寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3688話) 星野富弘さん

2024年06月25日 | 人生
 “詩人で画家の星野富弘さんが亡くなりました。私が星野さんを知ったのは39年前、初めての子どもである長女の出産直後。体調不良で入院してわが子に母乳をやれない悲しさ、その世話を母に頼んだ申し訳なさから病室で泣いてばかりいました。そんな折、隣のベッドの中年女性が差し出してくれたのが星野さんの詩画集「四季抄 風の旅」でした。奇麗な字や絵が並んでいました。星野さんは中学校教諭だった24歳のときの部活動指導中、事故に遭って手足が不自由になりました。筆を口にくわえて書いたのがこの詩画集で、その中の「一度だけ腕が動くなら母の肩をたたきたい」というフレーズを読み涙がこぼれ落ちました。
 10日ほどで退院し、この本を早速買い求めました。その後も落ち込んだときには必ず開き、何度も励まされてきました。合掌。”(5月28日付け中日新聞)


 愛知県愛西市の主婦・日比野さん(66)の投稿文です。わが家にも星野富弘さんの本が数冊あった。妻が買ってきたのである。ある講演でこの本を薦められたという。そして最初に求めたのがこの詩画集「四季抄 風の旅」でした。その後求めた本は妻が人にくれてやったようである。そして今も残っているのはこの本1冊である。さっそく引っ張り出してきて読んだ。絵も字も素朴で、心地よい。筆を口に加えて書いたとは、とても思えない。人間は命さえあれば、何ができるか計り知れない、その見本の気がする。命とはそうものであるのだろう。ボクはこの歳まで、順調すぎるほどに過ぎてきた、と思っている。癌の手術はしたが、手足をもぎ取られることはなかった。そして多くの人は、多少の不運はあったろうがこのように過ごしてきた。人間、生きとし生きる人はない。ボクは今年傘寿である。これからがいよいよ本番である。何が起ころうと受け入れ、人生を全うしたいものである。



(第3687話) 中日ビル

2024年06月23日 | 人生
 “新たな中日ビルが名古屋市中区で全面開業した。1966(昭和41)年にできた旧ビルには私が小学生のとき家族でよく屋上の回転展望レストランに行った。「名古屋テレビ塔」やデパートの屋上遊園地を見つつ、ほぽ1時間で1周する都会の眺望を楽しんだ。大人になっても脚本家の講演を聴いたりクリスマスイルミネーションを見たりするために訪ねた。建て替えが発表された後の2018年夏、同僚と見納めとばかりに屋上ビアガーデンに行き、記念写真に納まった。
 新ビルでは歌手宇崎竜童さんの弾き語りライブを聞き、78歳と思えない声量に元気をもらった。今後も折に触れて訪問したいと思っている。”(5月23日付け中日新聞)


 愛知県北名古屋市の訪問看護師・古橋さん(女・59)の投稿文です。「中日ビル」、この地域の人には何かと思い出があるであろう。できたのが昭和41年とは、ボクが名古屋へ通勤し始める少し前である。回転レストランには1回だけ入ったことがある。そしてこの文を書きながら、思い出したことがある。このビルに入っている会社に就職試験を受けに行ったことがる。その会社に行っていたら、別の人生になっていたであろう。新ビルの完成も新聞で知ったのみで、まだ行っていない。いつになるか分からないが、行ってみたいものである。
 ボクがこの投稿文を取り上げたのは、別の思い出があるのである。妻と知り合い、結婚も約束した。妻は料理を習いたい、と言うことで、このビルでやっていた料理教室へ通うことになった。そしてボクは、この教室の終わるまで、ロビーで妻を待っていたのである。そしてデートの出かけた。青春の思い出である。



(第3686話) 笑う家族

2024年06月21日 | 人生
 “私は20年後、好きな人たちに囲まれて皆と笑って生活していたい。好きな人たちは思いつく順に友人、両親、未来の奥さんか。
 私にとっての身近な大人である両親はいつも笑顔で、はたから見ても人生を楽しんでいるのが分かる。おそらく大人は、子どもの私からしたら想像できないぐらいの苦労やつらさもいろいろあるはずだろうに、そんなことはみじんも感じさせない。そんな両親がいつしか私の憧れとなり、今属するこの家族みたいな家庭を自分も築きたいと思うようになった。この前亡くなった祖母が言っていたように「笑う家族には福来たる」は真理だと思う。
 私にもこの先、さまざまな壁が立ちはだかるだろう。その都度、笑い飛ばしてやろうと思っている。何たって私は「笑う家族には福来たる」を実践した加藤家の一員なのだから。”(5月22日付け中日新聞)


 岐阜県土岐市の中学生・加藤さん(女・14)の投稿文です。中学生が、自分の両親について、また家族についてこれだけのことを言う、これはできることではないと思う。「笑う家族」と誇りに思っている。そしてそれを将来の自分でもありたいと思う。まさに背中を見せての子供の教育である。子供は親の背中を見て育つ。「笑う家族には福来たる」、また「笑いは人の薬」という言葉もある。笑いは薬と同程度の効用がある。いや、薬以上だと思う。薬には副作用もある。笑いにも副作用があるとすれば、それは良い副作用である。どんどん人をにこやかにしていく。ボクも昔は「笑顔の〇さん」と言われたものである。いつしかそれを忘れていた。最近少し取り戻してきたと思う。人生晩年に向けて、より良い人生にしていきたいものである。それにしても加藤さんの「加藤家の一員なのだから」の言葉には驚いた。素晴らしい。



(第3685話) 写経の会

2024年06月19日 | 行動
 “友人に誘われて5年前から岐阜県瑞穂市の寺を毎月訪ね「写経の会」に参加している。講師である住職の柔らかい物腰や上品な言葉遣い、おおらかな人柄にひかれ、充実したときを過ごせている。5分ほど瞑想して鳥の鳴き声や花の香り、障子の隙間からの一条の光を感じつつ集中力を高めてから筆ペンで1時間近く般若心経を書き写す。五感をフル活用した後だからか単純作業も苦にならない。最後に思い思いに願い事をつづり私は毎回「戦争のない平和な世界に」としたためる。がさつな性格だった私だが、写経効果ですっかり落ち着いてきた気がしている。こんな癒やしの時間を、私は今後も大切にしていきたい。”(5月25日付け中日新聞)

 愛知県稲沢市の主婦・田中さん(71)の投稿文です。「写経」、ボクもやってみたい一つである。妻は習字の師範まで取ったが、ボクは苦手である。幼い頃習っておけばよかった、と思う一つである。もちろんそんな塾に行ける境遇ではなかったが。心静かにお経様を写す。そんな時間が持てたら、気持ちも変わろう。ボクはシルバーカレッジに行っていたとき、作りたいサークルとして、写経を提案した。でも誰も乗ってこなかった。ボクは毎日とは言えないが、仏壇の前でお経様をあげる。そして、新聞の書き写しもしている。この二つは写経に繋がる。このままでいいのか、写経に発展するのか、この後も興味が持てる。
 新聞の書き写しについては、先日発言欄で、ボクの投稿文が記載された。後日紹介することになると思う。


(第3684話) ツバメ

2024年06月17日 | 出来事
 “朝、江南通信部で2階のベランダの窓を開けると、1羽のツバメが電線にとまっていた。ずっと鳴き声が聞こえるので、玄関先に出てみると、軒下に小さな巣があった。ツバメが家に巣を作ると縁起が良いと聞いたことがある。
 ほっこりした気持ちになっていたら、ある高齢者施設に勤める女性から悲しい情報が寄せられた。朝出勤すると、玄関先の看板にあったツバメの巣が下に落ちていたという。つぶれた巣の周りを行ったり来たりするつがいのツバメ。道具箱に置いてあったはずのホウキがそばに落ちていた。
 「明らかに人の仕業。久しぶりに巣を作ってくれたのに、心無い人がいる」。女性は声を震わせた。ツバメなどの野鳥は、許可なく捕獲することはもちろん、卵やヒナがいる巣を壊すことも鳥獣保護管理法違反になる。近年、減少していると言われるツバメ。自然環境の変化だけでなく、人間の身勝手も影響しているのだろう。ヒナが巣立つまで、そっと見守りたい。”(5月23日付け中日新聞)


 「モーニング」という記事欄からです。ツバメも昔に比べたら随分減った気がする。ところがである、今年わが家の車庫の屋根裏にツバメが巣を作ったのである。車庫のシャッターは、昨年までは夜になると降ろしていたが、今年から開けたままにした。それが即、ツバメの巣である。車の屋根がよく汚れている。最初は不思議がっていたが、そのうち巣がみえるようになった。そしてツバメの巣と気がついた。何十年、初めてのことではなかろうか。妻はぼやいていたが、ボクは屋根にシートをかぶせた。先日雛がみえた。まもなく飛び立つであろう。ツバメが巣を作ると縁起が良いとは知らなかった。またツバメは覚えていて毎年帰って来るという。巣の位置は高くてボクには取りはずことができない。もうこのままである。毎年の恒例のことになるであろうか。それも良しである。幸福を運んでくれるであろう。そう思うだけ気分が良い。



(第3683話) 故郷との縁

2024年06月15日 | 知識
 “岐阜県海津市にある治水神社の春の例大祭に、5年ぶりに出かけた。江戸時代、薩摩藩が犠牲者80人以上を出しながらも多大な費用をかけて木曽三川の治水工事をやった。その犠牲者を悼むため、1938年にこの神社が建てられた。鹿児島県出身の私は神社への縁を感じ、半世紀ぐらい前から例大祭をよく見に行った。前回、一緒に訪ねた長兄は2年前に90歳で逝った。今回も式典では玉串を奉納して犠牲者を慰霊し、名物の舟みこし行列では「わっしょい、わっしょい・・・」と声を上げて練り歩く男性の勇壮な姿に元気をもらった。わが故郷への感謝が随所に感じられた。天国の兄もきっと喜んでいることだろう。”(5月18日付け中日新聞)


 愛知県知多市の外野さん(男・80)の投稿文です。治水神社、この6月1日の一宮友歩会の例会で行ってきました。皆さんにも参拝してもらいました。外野さんは鹿児島県出身、江戸時代、遠く離れたこの地で、多くの犠牲者を出しながら後世に残る大事業をした郷土の人々、特別の思いがあるでしょう。例大祭に出かけ、玉串奉奠をし、舟みこし行列を見る。特別の日でしょう。
 ボクはもう何度もこの神社へ行きました。木曽三川が分離し、大きな洪水を防いできた。人間の歴史は、一面自然との闘いです。でも人間には戦いで自然に勝つことは無理でしょう。今や世界中が人間の欲望に押されて自然がおかしくなっています。欲望を抑えながら、少しでも人間と調和した地球の命を永らえたいものです。



(第3682話) カレンダー

2024年06月13日 | 行動
 “「あ、また忘れて1カ月分かえていなかった」とため息をつく私。生前に次男がしてくれていた、月ごとのカレンダーと日めくりの暦を、私が引き継いで2年以上経つ。
 暦は数日後に気が付いて何日分もまとめて破ったり、月替わりのものも、うっかりして翌々月まで気付かなかったりする。次男に「お母さん、めくって!」と言われている気持ちになる。
 カレンダーや暦に関しては次男に任せていたし、家族それぞれの役割がだいたい決まっていた。何よりもあちこちにカレンダーがあるので、一つがその月にかわっていないことに誰も気付かなくて、私としては胸をながで下ろす気持ちではある。
 やはり障がいの特性だったかもしれないが、一度決めたことは何事も本人なりに、きちんとしてくれた。ペースに乗せられて付き合うことが大変だったことを割り引いても、本当に助けてもらっていたことが多かったと今更ながら思っている。
 次男本人のルールで新しい月のカレンダーは、前の月の最終日にかえると決めていた。今回はため息をつくほど後悔はしたが、何とか次の月を迎える準備ができた。5月、新緑の季節・・・。春の山・・・を入れていただいた次男の戒名に想いを馳せたい。”(5月17日付け中日新聞)


 岐阜県高山市の主婦・河合さん(61)の投稿文です。カレンダーをめくる、これも生活の仕方に意味があるでしょう。亡くなられた息子さんから受け継がれたと言われるので、頑張って貰いたいものです。
 この文を読んでカレンダー、特に日めくりは高齢者には良い生活習慣になると思いました。毎日キチンとした生活を送る、これは高齢者には必要なことです。のんべんだらりとなりがちな高齢者にメリハリになります。日にちさえ忘れる高齢者です。日めくりにはいろいろなことが書かれています。今日はどんな日か、チラッと見るだけでも意味があります。昔はボクの家にももらった日めくりがあり、それを破るのはボクの仕事でした。高齢になったボクも再び行ってみるかな?やって悪いことではない。覚えておきたい。



(第3681話) 徒歩で伊勢参り

2024年06月11日 | 行動
 “名古屋市の熱田神宮から三重県伊勢市の伊勢神宮までの100キロほどを4月、3日がかりで単独で歩ききった。大学の先輩が以前やったことを知り、私も江戸時代の「伊勢参り」に挑戦したくなったのだ。
 普段あまり運動をしていないだけに1日7時間以上歩くのは苦行だった。脚に鈍い痛みを覚え、雨に見舞われたものの、これまで歩いた努力が無駄になることは絶対嫌で、懸命に歩を進めた。宿泊先の確保は大変だったが、翌朝、前日と同じ場所からスタートした。ようやく伊勢神宮にたどり着いたときは感激し、外宮と内宮にそれぞれお参りした。
 幸いにけがもなく踏破できた。「やればできる」との自信も出てきた。次は、500キロ近い東海道を歩き通すことが目標。”(5月17日付け中日新聞)


 名古屋市の大学生・磯貝さん(女・20)の投稿文です。熱田神宮から伊勢神宮まで、3日かけて歩かれた。若さ故の良い挑戦であったろう。自信ができて、次は東海道を考えておられる。なんでも挑戦してみるものである。
 実はボクも数度歩いているのである。その最初は平成6年1月13日から16日にかけて「第5回熱田・伊勢125k初詣ウォーク」という催し物であった。日本歩け歩け協会等の主催行事である。久しぶり記録をめくってみると、260人位が歩いている。3泊4日、疲労困憊、散々であった。でもいろいろな刺激を受けた。この後ボクのウォークは本格的なっていったと思う。2回目は、平成17年1月である。今度は愛知県ウォーキング協会の役員としてである。熱田・伊勢ウォークは愛知県、三重県主体のウォークに替わっていた。第1回目と名打っている。前年の秋から準備を始めていた。そしてコース説明や先頭を歩くなどかなり重要な役を担っていた。参加者は370名とある。この頃はもう長距離ウォーカーとして名を馳せていた。そして第3回目まで参加した。これがボクの熱田神宮・伊勢神宮ウォークである。懐かしい、よくやったと思う。できるときにしておいて良かった。その後、一宮友歩会が主になった。



(第3680話) 用水さらえ

2024年06月09日 | 活動
 “田植えが始まる前の4月、田に水を送る川の土砂を取り除く川さらいがあった。わが地区でも高齢化は進み、農業をやめてその地の運営を他の農家に頼んだり、休耕田にしたりするケースも少なくないが、例年、この川さらいだけはそうした事情に関係なく、田を所有する全家庭に声をかけて実施してきた。たいていどの家々も快諾し、高齢の親の代理として参加する子どももおり、今年は40人以上で作業した。長靴を履いて水に入り、膝元まで漬かりながら土砂を除去した。作業は2時間半ほどで終わった。
 私は今や自家米を栽培するだけとなった。皆さん同様、秋には多くの米が収穫できることを願っている。”(5月14日付け中日新聞)


 滋賀県米原市の江竜さん(男・79)の投稿文です。「川さらえ」とは、また農村地帯らしい話である。町の人には無縁であり、何のことか分からないではなかろうか。田植え前に、水が流れやすいように用水路を清掃することである。ボクのところでは農業実行組合があり、その会員が担っている。江竜さんの地区と同じように実際を米作をしている人は数人である。その数人の人に多くの人が委託している。でも用水さらえは、委託している人も奉仕に出かけるのである。今年も4月に行った。皆の顔が見えるいい機会である。
 ボクの家は、父が亡くなってすぐに近くの人に委託した。もう40年も前のことである。当初は、1反当たり1俵の米を頂いた。その後だんだん減り、最近は0円である。でも固定資産税と用水負担金は払わねばならない。完全に赤字である。負の遺産である。こうした地区は、この先どうなっていくのであろうか。そのうち米不足ということにならないだろうか。国はこうした現状をどう捉えているのであろうか。



(第3679話) 資源回収

2024年06月07日 | 知識
 “子ども会の会長となって初めて、毎月第2木曜の資源回収が子ども会の大きな収入源になっていることを知りました。書類として残される10年前の収支報告などを見れば、それによって手にした活動資金は今の3倍もありました。近年回収する資源量は減少し、特に古紙の買い取り単価が下落しているとも聞きました。社会全体でのリサイクルは進んでいて見渡すと資源回収の場所はあちこちにあり、24時間、好きなときに持ち込める所もあります。そんな中、回収時間が限られる子ども会は利用勝手が良くないのかもしれません。
 少子化ゆえ地域の宝とされる子どもたち。その健全育成を主目的として各種活動をしている子ども会のために皆さん、協力していただけませんか。”(5月14日付け中日新聞)


 愛知県一宮市のアルバイト・則武さん(女・44)の投稿文です。則武さんは一宮市である。話されている状況はよく分かる。地区によって違いがあるかもしれないが、ただ子ども会が毎月担当というのは、少し理解しがたい。ボクのところでは、保育園、女性部、PTA、子ども会、町内会と担当月を振り分けている。そして、町内会の月を老人会が担っている。老人会が年2回行っているので、資源ごみ回収についてもボクはよく理解しているつもりである。
 業者が常時資源回収をする場所が、村内に何カ所も設置され、ここに多く出されている。家にいつまでも置いておきたくない人が多いのである。資源ごみの単価も安くなっているが、これが減っている大きな要因である。この資源ごみの還元金は、その会の大きな収入源である。老人会も、以前は数十万円あったが、今は5万円位である。ボクは老人会会員に、資源ごみを老人会担当月に出してもらうように回覧板を回した。その効果はすぐに出た。やはり動いてみるものである。