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TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

多良岳遠望

2017年06月01日 | 島原
島原半島にある国見町を通りかかったとき、海岸に黄色い花が群生しているのを見つけました。
その花の向こうには有明海をへだてて多良岳が遠望でき、すてきなロケーションです。














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ガネティブ?

2017年05月13日 | 島原
「ガネテイブ」で検索をかけたら、「ネガティブで検索しています。ガネティブで再検索。」とでた。それはそうだろう。日常会話の中で「ガネティブ」と言ったら失笑をかうか、そっとされるかのどちらかである。
私も初めて「ガネティブ」と聞いたとき、思わず訂正してあげようと思った。ところが、この「ガネティブ」を使った御仁はなかなかのやり手でウイットに長けた人だった。もっともこのユーモアが通用するのは「かに」のことを「がね」と言う地域に限定されるが…。

私の故郷島原では「かに」のことを「がね」と言う。
その取れる産地を頭に付けて「多以良がね」や「有明がね」などと言う。
とりわけ「多以良がね」は有名だ。こんな看板が出るほどに。



こんなモニュメントも




店の看板にも




電光掲示板まで


おっと、これは隣町の有明だから「有明がね」


「多以良がね」も「有明がね」もカニの種類は同じで、豊穣の海・有明海で取れるワタリガニである。子どもの頃は今よりもっと大きな「がね」が取れていたような気がする。あの頃は、近所のふなと(漁師)さんから取れたての「がね」をもらって、自分の家で平釜と言われる大きな釜で茹でて食べていた。絶品であった。最初の看板ではないが、私的にも「日本一美味しい」カニと思っている。(個人の感想です)

そのことはさておき、表題の「ガネテイブ」だが、「ネガティブ」とはちょっと違う。
ちなみに、先ほどの御仁に言わせると
「ポジティブ」は考え方や行動が前向きで、「ネガティブ」は後ろ向き。
そして「ガネティブ」は、「がね」の横ばいにちなんで横向きという。風変わりなどと揶揄されることもあるが、遊び心を持ち合わせ人と違った視点で物事を考えようとする傾向をさすと御仁は説く。
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NHK長崎が映るんです!

2017年04月16日 | 島原
長崎の隣の県は「佐賀県」なのだろうが、島原育ちの私にとっては「熊本県」である。
半世紀前、わが家にテレビがついて以来、島原は長崎県でありながらNHK放送はずっと熊本の電波を拾っていた。雲仙の山々が長崎からの電波を遮っていたからだ。

(雲仙の山々)


したがって、テレビの天気予報と言えば熊本県のそれだった。
神器とまで言われていたテレビがすることだから、そのことにあまり疑問は抱かなかった。
その結果、島原人はお山を見て翌日の天気を予報する術を自然と身に付けた。
いわゆる観天望気である。

デジタル放送になってもNHKは熊本放送だった。
長崎のNHK放送を見たかったら有線放送に入るというのが私が知っている範囲の島原人の常識だった。
友人知人が口々に「有線に入ればよかたい」と。
わが家はそんなにテレビは見ないのに、NHKの長崎放送を見たいだけで月に数千円取られる有線放送に加入するのは納得いかなかった。

そこでNHKに電話した。
「年老いた両親が野良仕事をするのに天気予報は熊本のばっかしで役にたたない。ローカルニュースも熊本!長崎放送が映らないのならNHKの受信料は払いません」と。
するとすぐに調査員が来た。
そして言うことには「アンテナがずれています」と。
「はあ?」

そしてアンテナを調整してもらった。



そしたら何と、何事もなかったかのように映るではないか。

そこで私は思ったね。
ここいらの電気屋は有線放送とグルじゃないかと。
そして声を大にして言いたい。

「島原のみなさん、有線放送に入らなくてもNHKの長崎放送は見られますよ!」と。
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千本木(せんぶき)

2017年02月12日 | 島原
千本木


これは昨年11月にアップした「言葉と笑い(嘲笑) 『「ヒルナンデス!』報道に思う」を「千本木」と改題し、一部修正を加えたものです。


11/5のネットアクセスランキング(IT・科学)1位に次の見出しが躍っていました。

「『ヒルナンデス!』で道を教えてくれた男性が『丁(てい)字路』と発言 出演者が笑う一幕にネットで批判続出」
(詳しくは上をクリックしてください)

これには2つの問題をはらんでいます。

1つめは言葉の問題
 「丁字路」か「T字路」かということです。(「ていじろ」か「てぃじろ」か)
最近は「T字路」という言い方も増えましたが、「丁字路(ていじろ)」は正しい日本語です。よってこのことについては論をまたない。

2つめはモラルの問題
 これは大きな問題です。仮に百歩譲ってまちがった言い方をしたとしても、それをマスメディアが笑いのネタにしていいのかという問題です。ましてやこの方は親切にも道を教えてくださったのでしょう。


「モラル」は、報道に携わる人だけの問題ではありませんが、マスメディアの影響の大きさを考えると、報道関係者には特に高いものが求められます。と同時に、報道には言葉や地名の正確さも当然求められるものです。


「言葉と笑い」という見出しにしましたが、ときに、笑い(嘲笑)は使う言葉を萎縮させることがあります。

以前にも述べましたが、高校のとき、私が使う三会の方言を笑う輩がいました。ましてや集団で笑われた日にはへこんだものです。クラスの中で三会出身は私一人でしたが、笑いなんかに負けない精神的な強さが備わっていればよかったのでしょうが…。気弱な私は次第に方言を使わなくなりました。
人が使う言葉をとらえて笑いものにしてはダメでしょうと、今回の「ヒルナンデス!」報道を見て改めて思いました。

さて、マスコミのまちがった報道で地名の読み方が変わった例があります。島原の「千本木」です。「千本木」は「せんぶき」と言っていました。

「せんぶき」と言う人を笑う輩がいたかどうかは分かりませんが、いつの間にか「せんぼんぎ」に変わりました。

私の方言辞典である父でさえ、先日「せんぼんぎ」と言っていたので「せんぶき」じゃと言うと
「『せんぶき』じゃったばってん、いまごらだっでん『せんぼんぎ』といわっすとたい」
「『せんぶき』だったですが、今頃は誰でも『せんぼんぎ』と言われるのですよ」

二十数年前の島原噴火災害のとき、テレビでは現地からの中継が毎日のように流れていました。そして被災者のインタビュー時には、字幕のテロップが入っていました。それを見て、ネイティブな島原弁は確かに分かりにくいだろうと島原出身の私もそう思っていました。しかし、地名は地名で、昔ながらの正しい言い方で報道しなければならないのでしょうが、急を要する事態が続いた当時は検証が間に合わなかったのだろうと思います。

千本木地区は被害が深刻で避難を強いられた地区でした。「せんぶき」が昔からの言い方だったのに、「せんぼんぎ」と字幕付きで報道されたのです。

このことは隈部守氏の「寛政地変再考」の中にも次のように出ています。

「ところで、千本木の読みは、『せんぶき』で、これは『千吹村家数三十余』という古記録を見ても気づく。しかし、現在では『せんぼんぎ』に変わってしまった。これについては草野正一氏が『雲仙火山噴火報道が変えた〈千本木〉地名の呼び方』を発表されている」(以上引用)


今の道路標識にも




「せんぶき」だったのが「せんぼんぎ」に…

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眉山のカッパ

2016年10月11日 | 島原

県立島原病院の背後に眉山が控えています。見方によっては恐い感じがします。
(この写真は8月6日に撮影したものです。)

この病院のラウンジで聞こえてきたお年寄りの会話。

「まんやまんかっぱんひどなちょらすとが」
「ほんてない」

ネイティブな島原弁は難しいです。これがテレビなら画面下に次のテロップが流れることでしょう。

「眉山のカッパがひどくなられてますね」
「本当ですね」


島原弁で「カッパ」は傷跡のことですが、この場合の「カッパ」は頭部の傷跡です。
特に頭をけがしたら傷跡には毛が生えませんので、頭部の傷跡を限定して「カッパ」と言うことがあります。
島原弁の「らす」は尊敬を表す助動詞です。島原人は山に対しては昔から敬語を使っていました。

それはさておき、本日(10月10日)眉山の崩落部分を撮影してきました。
先日のブログ「眉山 雨による浸食」で、カッパの部分のアップがなく、市報の写真をお借りしたので、今日は望遠レンズ持参で撮ってきました。






















ふだんは見ることができない山肌の内部、巨大な岩やかろうじて留まっている倒れた松の木、恐いもの見たさで望遠レンズを使いましたが自然の驚異をまざまざと感じさせられました。



最後は、土砂の流失を受け止める治山ダム


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眉山 雨による浸食

2016年10月08日 | 島原
島原の「眉山」ですが、七面山の山頂付近(5渓)の地肌の露出が気になります。


拡大したもの


さらに拡大したもの

(島原市の広報誌「広報しまばら」の、臨時号)


眉山は約200年前の寛政4年に大崩落し甚大な被害をもたらしました。
その後は、静かに島原の復興と発展を見守ってきて、今では町のシンボル的な山となっています。
今年の4月、熊本地震の折に表面が少し崩れたと聞いています。
さらに6月の大雨で表面の露出が大きくなり、島原市民の間で不安が広がりました。
その不安を打ち消すべく、市の広報誌には崩落の現状や治山対策について説明がしてありました。

「今回、発生した土石流は、治山施設および防砂施設内で収まっており、今すぐ市街地などへ危険が及ぶ状態には至っていません」とのことです。(広報「しまばら」より引用)

広報誌にはさらに次の比較写真も掲載していました。


確かに、七面山山頂付近の部分的な露出もですが、山全体に白い部分が増えているのが分かります。

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眉山Ⅱ 

2016年08月18日 | 島原
秩父が浦から見た眉山




秩父が浦は、今から約200年前、眉山が大崩壊をしたとき、大量の土砂が海中になだれ込んでできた新たな陸地と海岸です。島原大変といわれた大惨事は遠い昔のこと、そのときの名残の島々が眉山をバックに風光明媚な海岸をつくりだしています。
そのいきさつと景観を、高浜虚子が次のように詠んでいます。


  山裂けて くだけ飛び散り 島若葉






逆さ眉山



一年前は大正池の水面に映える穂高をアップしましたが、 (クリック → (「明鏡止水」)
今年は秩父が浦の入江に映る「眉山」です。


「秩父が浦」は、古い地図には「柳ヶ浦」となっていますが、大正14年に秩父宮殿下がこの地を鑑賞されたのにちなんで名前が変えられました。
今でこそ景勝地ですが、眉山崩壊は大き過ぎる犠牲を出しました。世に言う「島原大変」です。



眉山の麓に「眉山治山祈念公苑」があります。
そこに島原大変遭難者の供養と、今なお崩落を続ける眉山治山への祈りを込めて「聖観世音菩薩像」が建てられています。地元が生んだ芸術家北村西望先生の作です。


(バックの山が、今なお崩落の後が生々しい眉山)






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眉山(まんやま)

2016年08月07日 | 島原


病院のラウンジの窓からきれいに眉山が見えていました。
一緒に見ていた父が、「子どもんじぶんは『まんやま』って言いよったで」と一言。
(「子どもの頃は『まんやま』と言っていたんだよ」)
これまでも本ブログで紹介しましたが、父が使う島原弁に出てくる固有名詞には、昔からの言い方がそのまま残っています。
私は「まんやま」という言葉に即座に反応しました。

「『まんやま』てや?」
「え-。今んもんは『まゆやま』て言うばってん」


島原図書館の郷土資料コーナーで調べました。

ありました!

まず、藩政時代の地図ですが、今の眉山の表記は「前山」です。
寛政4年(1792年)の島原大変前後の記述も「前山」です。


さらに、渋江鉄郎氏が書かれた「眉山ものがたり」には、わざわざ「まんやま」とルビがふってあります。ワクワクしながら開いてみると次の記述がありました。

「島原城下から仰ぎ見るなれば、雲仙連峰の主嶺である普賢岳を奥山と呼び、その前にあるから『前山』といいならわした。これを島原人は『まんやま』と呼称している。前ん山の変化である。島原発言では『の』が『ん』になる。」(昭和50年発行)


父も、私も毎日「眉山」を見て育ちました。

わが家付近から見た山

左が眉山で、右が雲仙です。

眉山は私が子どもの頃「女性の顔に見えるね」とよく友達と話題にしていました。

昔はもう少し目鼻立ちがハッキリしていたような気がするのですが、単なる記憶ちがいかそれとも眉山の風化が進んだのか…


島原外港から見た眉山

こちらから見ると山の形は大きく変わります。

白土湖から見た眉山


島鉄外港駅付近から見た眉山


私も含め島原の人は朝夕眉山を見て育ちました。

「眉山 それは島原の温和な母であり峻厳な父でもある。幾世代この山のふところに生まれ、はぐくまれ生活して来た人びとは、愛郷と思慕の炬火として仰望して来たものである。」
(眉山治山祈念公苑整備促進期成会趣意書)

故郷の山、眉山についてはもっともっと書きたいことがありますが、また別の機会に。

【余談】
前回までのブログ「一枚の写真より」シリーズの冒頭に、「昔撮った写真が必要になりあれこれ探して…」と書いていましたが、探していたのは昔撮っていたわが家から見た眉山の写真です。女性の顔のように見える眉山の鼻が低くなった気がするのですが、昔の写真と比較すれば私の思いちがいかどうかがはっきりすると思ったからです。
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にがごり

2016年07月27日 | 島原


今は島原でも「ゴーヤ」と言う人が多くなりましたが、私が小さい頃は「にがごり」または「にがごい」と言うのが一般的でした。

あの頃「にがごり」と聞くと、その音の響き以上に口の中に苦みが走り思わず顔をしかめました。パブロフの犬みたいに…

当時のわが家の「にがごり」料理というと、「にがごり」を二つに開いてワタ(種)を取り、それを4~5㎝の短冊状に切り、ワタのあった部分に油味噌をのせて七輪で焼くというシンプルなものでした。それを祖父などはウマいウマいと食べていましたが、とても子どもの手に負えるものではありませんでした。その苦みたるや今のゴーヤチャンプルの数倍はあったように思います。





今年もたくさんの実をつけた「にがごり」は、夏に打ち勝つための栄養源です。
子どもの頃あれほどイヤだった苦みが、今では夏ばて気味のからだに、食欲のスイッチを入れてくれる何ものかに変わりました。



今、わが家ではもっぱらサラダにしています。
スライスして湯がいたものにポン酢をかけるだけの実にシンプルな食べ方です。



もし50年前の子どもの頃に戻ったとしたら、こんな苦くて青臭いものを食べられたかどうか疑問です…

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島原半島の地名4 「魚洗川」

2016年05月18日 | 島原
今回の地名は「魚洗川」



読みとしては超難解、横綱級です。

島原では「いわらご」、北目の方では「いわれご」と呼んでいます。

「魚」…「うお」を島原では「いを」と言います。
「洗」…「あらう」です。「魚洗」で「いをあらい」
「川」…「こ」 (川を「こ」と読む地名は多くあります)

「魚洗川」の上の3つの読みが合わさって「いわらご」(「いわれご」)です。

「魚洗川」の由来は、千々石で取れた魚を島原まで運ぶとき、魚が傷まないようにここの川で洗っていたとことによるものだそうです。

江戸時代、島原半島には4つの街道がありました。そのうちの一つに千々石道がありますが、これは島原から田代原を越えて千々石に通じる道です。山越えの難路ではありますが、長崎に行くには最短のルートで、坂本龍馬が通ったとも伝えられています。
さてその昔、この魚洗川には山越えの道で一休みするための茶屋が数軒あったと言われています。

声に出して「いわらご」と言ってみると、なんとも言えない歴史のロマンを感じさせる響きがあります。





この魚洗川茶跡も、先日の雲仙の帰り道に偶然発見しました。


「烏兎の杜」の看板横に「魚洗川茶跡」の標識があります。



田代原から国道389号線「国見魚洗川」を下っていくと百花台に出ます。その途中にありました。




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