“近所のスーパーヘ高校一年生の娘と買い物に行きました。レジに並んでいたら私たちの前にいた女性が小銭を落としました。私や店員は全く気付きませんでしたが、娘はその始終を見ていたようで床の五十円玉を拾い、買い物袋に荷物を入れていた女性に声を掛けて手渡していました。思春期特有の照れもなく、きちんとした対応ができた娘は頼もしく思え、「今日の一日一善ができたね」と褒めました。
私たちが購入した品を買い物袋に詰め終えたら、先ほどの女性がやって来て娘に袋を差し出しました。「先ほどはありがとうね。本当にその気持ちがうれしくてね」。袋には焼きたてのたい焼きが入っていました。「こちらこそ申し訳ないです」と親子で恐縮していると、「気持ちだから」と何度も言って最後は笑顔で立ち去って行きました。娘とたい焼きをおいしくいただき、心までほっこりしました。”(1月8日付け中日新聞)
名古屋市の主婦・水谷さん(50)の投稿文です。娘さんのこの一善はいいと思う。でもお金を落とした人を見たら、教えてあげるか、拾って渡すことは当然に思える。そこまでしない世の中になっていたら、どんな日本になってしまったかと暗澹とする。
ボクがこの文で思ったことは、この拾って貰った女性の行為である。何歳くらいと書かれていないので分からないが、ボクが想像するに高齢であると思う。高齢者は若い人に親切にされると、本当に嬉しいのである。それで拾って貰ったお金より高い鯛焼きを買ってあげることになるのである。
高齢者と一口に言っても、全く様々である。全く元気な人もあれば、動けない人、認知症の人、また亡くなる人など、60歳を過ぎればもう年齢ではない。その人の与えられた宿命である。そして高齢者は日に衰えである。1日1日衰えていく。世間も狭くなる。人と接することも口を開くことも少なくなる。そうした中で、親切にされると本当に嬉しいのである。特に若い人から親切にされると嬉しいのである。電車の中で席を譲られたなどは典型である。水谷さんの嬉しさはよく分かる。