久しぶりに吉井勇についてです。
堅苦しくて面白くない話なので、興味がない方はどうぞスルーしてください。
私にとって吉井勇研究はセカンドライフの3本柱の一つですので、これからも随時アップしていきます。
前置きはさておき、この夏の猛暑が、私がずうっと疑問に思っていた「吉井勇と平戸との関係」をすべて解決してくれたました。
なぜ猛暑?
それは日中あまりにも暑すぎて畑仕事ができないからです。
「晴耕雨読」は地球温暖化以前の言葉で、現代は夏を除外して使わなければなりません。
真夏の晴れた日の畑は「命の危険」さえ感じます。
そこで、晴れた日は部屋の中で読み物をするわけですが、先日買っていた吉井勇全集の中に、知りたかったことすべてを見つけました。
全集など百科事典のようなもので、何か調べ物があるときに開く以外は豪華な飾り物だったのですが、連日の猛暑のおかげで全集をこまめに開く時間ができました。
するとあるではないですか。
以下に、私が今回発見した「吉井勇と平戸の関係」について綴ります。
まずは、全集の付録のように付いていた「月報」から。
(「月報」)
「月報」も全集と同じく8冊あるのだが、その第1冊目に吉井と平戸の関係が書かれた記事が載っていた。佐々木慈寬氏の「吉井先生と九州」というコラムだ。
(佐々木慈寬氏は福岡市松源寺の元住職)
「-途中省略- 昭和31年5月の九州入りは、『五足の靴』いらい50年目の平戸訪問が目的であった。博多では中州芸妓の新作舞踊『春景中州賑』(はるげしきなかずのにぎわい・筆者作詞)を見て、平戸市長山鹿光世氏の招きで同島を訪れて昔を懐かしんだが、それが機縁となって平戸河内峠の景勝の地に歌碑が建つことになったのである。翌32年7月5日の除幕式は暴風の中で行われた。『
山きよく海うるはしとたたへつつ旅びとわれや平戸よく見む』の雄大な先生の歌碑は九州で7番目である。-以後省略-」
(河内峠に建つ歌碑)
次に吉井勇全集
その第8巻、随筆「『歌碑』と『白秋生家の跡」に、私が知りたかったことすべてが書かれていた。タイトルに平戸が出ていなかったのであやうく見落とすところだった。
何よりの発見は、河内峠にある歌碑に刻まれた「
山きよく海うるはしとたたへつつ旅びとわれや平戸よく見む」には本歌があったことだ。しかもその本歌は明治40年8月、いわゆる「五足の靴」で初めて平戸を訪れたときに作られていたということだ。
その本歌というのが、青春真っただ中だった勇らしく吹き出しそうになってしまった。
「
山荒く海きほへども少女らはうつくしといふ筑紫よく見む」
(この歌は吉井の第1歌集「酒ほがひ」の羇旅雑詠の中に確かに収められている)
この本歌について、吉井自身が随筆の中で次のように述べている。
「実をいうとこの歌は、今から50年ほど前、即ち与謝野寛先生をはじめ北原白秋、木下杢太郎、平野萬里、それに私の五人、南蛮紅毛の遺蹟を探る目的として九州旅行に出かけたときに作った、
山荒く海きほへども少女らはうつくしといふ筑紫よく見む
という歌を本歌としたものであるので、ちょっとこれを歌碑にするのは躊躇されたのであるが、しかし考えてみると本歌の方は少女が美しいと言って人事をたたえ、こんどの歌の方は山が清く海が麗しいと言って自然をたたえているのだから、いかにもその間に50年という歳月の経過が感じられて、むしろ時の落差に対する興味があると思ったので、もうこれ以上本歌ということを意識せずに、ひとつの人生の記念場として新たに歌碑を建てるのも、かなり大きな意義があるのではないかと思うようになった」
さらに、当時の紀行文である「五足の靴」にそれを裏付ける記述があった。
(九)平戸
「-略- 此町を歩いて気が付いたことは、比較的美しい容貌の女が多いことだ。九州に入って珍しいことだから、此町は美人系だなどと興がったが、唯其顔色が美しいに過ぎないと思ふ」
「五足の靴」は五人が輪番で筆を執ったということだが、署名がないのでこれは誰が書いた文なのかは分からない。
さらに、河内峠の石碑に添えられた解説文の「空前絶後」についてもその意味が分かった。
(歌碑の説明文)
「空前絶後」は、吉井の随筆を読むと歌碑の大きさもだろうが、風速20mに近い暴風雨の中で行われた除幕式と併せてこの言葉を使ってる。
吉井は随筆の中で次のように述べている。
「私は歌の作者としての挨拶の中で、こんな豪快な除幕式は、おそらく空前絶後であって、私としては永く忘れることができないだろうと言ったが、これは負け惜しみでもなく、私自身真実そう思ったのである。そういう荒天の中で決行された除幕式は、いかにも筑紫のはての平戸らしいものであって、神官の読み上げる祝詞の声ばかりでなく、歌碑の前に供えた神饌や榊も、みんな吹き飛ばされてしまうぐらい壮絶を極めた。参列した人たちもみんなレインコートにゴム長靴という出で立ちだから、なんのことはない、防水工事に集った一団と思われるような格好だった」
そんな「壮絶」な除幕式の様子を吉井は歌に詠んでいる。
宗達の風神雷神わがために来しやとおもひ空を見上ぐる
玄海の風をともなひあらあらし平戸の雨は石も穿つや
山鹿流の陣太鼓鳴る音らしも夜半すさまじき風もて来るは
したたかにウヰスキー飲み眠りけむ山鹿市長の夢に降る雨
平戸なる河内峠のぬかり道護謨長靴を穿きてのぼるも
風速20m近い暴風の中で執り行われた序幕式は、100を越えた除幕式の中で後にも先にもここ以外はなく、まさに「空前絶後」、吉井もさぞかしあきれたことだろうが、そのことを詠んだ歌は実にコミカルだ。
もう一つの「空前絶後」歌碑の石の大きさだ。
この石は当時の平戸市長山鹿光世氏の努力によるものだった。
山鹿光世氏については、私の後輩Y島君が「山鹿市長にはお嬢様がおりまして、私の高校時代の英語の先生でした。山鹿市長の祖先は、忠臣蔵でも有名な山鹿素行の山鹿兵法の伝承者です」と、以前のブログにコメントしてくれていた。
山鹿光世氏と石については随筆の中に
「それにこれは、これまで建った私の歌碑の中で最雄大なものであって、平戸市長の山鹿光世君はこの石を得るために全島を歩き、やっと堤というところの海岸で発見したものだというから、その熱情もこの歌碑にはこもっているのである。-中略-『石が大きいのでこれを運ぶのに、堤の海岸から河内峠まで十里の道を五日がかりで、途中橋をかけ替えたりして大変苦労しました』と言っていたが、なにしろ山鹿流兵学の祖甚五右衛門(素行)から十数代目の子孫のことであるから、市長みずから陣太鼓を打たないまでも、みんなの陣頭に立って大声叱咤、極力指揮をしたことであろう」
(石は古代の溶岩である玄武岩)
(歌碑の高さは台座と併せて4.2m、石の重さは8.5t)
(山きよく海うるはしとたたへつつ旅びとわれや平戸よく見む 勇)
この歌碑が建つ年の正月、即ち昭和32年の正月に吉井は次の歌を読んでいる。
この春は筑紫平戸に歌碑建つと思ひうれしく年むかへすも
以上で平戸の歌碑について疑問に思っていたことがすべて解決した。
なんでそんな些細なことにこだわるのかと言われそうだが、当の本人は吉井勇について調べることが楽しくてたまらない。
吉井勇研究はまだ始まったばかりである。