闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

スーフィズム探求⑧ーー永久に咲き続ける薔薇

2009-03-07 00:01:27 | イスラーム理解のために
  花瓶の薔薇花が汝のため何の役に立とう、
  汝は私の薔薇園から花弁を摘め!
  その薔薇花は僅か五、六日の生命に過ぎぬ、
  されど私の薔薇園は永久に楽しかろう!

『薔薇園』とはいかなる書か。
サーディーは世に伝えるべき金言や忠言を薔薇の花に、そうした言葉の集成を薔薇園に譬えた。花瓶に挿した薔薇はすぐに色褪せてしまうが、言葉の薔薇は色褪せることはない。彼は、そうした永久に色褪せることのない「薔薇」を残そうと決意し、自伝的なエピソードを含むさまざまな物語(小噺)を丹念にあつめ、その言葉を磨きあげて一冊の書にまとめたのだ。
「薔薇園は天才サアディーの学問と人生経験の粋を集めた花園で、彼がその序(一部を上に引用)に述べているように、永久に凋落の秋を知らぬ薔薇の園であり、時と場所とを超越した実践的道徳の貴重な宝庫でもある。彼はきわめて簡潔ながら、強く私らの心を打つ言葉を以て、きわめて大胆率直に言いたいことを述べている。この薔薇の園に盛られた金言、忠言の薔薇花は花園の薔薇花と異なり永久に馥郁たるその香を失わないであろう。」(蒲生礼二氏「薔薇園 訳者の言葉」)

同じ時代の神秘主義者といっても、その関心がつねに形而上的なものに向かっていくルーミーと異なり、サーディーの主要な関心は社会生活にある。語り口も、酔ったような言葉を連ねていくルーミーと異なり簡潔で平明、ときには諧謔的で、自在。教訓文学の古典的傑作とされる。また全体の基調は散文で述べられ、そのなかに詩が織り込まれていく。
『薔薇園』全体の構成は、序に続いて、1.王者の行状について、2.托鉢僧の徳性について、3.満足の徳について、4.沈黙の利について、5.愛と青春期について、6.衰弱と老齢について、7.訓育の効果について、8.交際の作法についてーーの8章からなり、最後に短い結語がつく。
ではさっそくその内容をみてみよう。

「ある王者が囚人を処刑するよう命じたということである。哀れな囚人は絶望のきわみ王を罵り、言いたい放題の悪口雑言をついた。昔からこう言い伝えられている。「生き永らえる望みを失ったものは心中あらん限りを語る!」と。(挿詩省略)王は囚人が何と言ったかと尋ねた。善良な性質の一大臣が答えて言った。「おお陛下!…そして怒りを制する者、他人の非を許すものーー神は恵み深きものを愛すると申しておりまする」と。王は不憫に思い、囚人の死刑を思い止った。ところが、さきの大臣を憎んでいたいま一人の大臣が言うことには、「私どもの如く大臣の職を奉ずる者にとりましては、陛下の御前に、真実をこそ申し述ぶべきで、決して虚言などついてはなりませぬ。この者は陛下を罵り、臆せず悪口雑言を口にしました」と。王はこの言葉を聞き眉を顰めて言った。「彼が述べた偽りは其方が語った真実よりも好ましい。かれは善意を旨とし、これは悪意に基づいている。古の聖賢も『善意を交えた虚言は禍いを醸しだす真実に勝る!』と述べているではないか」と。」(以下省略、第一章物語1)

これは巻頭に配されている「物語」だが、どこかしら、同時代の日本の説話集をおもわせる語り口だ。以下第七章まで、サーディーは長短さまざまなひねりの効いた物語を取り上げている。

「人々が聖者ロクマーンに向かって言った。「誰から礼節を学ばれたか?」と。答えて曰く、「礼節に欠けたものから学んだ。彼らの行ないのうち、自分の眼に不快に映じたところは、行なうことを避けたのだ!」と。(以下省略、第二章物語21)

王者に向かっても少しも臆するところはない。

「ある不正な王者が修行者に問うた。、「いかような信心が最もすぐれたものか?」と。答えて曰く、「汝のためには午睡こそ望ましきところ。しばしの間でも人民を虐げないことになろうから!」と。」(以下省略、第一章物語12)

「ある王者が聖者を見て言った。「其方は私のことを想い出すことがあるか?」と。答えて曰く、「さよう、神を忘れた時に…」と。」(以下省略、第二章物語15)

「ある孤独の托鉢僧が荒野の一隅に隠棲していた。ある王がその側を通りかかったが、満足の境地に憂いを知らぬこの男は頭をあげて王を顧みようとしなかった。王者の権威の手前彼はこの托鉢僧の態度にあきたらずして言った。「襤褸を纏うこの一味の輩は全く獣のようで、礼節の道はおろか、人の道をも弁えない!」と。宰相が彼の側に近よって言った。「この世の王者が側を通りかかられるを何故に御前に侍らず、礼儀を尽そうとしないのか?」と。答えて曰く。「王にこう申されよ。『其方からの好意を求めようとする者に礼節の期待をかけられよ。さらに民を護るは王者の責務であって、民は王者に従わんがためのものではない!(挿詩省略)托鉢僧の言葉はまことにもっともと思われたので王は言った。「何か所望するがよい!」と。答えて曰く、「再び悩ますことをやめられよ!」と。曰く、「忠言を所望する!」と。答えて曰く、
  「たとえ恵みが今汝の手にあろうとて、知れ
  富と国土は手から手に移って行こう!」と。」(第一章物語28)

以上のような『薔薇園』のさまざまな物語からは、つねに永遠なるものを見つめ、世俗の権威にとらわれない托鉢僧たちの自由闊達な精神を読みとることができる。
最後の第八章は物語形式ではなく、より短く直接的な処世訓で全体を締めくくる。そのなかでサーディーは、人間の価値や信仰が外観や社会的地位に左右されないということを強調する。それは当時の社会と信仰のあり方に対する強い批判精神に結びついているといえよう。

「外観が善いものが内面に美しい性質を蔵するとは限らない。質は内にあって外にあるのではない。」(以下省略、第八章41)

「誰が犯そうと罪悪は好ましいものでないとはいえ、博士(ウラマー)が犯すことは忌まわしい極みである!すなわち知識は悪魔との戦いの武器である。そして武器を帯びたものが捕虜となったら、恥辱を受けることは甚大であるから!」(以下省略、第八章57)

ゆえに、サーディーにとっても、『コーラン(コラーン)』は、そこに書かれた内容をそのまま読んだり誦称したりすればよいというものではない。しかし目覚めたものに対して、信仰はみずから語りかける。

「コラーン啓示の意義は善性を得ることが目的で、書き記された章句の誦称にあるのではない。無学の信心者は徒歩の歩行者のようで、怠慢な学者は眠っている騎者のようである。(祈願に)手を差し上げる罪人は自惚れで頭の満たされた修行者に勝る。」(以下省略、第八章70)

「ある人が、「実践を伴わぬ学者は何に似ているか?」と尋ねた。答えて曰く、「蜜のない蜂のようである!」と。(以下省略、第八章71)

「その信心の耳を遠く造られた者にどうして聞くことができよう!幸福の輪索を引きずるものは行くまいと思っても行かずにいられまい!」(以下省略、第八章90)

最後にサーディーは、自由(絲杉)と永遠不変なるものをとりあげ、それと対比させながらカリフ殺害について一言だけふれる。

「人々が哲人に問うた。至尊至大の神が造り給うた名高く、果実を結ぶあまたの樹々のうち、実のない絲杉のほかに一として自由であると呼ばれるものがないのはいかなる理由か?」と。答えて曰く、「どの樹も実を結ぶ時が定まっている。かように定まった季節の間実を以て繁茂し、その時が去ったら凋落する。そして絲杉にはこうしたことがさらになく、常に麗しい。囚われないものの性質もこの通りである!」と。
  遷り行くものに意をかけるな、ディジレの河(ティグリス河)は
  皇教(カリフ)のない後の世もバグダードを過って流れよう!
  もし汝が手を以て為し得るなら、棗椰子のようにおおらかであれ、
  もしまた手を以て為ることができぬなら、絲杉のようにものにとらわれるな!(第八章103)

そして心のひろさを讃えながら『薔薇園』全体を締めくくる。
「二人の人が死んで悔いを遺した。一人は持ちながら享楽まなかった。今一人は知りながら履行なわなかった!
  自分の欠陥を語るに努めない、
  博識の守銭奴を人は知るまい!
  心の裕い者が百の罪を犯そうとも、
  その仁行は欠陥を覆い隠そう!」(第八章104)

スーフィズム探求⑦ーーサーディーの『薔薇園』から

2009-03-06 00:03:14 | イスラーム理解のために
時代背景なども含めルーミーの『語録』を一通り読んでみたが、続いては同じくスーフィズムの詩人サーディーの作品『薔薇園』をみてみよう。まずは『イスラーム辞典』(岩波書店)によってサーディーに関する基礎的な事実を確認する。

「教訓文学と恋愛叙情詩の巨匠。ファールスのアタベク、アブー・バクル・イブン・サードにちなんで、雅号をサーディーとする。シーラーズ生れ。バグダードのニザーミーヤ学院で学問を修めた後、ダマスカス、ヒジャーズ、北アフリカを旅行。そこで得た知識と経験を生かし、1257年にペルシア語で『果樹園』を、さらに翌58年にペルシア散文学の最高傑作である『薔薇園』を著す(一部省略)。」
なお、サーディー(Sa'di)の名の日本語表記に関してはサアディー、サァディーなどがあるが、小ブログでは『イスラーム辞典』に合わせ「サーディー」を採用する。また作品『薔薇園』も「グリスターン」「ゴレスターン」といった複数の表音表記があるが、混乱を避けて、基本的に『薔薇園』で統一する。

さて、サーディーに関し私がもっとも興味をそそられるのは、彼が1210年頃~92年頃の人で(年代は『イスラーム辞典』による)、とすれば彼の生きた時代はルーミー(1207年~73年)とほとんど重なるということだ。したがって社会的背景に関して、ルーミーについて言えることは、サーディーにもそのまま通用する。13世紀のイスラーム社会(ペルシア社会)には、やはりスーフィズムの大詩人・思想家を次々と生み出す特異な要素があったのではないだろうか。

サーディーの生地、生国についても少しフォローしておこう。ファールスというのは、現在のイランのペルシア湾岸地域で、ブワイフ朝崩壊後、セルジューク朝に組み込まれていた。アタベクもしくはアタ・ベクは、ほんらい王子の傅育係(摂政と訳されることもある)で、王子の成人・即位後強い影響力をもち、その報償としてセルジューク朝の領地内に自律的な封土を与えられ、「アタベク」の称号のまま、その封土の実質的君主としてその土地を実効支配した。シーラーズはその主邑として栄えていた。14世紀の大詩人ハーフィズ(1326年頃~90年頃)もシーラーズの出身である。詳細不明ながら、モンゴル侵入後、ファールスのアタベク政権はモンゴル系のイル汗国に従属することで長らえたものとみられる。サーディー自身も、イル汗国の宰相らの庇護を受けている。

次にサーディーについての伝記的事実だが、彼が亡くなったのが1191-2年頃というのは確実だが、生年は不明で、100歳以上まで生きたとする説もある。『薔薇園』の翻訳者・蒲生礼二氏は、彼が100歳以上生きたという伝承を支持し1184年頃の生まれと推測している。若い頃父を失い、続いて母も亡くし、ファールスの君主の庇護によりバグダードに出てニザーミーア学院に学んだ。1226年から56年までは、スーフィー教団の托鉢僧としてイスラーム世界を東西に放浪した。ちなみに托鉢僧にあたるペルシア語は「ダルヴィーシュ」もしくは「デルヴィーシュ」だが、日本ハムのダルヴィッシュ投手の名前はこの言葉に由来している。さてサーディーは長い放浪の後、56年に故郷シーラーズに戻り、57年に『果樹園(ブースターン)』、58年に『薔薇園』を次々に発表し、ペルシアを代表する詩人の地位を不動のものにした。なお彼の帰郷と詩集発表の時期は、モンゴルの侵入の大動乱期で、前にも書いたように58年にはアッバース朝カリフが殺害されているが、この動乱とサーディーの動向との関連や反響は不明。

『薔薇園』には、澤英三氏(岩波文庫、1951年)と蒲生礼一氏(東洋文庫<平凡社>、1964年)の二種類の邦訳があるが、蒲生氏の訳の方が明晰で読みやすいので、小ブログの『薔薇園』紹介は基本的に蒲生氏訳によるものとし、不明箇所について澤氏の訳を参照することにしたい。

スーフィズム探求⑥ーールーミーがみた奇蹟、信仰、コーラン

2009-03-04 00:18:06 | イスラーム理解のために
ごく簡単ではあるがスーフィズム興隆の背景をみてみたことで、ようやく『ルーミー語録』に正面から挑戦することができそうだ。

「今ここに集まっているもののうち誰かが、ここからメッカの聖所まで、仮りに一日で、いや一瞬にして行ってしまったとしとても、それはさして不思議なことでもないし奇蹟でもない。それしきの奇蹟なら砂漠に吹き荒ぶ熱風だってやっている。風は一日で、一瞬で、どんなところへでも吹いてゆく。
 本当に奇蹟と言えるのは、人が卑い段階から高い段階に昇らされるということだ。あんなところから出発して、こんなところまで辿り着いた、それが奇蹟なのだ。もともとわけも分からなかったものが理性的に考えるようになり、無生物が生命体となったことだ。考えてみれば、そなたも元来は土塊であり無機物だった。それが植物の世界に連れてこられた。植物界から旅を続けて血塊となり肉片となり、血塊と肉片の状態から動物界に出、動物界から遂に人間界に出てきた。これこそ奇蹟というものではなかろうか。
 神はこの長い旅をそなたが無事終えるように取り計らって下さった。途中でいろいろな宿に泊り、いろいろな道を取りながら、はるばるここまでやってきた。が、その間、そなたは自分でここへ来たいと思ったこともなかった。自分でどの道を選ぼうとか、どうやって辿り着こうとか考えたことも想像したこともなかった。ただ、ひとりでにここまで連れてこられてしまったのだ。だが、自分がここまで来たのだということだけは、まごうかたない事実としてそなたにも分っている。同じように、これとは違った種々様々な世界がまだ幾つもあって、やがて、そこにも連れてゆかれるのだ。」(談話其の26)

神秘主義といっても、ルーミーはとりたてて特別なことを言っているわけではない。人間の精神状態についても同じこと。ルーミーは、「神を崇める」という言動をけして特別視しない。いやそれどころか、「神を崇める」ことは「知識」だとしてそれを斥けさえする。

「人間の精神には三つの状態がある。第一の状態においては、彼は神のことなど全然関心がない。なんでもやたらに有難がって崇める。女でも男でも、財宝でも子供でも土でも。だが神だけは崇めない。
 少しばかり知識ができ、ものが分ってくると、今度は神だけしか崇めない。
 ところがこの状態がそのまま先に進むと、急に黙り込んでしまう。もう「私は神様を崇めない」とも「神様を崇める」とも言わぬ。そんな段階は二つとも超えてしまったからだ。こういう人々からはなんの声も世間には響いてこない。
 神はそなたのもとに現在するのでもなく、また不在なのでもない。その両方の、つまり現在と不在の創造主なのだ。だから両方を超えておられる。もし現在することが神の本性であるなら、不在ということは起らないはず。だが神の不在は厳然たる事実である。(もし現在しておられる時でも)実は現在しておられないのだ。というのは「現在のうちに不在がひそむ」からである。だから神は現在するとも不在であるとも言えない。もし現在と不在が神の属性であるなら、反対のものが反対のものを生むことになってしまう。なぜなら、不在の状態において現在を神が創造するとせざるを得ないから。しかし明らかに現在は不在の反対である。そしてこのことは不在の側から見ても同じことである。
 反対のものが反対のものを生み出すというのは不合理だ。しかし神が自らに似たものを創り出すと考えることもできない。「神に似るものは絶対にない」と言われている通りである。なぜなら、もし似たものが似たものを創り出すとすれば、当然、「根拠もないのに一方だけを重んじる」(これはイスラーム神学の有名な命題で、神が唯一でなく、二神ありとすれば、その一方だけをなぜ特に絶対者として立てるのか、根拠がないということを意味する)ことになってしまうし、また「何かが自分自身を創造する」(神が神自らを創造する)ということにもなり、これはもちろん承認できるようなものではない。
 だがここまで考えてきたら、もうそれ以上はああだこうだと考えないがいい。立ち止まってしまうことだ。理性はここではもう働けない。大海の岸まで来たら立ち止まるほかはない。もっとも、立ち止まることすらもう自分の力でできることではないのだ。」(談話其の53)

では、聖典『コーラン』はどのように位置づけられるのか。それは、読んだ者が誰でも信仰に入ることができるというような意味において卓越した言語表現が記されているわけではない。ルーミーによれば、『コーラン』は、たとえば先にみた外面的意味と内面的意味の二つの意味作用などをとおして、接する者に応じて容貌を変化させる。『コーラン』にむかう者がその外面的意味にとらわれる限り、その読解は「知識」のレベルにとどまり、どれだけ読んでも真理には到達しない。おそらく、『コーラン』の表層的な読解によってその字句を振りかざすことこそ、ルーミーのもっとも忌み嫌った態度だったのであろう。

「コーランは花も恥じらう新妻のようなもの。面紗(ヴェール)を引いて脱がせようとしても、いっかな顔を見せてくれぬ。
 コーランを幾ら研究してみても、なんの喜びもなく、悟ったということもないのは、こちらが面紗を脱がせそこなったからで、その上、向うはこちらを騙しにかかり、醜い顔を出してみせる。「私、貴方の憶っていらっしゃるような美人じゃなくてよ」というわけだ。どんな顔を出してみせるか、それは向うの思うまま。
 しかし、こちらがやたらに面紗を引っ張ったりせず、向うの満足のいくようにとのみ念願し、そっと畑に水をやるように遠くから世話をやき、向うが一番喜びそうなことを一所懸命やっていれば、何も面紗などはぎ取らなくとも向うから顔を現わしてくれる。」(談話其の65)

信じない者に対し『コーラン』が自己を開示することは絶対にない。しかし信じる者には、『コーラン』はその信仰に応じて信仰を開示する。その意味において、『コーラン』が開示する信仰に限界はない。ルーミーにとって、『コーラン』は一義的な意味作用の伝達を超越した究極の言語を記した無二の存在なのであった。

スーフィズム探求⑤ーーカリフの権威喪失とともに隆盛へ

2009-03-03 00:07:01 | イスラーム理解のために
前々回の記事のなかでは、イスラーム社会のなかにスーフィズムが生じてくる社会心理学的必然性をみてみたが、それに加えて、わたしは社会そのものの変化もこうした心性が生じてくるのに強く影響したのではないかとおもっている。つまり、9・10~13世紀のイスラーム社会を「ルネサンス」と呼んで片付けてしまうだけではなく、その背景にもう一歩踏み込んで、宗教的な現象を捉えてみたいのだ。

     ☆     ☆     ☆

13世紀にいたるイスラーム社会の歴史は、ムハンマド時代(614年頃~632年)、正統カリフ時代(632年~661年)、ウマイア朝時代(661年~750年)、アッバース朝時代(750年~1258年:日本では、752年に東大寺大仏完成供養)に大きく区分される。スーフィズムは、アッバース朝時代のなかほどに生じたことになる。
さて、ウマイア朝とアッバース朝の政権交代は、アラブ社会の二つの有力な家系の対立に、スンニー(スンナ)派とシーア派の宗派的対立、アラブ人とペルシア人の民族的対立などが結びついた複雑なものだが、成立直後のアッバース朝は、751年中央アジアのタラス川付近で唐軍の最前線と武力衝突し、唐軍に勝利を収めている(この戦いは、捕虜をとおして製紙技術がイスラーム圏に伝わったことでも有名である)。
カリフ位の交代(王朝交代)を実現し、辺境で勝利をおさめると、アッバース家は、バグダードを都に定め、当初自分たちを支えていたシーア派に距離を置きながら繁栄を極めていった。
このアッバース朝にとって大きな転機となったのは「ザンジュの乱」と呼ばれる黒人奴隷の反乱で、この反乱は869年~883年にかけて14年間も続き、王朝の基盤を揺るがした。またこの反乱と前後して、イスラーム圏の東部ではターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝が次々と成立し、アッバース朝からの独立を宣言した。一方西部では、エジプトにトゥールーン朝が成立した。
こうしたなかで、かろうじてイラク中部と南部を保持していたアッバース朝のカリフ・ラーディーは、936年、トルコ系の軍人イブン・ラーイクを「大アミール(首長)」に任命して、軍隊の指揮権と王国の統治権を彼に委ねた。イブン・ラーイクは942年に暗殺されたが、その直後の946年にシーア派のダイラム人軍事勢力がバグダードに入城し、カリフをその保護下においたことによって、「アッバース朝カリフによる支配体制は事実上崩壊した」(佐藤次高氏『イスラーム世界の興隆』)。バグダードがこのような混乱状態にあったとき、トルコ系セルジューク族のトグリル・ベクはイラン東部で建国を宣言し、1055年にバグダードに入城した。ここで、トグリル・ベクはアッバース朝のカリフからはじめて「スルタン」の称号を授けられた。「スルタンの保護下におかれたカリフは、実権をもつスルタンにイスラーム法執行の権限をゆだね、みずからは「スンナ派ムスリムの象徴」としての弱い立場に甘んじなければならなかった」(佐藤次高氏、上掲書)。
セルジューク朝は、第2代スルタンのアルプ・アルスラーン(在位1063年~72年)と第3代のマリク・シャー(在位1072年~92年)の時代に最盛期をむかえた。しかしマリク・シャーの没後は、一族のあいだに後継者争いが発生し、帝国の統一は急速に失われていった。キリスト教十字軍の侵入(1098年)がこれに続く(この時期、日本では1185年に平氏滅亡、1192年に頼朝の征夷大将軍就任)。
同じ頃、イスラーム圏東辺の中央アジアではホラズム朝がセルジューク朝から独立し、ペルシア全土へ勢力を拡大していく(1097年頃~1231年)。ルーミーはこのホラズム朝支配地の出身である。
その後、ホラズム朝を滅ぼし、その勢いにのってセルジューク朝の勢力を斥け、バグダードに侵入してカリフを殺害して、アッバース朝を名実共に終わらせたのはモンゴル人であった(1258年)。イスラーム社会、なかでも主流のスンニー派とって、カリフ殺害は、一アッバース王朝の終焉を告げるだけでなく、ムハンマド以来連綿と続いてきた正統的イスラーム世界の崩壊を象徴する大事件であった(シーア派はウマイア朝カリフの正統性もアッバース朝カリフの正統性も認めていない)。
[以上のイスラーム史の記述は、佐藤次高氏『イスラーム世界の興隆』(「世界の歴史8」、中央公論社、1997年)による。]

     ☆     ☆     ☆

イスラーム世界、なかでもアッバース朝の歴史を長々とみてみたが、現在私は、アッバース朝カリフの権威喪失の歴史は、そのままスーフィズム興隆の歴史につながるのではないかと考えている。
次第に実質支配権と宗教的権威を失っていくアッバース朝のカリフの存在は、どこかしら平安時代中期以降の日本の天皇と似ている。そしてカリフに代わって社会を実質的に支配する大アミールやスルタンは、日本で言えばまさに「征夷大将軍」であり、その統治は「幕府」と呼ぶべきものであろう。しかし軍事力を根拠とし、支配の根本的な正当性と権威を欠くアミールやスルタンの統治は極めて不安定なものでしかなく、その関心は、宗教や社会の安定よりも自己保全にむかう。いきおい、宗教的規制は弛緩し、社会道徳も低下せざるを得ない。こうした情勢のなかで、アッバース朝が奉ずるスンニー派の正統主義に異を唱えて登場し、民心を収攬していったのがスーフィズムではなかったか。
加えて13世紀にはモンゴルという新たな異民族が登場し、イスラーム社会の権威の核であるカリフさえ殺害してしまう。私は、スーフィズムの思想や運動に、どこかしら日本の末法思想に通ずるような、世界崩壊への不安感への反応すら感じてしまう。
これに対するアッバース朝カリフの対応は、当初はスーフィズムを弾圧し、そのなかでも目立った存在であったハッラージュを処刑するといった強権的なものであったが、次第にスーフィズムを弾圧する意志を喪失していったのであろう。
以上、前々回記したスーフィズム興隆の歴史、あるいは前回みたような「イスラーム」の根源性の探求は、こうした大きな社会変動と合わせて読むべきものと私は考える。

スーフィズム探求④ーー根源的イスラーム性

2009-03-02 01:16:10 | イスラーム理解のために
ここまで、「イスラーム」もしくは「ムスリム」という言葉を非常に一般的な意味でつかってきたが、議論を先にすすめるため、ここで、『ルーミー語録』の翻訳者・井筒俊彦氏によって、「イスラーム」や「ムスリム」という言葉が根源的にはなにを指すか確認しておこう。

     ☆     ☆     ☆

「元来「イスラーム」はアラビア語では前イスラーム的に長い歴史をもつ言葉であって、預言者ムハンマドが使いはじめた言葉ではない。この語は、特に「アスラマ」(aslama)という動詞の形で、ジャーヒリーヤ時代(イスラーム教啓示以前の無道時代)の文献に盛んに使われている。そしてその意味は、一般的に人が自分の大事な所有物、手放すのがつらいような貴重な所有物を他人の手に渡してその自由処理に任せるということである。ただ、ジャーヒリーヤ時代では宗教的な関連は全然考慮の内になかった。純粋に人間と人間との社会的行為だった。
 それをムハンマドがーーあるいはイスラーム自身の立場から言うと、神がムハンマドに下した啓示を通じてーー宗教的次元に移して使った。そこに新しさがあった。すなわち、今まで人間相互の関係にすぎなかった「イスラーム」が神と人間との間の実存的関係となったのだ。
 この新しい「イスラーム」の意味構造ではイスラーム(引き渡し)という内的行為の主体は人間であり、それを受ける相手は神、そして引き渡される貴重品は人間の自我である。つまり、人間が彼にとってかけがえのない大切なものである自分自身を、そっくり神に引き渡すこと。自分に関わる一切を神の手にゆだねて、なんでも向うのなすがまま。これがイスラームという宗教における宗教的実存の最も根本的な姿勢である。そしてこのように自分をすっかり神に任せてしまった人を「ムスリム」(muslim)という。
 ムスリムといえば、後の時代ではたんに回教徒、つまりイスラームの信徒を指す名称で、キリスト教徒とかユダヤ教徒とかいうのと少しも違わないごく普通の名詞だが、もともとは今言ったような宗教的実存としての深い意味があった。ついでながらmuslimとislamとは同じ語根から派出した二つの違った形で、前者は形容詞(より正確には、さっき説明した、これも同じ語根から出た動詞aslamaの能動分詞形)、後者は名詞である。
 なお、このようにislam、muslim、aslamaはいずれもSLMという同じ語根から出た三つの違う語形にすぎない。言い換えると、これらの語は、同じ一つの精神的事態を三つの異なる側面から捉えて言語的に固定したものにすぎない。しかし、動詞aslamaには、他の二つには見られない特殊な含意がある。それはこの動詞が、意味の上で、文法学者のいわゆるinchoative「開始態」、つまりある新しい事態の始まる時点を指示する動詞であるということだ。すなわちaslamaとは、今まで神に自分を任せることを拒否して来た、あるいは怠っていた人が、突然ある瞬間からその否定的態度を棄てて、全く新しい態度に変ることを意味する。そこには一つの実存的飛躍がある。新しい人の誕生だ。
 この意味において、aslamaという内的行為は、それを敢行する人の生涯をきっぱり二つの部分に割って、いわば白・黒に染め分ける転換点をなす。それはその人の内面的生活に決定的な刻印を捺す実存的決断の瞬間である。そしてこの実存的決断の時点を経たその後の永続的状態をmuslimという形容詞が表わす。同じ語根から派生した言葉ではあるが、muslimには「開始態」的な意味はない。ある決定的な瞬間に、決定的な実存的飛躍が行われて、新しい内的事態が生起する、それがaslamaであり、それを機縁として誕生した新しい人の、それからあと一生の宗教的なあり方がmuslimなのである。」(井筒俊彦氏『イスラーム生誕』、中公文庫、第二部「イスラームとはなにか」2)

     ☆     ☆     ☆

このようにしてみてくると、ルーミーらスーフィーの言葉や思想の背景にあるのは、『コーラン』やムハンマドの言動の背後にある根源的イスラーム性の探求ではなかったかとおもえてくる。

スーフィズム探求③ーーイスラームのルネサンス

2009-03-01 00:54:16 | イスラーム理解のために
ハッラージュからルーミーにかけてのスーフィズム(イスラーム神秘思想)の系譜は、『ルーミー語録』を読めばわかるように、イスラーム思想としては極限に近い、かなり異端臭の強い系譜なのであるが(現にハッラージュはその発言が原因で処刑されている)、それはイスラーム社会のどのような動きに対応して出てきたものなのであろうか。個々の思想家や詩人の言動もさることながら、私はこうした思想を生み出した社会状況に興味がわく。二人の生きた時代は、日本でいうとちょうど平安時代から鎌倉時代にかけて(菅原道真の大宰府左遷が901年)であり、天台宗、真言宗を中心とする国家仏教体制に対し、浄土仏教が研究され、それが民衆のあいだに広がっていく時期にあたるのだが、イスラーム社会の場合はどうだったのだろうか。

「9世紀以降、イスラーム諸学を身につけたウラマー(知識人)は、礼拝・断食・巡礼の指導者(イマーム)、食事の種類・隣家とのもめごと・あるいは遺産相続についての相談役、法学や神学などの教授、裁判官(カーディー)、政府の法律顧問などとして、しだいに社会的な影響力を増大しつつあった「コーラン」や伝承(ハディース)にもとづく立法の権限はウラマーにあり、また政治の公正さ(アドル)や不正(ズルム)の程度を判断することも、彼らの学問と良識にゆだねられた。こうしてウラマーの社会的発言力が高まると、彼らはそれまで「コーラン」や預言者の伝記をやさしい言葉で語って歩いた物語師(カーッス)をモスクの中庭や市場の通りから追放した。ウラマーが練りあげた学問を正しく理解しない物語師は、当局から民衆のイスラーム理解を惑わす邪魔者だとみなされたのである。たしかにウラマーたちの学問的な努力によって、イスラームの神学や法学は高度な発達をとげ、信仰生活を律する六信・五行の規定も細かく定められた。しかし民衆にとって、神(アッラーフ)はもっと身近に感じられるはずのものであった。また、都市社会の上層部をしめる富裕者が贅沢三昧の生活を送っていることも、あるべき信仰の道をはずれているとみなされた。羊毛の粗衣(スーフ)をまとい、禁欲と清貧のうちに、修行によって神への愛を深め、さらに神との一体感をえようとする神秘主義者(スーフィー)の登場は、このような民衆意識の明らかな反映であった。(中略)後世のスーフィーたちは、この「神への愛」の観念を拠りどころにして、瞑想と修行によって神に近づき、さらに神との合一の境地(ファナー)に達しようと努めた。ハッラージュは、「われは真理(神)なり」と叫んだために、バグダードで焚死の刑に処せられたが、これは「われ」と「神」との区別が不分明となる究極の神秘体験をさすものと解釈されている。」(佐藤次高氏『イスラーム世界の興隆』<世界の歴史8>、中央公論社、1997年)

「都市の職人や商人たちは、夜になると市中の道場(ハーンカーあるいはザーウィヤ)に集まり、聖者の指導のもとに神との一体感を求めて修行を積み重ねた。修行の方法は、体を揺すりながら神の名をくり返し唱えたり、笛の音に合わせて旋舞するなど、さまざまであった。また修行の合間を利用して、指導者が過去の聖者の物語をやさしく話して聞かせる講話の時間も設けられていた。はじめのうちは、学識あるウラマーは、これらの神秘主義者たちの活動に対し、正統なイスラーム信仰に反する行為であるとして厳しい批判をくわえた。しかし理性による信仰を強調し、高踏的な教義を守ろうとするだけでは、燎原の火のように民間に広まっていく神秘主義の勢いを止めることはできなかった。」(佐藤次高氏、前掲書)

「ドイツのイスラーム史家アダム・メッツは、10~13世紀ごろの時代を「イスラームのルネサンス」と呼ぶ。これは、神秘主義思想が民間に流行し、各地に教団が結成されることによって、イスラームのエネルギーがふたたび興隆期をむかえたからである。教団員の熱心な活動によって、都市の下層民や農民の改宗がすすみ、西アジア社会のイスラーム化がいちだんと進行した。また、教団員は商人の後を追うようにしてアフリカ、トルコ、中央アジア、インド、東南アジアへと出向いてゆき、イスラームの定着と拡大に大きく貢献した。現地の習俗を取り入れながらイスラームを柔軟に説いたことが、彼らの成功の秘訣であったといえよう。」(佐藤次高氏、前掲書)

周知のように、現在世界最大のイスラーム人口をかかえるインドネシアへの伝道もスーフィー教団によって行われている。
またこうしてみると、ほぼ同じ時代の日本における法然や親鸞、そして踊り念仏の一遍が果たした役割(注1)とスーフィー教団の役割は、やはり非常に似ているような気がする(体制によって弾圧されたという点も)。
それにしても、体制派と神秘主義者の見解は、『コーラン』の解釈一つをとっても極端に異なるものである。それをルーミーによって再度確認してみよう。
そのためまずは『コーラン』を引用する。

「我ら(神の自称)がかの聖殿を万人の訪れくる場所と定め、無危害地域に定めた時のこと。「汝らアブラハムの立処(カアバ神殿の中にある聖石。かつてアブラハムが立った所と伝えられる)を祈祷の場所とせよ」と(我らは命じた)。」(『コーラン』2章119節)

ルーミーは、この節には外面的・内面的の二つの意味があるが、一般の学者・註釈家はその外面的な意味にしか気づかないという。

「コーランを言葉の外面的意味に取って解釈する註釈家たちの意見によると、さっき引用したコーランの一節(2章119節)で「聖殿」とあるのはカアバ、すなわちメッカの神殿のことである、という。確かに、カアバの聖域に逃げ込んだ罪人は罰を免れて身の安全を保証され、そこでは一切の狩猟は禁制であり、何人たりともこれに害を与えてはならない(これはイスラーム以前の無道時代にまで遡る古いメッカの聖域の掟)。神が選び給うた特別の場所だからである。この解釈は正しいし、それはそれとしてまことに結構である。が、要するにこれはコーランの外面的意味にすぎない。聖典の秘義を知る人々の解釈は違う。彼らによれば、「聖殿」とは人間の心の深奥ということである。従って(アブラハムの)言葉は次の如き意味に取られなければならない。すかわち、「神よ、我が内面から、欲情の誘惑と雑念とを取り除き給え。暗い情念とよからぬ妄念から清め給え。我が胸に恐怖の影もとどめず、心は明るい静謐に充ちて、ひたすら汝の啓示の下るべき場所となりますように。悪鬼らとその囁きの近づくすべもなき場所となりますように」と。神は天上の諸処に流星を置いてサタンらを拒け、天使たちの秘密の語らいを盗み聴きしないように計らい給うた、という。だからこそ天使たちは、その秘密を何者にも伺われることなく、あらゆる災害から超然としていられるのだ、という。この伝承に準じて解釈すれば、(アブラハムの祈りは)次のような意味になる。「神よ、(天に流星を置き給うた)その如く、我が内心に汝の御配慮の監視を置き、悪鬼どもの囁きと欲情の奸計を遠ざけ給え」と。これが聖典を内的に理解し、その玄旨を識る人々の解釈である。」(『ルーミー語録』~談話其の44) 

解釈の内面化もここまですすめば、これはこれで、やはり容易には近づきがたい文字どおりの「神秘主義思想」というしかないような気がする。しかし、この平俗さと玄妙さが渾然一体となった不可思議さが、当時の民衆にはたまらない魅力だったのではないだろうか。


(注1)日本の仏教史において、法然、親鸞、一遍ら平安末から鎌倉時代にかけての浄土教は、従来の体制仏教、特に密教と対比的に語られることが多く、またその際に密教の「難」に対して浄土教の「易」が強調されることが多い。またその場合、多くは、浄土仏教は「易」であるがゆえに民衆的であるとされる。しかし私は、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名号を唱えれば唱えた者は救済されるという浄土仏教の思想は、言語神秘主義と深く結びついており、その意味では、密教とも通底していると考えている。また信仰の難易に関しては、たしかに、「ナムアミダブツ」と発音すること自体は非常に容易であるが、この発声行為が救済と結びつくということを信じることは逆に極めて困難だと考える。これについては、親鸞も『教行信証』に浄土教は難信だと記している。