TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

再び平戸へ 山鹿光世氏と歌人吉井勇

2022年12月27日 | 吉井勇
平戸に行ってきました。今年2回目です。
1回目の4月に訪れた時のブログに、ワンゲルの後輩Y島君からコメントをもらっていました。
その中に「山鹿市長の祖先は、忠臣蔵でも有名な山鹿素行の山鹿兵法の伝承者」と書いてあったことが今回の平戸行きの理由の一つとなりました。

山鹿市長は河内峠に吉井勇の歌碑を建てられた方ですが、その祖先が山鹿素行だということをコメントで初めて知ったのです。ルーツが山鹿素行とわかったことで、平戸を詠んだ吉井勇の歌の中でこれまでスルーしていた歌が急に輝きを増してきました。歌の背景が分からず理解できていなかった歌でしたが、現地に行けばさらに何かが分かるだろうと思い、再び平戸を訪ねたのです。


まずは陣太鼓の歌

山鹿流の陣太鼓鳴る音らしも夜半すさまじき風もてくるは 


歌碑の除幕式は前夜からの暴風雨で大変だったことは知っていました。

「昭和32年7月5日、筑前平戸の河内峠の上に、わが歌を刻める巨碑建ちて除幕式あり、折からの烈しき風雨はさながら平戸男の子の意気を見るがごとし、その前夜よりの即興の作」(「筑紫旅情 『平戸の雨』」)

「山鹿流の陣太鼓」については何のことか分からずあまり気に留めずスルーしていましたが、山鹿市長のルーツがあの山鹿素行となると解釈がちがってきます。
松浦資料博物館にその「山鹿流押太鼓」が展示してありました。山鹿流では陣太鼓を打ち鳴らして兵を威勢よく押し出すことから「押太鼓」と言うそうですが



その説明文


忠臣蔵討ち入りの陣太鼓のイメージでいたらとんでもありませんでした。手持ちの太鼓でなく、一人が背負い、もう一人が打ち鳴らすという二人掛かりの勇壮なものでした。
激しく降る雨を、市長の祖先である山鹿素行の兵法を引用して詠んだ歌だったことが山鹿流陣太鼓の実物を見てより深く理解できたのです。

松浦資料博物館には山鹿素行についての展示物もありました。(館内はストロボなしでの撮影可)


素行の弟・山鹿平馬は平戸藩の家老、また孫の山鹿高道は江戸浅草にあった素行の家塾「積徳堂」を平戸に移して松浦候に仕え、その末裔が山鹿光世市長になります。




除幕式当日も暴風雨だったようで次のように詠んでいます。

宗達の風神雷神わがために来しやとおもひ空を見上ぐる


私が河内峠を訪ねた日は晴れていました。
河内峠に建つ歌碑


大きな石碑を建ててもらい、吉井勇は「空前絶後」と喜びを表しています。



山きよく海うるわしとたたえつつ旅人われや平戸よくみむ






歌碑が建つ平戸市川内町には千里ヶ浜がありますが

鄭芝龍住みしころよりいまもなほ千里ヶ浜に波の寄る見ゆ

「鄭」の字が読めなくてスルーしていた歌でした。
自分の無知をさておいて、なんでこんなマニアックな人名を吉井勇は知っていたのだろうなどと思っていましたが、この歌が詠まれたのは歌碑が建つ前の年で、吉井は山鹿光世市長から平戸に招待されています。その時に平戸の歴史にも詳しかった山鹿市長から鄭成功やその父である鄭芝龍の話を聞いて河内町の千里ヶ浜を訪れたと思われます。

鄭成功は平戸生まれで、1661年に台湾を当時支配していたオランダから解放した英雄です。その記念館が生誕の地である平戸市河内町にあります。


鄭成功記念館


鄭成功と平戸の関係



道路からも目立つひときわ大きな「鄭成功門」


反対側から見ると


門の向こうには海が広がります。
千里ヶ浜です。



鄭芝龍住みしころよりいまもなほ千里ヶ浜に波の寄る見ゆ



吉井勇が千里ヶ浜を訪れたのは、山鹿光世市長から招待を受けた昭和31年のことです。そのとき山鹿氏と吉井勇は親交を深めたのでしょう。

吉井勇は山鹿市長も平戸の歌の中に詠んでいました。


このあたり対馬も見ゆと示すなり山鹿市長は太指をもて 
「平戸遊草」

したたかにウヰスキー飲み眠りけむ山鹿市長の夢に降る雨  「筑紫旅情 平戸の雨」
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安満岳(長崎県平戸)

2022年12月24日 | 山(県内)

安満岳(534m)は長崎県北部の平戸にある山で、春日集落の人たちが信仰の山として崇めた山です。安満岳はキリスト教が伝わる以前から山岳仏教信仰の山でしたが、禁教時代もキリスト教と併せて拝まれた山だそうで、2018年に潜伏キリシタン関連の世界遺産に登録されました。


写真下に「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」とあります。





春日集落


棚田の脇に、安満岳への道があります。


その説明板


春日集落から登った方が山のよさがわかるのでしょうが、説明板の「道路整備により、現在はその中腹まで車で移動できるようになりました」にしたがい、車で登山口に向かいました。


登山口駐車場


駐車場奥に何やら軽トラが集結、近くで工事?

トイレ


現在地



登り始めてすぐのところ


石の門柱らしきものにカバーがしてありました。
傷つけないようにかな?

鳥居に到着


鳥居の横に、昭和44年の長崎国体「炬火採火の地」の石碑が建っていました。

ここからの道は昔の面影をとどめていました。







歴史を感じさせる石の道


苔むした参道が続きます。
信仰の道です。



再び鳥居、白山比賣(白山姫)神社です。


シートに覆われ何やら工事中のようです。

かろうじてバランスを保っている石灯篭


ロープで補強(吊っている?)鳥居


社が工事中でした。(白山比賣神社は718年創建)


境内には、春日集落の潜伏キリシタンが「キリシタン祠」と呼んでいた石碑があります。

 

この境内の裏が山頂で、一気に視界が開けます。





橋の向こうに見えるのが生月島です。

そして春日集落の棚田も見えています。


南に目をやると


屏風山、その奥に志々伎山が見えています。



なお、この山頂は春日集落側は断崖になっていますので、春日集落からはぐるっと巻いて登ることになります。

山頂からの展望を満喫し帰路につきます。



社の工事のために道ができていました。


資材を運ぶための道みたいですが、試しにこの道を帰ることにしました。


石の参道と比べたらはるかに歩きやすいのですが味気ない道です。

YAMAPに軌跡が残っています。


右上が石の参道で、左下が新しい道です。




駐車場に到着


車が増えていました。
タクシーは山頂で一緒になった人が待たせているもので、沖縄から来たとのことでした。
来た時にも止っていた奥の方の軽トラは、社の工事をする人たちのでした。

ここの駐車場からは往復で2.3㎞、標高差160mと手軽に登れました。
機会があれば春日集落から標高差500mを、信仰の歴史を感じながら登ってみたいと思っています。

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上山もうっすらと雪化粧

2022年12月23日 | 上山の四季
12/23 諫早もうっすらと雪が積もりました。
いつもは夕方に歩く上山ですが、せっかくの雪なので今日は午前中に、雪が解けないうちに歩いてきました。

出発は北口にある天祐寺です。



うっすらと雪化粧しています。






北口の池


池にはふだんいないカモが来ていました。


ここに避難してきたのでしょうか…

ここから山頂を目指して歩いていきます。



雪の舞う山頂


帰路






再び天祐寺





新年を迎える準備ができていました。

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猫対策

2022年12月22日 | 日常
「猫対策」と書くと愛猫家からお叱りを受けそうですが、猫が嫌いな人もいます。
知り合いにはカエルが怖いという人がいましたが、彼女はカエルを見るだけでなく、「カエル」と耳にしただけで怯えていました。ヘビが苦手という人は割と多いようですが、私もその一人です。
このように、苦手な動物は人によって違いますが、私の連れは強度の猫恐怖症です。一緒に歩いていて猫に出くわすと、連れは固まって一歩も動けなくなります。

そんな猫嫌いな連れに追い打ちをかける「ネコノミ事件」が去年、今年と続けて発生しました。昨年の夏、二人の手足に赤い発疹ができて、それは寝られないほどの痛痒さをともなうものでした。皮膚科を受診し、原因がネコノミとわかったのです。全治に1週間を要しました。それ以来、連れがますます猫を怖がるようになったので実家の猫対策が必要になりました。


私の実家は両親が亡くなってからはふだんは住む人がなく、空き家状態で、庭や家の周辺が猫の楽園になっていました。裏の小屋などは隙間から入った猫がそこでお産をするほどです。今年も2匹の雌猫から合計で10匹の子猫が生まれました。
猫が増えると猫に付着するネコノミが増えるので一大事です。

まず市役所に相談したところ、丁寧に保健所を紹介されました。保健所に相談したら「猫が住み着かないようにしてください」で終わりました。「捕獲は犯罪です」とも。
それならば自衛しかありません。
猫が住み着かないように、次の対策をたてました。

【 猫対策 】
1 家周辺の片づけ。猫が身を隠すようなモノを徹底除去。
2 猫が侵入する小屋の隙間をふさぐ。
3 猫が近づかないように忌避剤の散布。
4 猫を見たら追い払い、ここはもはや楽園ではないことを学習させる。

方針が決まったら実践あるのみです。

1 家周辺の片づけ
今年、実家の改修にともない、家は勿論、小屋の周辺も猫が隠れそうなモノは全て片付け見通しをよくしました。

対策前


対策後



2 小屋の侵入経路の遮断
以前ブタ小屋だった裏の小屋は壁の上の方が空いていて、そこから猫が出入りしていました。ある日、猫の鳴き声がしていたので戸を開けてみたら5匹の子猫と目が合いびっくりでした。連れが見たなら卒倒したかもしれません。幸い猫は子猫を連れてどこかに屋移りしてくれましたが、あの隙間をふさがないことにはイタチごっこならぬネコごっこと思い、隙間を板とネットでふさぎました。


梁と屋根の隙間

ネットで


ベニヤ板で




3 忌避剤
忌避剤は撒いたすぐは効くのですが長続きしません。臭いが薄れるのとその臭いに猫が慣れるので、商品を変えながら定期的に散布しています。ネコノミの消毒薬と合わせると結構な出費になります。

芝生にマーキングされた猫の糞


生乾きを踏みつけたら臭いマックス!

そこで忌避剤


薬を変えながら


ネコノミの消毒薬

左のND-03は1本9000円…

ネコノミホイホイ




4 追っ払い
以前は猫に対して寛大でしたが、ネコノミ被害にあってからは仏心を捨てました。しかし、実家は留守にすることが多いので私がいないときは依然として猫たちの憩いの場になっているようです

日向ぼっこする猫


ネコノミさえ増えなければ庭ぐらいと思うのですがそうもいきません。
見かけしだい、心を鬼にして追い払っています。

「鬼が来た!」と、私を見て猫は思っていることでしょう。


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夏野菜から冬野菜へ

2022年12月17日 | 畑・園芸・工芸・片付け
がんばってくれた夏野菜、今年最後の収穫を終えました。

ナスとピーマン


まだ花は咲きますが…


ピーマンもすずなりですが…


12月に入っても実は付きますが大きくなりません。今日を最後の収穫としました。






次に、冬野菜の状況です。

ホウレンソウ





大根(「三太郎」というミニ大根)





白菜





キャベツ


やっと巻きだしたところで収穫はもう少し先です。


ブロッコリー





タケノコイモ


霜が降りるので、近いうちに全部収穫します。

野菜ではありませんが


畑の隅で彩を添えてくれています。



そして白菊


4年前、父のお供えの花を挿し木にしていたものですが、今年も咲いてくれました。

父が見守ってくれているようです。

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上山(122m)の紅葉 ’22

2022年12月16日 | 上山の四季
諫早市内にある上山(標高122m)は今が紅葉の見ごろです。

県立総合運動公園(南口)から登りました。

登り口周辺


これは季節外れの桜の葉です。

もみじ


つた


登り口のメタセコイヤ


ハゼ



山頂手前から右に分かれてツツジ園を目指します。
上山の紅葉は、このツツジ園が一番密です。





まだ黄色いモミジ




ここにも人知れずメタセコイヤ











ツツジ園から北口に下ります。









これより、再び山頂を目指して登り返します。

少しだけ色づいています。
赤くなるのはこれからです。

登る途中にポツポツと点在




山頂を超え、再び運動公園へ




運動公園の南口に戻りました。


公園周辺の紅葉は終わっているのですが、山の中は今が紅葉の盛りなのです。

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多良海道を往く

2022年12月11日 | 街道
コロナで一時中断していた史跡見学(諫早市美術・歴史館主催)に久々に参加し、多良海道を諫早から肥前長田まで歩いてきました。その中で特に印象に残ったことを紹介します。

1 諫早神社(明治の神仏分離前は「四面宮」と言っていました)

本殿


側面の木の壁


これがナント、一枚板!


元の木はどれだけ大きかったことか…
境内のクスノキも大きいのですが、あれほど大きな板はとても取れません。

クスノキ群(県指定天然記念物)



手水鉢


手を清める手水鉢ですが、水ではなくアルコールが置いてあります。
さらに、木彫りのアマエビ様も


近い将来、お手水鉢に水が流れ、アマエビを指しては「コロナ時代の名残だね」と言える日が来てほしいものです。

参道の石


参道に並んでいる石のことがわかりました。
等間隔で埋めてある石は、元は本明川の飛び石だったそうです。昭和32年の諫早大水害で流されていた石を、後の河川改修工事のときに発見し、諫早神社の参道に埋めたそうです。
今の飛び石は水害後に新たに置かれたものだそうです。

今の飛び石






2 慶巌寺

摩崖仏所三十三観音


中には色が残っているものもあります。



山門


この山門は元は四面宮(今の諫早神社)の境内にあった荘厳寺のものですが、明治の神仏分離令により荘厳寺は廃され、山門だけが慶巌寺に移されたそうです。

中央部をよく見るとお猿さんのレリーフが施されています。


お猿さんが食べているのは桃で、これは不老不死を表しているそうです。


3 安勝寺

時鐘楼


黄葉した銀杏


紅葉



4 寄り道
安勝寺の後、多良街道から少し外れて寄り道をしました。

珍しい恵比寿様のレリーフ


鯨塔

諫早で鯨が獲れていた名残の石碑です。

龍宮

水神? 海神?

野呂邦暢宅跡




諫早市を舞台にした小説や随筆を多く残した芥川賞作家の野呂邦暢氏の終の棲家跡。諫早愛がにじみ出ている「諫早菖蒲日記」や「落城記」はこの地で誕生しました。

光江津


河川改修で姿が変わったと思いますが、江戸時代ここは重要な河口港だったそうです。佐賀までは、陸路だと3泊4日かかるのが、船だと天気にもよりますが14~15時間で行けたそうです。ただし、干満の差が大きい有明海なので、満潮時しか船がつけられず、上げ潮入船、下げ潮出船だったそうです。

「光江」の地名を残す石碑

「旧地名 光江」


5 妙本寺

多良海道沿いの石段を登って妙本寺へ


そこは見晴らしのよい高台になっていました。


私のホームマウンテン上山もバッチリ見えています。それもそのはず、ここは昔の山城の跡に建てられたお寺だそうです。

新しい観音様も建てられていました。


大きい!


美しい!



6 肥前長田駅
長田にある天満神社も見学する予定でしたが、帰りのJRの時刻が迫ってきたのでパスすることになり肥前長田駅へ。



肥前長田駅の時刻表


14:49発で帰りましたが、これを逃したら次は17:17なので見学地を一つパスして正解でした。
多良海道はこの後、湯江、多良、浜、鹿島、牛図、佐賀へと伸びていて、今回歩いたのはその一部でした。
続きはまたの機会に。
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長崎探訪⑨ 丸山「五足の靴」の足跡を辿るなかで

2022年12月08日 | 吉井勇
「五足の靴」の足跡を辿って長崎の街を歩いています。
今回は「五人連れ」が宿泊した上野屋旅館周辺と丸山を訪ねました。

眼鏡橋


長崎に多き石橋また今日もわたりてゆきぬ支那寺を見に(歌集「旅塵」)

この石橋をかけたのは支那寺興福寺の2代住持黙子如定と伝えられています。その黙子の像が橋の横に建てられていました。



次に向かったのが上野屋旅館跡です。
上野屋旅館は当時は長崎を代表する大きな旅館だったそうですが、原爆で倒壊して今はありません。現在は旅館の跡地に長崎家庭裁判所が建っています。

上野屋旅館跡


上野屋旅館跡地の近くに「五足の靴」の記念碑が建てられています。

「五足の靴碑」


石碑


説明板



五人連れは旅館で一服した後、長崎の夜の巷にくり出したようです。
その足どりについては、鶴田文史氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」(「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」)を参考にさせてもらいました。


夕刻の出島を通り





支那街を抜けて






この説明板の中に「吉井勇」の名を見つけることができました。


唐人屋敷跡を見て



そして丸山へ


上の写真は丸山町交番ですが、このあたりに花街の二重門があったそうです。

説明板





五人連れが接待を受けたであろう丸山花月

「花月」




奥に進むと


残念ながら予約客しかこの先には入れません。



丸山公園に当時の写真がありました。



「五足の靴」のときの歌ではありませんが、

長崎の丸山の夜の辻をば四つ竹鳴らしゆくは誰が子ぞ

ぎやまんの大酒杯を手に取れば寛濶ごころおさへかねつも

忘るなと口疾に云ひて丸山のたはれめが挿す玳瑁の櫛

かりそめにかき抱けどもしみじみとかなしきかなや夜の女は

―以上歌集「夜の心」長崎紀行より―



翌日「五人連れ」は11時に茂木港を出港していますので、長崎滞在は一日だけでした。さぞかし密度の濃い長崎だったと思いますが、後日次のように嘆いています。

「長崎、長崎、あの慕かしい土地を何故一日で離れたらう。顧みて云ひ知らず残り惜しい」
(「五足の靴」(一七)熊本)


明治40年の「五足の靴」での長崎訪問が強烈な印象を吉井勇に与えたのでしょう。その後、十数回も長崎を訪れ、たくさんの歌を詠んでいます。

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お家でキャンプ

2022年12月04日 | 山にまつわる話
この週末、わが家(実家の方)で息子と甥がキャンプをしました。
計画では加津佐のキャンプ場でする予定でしたが、天気が悪くなりそうということで、雨のとき避難が容易なわが家の庭に変更したのでした。

元ワンダラーの私としては、アウトドアに雨はつきものだろうと思いながらも、これも時代の流れかと庭でのキャンプを了承したのです。

今回はそんな、息子や甥のお庭キャンプの様子です。


テント


ソロ用のテントをそれぞれに設営


さっそく昼飯


お手軽お鍋


これなら簡単!


今度、私も車中泊時のメニューに加えることにしました。





その頃、私は裏の畑で野良仕事。

サツマイモを収穫した後、乾燥させていた芋がら



その芋がらを燃やしていら、そちらに興味を示し


いつの間にか裏の畑にセットが移動


やっぱり直火の焚火はイイ!




どうせ燃やすのならもっとワイルドにと、以前切り倒していたそのまんまの木を提供





結局、お家でのキャンプは庭から裏の畑へと会場が移ったようです。
(以降は息子が送ってくれた写真です)

日が暮れて


焚火で暖をとりながら


夜が更けていきました。






お家でのキャンプも、庭よりも畑の方が野趣に富み面白かったようです。
それはそうですね、キャンプはそもそも自然の中でするものですから。








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再び崇福寺へ 長崎探訪⑧

2022年12月02日 | 吉井勇
吉井勇が若き日に旅した「五足の靴」の足跡を辿るなかで崇福寺を訪ねたのですが、日が経つにつれ、無性にもう一度行きたくなったので昨日、再び崇福寺を訪ねました。
1回目に見落としていたところなど新たな発見もありました。また、売店の方とお話ができ、いろいろなことを教えてもらったことも収穫でした。

ただ、勇んで再訪したものの愛用のカメラを忘れるといいう失敗をしてしまい、今回の撮影はすべてスマホになってしまいました。ピントが合ってない写真もありますが、多くの写真を使って崇福寺の魅力をあらためて紹介したいと思います。



この赤い門が出迎えてくれます。「竜宮門」という言い方が直感的で好きなのですが、門が3つあるので「三門」ともいいます。

右の門


「吉祥」(めでたいことが起きる兆し)と書かれています。


左の門には「如意」


如意は、辞書によると「物事が自分の意のままになる不思議な力」という意味だそうです。


門の手前には唐寺らしく唐獅子が一対置かれています。

右 バックに「吉祥」


左 同じく「如意」



門の取っ手


これも唐獅子で不埒な考えを持っていると手を嚙まれそうです。現在はめてあるのはレプリカと聞いて安心しました。本物ならこれを盗んでいく不埒者もいるからです。

そして扁額


左に「隠元書」と確認できます。「三顧の礼」ならぬ4回の招請を受けて明から渡海されたあの隠元和尚の筆です。


こんな感じで、今回は「五足の靴」関連ではなく、崇福寺そのものの魅力をじっくりと紹介していきます。興味がある方はお付き合いください。


建物の位置関係がわかるように、あらかじめ「諸堂配置図」を紹介します。

(パンフレットの「崇福寺縁起」)


三門より長い石段を登っていきます。

高い角度から見る三門もこれまた趣深い!


石段の横にはいろいろな壁があります。


よく見ると、中国で縁起がいいとされる桃のレリーフが施されています。


石の隙間を埋めている漆喰がいい味を出しています。

中にあるお堂

屋根に生えた草がこれまたイイね!


そして、あの「第一峰門」



これやこの朱塗りの壁の唐づくり沙門即非の額のある寺(吉井勇)


扁額


左に「即非」のサイン
にわか即非ファンの私にはたまりません。

周囲は四手先三葉栱の精巧な組み物



門の裏に回ると


これまた中国で縁起が良いとされる牡丹とコウモリのレリーフがしてあります。
ゴージャス!


もったいないので、もう一度表に回りました。


門の右側に書かれているのは
「天宮海闊無雙地」
意味は「佛の心は天海のごとく広いまたとない処」だそうです。売店の方に教えてもらいました。

同じく左側は
「虎伏龍帰不二門」
意味は「虎が伏して龍が帰ってくる二つとない門」


反対側の扁額


さて、この意味は…
私なりには「海」は仏法界の法の海、「境」は寺の境内の意として、修行するには「天にもにた華のような適地」と解釈したのですが、詳しい方がおられたら教えてください。


護法堂



あそこにも「コウモリ」



関羽堂

「三国志」の英雄・関羽が祭ってあります。
ただ、関羽は「美髭公」と別名があるほど長く美しい髭がトレードマークなのですが、この関羽には髭がないように見えるのですが…。写真でも暗くて確認できません(ピンぼけ)。

観音堂



天王殿

きりりとした韋駄天が祭ってあります。


鐘鼓楼







唐寺の鐘の音にもうなだれてさすらいびとは涙ながしむ(吉井勇)


大釜


長崎が大飢饉に襲われた際にこの大釜で粥を炊いて多くの難民を救ったそうです。この大釜は一度に3000人分の粥が炊けたそうです。詳しくは下の写真に。



釜には「崇福禅寺」の文字




媽祖堂門


ここにも「コウモリ」



大きな魚板がありました。
場所がパンフレットの「諸堂配置図」に載っているぐらいなので有名なのでしょう。




もの思へば魚板の音もうらがなし海西法窟の春のゆふぐれ(吉井勇)


この魚板には作られた日が刻んでありました。


「辛卯」
さて、いつの辛卯なのかと思ったら



「天保二年」と。
1831年の干支は「辛卯」で間違いありません。



媽祖堂


媽祖堂内部



隣にある開山堂



その扁額


これは前回見落としていました。これには「開祖沙門即非書」としっかり書いてあるではありませんか。にわか即非ファンの私は欣喜雀躍、思わず拳を握りしめました。

「開祖沙門即非書」


開山堂の中




大雄宝殿(崇福寺の大雄宝殿は国宝)



額の「海西法窟」は千凱の書


大雄宝殿の「大雄」は釈迦のことですので、中には釈迦如来像が祭ってあります。

(お顔は少し大陸風か)

両サイドには羅漢さん
向かって右側




左側




「十八羅漢」だそうです。



最後に立ち寄った売店


店主は中国三世の女性の方で、以前は長崎大学の近くでちゃんぽん屋をしていたそうですが、今はここでお土産屋をされています。
話をする中で、いろいろなことを教えてもらいました。第一峰門の両側の文字の意味もそうです。私と同じように尋ねる人がいるのでしょうか。次のカードを見せながら説明してくださいました。




最近は少しずつ参拝者が増えてきて良かったとも言われていました。3年前のコロナが流行りだした頃は参拝者も少なく、1日に20人程だったそうです。その時から入り口の受付は閉まったままで現在に至っています。


今も閉まっている受付


拝観料は賽銭箱へ


コロナが少しおさまりだした1年前から、拝観料は賽銭箱に自主的に入れてもらうようになったそうです。

入るときにはあまり気に留めなかった無人の受付でしたが、帰りにその横を通るときは何とも言えない悲しい気持ちになりました。

コロナの収束を願うばかりです。

1週間と間をあけずに再訪した崇福寺、今は静かにコロナの禍に耐えているようでしたが、崇福寺は吉井勇が訪ねた頃と変わらぬ魅力にあふれていました。
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