TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

宝満登山・前段  「宝満の思いで」

2019年09月30日 | SUWV
9月29日。雨の予報が曇りに転じたので急きょ宝満山に登ることにした。
久しく遠ざかっている県外の山への飢えから、手軽な山ということで宝満山を選んだ。何を根拠に「手軽な山」かと聞かれれば、それは私の記憶なのだが、今回登ってみてイメージとの違いに苦戦することになった。(苦戦はしたが後悔はしていない)

宝満山には19歳の秋に2回登っている。41年前のことだが、楽しかった想い出、ほろ苦い想い出はあるものの、きつかったという記憶は時間のフィルターの中で、きれいに消去されている。また、歴史を感じさせる登山道は魅力に満ちていて、今の私のフィーリングにピッタリなのだが、その登山道のことは全く覚えていなかった。今回登ってみて、その味わい深い登山道にあらためて魅了されることになる。


さて、今回の山行を紹介する前に、ワンゲル時代の宝満山の想い出を綴ってみる。

まず、1回目は大学1年生の秋休みだった。1年生だけでお互いの親睦を深めるためにパーワンを組もうとS永が言いだし、それに賛同したT福、私、そして入部したてのS島の4人で出かけた。「親睦を深めよう」は大義名分で、先輩のいない同期ばかりで気楽な山行を楽しもうというのがその目的だった。コースもS永が組み、若杉から三郡を経て宝満までをなんと2泊3日で縦走したのだ。1泊目が確かしょうけ越だったと思う。簡単な小屋みたいなのがあってそこに泊まったのだが、夜中に小屋の周囲に集まった野犬からけたたましく吠えられたのを覚えている。恐怖の一夜だった。

若杉山山頂 入部したばかりのS島はユニフォームが間に合わなかった


翌日は宝満山のキャンプ場に建つ山小屋に泊まった。晩飯を終え山頂に夜景を見に行くことになった。岩場の山頂からは福岡の街のまばゆいばかりの夜景が一望でき、それを肴に飲む酒は最高だった。「岩場で酒」これが1年生ばかりの山行の判断の甘さだったのだろうか。そして滑落未遂が起きた。もしも本当に滑落していたら大変なことになっていた。大怪我もしくは死亡事故…。部の責任も問われ、1年間の活動停止は免れなかったろう。みんなに大迷惑をかけるところだった…

滑落未遂というか、あの時私は本当に足を踏み外し滑落したのだ。夜景を満喫し、山頂の岩場から石の階段を降りようとしたときのことである。あっと思ったときには遅かった。自力では制御不能の状態に陥り、体は宙に浮いた。酔いが一気に吹っ飛び、頭の中が恐怖でいっぱいになったとき、私の体は前を降りていたT福にぶつかり、そこで止まったのだった。T福は何事もなかったよう平然としていたが、その後の会話は覚えていない。とにかく強靱なT福のおかげで玉突き滑落は回避できた。


キャンプ場の山小屋前にて



PLのS永



T福と言えばもう一つ、そのT福が話した「百段雁木」のことも思い出される。「ヒャクダンガンギ」という言葉の響きもさることながら、その百段雁木でT福が高校時代にバテたというのだ。同期で一番体格のよかったT福は久留米出身で、高校時代は山岳部だった。その時のトレーニングの歩荷で、百段雁木にさしかかった時、太ももがつり、そのまま横にひっくり返ったというのだ。あのT福でさへバテさせる百段雁木とは大変な難所なんだろうというイメージが焼き付いた。今回の登山でその百段雁木の有り難さをしみじみ味あうこととなった。

一の鳥居の前

今では珍しいキスリングが写っている 今見てもT福の脛はたくましい!
彼がいたから私は助かった


さて、1年生で行った1月ほど後に2回目の宝満登山が計画された。その時は、1年生から3年生までの有志14人が参加していた。この時も登山道の記憶は全くない。記憶に残っているのは、太宰府の茶屋で梅ヶ枝餅を食べたことやキャンプ場の山小屋で水炊きをし酒を飲んだことくらいで、キスリングを背負って登ったのだが、登りできつかったという記憶は全く残っていないのだ。楽しかったことだけがほんわかと思い出される。あらためて写真を見てみて、若杉まで縦走していたことに気づいた。そのことも全く覚えていない。当時の写真が縦走したという事実を伝えてくれている。


登山前 太宰府の茶屋で梅ヶ枝餅



天満宮前にて



キャンプ場にて  バックは山頂の岩場



記憶にはないが若杉山(この時は1泊2日で縦走したのだろう)







次回は、「41年ぶりの宝満登山」です。

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