ブログの更新がまたとどこおっているが、とりあえず、パゾリーニ論にいちおう区切りをつけておこう。
高校生時代の私がみたパゾリーニ映画は『テオレマ』『王女メディア』『デカメロン』の三作だった。それ以外の作品はみようと思ってもみることができなかった。
ただ当時講談社から、パゾリーニが映画撮影と並行して書き上げたrecit(レシ、物語)『テオレマ』が刊行されており、こちらは何度も何度もよく読んだ。それともしかすると『生命ある若者たち』というパゾリーニが若い頃に書いた小説も読んでいたかもしれない。レシ『テオレマ』も『生命ある若者たち』も、今、私の手もとにはないのだが、レシ『テオレマ』はいわゆる映画の「原作」のようなものではなく、ある意味で映画から独立した、パゾリーニの思想を直接伝える媒体となっていた。これによってパゾリーニの「言葉」に触れていたことの影響は強かったと思う。
今手もとに映画『テオレマ』が公開された当時のパンフレットがあるので、レシ『テオレマ』に代わるものとして、このパンフレットのなかからパゾリーニの言葉(Q&A)を抜き出しておきたい。きわめて短いものだが、それでも、パゾリーニの考えははっきりと記されているように思う。
* * *
「現代生活における前後関係の中に大きな寓話的伝説が常に存在していることに、私はつねに心を奪われてきましたが、それ以上に、聖なるものがわれわれの日常生活に絶えず干渉してくることが気になっていました。私が文字で書いたり、映画撮影した私の作品の中で抉りだそうと試み、「テオレマ」の中で寓話の形で説明しようとするのは、異議をさしはさむことができないと同時に理性的な分析からすりぬけてしまうこの聖なるものの存在です。」
ーー数学的な証明と類似するようなお伽噺と結びつく過度の単純化を心配なさらないのですか?
「私は今なお表現としての詩情だけに心を惹かれますし、お伽噺は、その意味するものが複雑であればあるだけ詩的だと思っています。私はリアリズムをもってしては何も見ることができない現実を見出します。私が映画にますます惹きつけられるのは、この現実が私の唯一の一大関心事だからです。」
ーーあなたはスキャンダルを探し求めていられるのですか?
「神はスキャンダルなのです。キリストは、もし再来したとしたら、スキャンダルとなるでしょう。彼は彼の時代にもそうであったし、今日生きていてもそうなるでしょう。私の映画に出てくる見知らぬ男ーーテレンス・スタンプが演じ、その男前の点からも明白なのだがーーは、現実の前後の関係の中に挿入されたイエスでもなければ、エロスでもないのです。それは、具体的な徴候、不可思議な様相によって、人類をその誤った安泰から抜けださせる冷酷な神の、エホヴァの使者なのです。それは、ごく僅かの費用で手に入れ、そのお陰で、正統派的な考えを持つ人たちやブルジョワ階級の人たちが生きているというよりも草木のように無為に世を送っている良心というものを破壊する神なのです。」
* * *
このなかで私がひかれるのは、「お伽噺は、その意味するものが複雑であればあるだけ詩的だと思っています。私はリアリズムをもってしては何も見ることができない現実を見出します」ということと、「神はスキャンダルなのです」ということの二点だ。この二点だけをとりだしても、パゾリーニは21世紀の現代の安閑とした状況のなかに鋭く屹立していると思う。
ところで、パゾリーニのいう「お伽噺」が先に書いた「解釈学」の問題と直結してくるのはいうまでもないが、「神」も、パゾリーニにとっては同じ問題を含んでいたと思う。つまり、それは「善なるもの」などではけしてなく、逆に、それを観てしまったもの、知ってしまったものを破壊してしまう可能性のある根源の「叫び」だ。そして、さまざまな現象に対してつねに一義的な「意味」を求めてやまない近代の異性愛社会を突き崩していく可能性を秘めた多義的で流動的なもの以外のなにものでもない。したがってパゾリーニにとっての性(同性愛)とは、世界に対して異議を申し立て、世界そのものを変革していく根源的な役割を担うものであった。パゾリーニのいうスキャンダルとは、この根源的な多義性・流動性そのものであり、これにくらべれば、世に言う一義的なスキャンダルなどスキャンダルでもなんでもない。ゆえに性の表現は、多義性を求めてお伽噺(寓話)へと回帰していく。
高校時代の私は、パゾリーニのメッセージをほぼこのように受け止めていたように思う。
高校生時代の私がみたパゾリーニ映画は『テオレマ』『王女メディア』『デカメロン』の三作だった。それ以外の作品はみようと思ってもみることができなかった。
ただ当時講談社から、パゾリーニが映画撮影と並行して書き上げたrecit(レシ、物語)『テオレマ』が刊行されており、こちらは何度も何度もよく読んだ。それともしかすると『生命ある若者たち』というパゾリーニが若い頃に書いた小説も読んでいたかもしれない。レシ『テオレマ』も『生命ある若者たち』も、今、私の手もとにはないのだが、レシ『テオレマ』はいわゆる映画の「原作」のようなものではなく、ある意味で映画から独立した、パゾリーニの思想を直接伝える媒体となっていた。これによってパゾリーニの「言葉」に触れていたことの影響は強かったと思う。
今手もとに映画『テオレマ』が公開された当時のパンフレットがあるので、レシ『テオレマ』に代わるものとして、このパンフレットのなかからパゾリーニの言葉(Q&A)を抜き出しておきたい。きわめて短いものだが、それでも、パゾリーニの考えははっきりと記されているように思う。
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「現代生活における前後関係の中に大きな寓話的伝説が常に存在していることに、私はつねに心を奪われてきましたが、それ以上に、聖なるものがわれわれの日常生活に絶えず干渉してくることが気になっていました。私が文字で書いたり、映画撮影した私の作品の中で抉りだそうと試み、「テオレマ」の中で寓話の形で説明しようとするのは、異議をさしはさむことができないと同時に理性的な分析からすりぬけてしまうこの聖なるものの存在です。」
ーー数学的な証明と類似するようなお伽噺と結びつく過度の単純化を心配なさらないのですか?
「私は今なお表現としての詩情だけに心を惹かれますし、お伽噺は、その意味するものが複雑であればあるだけ詩的だと思っています。私はリアリズムをもってしては何も見ることができない現実を見出します。私が映画にますます惹きつけられるのは、この現実が私の唯一の一大関心事だからです。」
ーーあなたはスキャンダルを探し求めていられるのですか?
「神はスキャンダルなのです。キリストは、もし再来したとしたら、スキャンダルとなるでしょう。彼は彼の時代にもそうであったし、今日生きていてもそうなるでしょう。私の映画に出てくる見知らぬ男ーーテレンス・スタンプが演じ、その男前の点からも明白なのだがーーは、現実の前後の関係の中に挿入されたイエスでもなければ、エロスでもないのです。それは、具体的な徴候、不可思議な様相によって、人類をその誤った安泰から抜けださせる冷酷な神の、エホヴァの使者なのです。それは、ごく僅かの費用で手に入れ、そのお陰で、正統派的な考えを持つ人たちやブルジョワ階級の人たちが生きているというよりも草木のように無為に世を送っている良心というものを破壊する神なのです。」
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このなかで私がひかれるのは、「お伽噺は、その意味するものが複雑であればあるだけ詩的だと思っています。私はリアリズムをもってしては何も見ることができない現実を見出します」ということと、「神はスキャンダルなのです」ということの二点だ。この二点だけをとりだしても、パゾリーニは21世紀の現代の安閑とした状況のなかに鋭く屹立していると思う。
ところで、パゾリーニのいう「お伽噺」が先に書いた「解釈学」の問題と直結してくるのはいうまでもないが、「神」も、パゾリーニにとっては同じ問題を含んでいたと思う。つまり、それは「善なるもの」などではけしてなく、逆に、それを観てしまったもの、知ってしまったものを破壊してしまう可能性のある根源の「叫び」だ。そして、さまざまな現象に対してつねに一義的な「意味」を求めてやまない近代の異性愛社会を突き崩していく可能性を秘めた多義的で流動的なもの以外のなにものでもない。したがってパゾリーニにとっての性(同性愛)とは、世界に対して異議を申し立て、世界そのものを変革していく根源的な役割を担うものであった。パゾリーニのいうスキャンダルとは、この根源的な多義性・流動性そのものであり、これにくらべれば、世に言う一義的なスキャンダルなどスキャンダルでもなんでもない。ゆえに性の表現は、多義性を求めてお伽噺(寓話)へと回帰していく。
高校時代の私は、パゾリーニのメッセージをほぼこのように受け止めていたように思う。