TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

経ヶ岳'16 今年、最初で最後の夏山

2016年08月30日 | 山(県内)
久しぶりに多良岳に登りました。
あまりにも久しぶりなのでガッツリ歩きたくて、あえて大村にまわり黒木から経ヶ岳を目指しました、が…


黒木の手前にある「萱瀬ダム」


雨不足ですっかり水位が下がっていました。遠景が多良山系。


これから向かう経ヶ岳


2時間で登るだろうと思っていたらとんでもない。バテバテで、頂上までたどり着けるのだろうかと思うくらいに体力が落ちていました。


心を和ませてくれる足下の草花 キンミズヒキ?



マムシ草



鉄の木? 2.5㎏のダンベルの花…


本当にこの状態でした。思わず目が点になりましたが、写真だけ撮ってそのまま通過。


水場



ひしゃくの柄に着目! 木の枝をそのまま利用したアート作品



バテ狂いながらも、なんとか「つげ尾」に到着



アザミとハチ



ツルニンジン?



やっとの思いで山頂にたどり着くことができました。
時計を見てびっくりです。コースタイムの倍かかっていました。


山頂からの眺め



遠く雲仙の山々、そして「眉山」(左端)



登る前は経ヶ岳から多良岳、さらに余裕があれば五家原岳から横峰越を経て黒木に戻る周回コースを考えていたのですがとんでもない。経ヶ岳だけですっかりバテてしまいました。でも来た道を戻るのは面白くないのと、久しぶりの山でいっぱい歩きたかったから舞岳経由で黒木に下りることにしました。


舞岳山頂近くの日本庭園? 白雲青松



舞岳山頂付近から見た経ヶ岳


どの方向から登っても急登になるのが納得できる山容


舞岳コースは気持ちのいい稜線歩き


下山は舞岳コースを選んで正解でした。明るい稜線歩きで、疲れていても気分が高揚します。


花 名前は…


黒木に無事に下山


いつもの川ですが水量が激減していました。「えっ!こんだけ…」



黒木の集落から見た経ヶ岳


「あれに登ってきたんだ」と感無量
トレーニング不足でなまったからだでしたがよく頑張りました。


水田 イノシシよけでしょうか。鉄の柵で囲んであります。



秋の風に揺れるコスモス



今年の夏山は、今日登った経ヶ岳だけです。
今日は爽やかな天気だったのですが、明日からまた暑くなるといっています。
まだしばらく残暑が続きそうですが、どうぞみなさまご自愛ください。




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続・上山のユリ '16 

2016年08月28日 | 上山の四季
1週間ぶりに上山に登りました。
まだあのユリは咲いているかなと淡い期待を抱いていたのですが、残念ながら花は終わっていました。

1週間前の 8/20


そして本日 8/27


清楚な白い花は落ち、子房のみ残っていました。


別の場所のも




山頂の展望台の階段には椿の実が落ちていました。


展望台下の大きな椿の木


アップにすると、実が割れて中に種が見えます。


5か月前、花の頃(3/15)





標高120mの上山
ハデさはありませんが、そこで見られる自然の移ろいを楽しんでいます。


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アシナガバチの巣なのに…

2016年08月23日 | その他
どう見てもアシナガバチの巣なのに、スズメバチがいました。
よく見てみると…





巣を壊し、アシナガバチの幼虫を取りだして食べていました。
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上山のユリ '16 

2016年08月22日 | 上山の四季
今年も上山のユリが花を咲かせました。


5/9 いつもの場所にユリの茎を発見! 


7/9 線は細いが、ゆっくりゆっくり成長しています。


7/31 ふくらんだつぼみを発見!





8/20 ひっそりときれいな花を咲かせていました。




さらに、10mほどはなれた所にも


他の植物の蔓に巻きつかれながらもけなげに花を咲かせています。


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眉山Ⅱ 

2016年08月18日 | 島原
秩父が浦から見た眉山




秩父が浦は、今から約200年前、眉山が大崩壊をしたとき、大量の土砂が海中になだれ込んでできた新たな陸地と海岸です。島原大変といわれた大惨事は遠い昔のこと、そのときの名残の島々が眉山をバックに風光明媚な海岸をつくりだしています。
そのいきさつと景観を、高浜虚子が次のように詠んでいます。


  山裂けて くだけ飛び散り 島若葉






逆さ眉山



一年前は大正池の水面に映える穂高をアップしましたが、 (クリック → (「明鏡止水」)
今年は秩父が浦の入江に映る「眉山」です。


「秩父が浦」は、古い地図には「柳ヶ浦」となっていますが、大正14年に秩父宮殿下がこの地を鑑賞されたのにちなんで名前が変えられました。
今でこそ景勝地ですが、眉山崩壊は大き過ぎる犠牲を出しました。世に言う「島原大変」です。



眉山の麓に「眉山治山祈念公苑」があります。
そこに島原大変遭難者の供養と、今なお崩落を続ける眉山治山への祈りを込めて「聖観世音菩薩像」が建てられています。地元が生んだ芸術家北村西望先生の作です。


(バックの山が、今なお崩落の後が生々しい眉山)






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眉山(まんやま)

2016年08月07日 | 島原


病院のラウンジの窓からきれいに眉山が見えていました。
一緒に見ていた父が、「子どもんじぶんは『まんやま』って言いよったで」と一言。
(「子どもの頃は『まんやま』と言っていたんだよ」)
これまでも本ブログで紹介しましたが、父が使う島原弁に出てくる固有名詞には、昔からの言い方がそのまま残っています。
私は「まんやま」という言葉に即座に反応しました。

「『まんやま』てや?」
「え-。今んもんは『まゆやま』て言うばってん」


島原図書館の郷土資料コーナーで調べました。

ありました!

まず、藩政時代の地図ですが、今の眉山の表記は「前山」です。
寛政4年(1792年)の島原大変前後の記述も「前山」です。


さらに、渋江鉄郎氏が書かれた「眉山ものがたり」には、わざわざ「まんやま」とルビがふってあります。ワクワクしながら開いてみると次の記述がありました。

「島原城下から仰ぎ見るなれば、雲仙連峰の主嶺である普賢岳を奥山と呼び、その前にあるから『前山』といいならわした。これを島原人は『まんやま』と呼称している。前ん山の変化である。島原発言では『の』が『ん』になる。」(昭和50年発行)


父も、私も毎日「眉山」を見て育ちました。

わが家付近から見た山

左が眉山で、右が雲仙です。

眉山は私が子どもの頃「女性の顔に見えるね」とよく友達と話題にしていました。

昔はもう少し目鼻立ちがハッキリしていたような気がするのですが、単なる記憶ちがいかそれとも眉山の風化が進んだのか…


島原外港から見た眉山

こちらから見ると山の形は大きく変わります。

白土湖から見た眉山


島鉄外港駅付近から見た眉山


私も含め島原の人は朝夕眉山を見て育ちました。

「眉山 それは島原の温和な母であり峻厳な父でもある。幾世代この山のふところに生まれ、はぐくまれ生活して来た人びとは、愛郷と思慕の炬火として仰望して来たものである。」
(眉山治山祈念公苑整備促進期成会趣意書)

故郷の山、眉山についてはもっともっと書きたいことがありますが、また別の機会に。

【余談】
前回までのブログ「一枚の写真より」シリーズの冒頭に、「昔撮った写真が必要になりあれこれ探して…」と書いていましたが、探していたのは昔撮っていたわが家から見た眉山の写真です。女性の顔のように見える眉山の鼻が低くなった気がするのですが、昔の写真と比較すれば私の思いちがいかどうかがはっきりすると思ったからです。
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一枚の写真より ~ 野宿

2016年08月01日 | SUWV


以前、「風まかせ」という雑誌の表紙に書かれていた「旅と野宿は男の至福」というフレーズを目にしたとき、「何と素敵な言葉だろう」と思った。今でこそ「野宿」という言葉の響きに懐旧の情を覚えるが、天山歩荷のあの頃はそんな余裕などなかった。

サイクリングの場合、キャンプ場に泊まるというのは希で、けっこう行きあたりばったりだった。駅の敷地はトイレや水が使えるので何回かお世話になった。あとバス停や公園、橋の下の川原など行く先々でテントを張る場所を求めた。
ある駅の軒先で晩飯を作っていたら、おばちゃん達が寄ってきて、しきりに「いいね、いいね」と口していたのを覚えている。あのときは、人が行きかう中で飯を作っていて、こんな貧乏旅行のどこがいいのかと心の中で思っていたが、自分もこの年になると、自転車で旅している若者などを目にすると、同じように「いいね…」とつぶやき、郷愁にも似た思いが胸の中に満ちてくる。あのときの駅前のおばちゃん達も、自由に旅している私たちを見て心の底からうらやましく思ったのであろう。

さて、冒頭の写真は1979年の春、南九州をサイクリングしたときのものだ。開聞岳近くの海岸に建っていた国民宿舎の敷地の隅にテントを張らせてもらった。山に登る前と登った後の2泊も。今思えば、当時は若者の旅行にとても寛大であったように思う。行く先々でいっぱい親切にしてもらったのを覚えている。前回(前々回も)のブログ、北海道サイクリングのときには2回も民家に泊めてもらった。札幌と旭川である。どちらも街中でどこにテントを張るか泊まる場所に困っていた。札幌ではたまたま通りかかったおばちゃんに「どこかテントが張れる公園はありませんか?」と訪ねたら、即座に「うちに泊まらんね」と言ってくれたのだ。全く見ず知らずの、しかも汚い恰好の5人組を目の前にして。旭川では同じようにラーメン屋さんに泊めてもらった、道を尋ねただけで…

天山歩荷のあの頃、周遊券、夜行列車、ユースホステルなど、お金を持たない若者の旅を支援する制度に加え、カニ族・エビ族の若者達を温かく見守ってくれる大人達の目が多くあったように思う。
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