“昨年11月末のことです。自宅近くのバス停で、記憶だと20年ぐらい前から置かれている青色の木製ベンチが壊れていました。通勤の際に何度となく腰を下ろしてきた思い出があるだけに、私はショックのあまり悲しくて直視できませんでした。翌日、バス停に行くとベンチは粘着テープで修繕されていたものの、「こわれています 注意」との張り紙がありました。ベンチは1週間後、そこからなくなりました。さらに1週間ぐらいしたら、かわいらしいニワトリとひよこの絵が描かれた奇麗な緑色のベンチが置かれているではないですか。どなたかが壊れたベンチの板を一部張り替え、ペンキで色を塗ったようです。感激しました。以降、私はバス停を利用するたびベンチに座っています。”(1月16日付け中日新聞)
愛知県瀬戸市の主婦・木下さん(75)の投稿文です。バス停におかれた壊れたベンチを直すて再び置く、尊い行為である。それも誰とも知られずそっとした行為である。壊れたベンチを誰もが不便と感じていただろう。でも見ていただけである。それ以上の行為にでない、それも普通のことであり責められることでもない。だからこうした行為がより素晴らしく思える。
良いと気づいたことも気安く動けない。自分に関係ない、自分の責任ではない、行動が面倒ということもあろうが、人の目を気にするということもあろう。恥じることではないのに、人のおかしな感情である。良い行為をしようと思えばどこにも材料は転がっている。人の目など気にせず、気安く動きたいものです。
愛知県瀬戸市の主婦・木下さん(75)の投稿文です。バス停におかれた壊れたベンチを直すて再び置く、尊い行為である。それも誰とも知られずそっとした行為である。壊れたベンチを誰もが不便と感じていただろう。でも見ていただけである。それ以上の行為にでない、それも普通のことであり責められることでもない。だからこうした行為がより素晴らしく思える。
良いと気づいたことも気安く動けない。自分に関係ない、自分の責任ではない、行動が面倒ということもあろうが、人の目を気にするということもあろう。恥じることではないのに、人のおかしな感情である。良い行為をしようと思えばどこにも材料は転がっている。人の目など気にせず、気安く動きたいものです。