TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

「南に遠く」を求めて(5)

2014年01月27日 | 南に遠く(不知火尞)

 今回は4番、5番についてです。「南に遠く」を求めるきっかけとなった、
こうちょう」、「きょうとう」、「えんりょう」の言葉はご覧の通りでした。


(四) 宴の園に散る花は
    又来ん春は咲くとても
    三とせの春の過ぎゆかば
    候鳥の身の君と我れ
    火の翼もてかけりゆく
    空のかなたを思はずや

(五) 狂踏の譜に春闌けて
    乱舞の曲に秋逝けば
    炎涼ここにいくとせぞ
    青史は香る六寮に
    命も若き旅の子の
    自治の宴の深まりぬ
    自治の宴の深まりぬ

 やっとの思いで、ここにたどり着くことができました。足でしか稼ぐことのできなかった情報です。漢字が分かったので、意味を調べることができました。

「こうちょう」は「候鳥」、渡り鳥の意。
「かけりゆく」は「翔りゆく」で、鳥が空高く飛んでいくということ。
「たけて」は「闌けて」、真っ盛りになること。たけなわ 。
「逝く」は年月、時日が経過すること。
「えんりょう」は「炎涼」、暑さと涼しさ。
「せいし」は「青史」で、歴史や事実の記録の意味。昔、青竹の札に書いたことに由来しています。 

 5回に渡って「南に遠く」についてを綴りました。
「南に遠く」を求めて佐賀に遠征したことは、ブログを中断していた7か月の中で、一番思い出深いことでした。



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「南に遠く」を求めて(4)

2014年01月25日 | 南に遠く(不知火尞)


今、私が読んでいる新聞の小説に「劉邦」が連載されています。
昔、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」や、漫画で本宮ひろしの「赤龍王」、石ノ森章太郎の「項羽と劉邦」などを読んでいたので、毎朝、新聞を開くのが楽しみです。劉邦のライバルである項羽が詠んだ漢詩「垓下歌」は、高校の漢文の教科書にも載るなど、広く知られています。

 力抜山兮氣蓋世     力は山を抜き 気は世をおおう
 時不利兮騅不逝      時に利あらず 騅ゆかず
 騅不逝兮可奈何      騅のゆかざる いかんすべき
 虞兮虞兮奈若何      虞や虞や 若(なんじ)をいかんせん
     (「垓下歌」)

さて、「山抜かんとて持つ力、世を覆わんとて抱く意気」ではじまる「南に遠く」の3番は、項羽の「力抜山兮氣蓋世」を踏まえたもので、作詞者である園田卯吉氏の漢文に対する造詣の深さがにじみ出ています。

(三) 山抜かんとて持つ力
    世を覆はんとて抱く意気
    生火となりて血は湧けど
    「三年不又不
    雲雨を待ちて筑紫野の
    月を仰ぎて觴咏す


「三年不又不」は、「史記 楚世家」の「楚の荘王が三年間酒色に耽って政治を顧みないのを臣下が諫めると、王は『飛べば天まで上がり、鳴けば必ず人を驚かすだろう』と答えた」という故事から、実力のあるものが、それを発揮する機会をじっと待っていることのたとえだそうで、そのまま原文を引用されています。「雲雨」は、力量を発揮する機会、「觴咏」の「觴」は杯で、酒を飲みながら詩歌を吟ずることと、調べれば調べるほど、初代生駒校長が作詞者の園田氏の才能を絶賛されたのがよく分かります。(続く)




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「南に遠く」を求めて(3)

2014年01月25日 | 南に遠く(不知火尞)


旧制佐賀高校不知火寮寮歌「南に遠く」の歌詞について、佐賀大学楠葉同窓会「なんよう」No,97に、
「『南に遠く』は昭和7年にできた佐高が誇る畢生の作で、代表的な寮歌だ。園田卯吉が作詞し宮本(後に丹治) 汪が作曲した。生駒萬治校長は『園田の奇才、宮本の楽才、ここに極まれり』と絶賛した。」と、大谷希幸氏の記事が載っていました。
確かに、「南に遠く」の原文を目のあたりにして、使われている言葉の深さやベースにある漢文の素養にあらためて驚かされました。
また、自分の中で完結していたはずの1番から3番の中に、いくつかの発見がありました。
今回はまず、1番と2番について紹介します。

昭和7年度佐賀高等学校不知火寮寮歌「南に遠く」 作詞:園田卯吉
 
(一) 南に遠く振古より
    ゆゑ知らぬ火の熾りたち
    あけくれ若き血に煮ゆる
    男の子の鴻図うながせば
    健児つどへるこの野辺を
    人あがめたり「火の国」と

(二) ああ青春よ我にまた
    胸に燃え立つ火のありて
    ゆくてはるけき人の世の
    旅のしるべを求めてぞ
    伝へも奇しき不知火を
    名に負ふ寮にこもりたり

発見として、1番は「ゆゑ知らぬ火(ひ)」の「ひ」で、2番は「不知火(しらぬい)」の「い」となることです。
「火」を「ひ」と「い」と使い分けていますが、全体の流れを考えるとなるほどと納得します。また、「こうと」と歌っていたところの漢字が「鴻図」となっており、辞書を引いて初めて「大きなはかりごと」ということを知りました。
同じように4番や5番に出てくる「こうちょう」「きょうとう」「えんりょう」などの単語は、自分の語彙力ではまったく歯が立たない言葉でした。






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「南に遠く」を求めて(2)

2014年01月24日 | 南に遠く(不知火尞)





鍵の掛かっている書庫の片隅で見つけた宝物。
ネットでどうしても検索できなかった「南に遠く」の歌詞。最後の手段として現場に赴いたわけですが、足で稼ぐことはやはり大事だなと思った瞬間でした。
書庫には他にも、いろいろな宝物が眠っていました。
寮誌「不知火」もその1つです。1982年6月「最終号」には、最後の入寮生としてワンゲル同期のTの名前が寮生名簿の最後に記されていました。
また、大学4年の冬に見た不知火寮最後のファイヤーストームが、1982年12月19日であったことと、
「佐高以来のOB200余名が集い、夜空に『南に遠く』が響きわたった」とも記されていました。
私たちの青春の存在証明を見つけたようで、うれしく思いました。
満ち足りた気持ちで図書館を後に、懐かしのキャンパスを歩き、不知火寮のあった場所を訪ねてみました。
そこは生協の建物に変わっていましたが、周囲の松林がかろうじて昔の面影を残していました。
「此の地に不知火寮在りき」の石柱が建てられていましたが、今の学生さんには昔の話でしょう。
また、「南に遠く」の歌詞の石碑も建てられていました。その裏面には寮で青春の日を過ごした熱い思いが刻んでありましたが、これも今は昔です。
でも、ここで寮生活をおくった人たちには、自分たちの存在証明であり輝く青春の記念碑にちがいありません。(続く)






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「南に遠く」を求めて(1)

2014年01月19日 | 南に遠く(不知火尞)


7か月、ネットのない生活をおくりました。
はじめの頃は、いろいろと不自由を感じていました。
買い物、交通機関や宿の予約、調べ物にと、現代は生活のツールとして、ネットがあたり前の世の中になっています。
途中、インターネットの光を契約をしたのですが、工事をいつまでも待たされたので、短気をおこしてキャンセルしました。
短気は損気と後悔もしましたが、そのうちネットのない生活にも慣れました。
情報源として、新聞はよく読むようになりました。
ネットでの衝動買いもなくなり、物が増えないと家内は喜んでいました。
そんな中で、調べ物だけは困っていました。
先日、やっとネットを繋ぎ、いろんな情報が瞬時に手に入ることの便利さを今更ながらかみしめています。

ブログ復帰第1弾として、ネット中断中に調べた「南に遠く」の歌詞について、数回にわたって述べてみたいと思います。
旧制佐賀高校の寮歌については、以前のブログで何度か綴りましたが、あれは自分の中では完結していたのですが、後輩のDが旧制佐高の寮歌のCDを送ってくれて4番、5番の存在を知りました。
ところが、CDを何度聞いても歌詞が聞き取れませんでした。また、聞き取れても意味がつながりませんでした。
「コウチョ-」「キョートー」「エンリョー」等です。
自分の中にある語彙で変換しても意味が通じないのです。これはネットでずいぶん調べましたが、どうしても分かりませんでした。そもそも、「南に遠く」の歌詞をアップしているのは私と同期のTのブログだけのようです。(たぶん)

どうしても気になっていたので、意を決して、佐賀大学の図書館に行くことにしました。(平成24年11月22日のことでした。)
「旧制佐高時代の物はほとんど残っていませんね」と、図書館の受付で説明を受けたのですが、ダメもとでとふだんは閉まっている2階の書庫の鍵を借りて中を調べました。
無機質な書庫の中、郷土コーナーの書架から、佐高同窓会が出している数冊の冊子を見つけました。ひょっとしたらこの中に…。一気に期待が高まりました。
はたしてその中の1冊、「あった!」と、誰もいない部屋の中で思わずこぶしを握りしめました。(続く)






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あけましておめでとうございます

2014年01月17日 | エッセイ


みなさま、新年あけましておめでとうございます。

パソコンが壊れ、諸事情で本ブログを長らく更新できませんでした。
本日、やっとネットの工事が終わり実に7か月ぶりに復帰することができました。
感無量です。
これからもよろしくお願い申し上げます。
たまにはコメントもいただければありがたいです。
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