寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3790話) 青春の宝物

2025年01月27日 | その他
 “部屋の書棚には昔私が見た映画のパンフレット数百冊がある。中学生から大学生ぐらいまでに小遣いでせっせと買い集めたものだ。まさに青春の宝物。最初に映画を見たのは確か小学校高学年のときだった。以降、「ペン・ハー」「ウエスト・サイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」といった洋画を堪能し、大型スクリーンで躍動する役者に一喜一憂してきた。昨今のような特殊撮影やCGはなくても映像の迫力に興奮した。
 かつて一緒に映画を見た友と昨年10月に会った際、「映画のパンフレットを古書店に売却したら、手放す寂しさと買い取り額の安さに涙がこぽれた」と言っていた。さて私はこれらの宝をどうしよう? 処分したらいいのか、そのままか・・・・。”(1月5日付け中日新聞)


 名古屋市の自営業・田中さん(男・75)の投稿文です。映画で青春を楽しんだ、そして思い出にパンフレットを買い求めた。それが数百冊である。75歳になった。終活が頭をよぎる。一緒に映画を見た友人に聞く。古書店に売却したら余りの安さに涙がこぼれたという。そして田中さんは考え込んでしまった。
 さてボクならどうするか、どう助言するか。死ぬまでそのまま持っていなさい、と言うでしょう。冊子数百冊で今置き場所に困っているなら別ですが、そうでもなさそうです。青春の宝物です。また見たくなることもあるでしょう。持っているだけで豊かな気持ちになることもあるでしょう。処分使用しようとするのは残された人に迷惑を掛けたくない、そんな気持ちでしょうか。それでも処分は不要と言いたい。何の思い出もない人はさっさと処分するでしょう。ボクも妻に急かされて処分したものがあります。でも何かの折りに持っていたら、と思ったことが1度や2度ではありません。こんなことに気を惑わされることはないと思ってます。



(第3756話) 書棚の一隅

2024年11月15日 | その他
 “我が家の書棚に日本美術全集25冊が鎮座している。主人の給与から代金が天引きされていて一悶着起きたことを思い出す。昭和から平成期の日本経済の名残ではあるが、読まれた形跡はなし。並んでいるだけで悦に入っていた主の姿はない。「退職したら読書三昧だ」と古本を段ボール箱に買い込んでいた姿が目に浮かぶ。全集の1冊を手に取ってみるが、大きくて重くて持て余してしまう。処分しようと考えることは再々であるが、主人と本に申し訳なくて、今日に至ってしまった。
 秋風を感じるようになり、読書に時間を費やすのは今だと気付きました。白内障の手術で視力は回復、体の痛みむなし、頭脳は年相応。何より気力はまだ大丈夫。そう考えると目的ができ、なんだかワクワクしてきました。これでこの全集も本としての命が蘇るし、私にも忘れつつある日本の美を再認識させてくれるでしょう。読み終えるのに相当の時間を要するでしょうが、ゆっくりでもいいので読んでみます。
 手に取ると、古本のにおいも昭和のにおいに感じ、秋の感傷を深くさせます。私の指跡がついて、この本を読まずに去った主人も喜んでくれると思うのは自己満足かもしれません。これに火がついて読書の1年になったらいいな、と思っています。”(10月20日付け中日新聞)


 名古屋市の主婦・金子さん(77)の投稿文です。本の種類は違うが、ボクも同じようなことを体験している。発行の度に書店へ本をもらいに行ったのは、小学館発行の日本大百科全書である。昭和59年11月から昭和64年3月まで全25巻である。1巻7,800円である。高価であったが、楽しみであった。それをどのくらい利用したかと言われると、利用はしたと思うが余り確かではない。子供の頃本を買ってもらうとすれば小学生年鑑や中学生年鑑位であった。よく活用していたので、その延長線上であったろう。これは古本であるが、原色世界の美術という全16巻の本もある。この2つは今も居間の本箱にドンと置かれている。多分買った当時からこのままである。その他日本歳時記5巻や中国漢詩の旅10巻もある。そうした全集ものを買いたかった時期があったのであろう。この投稿文から久しぶり開いてみた。こうした類いの本はいつまでたっても見られるのである。写真を見ているだけでも楽しい。こうした楽しみを忘れていた。金子さんのように楽しみたい。



(第3670話) ハスパーク

2024年05月18日 | その他

 “愛西市で再整備工事が進められている道の駅立田ふれあいの里の新しい名称が「道の駅 ふれあいの里HASU(ハス)パーク」に決まった。来年4月1日から名称変更する。市役所で19日、命名者となった佐屋中学校3年、中村明菜さんを招いて表彰式があった。
 道の駅は、敷地面積を現在のほぽ4倍に拡張する工事を進めており、2026年4月の全面開業を目指す。新たな名称を市内の六つの中学校の2年生各クラスからI点ずつ募集。応募があった16点から、市民らの電子投票で最も得票数が多かった中村さんの作品が採用された。
 日永貴章市長から表形状を受け取った中村さんは「みんなが楽しめる場所になれぱと名称を考えた。採用されてびっくりしたが、訪れる人に親しまれていくといいと思う」と喜んだ。”(4月14日付け中日新聞)

 続いて新聞記事からです。この立田ふれあいの里は、一宮友歩会の6月例会で訪ねます。先日下見に行ったとき、大々的に工事が進められていました。ボクは友歩会の例会には、いつも見所の説明文を書いた資料を渡しています。最初は渡す地図の余白に書いていましたが、これではあまりにスペースが少なく、数回目からA4版1枚にしました。この資料作りも、楽しいやらなかなか難儀であったりします。資料やらインターネットを使ったりしてしていますが、長かったり短かったり、以外に適当なものが見つからないのです。それなりの工夫がいります。そしてそれをもう100回してきました。そして今回は新聞記事を使います。それがこの記事です。そしてもう1つ使います。それは5月5日の多度大社の上げ馬神事の記事です。多分、新聞記事はほとんど使ったことがないのに、2つは偶然です。いろいろやっていればいろいろなところに目を光らせていなければなりません。それがまた面白いのです。


(第3669話) 三つ又池公園

2024年05月16日 | その他

 “弥富市の三ッ又池公園で、計5万株のシバザクラとネモフィラが見ごろになり、園をピンクと青色に染めている。今月下旬まで明るく彩られた公園の風景を楽しめそう。
 市や地元のボランティアが苗を育ててきた。市によると、今年はシバザクラ4万5千株とネモフィラ6千株の苗をところどころに植えている。3月20日ごろからネモフィラが開花し始め、シバラザクも続いて咲いた。
 晴天となった13日は、朝からカメラを持った人たちが集まり、ネモフィラの描く青と白のグラデーションを前にシャッターを切っていった。三重県鈴鹿市の無職女性(47)は「きれいな花の色に心が癒やされた」と話していた。”(4月14日付け中日新聞)

 記事からです。三ッ又池公園、一宮友歩会の例会で行って知った。名の通り大きな池がある公園である。シバサクラとネモフィラが見所という。最近この2つの花をよく見かける。大きな公園などで一面に咲くと見甲斐があるのである。
 ボクがこの記事を取り上げたのは、新聞のこの面に他にもう2つの公園が取り上げられていたからである。1つは、犬山市の青塚古墳と、もう1つは東浦町の於大公園である。共に、一宮友歩会の例会で始めていったところである。この偶然が面白かった。一宮友歩会は、近場でもこれだけの効果を発揮しているのだ、改めて思った。近場というのは以外に知らないことが多い。地域を知るということは重要なことである。例会100回を超えた一宮友歩会は役立っているのだ。もちろんボク自身にとってもである。


(第3629話) みそ汁給食

2024年02月15日 | その他

 “冬になると思い出すのがみそ汁給食。故郷・現岐阜県下呂市の小学校で私が5年生のとき冬場だけ試験的にみそ汁が提供され、各自持参した弁当と一緒に食べました。山間部だけに30~40センチも雪が積もる日もあって私たちは教室のストーブの周りに弁当を置いて温めるのが常でした。そんな中、湯気の立つみそ汁が毎日提供されるようになり、見ているだけでぽかぽか気分になれました。みそ汁には豆腐や地元産のダイコンやネギも豊富に入っており皆われ先にとお代わりをしていました。カレーうどんが出ることもあり、初めて口にしたときのあのおいしさといったらどう形容したらいいでしょう。みそ汁給食を楽しめたのは、小学校を卒業するまででした。遠い昔の思い出です。”(1月19日付け中日新聞)

 愛知県一宮市の神戸さん(男・75)の投稿文です。以前にも書いたと思いますが、ボクも同じ年代ですから、同じような思い出があります。まずみそ汁です。冬になると、児童が当番でみそ汁の具となる野菜を持ってくるのです。そのために親は大根や人参を保存しておくのです。これは多分1年生からあったと思います。当時は小使いさんがいて、作ってくれました。冬だけの心遣いでした。他の時期は脱脂粉乳だったろうか。そして弁当です。これはブリキ製の保温器が廊下に置いてありました。何段にも置いた棚の下から炭火で温めるのです。下の方は焦げがつくくらい熱く、上の方は生温かさです。順番で置く位置を変えます。給食になったのは、ボクが卒業した翌年からでした。だからボクは学校給食に一度もありついていません。4年生くらいの時だっと思うが、何か特別のことがあって、コロッケがでたことがあります。初めてコロッケを食べました。そして初めてソースも味わいました。懐かしい思い出です。こんなことも覚えているのですね。


(第3608話) カリン

2024年01月03日 | その他

 “家の庭にカリンの木がある。義母が40年近く前、孫にあたるわが息子が生まれると「将来、人さまにお金を借りて迷惑をかけない大人に育つように」との願いも込めて植えたものだ。今息子は会社員として静岡県で忙しくしながらも充実した生活を送っている。少なくともこれまでは義母の思いは確実に息子に届いたようだ。
 カリンの木は今秋、大きなレモンみたいな実を一つだけ付けた。早速収穫して96歳の義母に見せたら、「きっとあの子が安定して頑張っているからかしら」と喜んでいた。その実が黄色く熟したら、息子のさらなる活躍を祝って、義母と一緒にいただこうと思っている。”(12月12に付け中日新聞)

 愛知県蒲郡市の主婦・明石さん(70)の投稿文です。「かりん」を「借りん」、こんな語呂合わせがあることは知りませんでした。それを願ってカリンの木を植える。義母の願いでした。植えて40年、義母は亡くなりましたが、いい報告ができました。
 ボクの家にもカリンの木があります。庭を整備したときに植木屋さんが植えました。考えれば40年です。毎年実を付けます。そして風薬、咳止めと言って妻は毎年カリン酒を作ります。あまり風邪を引くこともなくなったのは、この効果でしょうか。それぞれの家庭に思いや歴史があります。いろいろ聞いてみると楽しいものでしょう。


(第3573話) 火の見櫓

2023年10月25日 | その他

 “わが故郷、現愛知県愛西市の旧八開村には地域ごとに火の見やぐらがありました。備え付けの半鐘を鳴らすことで出火時はもちろん、音の出し方によって住民に各種情報を伝える連絡手段を担いました。火事では半鐘を荒々しく何度もたたき、神社の催しの開会の合図でゆっくりと数回鳴らしました。しめやかな音が1~2回だと、自宅での葬儀後、死者を火葬場に送ることを意味し皆で合掌しました。
 嫁ぎ先の同県弥富市でも昔は見かけた火の見やぐらでしたが、いつの間にか姿を消してしまったようです。地域住民をつなげたアナログ調の良さを懐かしく思い返す今日この頃です。”(9月28日付け中日新聞)

 愛知県弥富市の主婦・大河内さん(53)の投稿文です。火の見櫓、もう忘れていた懐かしい言葉にひかれて取り上げた。ボクの村にも火の見櫓はあった。鉄筋コンクリートの建物の上に立っていた。何メートルの高さであったろうか、子どもの頃、恐々数度登ったことがある。コンクリートの建物には手押し車の消防車が入っていた。何かの行事の開始を知らせるために、叩かれていたと思うが、大河内さんのようにしっかりした記憶はない。いつ頃なくなったのであろう、その記憶もない。ただ今も建物は物置として残っている。何かの行事の時、今でも時折火の見櫓に集合と、声がかかる。もうほとんどの人は、そこに火の見櫓が立っていたことは知らないはずだ。昔は消防団もあった。ボクも若い頃入っていた。それもいつの間にかなくなった。もう昔の記憶が残るのみである。


(第3477話) 夫婦の会話

2023年04月04日 | その他

 “私は友人と喫茶店でコーヒーを飲んでいた。女どうし、話すことは山ほどある。子どものことや孫のこと、世の中の出来事など、話はつきない。そこへ五十代くらいの夫婦と思える二人が来店した。
 ウエートレスさんが注文を聞き、男性が「コーヒ二つ」と言った。そしてレジの横から新聞を持ってきて読みだした。女性は週刊誌を読んでいる。やがてコーヒーを飲み終えると、男性が「行こうか」と言い、女性が「うん」と答えた。それ以外の会話は一言もなかった。
 私たちは、二人が出て行ってから笑った。「夫婦を長年やってると、もう話すネタがないんだよね」「それが夫婦かもね」「でも、コーヒーが飲めたから良かったんじやないの」「そうね」”(2月26日付け中日新聞)

 「300文字小説」から愛知県刈谷市の菊池さん(女・76)の投稿文です。少しアップする日にちが前後したが、少し首をかしげる風景が上手に書かれているので、掲載することにした。
 この風景は、小説と言うより、実際に毎日のように見る風景である。ボクの家の周りは喫茶店が何軒とある。ボクも時折出かける。女性はしゃべりまくっている。夫婦はまさにこのように黙って新聞や雑誌を読んでいる。この夫婦に喫茶店に出かける意味はあるのだろうか。美味しいコーヒーが飲める。ボクのところではモーニングサービスが付いて食事代わりにもなる。新聞雑誌がただで読める。二人で出かける。この小説の最後に書かれているように「良かったんじやないの」「そうね」であろう。これもできない夫婦もあろうから、これができるだけでもいいというのだろうか。
 ボクは一人で行くとき以外、新聞雑誌は手に取らないことにしている。妻と行くときも同じで何か話している。そして男同士でも何か話すことにしている。しかし、これはうまくいかなくて気まずいときがある。そうすればもうその男性とは行かないことにしている。喫茶店はボクにとって、コーヒーを飲みながら交流する場である。


(第3440話) 「思わぬ宅配便」

2023年01月19日 | その他

 “「宅配便でーす」 インターホンから聞こえてきたのは夕食の支度で忙しいときだった。  「ねぇ、お父さん出てちょうだい」 「わしも忙しくて出れないよ」 「なによ!足の爪を切ってるだけじゃないの」
 夫は、会社を辞めてから動きが鈍くなり、物忘れもひどくなった。今日のわたしの誕生日なんか、きっと忘れているに違いない。結婚前はよくプレゼントをしてくれたけど、あの気遣いはどこへいったのかしら。
 「お留守ですか?」 また配達人の声がする。仕方なく「はい、今出ますよ」と玄関口に行った。そして「差出人は誰かしら?」と聞いてみた。 「はい、ご主人さまから奥さま宛てのようです」
 わたしは、顔を赤らめてしまった。”(12月25日付け中日新聞)

 「300文字小説」から埼玉県狭山市の安部さん(77)の作品です。心温まる良い小説です。夫婦の姿もよく現している。ご主人からのサプライズです。照れでもあるでしょう。そしてもらった奥さんの赤ら顔・・・。ボクの心も刺激された。
 ボクの妻には大きな病が分かった。今病院通いをしている。ボクは妻の誕生日に何をしただろうか。忘れていることがほとんどで、何かを贈った覚えなどない。もうするなら今しかない。今年は是非しなければならない。この小説を忘れないようにしなければならない。今から毎日考えておこう。でも半年後である。物事を忘れやすくなったボクに可能であろうか。ボクが試されることになった。


(第3424話) 移動販売

2022年12月17日 | その他

 “戦後すぐのことだ。現岐阜県瑞浪市にある母の実家近くでは、よろず屋がリヤカーや車に食品や雑貨を積んで走り回っていた。しばらくして、すぐに子どもたちの間で人気となった、パンを扱う移動販売車を見るようになった。
 私が生まれ育ち、現在も暮らしている名古屋市中川区の地元市場や商店街は昨今、シャッター街と化している。住民の高齢化はどんどん進み、車を運転しない高齢者は買い物で遠方のスーパーに向かうのも大変となってきた。このため地元住民組織による買い物支援の一環で、食品を扱う移動販売車が毎週のようにやって来る。昔の懐かしい記憶がよみがえる今日この頃だ。”(11月21日付け中日新聞)

 名古屋市の丹羽さん(男・85)の投稿文です。最近ボクの町内でも移動販売車が来ていることを聞いて驚いた。まさに信じられない、エエッという感じであった。ボクの町内は一宮市東部であるが、過疎地というところではない。食料品店もあるが、部分的に捉えるとかなり不便な村もあるようだ。そう思ってみればボクの村にもない。ただボクの村では隣村に大きな店があり、自転車ならいける。歩いてもいけるだろう。
 昔はほとんどの村に雑貨屋やよろず屋があった。ボクの村にもあった。大きな店が所々にでき、小さな店はほとんどなくなっていった。そして車でいけなくなった人には全く不便となった。名古屋市でもあるという、この投稿文である。そして、地域住民で買い物支援の組織を作ったという。昔は老人だけという世帯は少なかった。今や若い人との同居世帯は希少種となっていく。効率化を求めた結果、何が良かったか分からなくなってきた。