性はいつまで容貌にこだわるのだろか。女性はいくつになってもり容貌が第一と考えているからだろうか。それが良いのか、悪いのか。歳を経れば衰えるのが自然だ。自然のままではいけないのか。価値観の問題でもある。こんな議論を始めたらキリがないだろう。しかし、容貌のことで行動を規制することは避けて欲しい。男が容貌から行動を止めることはほとんどないだろう。女性もそうであって欲しい。髪については今、グレイヘアーがはやっているようですよ。
 身だしなみとして構うことは大切であろう。高齢になればより気にした方が良いと言う意見がある。歳取れば何でも億劫になる。身だしなみを整えることも億劫になる。ここは逆に身だしなみだけでも気を使った方が良いと言うのである。それが頭を使い、ボケ防止、若返るになるというのである。もっともだ。キチンとした姿をすれば気持ちもキチンとする。ボクの若い時はほとんど着るものに無頓着であった。今思うと、ゾッとするほどであった。陰ではかなりのことを言われていたのではなかろうか。それに比べれば、今は上出来であろう。妻がうるさいからもあるが、自分も先の意見を心がけているからである。
 林さんが同窓会に出られる決意をされたようでよかった。ボクは毎年6月に中学の同窓会を企画している。容姿のことで欠席されている人がいるのだろうか。こんなことは絶対に止めて欲しい。強く言いたい。

コメント

(第2756話) 手紙

2019年03月12日 | 出来事

 ”ポストに、差出人に見覚えのない、母宛ての手紙があった。読んでみて思い当たった。平成十六年、母は骨折して入院していた。同室だった小学生の女の子の顔が浮かんできた。女の子の足には、白い包帯が巻かれていた。飛びっきりの笑顔が印象に残っている。
 手紙にはこうあった。「四年前に大学生になり、社会福祉を学びました。四月に社会人になります。就職が決まり、報告したく手紙を書くことにしました」と。あの女の子の成長した姿が想像され、とてもうれしくなった。母への感謝の言葉に続き「稲葉さんのような大人になります。社会人として頑張っていきます」とあった。
 母が読んだら、どんなに喜んだことだろう。母は平成二十八年に亡くなった。女の子と出会ったときは八十七歳だった。長年、教師をしていた母は、とりわけ子どもが好きだった。四ヵ月の入院生活の中、女の子と出会えたことは、母にとって大きな喜びだったのだろう。きっと、女の子と楽しく会話したのだろう。
 母の仏前に手紙を供えた。写真の母はうれしそうに笑っていた。お手紙ありがとう。社会に羽ばたくあなたに、母は大きなエ-ルを送るでしょう。”(2月19日付け中日新聞)

 三重県津市の主婦・稲葉さん(67)の投稿文です。小学生と87歳の老婆との出会いの話である。出会いは15年前の病室であった。その小学生が大学を卒業し、就職したことを報告してきたのである。投稿文から察するに、この間に交流はなかったようである。この小学生にとってこの老婆との出会いはそれ程に思い出深いものであったのである。こんなこともあるのかと、人生の妙味に全く驚くばかりである。これはやはり稲葉さんのお母さんの素晴らしさ、人柄にあったであろう。幼い子にここまで思わせる姿勢とは何であったろうか。稲葉さんに聞きたいものだ。
 それにしても人の出会いというのは面白いものである。ほんの少しの触れ合いでこのようの発展する場合もあるのである。ボクも今までに出会った人の出会いについて思い出してみる。どんな機会で、その後どのようになったのか。一人ずつ思い出していったら面白いと思うが、キリがない。いつかの楽しみにしたい。
 と書きながら、昨夜、ウォークの大会で出会った人から電話があった。年賀状のやり取りはしてきたが、声を聞くのは30年ぶりである。そして、4月の一宮友歩会の例会で会うことになった。全く面白い。

コメント

(第2755話) 卒業文集

2019年03月10日 | 活動

 ”五十八年前、小学六年生の卒業文集で将来の夢に、バスの運転手と書きました。当時はボンネットバスで、扉はもちろん手動。方向指示器はオレンジ色の腕木が飛び出す仕組みでした。
 隣町の祖母の家に遊びに行く際は、このバスに乗り、舗装されていない山にはさまれた川沿いの道を、ガタガタと揺られて行ったものです。帰りに祖母は、持ち切れないほどの季節の野菜などをバスに運び込み、「運転手さん、家の前で降ろしてやってください」と頼むのでした。家の前まで来ると、運転手さんと車掌さんが荷物を降ろしてくれる、そんなのんびりした時代でした。文集に書いたのは、きっと運転手さんたちの笑顔で優しい対応が、子ども心にもうれしくて格好いいと思ったからでしょう。
 定年を迎えたある日、ふと文集のことが思い出され、バスの運転手への挑戦が始まりました。若者たちに交じり、厳しい教習の末、大型免許を手にすることができました。そして六十五歳で、施設内などを案内して走るボンネットバスの運転手に採用されました。念願かない、七十歳までの五年間、多くのお客さまと出会い、楽しい人生の思い出作りができ、小学生の夢を最高な形で実現できました。”(2月18日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の安江さん(男・70)の投稿文です。小学校の卒業文集に書いた、バスの運転手になりたいと言うことを、定年を迎えた日に思い出し、その後その夢を達成すべく教習所に通い、達成されたという。こんな人もあるのかと、全く感嘆する。1月26日の「話・話」第2736話の中に、20年前の小学5年生の時に書いたカプセルが開かれ、30歳の今、書いたとおりに保育士になった、という人のことを書いたが、それとはまた違う感慨である。定年後に新たなことに挑戦するという話には、いつもながらその意欲にただ感心する。一定のことを成し遂げた後である。安気になって差し支えないのである。その後である。でも意欲がなければ何もかなわない。意欲さえあれば、かなりのことができる。こういう話を心の糧にしていきたい。先日、義弟が69歳で急逝した。そういう時だけに、人間の生き方、生命についてもう少し考えたい。そして生を大切にしたい。
 ボクの家は、歩いて10分足らずの所を電車が走っていた。それだから電車の思い出はあってもバスの思い出は少ない。果たして最初にバスに乗ったのはいつの時だったろうか、思い出せない。その電車は昭和40年4月に廃止され、バスに変わった。

コメント

(第2754話) 臓器移植

2019年03月08日 | 人生

 ”二〇一〇年の臓器移植法改正後、日本で初めてドナーの家族の意思で臓器移植を受けた一宮市の加藤みゆきさん(四七)が同市西成中学校で講演し、一年生六十七人に与えられた命を懸命に生きる大切さを伝えた。
 加藤さんは十歳の時、原因不明の糖尿病を発症。二十五歳で慢性膵臓病と診断され、人工透析を余儀なくされた。三十八歳だった一〇年八月、脳死の女性ドナーから、女性の家族の同意を得て腎臓と膵臓の提供を受け、移植手術に成功。現在は名古屋市のNPO「日本移植未来プロジェクト」の理事として活動する。
 講演では、ドナーの慰霊祭で別の遺族から「あなたが元気に生きていることがうれしい」と告げられたエピソードを紹介。「自分だけ元気に生きるのは、ドナーの家族の悲しみを踏み付けるようで、申し訳なかった。でも、楽しく一生懸命生きることが恩返しと気付いた」と語った。
 坂結梨さん(一三)は「自分には遠いものだった臓器移植を、身近に感じた。家族と移植について話し合ってみたい」と話した。”(2月14日付け中日新聞)

 記事からです。日本で初めてドナーの家族の意思で臓器移植を受けた人が、我が一宮に見えた。そして一宮の中学校で体験談を話された。身近な人の話だけに、聞いた中学生に心に残るものがあったろう。同じ話でも、自分に身近な人の話だとより真味が増すものである。ボクは老人クラブ連合会長をしていた昨年1月、母校の中学校で開催された講演会に参加した。その時の講師は、この中学校の卒業生で記憶障害のピアニスト・佐藤香織さんであった。「あきらめない心で!」に心動かされ、心に残っている生徒も多かろう。ボクもこのように残っているのである。同じような話でも、話す人によって聞く側は大いに違うのである。
 さて臓器移植であるが、これは提供された人の分まで生きることである。提供を受けて心苦しく思う人もあろうが、提供する人は元気に生きて欲しいから提供するのである。ここは感謝の気持ちを忘れず、堂々と生きて欲しいと思う。そして、こうして命を頂いた人は真剣に命について、人生について考える。それを披露することも大切である。

コメント

(第2753話) 幸運の年賀状

2019年03月06日 | 出来事

 ”一月に抽せんがあった年賀はがきのお年玉くじで三等の切手シートが四枚当たりました。今年も、切手シートのうち六十二円切手をお気に入りのはがきに貼り当せんした年賀状を送ってくれた人にお礼を兼ねて寒中見舞いを送りました。
 すると、その中の一人から驚くべき報告がありました。中学生のときからの親しい友人で、彼女に私が送った年賀状も今年のお年玉くじに当せんしたというのです。偶然とはいえ送り合ったものがそれぞれ当たったということに、今年も互いに良い年になりそうだとうれしくなりました。
 最近は「高齢のため年賀状を卒業する」という話をよく耳にします。しかし思いがけない幸運もあるので私は賀状の交換を続けていくつもりです。”(2月11日付け中日新聞)

 岐阜市の団体職員・清水さん(女・58)の投稿文です。こんな方法もあるのかと感心し、ボクも早速実行しました。5通送りましたが、今のところ何の音沙汰もありません。
 各種の通知やダイレクトメール以外、手紙が届くのは全く減りました。そう思うと年賀状は貴重な手紙です。形式的で無駄という意見もありますが、これは考えようでしょう。形式的であっても意味はありますし、工夫すれば更に意味は上がります。年賀状しか付き合いの無い人は、年賀状がなくなれば全くなくなります。これこそ貴重な機会ではないでしょうか。面倒だと思う気分を乗り越えたいものです。最近、年上も年下も亡くなった話をよく聞きます。そんな人とは貴重な年賀状のやり取りです。今年も「今年で年賀状を失礼します」という通知を幾通ももらいました。ただでさえいろいろなものが減っていく年齢です。こんなものまで減らす必要はない、と言うのが今のボクの気持ちです。

コメント

(第2752話) 掛け軸の美

2019年03月04日 | 出来事

 ”昨夏義父が亡くなり、床の間の掛け軸を山水画から「南無阿弥陀仏」という書に掛け替えた。年が変わって元に戻そうとしたとき、しまってあった他の掛け軸を広げてみた。これまで義父に任せっきりだったので初めて見るものもあった。日の出と鶴が描かれた絵は正月にふさわしく、見ているだけで希望が湧いてくる気がした。娘が生まれたときに買ってもらったおひなさまの絵は優しく温かい雰囲気だった。渓谷が描かれた清涼感あふれる風景画は夏に掛けたいと思った。すると興味がなかった掛け軸が急に身近に感じられてきた。事務的に生けてきた床の間の花も違って見えてきた。三十数年前にこの家を建てたときから義父は幸せに満ちた思いでこれらの掛け軸を掲げては、眺めてきたのだろう。
 近年の訪日外国人の増加で日本文化の素晴らしさを再認識する機会もぐんと増えた。床の間を造らない家も少なくないと聞くが、わが家に床の間があって良かったと改めて思う。”(2月9日付け中日新聞)

 愛知県愛西市の主婦・日比野さん(61)の投稿文です。この投稿に、ボクも掛け軸のことを書いてみたくなりました。床の間に掛け軸、まさに日本家屋です。その日本家屋を造る人は今ほとんどないでしょう。2人の娘の家も床の間はありません。昭和23年築造のボクの家にはあります。ボクはある時期掛け軸を買い求め、今20本ほどあります。山水画、赤富士、鶴亀や虎、菖蒲やお雛様などの季節もの、南無阿弥陀仏などです。季節毎、また行事ごと掛け替えていました。日比野さんのお父さんと同じようなことをしていました。母が亡くなり、住みやすい離れに住居の拠点を移したことによって、床の間のある母屋の座敷を覗くことは全く少なくなりました。来客を座敷に通すことも少なくなりました。それと共に掛け軸も替えなくなりました。安藤広重の浮世絵の印刷ものなど、時折掛け替えるものは他にもあります。それもしなくなりました。怠惰です。考えれば寂しいことです。忙しいと言っても以前より余裕はあります。今こそすべき時と気づきました。日比野さんの投稿文を読んだ縁で、以前の生活に少し戻してみようと思います。

コメント

(第2751話) 市民活動支援制度

2019年03月02日 | 活動

 ”活動を応援したい市民団体へ市民が一票を投じ、その得票に応じて交付金の額を決める一宮市の「市民活動支援制度」で、2019年度の「投票」が始まった。東海地方の自治体で唯一の取り組みだが、09年度の導入以来、投票率は10~12%と低調。先月の市長選で投票率の低下が話題となっただけに、市民団体や市の担当者らは啓発に力を入れている。 地方税の1%を自ら選んだ市民活動の支援に充てるハンガリーの制度を参考に市が始めた。毎年、個人市民税の1%(約二億円)を団体の活動支援に支給することを想定。その約二億円を十八歳以上の有権者約三十万人で割った、約六百五十円が一人あたりの持ち分。投票後に得票に応じた額を各団体に配分する仕組みだ。投票数が少なければ、団体に支給される総額も減ってしまう。二〇一八年度は、七十団体に計千九百万円を支給(投票率11.7%)。想定分の約二億円には遠く及ばなかった。
 今年の投票は二十三日までで、市に登録する四百の市民団体やNPO法人のうち六十七団体が立候補。それぞれホ-ムページや会員制交流サイトで投票を呼び掛けている。市民に街づくりへ参加する意識を持ってもらおうと導入した制度だが、関心が薄いのが現状。希望する金額を満額受け取ることができる団体は全体の半数程度にとどまっている。(後略)”(2月7日付け中日新聞)

 記事からです。もちろんこの制度をボクは知っている。そして、今年も3団体に投じた。この記事で状況を知った。始まってもう10年、なかなか浸透しないのだ。回り回って自分に恩恵があるかも知れないが、その団体に関係していなければ直接の恩恵はない。それだけ他人事であろう。関心がない。今年の市長選挙の投票率は30%を切った。市長選挙でもこれだから当然ということかも知れない。これだけ無関心ということが寂しい。
 実はボクにしてみれば、サロン羽根邨も一宮友歩会も内容的には応募する資格はあるのだ。もちろん会の規約の充実や手続きは必要である。でも、ボクは今の所する気はない。市からお金を貰うということは大変な苦労が伴う。税金だから当然である。今の所、サロンは老人会の金銭負担、一宮友歩会は役員の無償労力負担によっている。これらの負担に不満が出たり、耐えられなくなったら考えねばならないだろう。
 しかし、今大きな問題は金銭の負担より大きな問題は後継者であろう。市に登録する四百の市民団体やNPO法人のうち六十七団体が立候補しているという。6分の1である。金銭的には何とかなっているのだろう。しかし、どの団体も問題を持っているだろう。それの多くが後継者ではないかと推測する。

コメント

(第2750話) 友にエール

2019年02月28日 | 活動

 “私の友が先日、国際協力機構(JICA)海外協力隊のシニア隊員として、アルゼンチンに農業技術指導者として派遣されました。私たちはともに岐阜と長野の県境の零細農家の長男として生まれ、幼いころから野山を駆けずり回りました。親たちの農業を手伝いながら、さらなる高みを目指し、農業高校で学びました。
 その後、最新の農業技術を学ぶため、それぞれカナダ、アメリカで複数年研修。帰国して私は酪農、友は園芸に従事しました。私は十数年で力不足のため挫折し転職しましたが、友は努力のかいあり、息子を立派な後継者に育て上げ、六十五歳を転機に経営を譲りました。
 そして四十数年で身につけた高度な農業技術を、少しでも役立てることができないかと考え、海外協力隊のシニア隊員に応募。見事合格して旅立つことになったのです。努力家の友は、さっそくスペイン語の勉強に取り組み、六十の手習いで始めた趣味の津軽三味線の腕も、ますます磨き上げました。彼なら、日本の農業技術と文化を、アルゼンチンの人々に広く伝えることができると思います。ひと言、「健康に気をつけてナ」と声をかけ、友にエールを送りたいと思います。”(2月2日付け中日新聞)

 愛知県豊田市の自営業・松井さん(男・67)の投稿文です。またまた凄い人があるものだ。海外協力隊など若い人でも凄いと思うが、65歳である。元気な65歳なら、今の時代全くの隠居でもあるまいが、それでも始めての海外協力隊である。技術的なことは今までの経験知識で十分であろうが、言葉の勉強から始めるのである。人の能力と意欲は凄いのである。
 そして、人によって余りに差が大きいのである。差の大きさは能力と言うよりは意欲であろう。考え方であろう。しかし、これは人間性でもある。今ボクの関心は地域の役員である。もうこの「話・話」で何度も書いているが、余りに情けないのである。従来からある組織が瀕死の状態である。海外協力隊に比べれば全く小さな事である。新たな組織の発足はあるのだろうか。ないことが当たり前の社会になるのだろうか。
 先日ボクが会長を務めるサロンで「三味線と唄の集い」を催した。50名近い参加者で大いに盛り上がった。ボクが司会を務め、三味線に合わせ斎太郎節を唄った。疲れたが一番楽しんだのはボクではなかろうか。しなければ楽しみもない。みんなの協力を得ればこんなこともできるのだと、喜びもある。

コメント

(第2749話) 見守りおじさん

2019年02月26日 | 出来事

 ”一月の「成人の日」、新成人の男女計六人が晴れ着姿で私を訪ねてきた。かつて私が小学校の通学路に立って登校を見守った地域の子たちだ。成人式を終えて一人が「見守りおじさんに会いたい」と言ったので皆で来てくれたそうだ。
 私はとてもうれしかったが、少し驚いた。会いたいと言いだしたのは、あのときはとてもやんちゃで登校時の分団の列を乱すことが多かった男の子だったからだ。見かねた私は彼が小学校五年生のとき、「高学年なのだからしっかりしろ」とつい叱ってしまった。以来私は彼に嫌われているとばかり思っていた。
 小学校を卒業してからは一度も会わなかった彼は好青年になっていた。他の五人と同じく礼儀正しくて落ち着いていた。短時間だったが皆童心に帰って小学校時代の思い出話に花が咲いた。帰り際に全員で記念写真を撮った。彼らが私のことを忘れずにいてくれたことに目頭が熱くなった。”(2月2日付け中日新聞)

 名古屋市の自営業・宮地さん(男・74)の投稿文です。宮地さんには嬉しかったことであろう、こんなこともあるのである。このやんちゃな子にとって、叱られたことは余程心に残ったのであろう。子どもは社会で育てるものだ。自分の子も他人の子も同じように接する。叱るときには叱り、褒めるときには褒める。とは言うものの、他人の子を叱るには大きな勇気が要る。今の時代は更に難しくなっているだろう。ヘタに叱ろうものならどんな反響が返ってくるのか知れたものではない。宮地さんには叱れるだけの信頼があったのであろう。
 ボクに他人の子を叱った覚えはない。最近のボクが子どもと接するのは、夏休みのラジオ体操と地元の役員をしているときの登下校の見守りくらいである。ラジオ体操では子供らと一緒にやり、そして見守っている。これだけでも感謝されている。今年4月からまた老人会の役員をするので、登下校の見守りに参加しなければならない。大きな声で挨拶をする。心がけたいと思う。

コメント

(第2748話) 主治医の言葉

2019年02月24日 | 意見

 “二十五年前にリウマチを発症し、子育てをしながら病院通いを続けています。いま診てもらっている整形外科クリニックの先生はリウマチの専門医で、患者の気持ちをよく分かってくれます。リウマチは関節が炎症を起こして軟骨や骨が破壊され、ほっておくと関節が変形する病気です。「痛いのにいつも前向きで明るいね」「一生懸命頑張ってくれるから、自分もリウマチの医者になったかいがある」とやさしい言葉をかけてくれます。
 正直、手足が痛くて泣けてくるときもありますが、先生の言葉が励みになって頑張れます。本当に良い先生に巡り合えて良かったなと思います。
 本欄には、患者に暴言を吐いたり、ひどい態度をとったりする医師についての投稿があって驚きます。つらい治療を乗り越えることは患者だけではできません。私の主治医のように患者に寄り添う医師もたくさんいると信じているし、そうあってほしいと願っています。”(1月29日付け中日新聞)

  「ホンネ外来」という欄から愛知県の女性(50)の投稿文です。「ホンネ外来」には病院や医師等の対応で、いろいろな意見が出てきます。このように良い医師に会えた、医師の言葉が冷たかったなど、患者も様々、医師も様々です。店や学校等でもいろいろありますが、病院や医師は常時、それも大半が苦痛や命に関わる人を相手にするだけに、その重さは訳が違います。ちょっとした言葉が患者に与える影響もとてもなく大きい。ですから「ホンネ外来」でも不満の投稿が多いのでしょう。そして、時折こうした感謝の投稿があります。
 不満を言われる患者の気持ちはよく分かりますが、医師の立場に立つとそうばかりとは言っておられません。医師も人間です。気分の良い時も悪い時もあります。一々親身に感情移入をしていたら体が持ちません。医師は選ばれた人でしょう。高収入の人も多いでしょう。でもあの勤務状況を見ていると、ボクにはとてもなく酷に思えます。パソコンばかりみていて患者を診ていないという不満があります。これも程度でしょうが、でもあれだけパソコンに打たなければならない状況になっているのでしょう。後でパソコンに打っていれば患者の待ち時間は長くなります。ボクも本当のことは分かりません。場合、状況もあるでしょうが、ここは一度医師の立場に立ってみることも必要ではないでしょうか。

コメント

(第2747話) 新年ビンゴ

2019年02月22日 | 活動

 “昨年十二月二十五日付本欄「家族でビンゴ 景品何に」を読み、すてきなおじいちゃんだなと温かい気持ちになりました。新年に親戚でビンゴをするのは良いアイデアだと思い、今月三日に夫の実家に集まったときに私もやってみました。
 投稿を読んだ翌日から早速景品を探しました。義兄一家とわが家の子どもたち計六人は幼児から大学生までと年齢はさまざまで商品選びは迷いましたが、投稿にあったように少しでも皆が笑ってくれるような中身にしたくて菓子やおもちゃ、入浴剤などをいろいろと買い求めました。
 親戚十二人で同じゲームをするのは初めてでしたが、小学生の娘たちが司会をしてくれ、皆で楽しむことができました。夫の両親と義兄夫婦にはお世話になってばかりなので、少しですが恩返しができた気がしています。来年は皆にもっとビンゴで喜んでもらえたらと思っています。”(1月29日付け中日新聞)

 愛知県江南市の主婦・伊藤さん(37)の投稿文です。ビンゴゲームというと、ボクはバス車内を思い浮かべますが、当然家族でもできますね。でもなかなか思い浮かびません。良い思いつきだと思います。ボクの家も正月は子どもや孫が集まり、10人になります。孫が小さい頃はゲームでしたが、今は何となく食べてしゃべるばかりです。そして、ボクらは話に入れません。迎える側は大変だけで、最近は詰まらない思いでした。そして、今年は、疲れるからわが家での集まりを止めると言いました。そしたら、長女の家に集まろうということになりました。老いた親に子どもといえど、多くの人が集まるのは大変だと分かってくれたでしょうか。そしたら妻は、家にあるいろいろなものをかき集めて、10人分の景品を作りました。ジャンケンで勝った人から順に景品をひいていきます。ジャンケンの親はボクです。結構盛り上がりました。そして、ボクも中に入ることができました。妻の気遣いです。ビンゴゲームと同じようなことです。家族に合ったいろいろな工夫が必要でしょう。

コメント