TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

「神坐す山に捧げられし宝」が… 

2017年09月30日 | 諫早
「神坐(いま)す山に捧げられし宝」がなぜここに…

「神坐す山に捧げられし宝」にも幾度か受難はあった。しかし信仰を守る人たちの努力で今日まで守られてきた。その宝が今、新たな災難から逃れるためここに…


最大の受難はキリシタン教徒による焼き討ちであったろう。
太良嶽縁起によると、「天正十一年、キリシタン教徒の焼き討ちに遭い、舜恵法印は本尊を護って岩穴に留まっていたが、三年後湯江神津倉に草庵を建て聖躯を安置した」とある。


他にも明治維新後の廃仏毀釈の波や金泉寺自体の老朽化もあげられるだろう。
老朽化については太良嶽山金泉寺のホームページに、「屋根壁は崩落し、貴重な仏像も雨露を直に受け本堂、庫裏とも極限状態であった」とある。




多良岳は由緒ある山岳信仰の山で、その伝えによると「空海が平安時代の初め頃、身の丈四尺余の不動明王と二童子立像を刻んで本尊とした」とある。あくまでも伝説だが、その宝である不動三尊像がこれである。



(2010年11月21日 金泉寺にて許可をもらい撮影)

写真中央が金泉寺のご本尊である不動明王像で、左手が制垞迦童子、同じく右手が矜羯羅童子である。


この多良岳の不動三尊像は、2013年に九州国立博物館で開催された「山の神々~九州の霊峰と神祇信仰『神坐す山に捧げられし宝』」展に期間限定で展示されたが、地元の人間としてこのことを誇らしく思ったものだ。





2016年5月、ぶらりと立ち寄った諫早美術歴史館の案内板、期せずして件の不動明王像がここでも展示されていることを知った。



早速中に入ったが、展示はされていなかった。
多良岳の山の中でしか見ることができないと思っていた仏像が、こんな身近な街中で見られると期待しただけに拍子抜けした。
理由を尋ねると、2週間前に熊本地震が発生したが、その後も余震が続いたために、転倒等の万が一に備えて安全な倉庫で保管しているとのことだった。大切な寺の宝をあずかっているゆえに、博物館の配慮は流石だなと感心したものだった。
そのときは地元の博物館の期間限定の公開展示だと思っていた。
(勘違いで、ポスターをよく見ると「常設展示」と書いてある)


諫早美術歴史館のパンフレットにも写真入りで紹介されている。




(パンフレット拡大)

先日機会があって「なぜ金泉寺のご本尊がいつまでもここに」と学芸員さんに尋ねたところ、今は全国的に仏像の盗難事件が発生しているのが理由だそうだ。金泉寺は無人の寺ゆえその心配があり、ここで保管展示をしているとのことだった。そして秋の大祭の時だけ山にお戻しするとのことだった。

何とも悲しい話である。
空海が彫ったかどうかは別として、信心深い人が純粋な思いで彫ったであろう仏像が、神の坐す山に奉納されし仏像が、盗難に遭うかもしれないということで信仰の山から下ろされているという。
それがすべての理由ではないだろうが…
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諫早の眼鏡橋あれこれ

2017年09月28日 | 諫早
諫早の眼鏡橋は長崎のそれを参考にして造られた「永久不壊の石橋」です。
その「永久不壊」が原因で悲しい出来事もありましたが、それを乗り越え現在は諫早公園に移設されています。



長崎の眼鏡橋は半円ですが、諫早のそれは1/3円です。
ですから水に映った眼鏡はまん丸眼鏡ではありません。




眼鏡橋 -春-



眼鏡橋 -秋-



眼鏡橋 -冬-



眼鏡橋 -夜-



諫早公園の眼鏡橋は今では諫早市のシンボル的存在で、四季を問わず多くの観光客が訪れます。
ところで、眼鏡橋はこれ以外にもあります。



諫早公園の道向かいにある「ミニ眼鏡橋」




本物と見まごうほどの精巧さです。
それもそのはず。このミニ眼鏡橋は、昭和32年の諫早大水害の後、現在の場所に解体復元するにあたり、本当に復元できるのかテスト版として実物の1/5のスケールで作ったものだそうです。勿論、使われている石は実物と同じ約2800個で、その一つ一つが1mmも違わない精度だそうです。


眼鏡橋


本明川に架かる「高城橋」と「新橋」の間にある橋が「眼鏡橋」です。この橋は以前石造りの「眼鏡橋」が架かっていた場所の近くに架かっていています。ふだんは普通の近代的な鉄橋ですが、「万灯川まつり」の時だけはイルミネーションのアーチ橋として浮かび上がります。「万灯川まつり」は諫早大水害の慰霊祭で、毎年7月25日に行われます。


川まつりの様子




実は…、これも眼鏡橋です。分かりますか?


場所は現代の眼鏡橋(鉄橋)のすぐ近くにあります。
石造りの眼鏡橋が移転した跡に石を並べた飛び石ですが、その石を眼鏡状に並べてあります。ここに「眼鏡橋」があったという名残です。


本明川にはここ以外にも飛び石がありますが、よく見ると眼鏡状に石が並べられたものがいくつかあります。諫早公園の前にも


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彼岸花

2017年09月27日 | 諫早
恵比寿様は諫早のいたるところで目にすることができます。
安勝寺近くの堤防沿いにもありますが、お彼岸のこの日は、その横から彼岸花が咲いていて、まるで誰かがお供えをしたかのようでした。





恵比寿様は福の神で、大きな鯛を抱いています。
今日の恵比寿様は、きれいな花に囲まれていつも以上に微笑んでいらっしゃいました(?)。




右の方には白い彼岸花も咲いています。



本明川の川原にも点在していました。






彼岸花はその時季にちゃんと花を咲かせるのでえらいですね。


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スズメバチの恐怖、今でも

2017年09月18日 | 上山の四季
9/17は台風の接近が心配されていましたが、午後からは天気が回復しました。
(被害が大きかった地域の皆さまにはお見舞いを申し上げます。)

夕方、上山に登りました。雨後のキノコがあちこちで頭をもたげていました。













そして山頂

(黒い点は飛び回るカラス)

多良岳方面

「多良岳も久しく登っていないな…」(心の声)


ちょっと躊躇しましたが、北口に向かうことにしました。
今日はとても静かなので…



ここにもキノコが。4年前はこの坂を走って逃げました…



本来なら、9/17は諫早のんのこ祭りの予定でしたが台風を心配して中止となりました。
もし祭りがあっていたなら、北口には行きません。


4年前の2013年9/16(敬老の日)、諫早の町はのんのこ祭りで大いに賑わっていました。そのイベントの音楽が北口方面の登山道にもガンガン聞こえてきていました。五感のうち、聴覚を騒音で奪われたために、あの日は大変なめに遭いました。
こともあろうに、スズメバチの大群に襲われたのです。ハチに気づいたときには頭、肩、腹部の3ヶ所も刺されていました。しかも服にはいっぱいスズメバチがしがみついていました。もし、あの大騒音がなかったら、スズメバチに襲われる前にハチの羽音や威嚇音に気づき逃げていたはずです。
ですから、もし今日も祭りがあっていたら北口には向かいませんでした。




【スズメバチ事件  過去の記事より】 「秋山の危険 身近な上山でも…」 

9月16日(敬老の日)に、この上山でスズメバチに刺されました、しかも3カ所も。私は常々、マムシと同じように、「ハチは自分からは人を襲いませんよ」と、人に言っていただけに、自分が刺されてショックでした。あの日の状況は次のようなものでした。

上山ですれ違った人から、「スズメバチが飛んでいましたよ」と声を掛けてもらっていました。折しもあの日は、諫早の「のんのこ祭」が近くの広場で行われていて、その音楽の大音量で、ハチの羽音やカチカチというハチが出す警告音が全く聞こえませんでした。異変に気づいたときには手遅れでした。頭に何かカサカサしたなと思ったら、腕やシャツに大きなスズメバチが何匹もとまっていました。興奮して暴れまくっているスズメバチの大群の中に、全く無防備な状態で入っていったわけです。ハチも人間に近付くなよと威嚇していたはずなのに、その音が「のんのこ祭」の音に消されて、全く聞こえなかったのです。手で払いのけながら走って逃げたのですが、頭、肩、腹と刺されました。なおもシャツにはスズメバチがへばりついているので、走りながら脱ぎ捨てました。実は、中学校のときにも一度刺されていて、あのときが2回目でしたので、アナフィラキシーショックが心配でした。山から下り、タクシーで自宅に帰り、すぐに休日当番医に行きました。そこは外科医でしたので、刺されたところに、外科手術用の麻酔を打ってくれました。そのおかげで痛みはスーと引きましたが、5分もするとジワッーと重い痛みがぶり返してきました。後は、我慢するしかありませんでした。痛みより怖いのがアナフィラキシーショックです。スズメバチに刺されて死ぬのはこのアレルギー反応ですので、外科医に尋ねました。「今回アナフィラキシーショックが出なかったので、私は体質的に大丈夫ですね」と聞いたところ、「2回目に出なかったからと言って、3回目が大丈夫という保証はありません」と言われがっくり。山で動物に襲われての死亡事故を見ると、熊の被害よりスズメバチの方がはるかに多いわけですから。



当時の記事にも書いていましたが、その後私は「羽音恐怖症」になりました。
4年が経った今でも、耳もとで羽音がしようものなら反射的にのけ反ってしまいます。
人が見たら滑稽なほどに…


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憧れの「北アルプス・サバイバル登山」

2017年09月16日 | 山にまつわる話
学生時代に「屋久島サバイバル」などとたいそうな名を打って合宿を行ったが、海岸で行ったあれはサバイバル的な合宿であり、サバイバルへの憧れであった。サバイバルというなら、暴風雨に耐えたあの宮之浦分岐の一夜こそがむしろそれに近かった。

あの頃、登山とサバイバルのカテゴリー分けは、テントやブスなどの便利な装備品を使うかどうかの差でしかなかったと思う。国立公園の特別保護地区では焚き火が禁止だったので、焚き火への憧れが登山とは別の形態としてサバイバルを生み出したのではないか。


北アルプスで次のようなサバイバル登山をしてはどうだろうか。

仮想・北アルプス・サバイバル登山
今回の合宿ではテントやブスは一切使わない。現代文明への挑戦だ!
寝るのはもっぱらフカフカした高山植物のベッドの上だ。ハイジの干し草のベッドにはかなわないだろうが… 夜は冷え込むが、晩飯を作ったときの焚き火の燠で暖は取れる。露よけには油紙でも掛けておけば十分さ。満点の星に包まれてまどろむのは最高だよ。なに?高度一万尺では星のランプが明るすぎて眠れないって、何を贅沢言っている!
雨の日には岩屋を探すさ。槍ヶ岳を開いたという播隆上人も何日も岩屋でビバークしたというじゃないか。大丈夫、大丈夫。そんな野性味あふれるワンゲル活動をしたかったんだろう。
食糧だけど、主食の米と味噌だけは持参してそれ以外は自然の中から調達することにしよう。
何?よくそれでサバイバルって言えるねって?米だけは勘弁してよ…。
おかずは近くにいる雷鳥を捕まえて料理しよう。豚汁ならぬ「雷鳥汁」は絶品らしい。


どうだろう、ワクワクするような計画だ。しかし、これを実行すれば間違いなく新聞に載り、自然愛好家から非難ごうごうであろう。いやその前に自然公園法違反で逮捕されるかもしれない。


しかし、100年前はこれこそが北アルプスの普通の登り方だったのだ。辻村伊助の日本アルプス黎明期の紀行文に、そのことが綴られている。


飛驒山脈の縦走」(1909年) 辻村伊助  

 「ここを一夜の宿と定める。火が焚かれ、飯が煮える、嘉門治が蓮華で打った雷鳥の味噌汁もできあがる。実はこれを取ったとき、まだろくに舞えぬ雛が、側でピーピー啼くのを聞いたら、何だか妙な心持ちがして、今夜の料理は断じて食うまいとまで、決心したけれど、肉となって鍋の中に浮いていれば、そんな心持ちは毛頭おこらない、忘却は人間至上の幸福である、肉を食わなくともあの雛を如何することもできないと、思い切って箸をとる、肉は鶉(うずら)に似てすこぶる美味だ。」
(「嘉門治」の表記は原文のまま)


 「草の床に草鞋(わらじ)を枕にして寝ていると、嘉門治は自分の桐油紙を出して、我等の上に屋根を張ってくれた、わしは荷が軽いから疲れましねぇと、人足を焚き火の側に、自分は夜露のかかる草の中に寝ている。」


 「窟(いわや)の中には一面に雪が溜まって、外よりなお冷や冷やする、やむを得ず、焚き火の側に桐油をひっかぶって、ごつごつした岩の上に寝ることにする、例によって少しも眠れない。うとうとする瞳を貫いて、かっと電光がほとばしる。驚いて飛び上がる耳もとに、槍も崩れたかとばかりどっと雷が鳴った。あとは再び寂然として、槍ヶ岳の夜は太古のごとく森厳である。」





岩屋での宿泊。そんな目で多良岳を歩いていると、泊まれそうな岩屋はけっこういっぱい見つけることがでる。でも、多良岳は日帰りだし… 

県外では

【祖母山:天狗の岩屋】



【大崩山】

これらは水場もすぐの所にある。今度泊まってみるか…
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屋久島・番外編 ~ 出発前

2017年09月13日 | SUWV
 屋久島合宿シリーズは前回で完結したつもりだったが、この合宿にまつわる2つの出来事をどうしても追加したくなった。それはシリーズ第1回で名前だけふれた「焼きそば事件」と出発当日の大酒飲みのことだ。

 実は、私たちが執行部のときの活動をまとめた「木霊8号」に収められている「嗚呼!屋久島サバイバルパート」も、その2つの出来事から書き始められている。(というか、私が書いたものだが…)


【木霊】




◇出発前夜 「焼きそば事件」

 大学の正門近くに「祐福」という食堂があったが(今もあるかもしれない)、そこの企画で、焼きそば5杯完食でタダというのがあった。店の壁には成功者の名前が簡単なプロフィールとともに張り出されていた。合宿出発前夜、3,4人で夕食に行った。「焼きそば5杯…」の張り紙が目に飛び込み、興味を示していたら先輩であるAさんが私にチャレンジしてみたらと勧めるのであった。5杯は無理にしてもいけるところまでと思って店の人に尋ねると、「チャレンジは初めから5杯作ります。失敗しても5杯分の料金をいただきます」ということだった。それを聞いて逡巡する私に、「失敗しても良いからいけるとこまでやってみろ。代金は俺が出すから」と言ってくださったのだ。お祭り好きの先輩は、その場の賑わわせに私を担ぎ出したのだった。

 1杯目、余裕。まだまだ十分いける。
 2杯目、いい感じで満腹になる。
 3杯目、途中から苦しくなるも、3杯も食べられて大満足。

 ここで、「もう無理です」とギブアップ宣言すると、先輩が「思い出づくりに、何とかあと1杯だけ」と言葉巧みにそそのかすものだから、自然と4杯目にチャレンジする流れになってしまった。

 4杯目、無理すれば何とかなるもので,どうにかこうにか胃に詰め込んだ。

 これで終わったと思ったら、例の先輩が豹変し,「ここまできて投げ出すってあるものか」と、今度は説教しながら5杯目を迫るのだ。完全にしてやられたと思ったときには後の祭り。

 5杯目、やいのやいの囃し立てられながら、どうにかこうにか完食。

 私はすぐにでもトイレに行って戻したかったのだが、先輩が「今、席を立ったらみっともない」などと言い出すものだから、しばらく席で目を白黒させていた。
 店を出ると,すぐにボックス村に向かった。その入り口の水道の所の溝で吐けるだけ吐いた。お腹が苦しかったのもあるが、それ以上に、お腹を壊し体調不良の状態で合宿に参加するわけにはいかないという責任感からだ。最後はのどに指を突っ込んで涙を流しながら吐いた…


◇出発当日 「ジャイアント事件」

 ボックスの横で壮行会をしてもらった。初めは軽い感じで始まったと思うが、そのうち調子に乗って飲むわ飲むわ…
 合宿ノートには「ジャイアント12本」と記してあったが,上の木霊8号には「7人でジャイアントを11本あけた」とある。さらに、「7人のうち5人まではその日出発予定の屋久島パートのメンバーだったという」とある。合宿ノートは当日の記録であるが,かなり酔っ払って書いているので、木霊の記述の方が正確であろう。合宿出発後にあの大酒盛りは話題になったであろうから。残った誰かが瓶を数えて、「11本も!」と。
 まあ、11本にしてもすご過ぎる。第1回でも書いたが、ジャイアントは大瓶3本分である。ということは、7人で大瓶33本空けたのだから…

 私にとって屋久島合宿は、出発前のこの2つの出来事もセットなのだ。しょうもないと言われればそれまでだが、自分の中では強烈な思い出として今も残っている。


 その日の夜行で出発する私たちへ、飲むだけ飲んでみろとばかりにジャイアント11本の餞…
加えて駅での盛大な見送りとたくさんの差し入れ。
 感謝してあまりあるとにかく豪快な先輩方だった。
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屋久島7 ~ 合宿後

2017年09月03日 | SUWV
サバイバルは終わった。

4/5 大川の滝 -(ロード)- 栗生 -(バス)- 宮之浦港 ~ 鹿児島 =(かいもん6号)= …

 
 鹿児島についてしたいことがあった。それは実家への電話だ。ずうっと気になっていることがあった。それは3/26小杉谷で1泊したとき、夢枕にじぃちゃんが立った。夢の中で私に話しかけるのだ、自分はこの世を去るがおまえはしっかり生きなさいみたいなことを。夢だったが妙にリアルだった。次の朝、他のメンバーに、夢の詳細を詳しく説明するのが面倒だったので、「昨日じいちゃんが死んだ夢をみた」と軽い感じで話をしていた。「ふ~ん」で流されていたが、自分としては胸に引っ掛かるものがあった。しかし山の中だったのでどうすることもできなく、そのままにしていた。

 はたして4/5、フェリーが鹿児島について公衆電話から島原の実家に電話したら、案の定、祖父はあの晩亡くなっていた。そのことを他のメンバーに話をしたら、一様にそんなことがあるのかとひどく驚いていた。私には何か確証みたいなものがあったので、特に驚きもしなかった。恐くもなかった。むしろ「やっぱりそうだったのか、じいちゃん、ありがとう」みたいな感謝の気持ちが湧いていた。
 私は、今もそうだが、霊やオカルト的なものは信じない。ただ偶然に、祖父が死んだその日に、祖父が死んだ夢を見ただけだと思っている。ただ、その夢がリアルで現実離れしていただけだったと思っている。

 偶然はもう一つあった。この時の春合宿に限って、出発前に実家へ、合宿でしばらく不在にする旨の葉書を出していた。春合宿で○月○日から2週間ほど鹿児島県にある屋久島に行ってきますと。後にも先にも、山に行くと手紙や葉書を書いたのはこの1回きりだ。これも虫の知らせだったのだろうか、何となく葉書を書かずにはいられなかったのだ。

 葉書を出していてよかった。祖父が死に、母は佐賀の私の下宿に何度も何度も電話をしたそうだ。島原の実家では、本家の息子が消息不明のまま葬式も終わり、親戚に対して面目ないと母は嘆いていたという。その頃に私が出していた葉書が届き、母はその葉書を手に、親戚の面々に見せてまわったという。これもたまたまの出来事だったと思うが、そういうこともあるのだと今でも不思議に思っている。



 さて、合宿日記には以下のことが記されている。



4/5

○ 屋久島を発つフェリー、たまたま屋久島高校から本土に赴任される先生と一緒だったが、その見送りが感動的だった。

○ 昨年の春合宿(南九州サイクリングパート)の打ち上げで行った西鹿児島駅前の「郷土料理さつま」に今回も行った。去年は佐賀から来たということでいろいろとサービスしてもらったが、女将さんが去年来たことを覚えていてくださって、今年もいっぱいサービスしてもらった。


4/6

○ 今、急行「かいもん6号」の中。もうすぐ鳥栖である。汽車の中では偶然にも国経大(国際経済大学 西九州ワンダーフォーゲル連盟で交流があった)の屋久島パート(山辺、梅川、浜田、森)と一緒になる。彼等はOLDとたくさんのつまみを用意して盛大にやっていたので、我等も負けてはならじと樽酒(差し入れでもらい、屋久島山中、サバイバルと持ってまわったことになる)と焼酎を持って彼等のところへ。 ほぼ徹夜で飲み、お互いの合宿の出来事などを語り合った。




 無事に佐賀に帰り着きこれで合宿は解散だが、その後反省会を開いて春合宿の総括を行っている。それを元に部会で報告。そして部全体として春合宿の打ち上げコンパを開き、それぞれのパートの苦労話を肴にお互いの健闘を称えあった。




反省を記したページ それぞれの担当から(装備、医療、会計、食糧、SL、PL)





同じく反省 登山の部、サバイバルの部、合宿全般




 ワンゲルは、よく酒を飲みバカばっかりやっているサークルのように思われていたが、こと山やその活動については真剣に向き合っていたことをこの「合宿ノート」は記録していた。
 合宿前には部会やミーティングを重ね、合宿の方針やそれぞれのパートの目的を共有していたこと。並行してトレーニングを積み、プレ合宿を行うなど体力面でも十分の準備を行っていたこと。合宿後には自分たちの活動を振り返り、あの時の判断はあれでよかったのか痛烈に反省を行っていたことがきちんと記されていた。
 たまたま1つの合宿を紹介したが、どのパートのどの合宿もみな同じである。私たちはまじめ過ぎるほどまじめに山に、自然に、ワンゲルに向き合い同じ時間を共有してきたのだった。





- 完 -



 



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屋久島6 ~ サバイバル編

2017年09月02日 | SUWV
いよいよ合宿の後半というか、この屋久島合宿のテーマであったサバイバルがスタートする。

【合宿の趣旨】


 今年の7月の同期会の席には、この合宿ノートは別の「北海道パート'78」が持ってきてあった。当時の合宿メンバーがそれを約40年ぶりに読み返し、懐かしさもだが、自分が書いた文章に対しては「恥ずかしいね」とそれぞれが口にしていた。私も同感だ。青臭く若かったといってしまえばそれまでだが、純粋でもあった。上の趣旨もそうだが、そんなことを純粋に追求しようとしていたのかと思うと…



4/2
○ サバイバルをするのに適当な場所を求めて陽が昇る前に出発する。海面に映える月の照り返しが美しかった。候補地として考えていた瀬切川がイメージとちがっていたので、そこを断念し次の候補地であった大川を目指す。そして、大川の海岸に決定。


サバイバルの場所を探しながら移動いているところ



途中で…



そして大川の滝に到着


 ここの海岸でサバイバルを始めたのだが、ここから3日間の記録がない。この合宿ノートはメンバーの誰もが時間があるときに自由に書いていいのだが、誰も書いていないということはサバイバル中はノートからも離れましょうということだったのか(定かでない)。なにしろ、テーマが原初の人間性の追求なのだから。
 

サバイバルの地と決めた海岸(大川の滝のすぐ下)


きれいな海で、魚がたくさん捕れる予定であった…


【住】 


流木とフライ、ポンチョでそれらしいものをつくった。
開放感にあふれ、夜は波の音、川の音が心地よく、また、満天の星を仰ぎ見ることができた。


【食】 


海の幸・山の幸でいっぱいのはずだったが、そうは甘くなかった。魚は1匹も釣れなかった。
そのかわり、トコブシ、カメノテ、ミナなどは捕ってくださいとばかりに海岸の岩にいっぱいいた。それにツワブキ、ヨモギ。


メシを作っているところ






これは後輩達が見つけてきた野生のバナナ。青臭くて食えたものではなかった。





食後だろうか、海に沈んでいく夕日をみんなで眺めている。
贅沢な時間がゆっくりと流れていく。






夜のとばりが降りると、流木を燃やしてミニファイヤー



 汀のさざ波寄せる波。星空の下パチパチと燃える焚き火を囲んで、人生を、ワンゲルを語ればいつしか夜も更けた。川原で星を数えながら眠りにつく。枕元を流れる清流の音でか、潮騒でか何度も目を覚ました。その度に星の配置が変わっているのだ。西の空のオリオンを見つけては安心し、又まどろむ。
(「木霊」の「嗚呼!屋久島サバイバルパート」に綴っていた一文)





-続く(えっ?)-




 


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