寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3148話) 半生記

2021年05月31日 | 行動

 “仕事を定年退職してわが半生記を書き始めたが、小学校卒業までを書いたところで中断していた。昨今の新型コロナウイルスに伴う自粛生活で持て余した時間を利用して続きを書き始めた。
 これまでに書いたところを読み直した上で訂正したり追記したりした。中学校から高校、そして大学から会社生活へと書き進めた。そして一気に定年後の老人仲間との付き合いまでをつづった。今、読み直しつつパソコンに向かって訂正や追記をしている。人の名前やいつの出来事かには曖昧なこともあるが、読み返すだけで実に楽しい。書いて頭を刺激することでフレイル対策になっている気がする。”(5月7日付け中日新聞)

 名古屋市の和気さん(男・72)の投稿文です。自粛生活の中で、半生記を書く。自分の人生を振り返る。これは人にもよるが、家族の歴史を振り返ることにもなる。改めて夫婦を考えることにもなる。この効用は大きいと思う。そして、文を書く。手書きなら更にいいだろうが、パソコンでも効用は大きい。文を書くには大きな努力がいる。この努力が頭のフレイル対策に大きな効果があろう。
 半生記を和気さんは一時中断された。退職後も忙しかったのか、はたまた根気が続かなかったか。文を書き慣れた人ならよかろうが、慣れない人が文を書くのはなかなかのことである。半生記ともなると、根気が続かなくなるだろう。和気さんはほぼ達成された。良かったと思う。
 ボクは作文の会に入り、またこの「話・話」 を書いている。書くことには慣れている方であろう。では半生記を書くか。今のところボクにそのつもりはない。作文の会の文(HPに随想として掲載)と、この「話・話」 が半生記のつもりである。


(第3147話) 迷おとな

2021年05月29日 | 出来事

 “「どこ? どこ? ここは どこ?」迷子ならぬ、迷おとなの私がうろうろしている。両手に持ったエコバッグは指に食い込み、もう十五分ほど似たような景色の中をうろうろして いる。ここは、とあるショッピングモールの駐車場。私にとって、車を止めた場所が分からなくなるのは常のことなのだが、今回はどこに行っても見当たらない。携帯電話のように電話をかけて、車が鳴ってくれたらどんなに救われるかなどと、おかしなことを考えながら歩き回っていた。
 すると、向こうから駐車場の警備員さんが歩いてこられた。恥ずかしい気持ちより、家に帰れない不安の方が強く、思い切って迷おとなになったと伝えた。親切にも何人かの警備員さんのお力で、車の元に着くことができた。何度も何度もお礼を言った。
 「次回からは駐車場の柱の写真を撮っておくといいですよ」最後の最後まで親切な警備員さんだった。よし! 次回は「ちゃんと写真を撮る」ということを忘れないようにしないと。と、新たな課題を胸に、帰路を急ぐ私だった。”(5月2日付け中日新聞)

 愛知県豊田市の自営業・北川さん(女・46)の投稿文です。店が大型化することによって、駐車場も広くなる。ボクもどこに車を止めたのか、分からなくなって結構あわてることがある。北川さんは、本当に分からなくなって警備員の方に助けを求められた。写真を撮っておくのも一つの方法だが、毎回できるだろうか。46歳でこの話だから、ボクらは全く要注意である。
 店側でもいろいろ対策を考えられていると思う。ボクのよく行く店では、柱にアルファベットが書かれている。柱に色を塗っているところもあろう。でも数時間、メモもせず、覚えておられるだろうか。多くの人は問題なくやっておられるのだから、要注意の人は自衛策を取らざるを得ない。これを書いていてフト思いつきであるが、例えばアルファベットを書いた紙を柱に置いてもらう方法はどうだろう。心配な人は持って行く。店側も対策を取り、自分も自衛策を考える。ボクの妻は大型店には行きたがらない。その一つに駐車場のことがある。


(第3146話) 登校班

2021年05月27日 | その他

 “マンション五階のわが家のベランダから、大きな駐車場を挟んで向かいのマンションが見える。毎朝七時四十五分になると、一人二人と小学生が出てくる。登校班を組んで学校へ行く子どもたちだ。四月から新一年生が加わった。ランドセルに黄色の真新しいカバーをつけているので、すぐ分かる。今年は三人。
 みんなそろうと七人。高学年のお兄さんを先頭に、車から守るように、一年生を内側にして歩き出す。みんな、今日も元気そう。「いってらっしゃい!」と心の中で声をかける。ちょうど洗濯物を干す頃に子どもたちが集まるので、見るともなく目に入り、毎日見てしまう。
 三月まで先頭を歩いていたお姉さんは中学生になった。真新しい制服を着て、小学生が全員そろうまで待っている。歩き始めるとすぐ小学生は右、中学生は左の道に分かれていく。優しいお姉さんは何度も振り返って手を振り、車の多い狭い道を行く小学生を気にしている。
 子どもたちが学校へ行く。このごく当たり前の光景が、当たり前でなくなった昨年だった。毎朝七時四十五分、平和な日常の光景をずっと見られますように・・・。このコロナ禍で心からそう願う。”(5月1日付け中日新聞)

 三重県四日市市の大湊さん(女・74)の投稿文です。小学生の登校風景である。班ごとに登校するのはどの学校もそうであろうか。ボクも朝の散歩の時間と重なり、よくその風景を目にする。ボクは会えば「おはよう」と声をかける。大湊さんはその風景をよく観察されている。この風景を見るのが楽しみなのだろう。
 ボクの村では下校時の児童見守りを平成18年よりしている。曜日毎に担当グループを決めていて、老人会は月曜日担当となっている。近年は役員15名ばかりを3グループに分け、3ヶ月毎に1ヶ月行う。1ヶ月と言っても、月に2~3回である。それでも近年は、高齢者の高齢化で児童に付き合って歩くのがかなりな苦痛になる人もある。それに1回に4~5人程度では、各家に散らばる多くの児童を見られない。そこで、今年5月、ボクは役員以外の協力者を募った。ゼロで元々である。ところが何と6名が申し出てくれた。各グループ2名増えた。多いと思うか少ないと思うかは別にして余裕ができた。思いついたことはやってみるものである。答えてくれる人はいる。


(第3145話) こいのぼり

2021年05月25日 | 意見

 “元気いっぱいにそよぐこいのぼりを見ると気持ちが一気に華やぎます。カラフルな色が青空に映え「この家に元気な男の子がいますよ」と一生懸命伝えているようです。
 娘が子どもの頃はもっとたくさんのこいのぼりが街の空に掲げられていました。娘は「家にも飾って」と駄々をこね、小さなおもちゃのこいのぼりを買ってベランダにそっと飾ったものです。円形のハンガーに干された布おむつが風でくるくると回って「ここに赤ちゃんがいますよ」と教えてくれた時代でもありました。時の流れの速さや変化に戸惑うことも多い昨今ですが、季節の行事に触れるとやはり心が和みます。”(4月30日付け中日新聞9

 愛知県愛西市の主婦・日比野さん(63)の投稿文です。昨年引っ越してこられたボクの近所で今年こいのぼりが立っていた。季節を感じた。また小さい男の子がいることも分かる。何かその家庭に触れた気がして、心が和むのは、日比野さんと同じである。
 最近はこいのぼりを見ることも少なくなった。子供が減ったせいもあろうが、そういう習慣が減ったことが大きかろう。最近話題になるのは、不要になったこいのぼりを集めて、公園や街に何十匹も泳がせる風景である。それもいつまで続くだろうか。日本の伝統行事が廃れていくのは、こいのぼりばかりではない。あらゆるものと言っていいだろう。こうした伝統ばかりでなく、日本は先進国と思っていたが、いつの間にかその順位を落としている。日本はどこに行くのだろう。


(第3144話) ヨモギ

2021年05月23日 | 出来事

 “晴れた朝、散歩をしていると草を摘んでいる婦人に出会いました。「何を摘んでおられるのですか?」と尋ねたら「ヨモギですよ」と日焼けした女性の顔から笑みがこぼれました。「よもぎだんごを作ろうと思って・・・」とも。思わず私も「懐かしいですね」と返しました。
 戦後間もなく母は田のあぜに自生するヨモギを摘み、団子を作ってくれました。できあがると仏壇に供えた後、家族でいただきました。お菓子などあまりない時代です。少し薬草のようなにおいながら独特の食膳がする素朴な団子は、わんぱく少年の胃袋を喜ばせるには十分でした。遠い昔のあの日がよみがえってきました。”(4月29日付け中日新聞)

 滋賀県愛荘町の自営業・青木さん(男・81)の投稿文です。思い出に残っている植物を時折取り上げている。ヨモギももう記憶の中の植物である。でも実際には今も生えていて、雑草として時折抜いている。青木さんも、母親がヨモギ団子を作ってくれた思い出があった。ボクはよもぎ餅である。米と一緒に突き込むのである。小学生の頃のことであろうか。
 この「話・話」 では、土筆やセリや果実の話も取り上げた。先日はタニシを取り上げたし、イナゴの話もした。昔はいろいろなものを自分でまかなった。こんなことをした理由は何であろうか。あまりものを売ってなかった、買う余裕がなかった、などであろうか。自然が豊かであった、こともあろう。いろいろあろうが、ボクに一つはっきり言えることは、時間的余裕があったからである。自分でこういうものをまかなうには時間的余裕がないとできない。ヨモギもそうだ。栽培している訳ではない。探して取って、整理するには時間がかかる。豊かになるとは、時間的余裕を持つのもその一つである。本当に豊かになったのであろうか。


(第3143話) 街清掃40年

2021年05月21日 | 活動

 “ちり取り、ほうき、スコップのような形状の十能を手に早朝の街に出掛けます。溝の落ち葉やマスク、弁当の食べかすなどを拾っています。車にはねられて死んでいた猫を見つけ、花を手向けて手を合わせたこともありました。
 ごみ拾いを始めたのは思えば、近所の内科医に「大変でしょうから、お掃除を手伝わせてください」と申し出たことがきっかけでした。あれから四十年。ずっと私を見てくださった先生は数年前に逝ってしまわれ、今も空から私を見守っておられることでしょう。街を奇麗にしようと、私みたいに落ちたごみを片付けている人もいるのです。皆さん、ごみは絶対捨てないでください。”(4月27日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・村瀬さん(80)の投稿文です。ごみ拾いの話もよく取り上げている。身近にできるいいことである。村瀬さんは、近所の医院のしているごみ拾いを見て、手助けを申し出られたのである。医院やお店が自分の家の周りを綺麗にするのは、ある意味当然である。綺麗にしてお客を迎えたい。汚かったら客も来ないだろうし、感じも悪かろう。当然するべき人の手助けを申し出るのはまた違う。人が苦労をしている、少し手助けをしよう。そうして続けている間に、活動範囲は広まった。そうしてもう40年である。こうなるともう表彰ものである。少し見方を変えると、そして続けると、とんでもない成果となる、そんな見本の気がする。
 村瀬さんはもう80歳である。こうした文も投稿される。心身共に元気なのだろう。この元気さはこのごみ拾いがもたらした気もする。善因善果と言う言葉もある。


(第3142話) 3年辛抱だ

2021年05月19日 | 意見

 “駅のホームで真っ白のワイシャツを着て、首周りにかなりの余裕がある新入社員とおぼしき男性を見掛ける時季になった。思い出すのが四十二年前、今よりも体重が十キロ以上少なかった私自身だ。支給された制服のワイシャツを試着して腕を通すと首周りはぶかぶかで、担当者から「制服に体を合わせろ」と言われたものだ。何と理不尽なと思ったが、実際三年もしないうちに私の体はぐんぐん大きくなり、制服にフィットするまでになった。
 感染が拡大する新型コロナウイルスの影響で新社会人となった皆さんは大いに苦労したはず。「石の上ではないが、三年は辛抱して頑張れ」と心の中でエールを送っている。”(4月26日付けちゅ)

 愛知県一宮市の会社員・布村さん(男・64)の投稿文です。このコロナ禍、誰にも辛いでしょうが、特に新入社員や新入学生には辛いだろうと思います。ただでさえ何も分からない状況で、更に顔を合わせて教えてもらうことができない。リモートでは限度があるでしょう。
 布村さんは3年辛抱と言われる。新入社員の離職について少し調べてみると、いろいろな統計が見つかる。学歴を問わず、1年で15%、3年で30%以上という数字が見つかる。受験勉強も就職活動も、この就職のために頑張ってきたのにである。理由は思っていた仕事と違った、やりがいがなかった、会社の環境になれなかった、などいろいろある。新入社員など、最初から満足な仕事などさせてもらえることは少なく、不満など探せばいくらでもみつかる。ボクは石の上にも3年は、実にいい言葉と思っている。3年くらい見ないと本当のことは分からない。早めの転職を勧める言葉も聞くが、安易に乗らない方が良いと思っている。


(第3141話) 俳句の風

2021年05月17日 | 行動

 “月日のたつのは早いものである。特に私の年になるとなおさらで、若い頃の一年が、今は三ヵ月ほどに思える。思えば四十年も前であろうか。私が初めて「くらしの作文」で自分の文章を目にしたのは。お題は確か「うちわの風」。幼い頃に弟たちと川の字になって眠るのを父が団扇であおいでくれていたことをつづったものであった。
 当時は作者の住所が記載されており、私の所にもいろいろな方から温かいお手紙を頂き、大変うれしかったことを覚えている。そして、その中に俳句の結社からのお誘いが二、三件あった。その頃の私は三十代。子育てに追われる毎日で、まして俳句など難しいことと、お断りさせていただいた記憶がある。
 それから三十年ほどして近所で俳句教室が開かれることになり、私は六十の手習いとして恐る恐る俳句を習い始めた。そして今ではどっぷりと俳句にはまっている。今思うと、なぜあの時のお誘いを受けなかったのかと後悔することもあるが、勉強することに早いも遅いもないと自分に言い聞がせて、老化防止と銘打ち、下手な俳句を詠んでいる。コロナ禍の今、仲間と吟行はできないが、一人でも頑張ってみよう。
  「川の字に寝かせて父の団扇かな」”(4月25日付け中日新聞)

 三重県伊勢市の主婦・永納さん(74)の投稿文です。六十の手習いで俳句を始められたと言う話である。そして、今やどっぷりはまっていると言われる。これはこれで良かったと思う。
 ボクが人には毎日のようにチャンスが訪れる。それをどう受け止めるか、それが別れめである、と昔から言ってきた。訪れたチャンスに少し乗ってみるか、全く無視するか、大きな違いなってくる。永納さんは、30代の時に俳句に誘われた。その時は、忙しいからと言って断られた。その時始められ、今も続いていたら凄いことになっていたろう。
 実はボクはこのチャンスに乗ったのである。ボクはその時、35歳、川柳であった。永納さんと俳句と川柳の違いはあるが、全くと言っていいほど同じである。そして、ボクは今も続けている。ただ凄いものにはなっていないが、ボクは続けていることが肝心と思っている。挫けそうになるときがいくつもあったが、続けてきて良かったと思っている。


(第3140話) 赤いチューリップ

2021年05月15日 | 活動

 “自然豊かな山あいの町の入り口にあるわが家には、結構な往来のある道路に面した畑があります。四世代同居のにぎやかだった頃から、姑が上手に野菜を作っていた広い畑です。
 時が流れ、夫婦二人になってからは、広すぎる畑をどうしたものかと考えました。思い付いたのが、チューリップです。畑の隅に咲いていた赤い花の球根を、徐々に百、三百、五百球と数を増やしました。草取りをし、掘り上げや植え付けには夫の力を借ります。「毎年楽しみにしているよ」との皆さんの声の力をもらって、千、千五百、そして今年は二千球のチューリップが無事に満開を迎えました。道路に並行して畑の隅から隅まで続く、真っ赤な花の道です。とてもきれいに咲きました。
 車を止めて声を掛けてくださる方、ウオーキングで立ち寄ってくださる方、お手紙をくださる方たちがいて、私たちもうれしく思います。さっそく、孫たちにもメールで写真を送ります。チューリップの花言葉は「思いやり」。中でも赤い花は「愛の告白」だそうです。私たちから地元の皆さんへの愛のお届けとしましょうか。花を愛でながら、もう来年のことを考えています。”(4月24日付け中日新聞)

 岐阜県瑞浪市の安藤さん(女・64)の投稿文です。5月5日に芝桜の話を紹介したが、今度はチューリップである。そして、またまた凄いのである。広すぎる野菜畑をチューリップ畑に変えようと、チューリップの球根を100、300、500と増やしていき、今や2000球という。商売ではない。しかし、費用はかかける。もう個人趣味とは思えない。「毎年楽しみにしているよ」との皆さんの声の力をもらって、と言われるが、並大抵のことではない。ここまで来るのに何年かかったであろうか。花の咲く寿命は短い。数週間であろうか。そのために1年間の苦労がいる。人様々と言うが、全く素晴らしい。
 芝桜の時に書いたが、ボクも少しの努力はしている。少しの努力である。案山子は衣替えをした。


(第3139話) サプライズ計画

2021年05月13日 | 行動

 “十一月七日で結婚四十周年を迎える。三十周年のときは妻に「感謝」の札を付けた花束をプレゼントした。今回はどうしようか?
 三重県内でNHKのど自慢の収録があることを知り応募した。家族には内緒で出場し、自身の結婚式で披露した「ふたり酒」を歌ってびっくりさせてやろう。テレビを通して妻に感謝を述べようと考えたのだ。カラオケに通って練習するも、年を重ねたからか声は出ず、音程はずれる。これでは駄目だ。日に日にむなしさを覚えていたら、「不採用」のはがきが届いた。
 こんなサプライズ計画を、妻に明かしたら大いに笑われた。残念だが、練習したかいあってか、歌唱はほんの少し上達したかな。そう思う今日この頃だ。”(4月22日付け中日新聞)

 三重県いなべ市のアルバイト・近藤さん(男・69)の投稿文です。こういう話を聞くと、ボクは自分の至らなさを思い知る。30周年も40周年も、何もした覚えはない。そして50周年は昨年であったが、食事を一緒にしに行き写真は撮ったが、それ以上のことはしていない。もちろん、プレゼントはしていない。妻にプレゼントをするという発想がないのだ。もちろん威張れることではない。しかし、妻は望んでいるのだろうか。そうとはとても感じられない。そう思うことが、分かっていないな、と言われるかも知れない。
 ボクは妻には非常に感謝しているし、死ぬときには結婚してよかったと言うだろう。今でも特に感じるときは、社会活動をしているときである。活発に活動している人も、ほとんどは夫婦の一方である。夫婦2人で活動をしている人はあまり見かけない。ところは我が夫婦は、昔から多くのことを一緒にやってきた。点字も川柳もそうであった。今は特に老人会のことである。我が村の老人会に3つの趣味のクラブができたが、いずれも妻は役員になっている。ボクは2つの会長である。