寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2664話) 父の電話帳

2018年08月30日 | 人生

 “もう父が逝って二十八年が過ぎた。昨日、妻が「これ覚えてる?」と、古い電話帳を持ってきた。手に取ってみると、懐かしい父のきれいな字が、何ぺージにもわたっていっぱい書かれた電話帳だ。
 今の地に越してきた五十五年前に、父が母と苦労して作っていたことを思い出す。めくっていくと、所々、四年前に逝った母の宇で加筆や訂正もされていた。本当に懐かしい思い出いっぱいの電話帳だ。仕事の関係もあって、県や市の役所から、さまざまな商店に至るまで事細かく網羅されていた。きちょうめんな父の性格が表れており、父母や私、妹も、みんなで電話帳を利用していた。私たち家族はみんな、きれいな父の字が読みやすく、大好きだった。
 妻も父とは二十年近く一緒に過ごしたのだが、今でもこの電話帳を使っていてくれたのだと知り、とてもうれしかった。私もすでに、父の年を超えている。多少の加筆をして、この電話帳に私の痕跡を残したいなと思う。私の子どもや孫は将来、この電話帳を見たとき、懐かしんでくれるかな。”(8月3日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の浅野さん(男・67)の投稿文です。古い電話帳、こんなところにも父の思い出があった。何でも新しい方がいい、少しでも捨てた方がいい、これがすべてでないと言うことである。そして几帳面な人のものは役に立つのである。
 携帯電話やスマホが増え、固定電話が減ってきたと言ってもまだまだ固定電話は多い。ところが今は、個人情報保護と言って電話番号が公開されることは全く少なくなった。これが全く不便である。急ぐ時に困り果てる。ボクの村では固定電話の一覧表が配布されていた。それが平成13年度版で最後になった。話しているとこれを今も活用している人が多いことを知る。大切に扱っている。ボクの家もまさにしかりである。この一覧表にいろいろなことを書き加えている。後日子供達の役に立つことはないだろうか。


(第2663話) 生きたい思い 

2018年08月28日 | 活動

 “二年半前の冬、骨髄バンクから見慣れない大きな封筒が届き、中を開けるとドナー適合のお知らせが入っていた。私は迷わず同意書にサインをし、無事ドナー提供をした。私が十三年前、献血時にドナー登録したのは、今日本のどこかで生きたいと願いながら、ドナーが現れることを神にも祈る思いで、日々血液の病で闘病されている人々の存在を知ったからだ。
 身近な大切な人が白血病になったら。発病したのが自分だったら。ドナーが見つかり、移植を受けられる確率は、相当に低いだろう。それでも自一分が生きているうちに、誰かの命を助けることができる数少ない手段だと思う。
 移植は無事に成功し、一年後、患者さんとそのご家族から、バンクを通じて匿名の手紙が届いた。白血病は再発で、移植以外助かる見込みがなかったこと、移植日が二度目の誕生日になったこと、ドナーに恩返しはできないが、これから家族のために精いっぱい生きていくことで恩送りをしていきたいこと、がつづられていた。
 この世に生を受けた意味が、少し感じられた出来事だった。そして、二度目の適合通知が届いた。生涯に二度までしかできないドナー提供。今回も誰かの生きたい思いを受け止め、提供したいと思う。”(8月2日付け中日新聞)

 名古屋市の自営業・船木さん(女・42)の投稿文です。骨髄移植もななり普及してきているようだが、まだまだドナーは少ないと聞く。また非血縁者間ではなかなか適合が難しく、意思はあっても叶わないことも多いようだ。そんな中、船木さんは2回目と言われる。提供している人にしてみれば、人の役に立って嬉しいことであろう。
 現在はいろいろな移植技術が進んでいる。ボクも妻も、臓器提供を承諾している。保険証にその旨記載している。骨髄ドナーは55歳までであるが、臓器提供は心臓が停止して以後のことである。提供できるかどうかはその時になって見なければ分からない。1つでも移植され、自分の分身として生き残っていくと考えると、これも楽しい。しかし、本人がその気であっても、行うのは遺族である。これがまた家族間で意見が分かれ、難しいこともあるようだ。生前にしっかり意志を伝えておくことが必要である。


(第2662話) 日課は喫茶店

2018年08月25日 | 活動

 “七月三日付本欄「『オバサン化』孤独防ぐ」に共感しました。私は毎日喫茶店に行って友達と会話をします。勝手に五つのグループをつくり、いろいろな人と日替わりでモーニングを楽しんでいます。
 人と会うときは話題を提供するように心掛けています。普段新聞や本を読んだりテレビを見たりするときも集中力を保ち、話題になりそうなことは書き留めています。散歩ではすれ違う人に必ずあいさつをします。相手が返してくれなくても会うたびに声を掛けます。そうすると相手も徐々にあいさつを返してくれ、次第に会話もできるようになるからです。こんな毎日は楽しく誰かと話すことで頭の回転は速くなり、記憶力も良くなる気がしています。2(8月2日付け中日新聞)

 岐阜県多治見市の安藤さん(男・69)の投稿文です。ボクの地はモーニングサービス発祥に地を謳っている。それだけに喫茶店は多い。ボクの家の500m範囲に5軒はある。それ程あっても朝早々から満員である。多くは2人3人と連れ立ってくる。日課にしている人や朝食代わりにしている人も多い。ありがたい地域であると思う。
 このように喫茶店はまさに交流の場である。男性高齢者も多い。しかし、安藤さんから5グループで来て、いろいろな人と話をしていると聞くと、これはオヤッと思う。総勢何人であるか分からないが、これは珍しいと思う。特に男性とあれば珍しかろう。それも毎日とある。安藤さんはそのための話題作りに準備もしていると言われる。それが楽しいと言われる。これは高齢者の望ましい1つの姿であろう。何かすることがあれば、それはまた望ましいが、無い人は無い人なりに工夫が必要である。これがオバサンは凄い。オジサンはまだまだである。何でもいいから外に出ることが活発にならねばと思う。ボクは今のところ、月の半分は定期的に出る機会がある。そして畑仕事がある。ボクの喫茶店デビューはまだ先である。


(第2661話) 100回目の夏 

2018年08月22日 | 活動

 “私は高校野球の試合を見ながらスコアを付けるのが趣味で、スコアブックは現在31冊目だ。先日、最初にスコアを付けた試合のページを開いた。1954(昭和29)年8月に兵庫県西宮市の甲子園球場で見た愛知県代表の中京商業高校と静岡県の静岡商業高校による決勝戦だ。スコアの備考欄には「十一月末、優勝旗が消失。八十四日目に近くの中学の床下で発見」とあった。この試合に勝った中京商業のナインが手にした優勝旗が一時的に学校からなくなったのだ。大騒ぎになり、関係者らが必死に捜したところ、翌55年2月に名古屋市内のある中学校の床下から見つかった。誰が置いたのかは今も不明なままだ。
 全国高校野球選手権大会は百回目となる今年、優勝旗が新調されたそうだ。三代目という真新しい深紅の優勝旗を目指す球児は、夢舞台の甲子園でどんなドラマを見せてくれるだろうか。開幕が待ち遠しい。”(7月30日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の山田さん(男・86)の投稿文です。昨日を以て100回目の高校野球は終わった。金足農業の活躍でこの上なく盛り上がった大会であった。この高校野球のスコアを付けるのが楽しみで、そのスコアブックがもう31冊目だと言われる。昭和29年からと言う。そこには他の思い出も書かれている。もう人生そのもの、宝物であろう。最初からそのつもりだろうか。多分続けているうちにいろいろな知恵が浮かんだのだろう。そして続けると凄い結果を生む。
 世の中には様々な収集家がいる。箸袋にマッチに切符に、これらは言うに及ばず、今サッと浮かぶぬが、時折新聞等でびっくりするようなことが報じられる。報道されるという事は価値が見いだされたからである。こんなことと思うことでも、続ければ価値が生じるのである。それ程誰にもできることではないからである。
 ボクには思い出の紙くずが、B4版の冊子で150冊くらい、並べれば10m以上あろう。宝物と呼んでいたが、断捨離がはやり始めて、ここ10年前くらいからグッと減らした。ボクには価値があると思っているが、他人から見ればこれこそ紙くずである。もう少し焦点を絞れば価値が出たかも知れないが、そこまで思いが至らなかったのは残念である。HPの随想「私の宝物」(http://terasan.dousetsu.com/zu021.htm)に思いを書いているので読んで頂けるとありがたい。


(第2660話) ありがとう

2018年08月18日 | 活動

 “私は日常のさまざまな場面でお礼を言うことを心掛けている。バスを降りるときやコンビニで物を買ったとき、飲食店を出るときなどに必ず「ありがとうございます」と店員らに伝えている。
 お礼の大切さを意識して1年になる。飲食店でアルバイトをしたことがきっかけである。お客さんに「ありがとう。ごちそうさま」と言ってもらえるとうれしくなり、もっと頑張ろうと思えて。
 働いている人が仕事をするのは当然のことかもしれない。しかしその当たり前のことにお礼を言うだけで働いている人はやりがいを感じ、意欲をますだろう。教員を目指している私は当たり前のことにも「ありがとう」と言える子供を育てていきたい。”(7月25日付け中日新聞)

 三重県桑名市の大学生・水野さん(女・21)の投稿文です。店とお客という立場で見た時、一般にはお客はお礼を言われる立場である。水野さんは、飲食店でアルバイトをした時、お客さんからお礼を言われて嬉しくなり、働く意欲が湧いたという。そして今、立場が変わっても「ありがとう」を言うことにしているという。体験の効果は大きい、いい事に気付かれたと思う。
 「お客様は神様」という言葉が広がり、お客の立場は強くなり、横暴なことさえ見受けられるようになった。お金を払う方が強く、もらう方はお礼を言うのが正常なのだろうか。ボクは違うと思う。どちらが強いか、状況によって違ってくる。ものが少なくて買う人が多ければ、売ってやるという状況になる。売って頂いてありがとうと言うことになる。立場はいつでも変わるのである。そして、どんな状況でも片方では成り立たない。共にあって成り立つのである。お互い感謝、ありがとうとお礼を言えばスムーズになる。こんなところで目くじら立てることではない。


(第2659話) 不自然な日本語 

2018年08月16日 | 意見

 “いつから日本語はこんなふうになってしまったのだろう。テレビでリポーターやディレクターが市井の人に声を掛けるときの言葉が不自然で気になる。「ちょっと聞かせてもらうのは可能ですか」「~の写真とかあったりします?」「避難してもらってよろしいですか」―。丁寧に話しているつもりかもしれないが、何と回りくどい表現だろう。「伺ってもよろしいですか」「写真はありますか」「避難していただけますか」とした方が、より分かりやすいと私は思うのだが・・・。
 「お母さん的には成功すると思いましたか」と質問するディレクターがいた。「お母さん的」とは一体どういう意味なのか? 私からすれば、やはり「うーん」とうなってしまった。”(7月21日付け中日新聞)

 愛知県阿久比町の大石さん(男・69)の投稿文です。自分自身が昔はこんなことで戸惑う事はなかったと思うが、最近はかなり戸惑っている。周りの言葉遣いに戸惑い、自分自身もおかしくなっている気がする。例えばこの大石さんお話、丁寧に言おうとしてただ回りくどくなってしまっている。丁寧、尊敬、謙譲などの言葉遣いをよく理解しないまま使うようになって、混乱をきたしているのではなかろうか。家庭でも教育現場でもあまり教えてこなかったのではなかろうか。最近の報道関係はどうだろうか。大石さんの文にもある通り、疑問を感じることがある。報道など世の中の身近な見本である。それを自覚してしっかり学んで社会に出て欲しいものである。
 7月30日には「メチャ」という言葉の連発は品がないという投稿もあった。アナウンサーまでも使っていると批判していた。言葉は時代と共に移り変わるというが、これは移り変わりであろうか。ボクには単なる勉強不足と受け取れる。


(第2658話) テストで140点

2018年08月14日 | 出来事

 “学校のテストといえば百点満点が多いと思うが私は中学校二年生のとき、定期テストで満点を超える百四十点を取ったことがある。当時私は家で新聞をよく読んでいた。得意だった社会科のテストで「解答用紙の裏に最近起きたニュースを記せ」という設問があり、注目度の高いニュースを書くほど配点が高かった。私は新聞記事で読んだニュースを裏面いっぱいに書き、表面は百点満点、裏面では四十点を得た。
 あれから十五年以上がたった今も私は新聞を購読している。出生やお悔やみを含めた地元のニュースをはじめ世界中の出来事が載った新聞にはお買い得情報の詰まったチラシが折り込まれている。視野を広げるためにこれからも新聞とともに私はありたい。”(7月25日付け中日新聞)

 岐阜県高山市の会社員・長崎さん(男・30)の投稿文です。読んだ新聞から、最近起きたニュースを答案用紙裏面にいっぱい書いた。そこに点数がついていて、100点満点が140点になっていた。楽しい思い出であろう。これをユーモアというのであろうか、粋な先生であった。こうした出来事があると、自信になり、新聞に愛着も沸く。それが今の長崎さんの生活にもなっている。人間の好き嫌いなどほんの少しのことで変わる。いいきっかけになれば好きになり、少し嫌な想いを抱けば嫌いになる。それが一生を左右することもある。好きな先生の教科だったからその教科が好きにるなんて事は往々に聞く話である。ボクなども30代で川柳を始め、40代でウォーキングを始めた。それが今も続いている。きっかけなどホンに些細なことである。
 今の時代、スマホやインターネットの普及で新聞離れは凄く進んでいるという。それが30歳の男性が「新聞と共にありたい」と言われる。これは希有なことであろうか。ボクらに取ってみれば、新聞のない生活など考えられないのに。特に身近な話は新聞であろう。長崎さんは賢明であると思う。


(第2657話) 美容院の絆

2018年08月12日 | 出来事

 “美容院でパーマをかけていたら、他のお客さんから予約の電話がかかってきここ。美容師は「○○時にお迎えに伺います」と言って電話を終え、私のところに戻ってきた。「送迎もしているのですか」と聞くと、「開業したときから長年来てくれるお客さまが高齢となり、車で来られず困っているので少しお手伝いができればと思って」と。
 地域住民とのコミュニケーションを図るための素晴らしいサービスだと思った。人と人との絆を考えてのことだそうで、私はとても感動した。「タクシーを呼べばいい」と思う人もいるだろうが、高齢者をいくつになっても喜ばせてくれる美容師だけに、家庭的な雰囲気の店をいつまでも続けてくれることを願うばかりだ。”(7月24日付け中日新聞)

 滋賀県守山市の主婦・西出さん(69)の投稿文です。高齢で来られなくなった常連客を車で迎えに行く、これが地域に根付いた店であろう。昔は多かれ少なかれ、店は地域に溶け込んでいた。個人自営業が成り立っていくには全く難しい時代になった。そんな店は閉じられ、大型店やチェーン店ばかりになっていく。やむを得ない流れだろうが、しかしそれらがいけないのは地域に溶け込む意思がない事である。ボクの家の回りは田畑だっただけに、今はその田畑に工場や店が建つ。静かな環境が騒々しくなっただけでなく、他の環境も悪くなっている。今年5月からボクの家の目の前にコンビニができた。自分の敷地内はきれいにするが、目の前の道路は汚れたままである。近くの工場も同じである。地元の人は自分の敷地の前の側溝はきれいにしているが、その工場の前だけは草ぼうぼうである。気にならないのだろうか。
 そう言った点、地域に根付いた店はいい。西出さんのこの話のように、いろいろな気遣いがある。妻は半アルバイト的に開いている美容院に長いことお世話になっている。妻の帰ってきて話すことを聞いていると、まさにサロンである。いろいろな情報を仕入れてくる。これが嫌な人もあろうが、地域の絆を深めていることは確かである。


(第2656話) アサガオの思い出

2018年08月10日 | 活動

 “「せんせいあのね」。この文章から、私の作文は始まった。小学一年の私は、夏休みの自由研究でアサガオを育てた。二階の屋根までネットを張り、一日にいくつの花が咲いたかを毎日数えた。一日で百個以上の花が咲いた日もあった。そのことについて学校で作文にし、賞をもらったのだった。
 そのころ、私は担任の女の先生が大好きだった。その先生の明るい笑顔は、まるでアサガオの花のようにすてきだった。その先生に向けて書いた作文のラストはこうだ。「せんせいあのね、らいねんはせんせいもいっしょにあさがおをそだてようね」
 あれから約三十年の月日が流れた。今でも私の一番好きな花はアサガオだ。あの時に採れたアサガオの種は、何十年も机の引き出しの中で大切に取ってある。夏が来ると思い出す、たくさんのアサガオの花と大好きな先生のすてきな笑顔。
 三十年ぶりの、あの作文の続き。「先生あのね、私は今でもアサガオが大好きです。あのころの楽しい思い出が、私を支えてくれています。また、先生の笑顔を見にうかがいますから、いつまでも元気でいてくださいね」”(7月24日付け中日新聞)

 静岡県磐田市のパート・古山さん(女・37)の投稿文です。アサガオの栽培は今でも小学校で行われているようである。昨年からグラウンドゴルフを始めるようになり、その練習場所は小学校の校庭である。学校へ行くと、アサガオの鉢がたくさん並んでいる。それで知ったのである。
 古山さんには、こんなアサアガオの思い出があった。作文に書き賞までもらった。好きな先生であった。忘れられない出来事である。こうした思い出がどのくらいあるか。それがその人の豊かさであろう。
 今年ボクは、何十年ぶりかにアサアガオを育てた。園芸店へ行った時、何気なくアサガオの苗を1本買った。大きめの鉢に植えて育てた。そして屋上への階段を使って紐を張った。すくすく伸び何十個かの花を付けた。しかし、この暑さか、まもなく勢いがなくなり花の数が少なくなった。根元から1m近くで切った。ところが今また息を吹き返しているのである。そして今朝また咲いた。4個の花が見える。


(第2655話) 鐘の音

2018年08月08日 | 出来事

 “「夕やけこやけで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」。長い間途絶えていたお寺の鐘が、今年の四月から再び鳴るようになりました。夕闇迫る午後六時、静かな山里に「ゴーンゴーン」と鳴り響く鐘の音は、郷愁を誘い、何とも懐かしく心に染みてきます。
 この鐘のある美濃安国寺は、今をさかのぼること六百五十年、室町時代、足利尊氏が全国の要所に建立した安国寺のうちの一つで、西美濃三十三霊場十五番札所になっている小さな山寺です。三年前、先のご住職が急逝されてからは無住寺になり、鐘の音も途絶えていました。村の衆は由緒ある安国寺を廃寺にはできないと、御堂や庫裏を清掃し、庭の手入れをして、熱心に住職を迎える働きをしてきました。その熱意が報われたのでしょう。このたび、新住職を迎えることができたのです。
 六十歳代のお坊さまが、各家を訪ねてくださったときの村人たちの喜びはひとしおでした。そして夕刻の鐘が鳴るようになったのです。村人たちは鐘の音を合図に、野良仕事を終え、一日の無事を感謝しながら家路につくのです。「ゴーンゴーン」。今日も一日の終わりを告げるように、お寺の鐘は村中を包み込んで響き渡っています。”(7月18日付け中日新聞)

 岐阜県池田町の主婦・森さん(73)の投稿文です。ボクは近年、お寺さんと縁が深くなり、よく訪れる。そして、お寺さんとは何であろうかと、よく思う。
 そして、森さんのこの投稿である。無住になったお寺さんに、新しい住職が入られた。止んでいたお寺の鐘が鳴るようになった。昔の生活に戻られたようである。里山に梵鐘が鳴る風景、冒頭の童謡の風景である。こんなゆったりした時間を持ちたいものである。
 かつてお寺さんは村の中心であった。大人には集会場所であった。子供には学ぶ場所も遊ぶ場所もお寺であった。住職にはそれだけのリーダーシップや指導力があった。仏の教えも尊重された。お寺の各種の行事も重要視された。しかし、それらはどちらからともなく軽視されていった。そしてどちらからともなく、お寺との縁が遠くなった。とボクは思っている。仏教関係者はこれをどう捉えているのか、この先どうしようと考えているのか、本音で聞きたいところである。葬式仏教と言われるように、葬儀や法要、お墓は大きな収入源であった。それが今や大きく様変わりをしようとしている。今、多くの寺院に人を引き寄せる魅力はない。でも、不思議なことに有名寺院の納経帳は大流行である。
 さて住宅地では梵鐘はまず鳴らない。鳴らす住職も少ないが、鳴らせばやかましいと苦情を言われる。年1回の除夜の鐘でさえ苦情があると聞く。これもお寺との縁の希薄が一因であろう。そして森さんの文である。なくなると欲しくなるであろうか。