今朝は9時少し前に起床。派遣のアルバイトが休みなので、『人間の精神について』のテクストに向かう。そのなかに、文法的に不可解で、日曜日からいくら考えてもどうしても意味のとれないフレーズがあったのだが、英訳を参照することで疑問は氷解した。
私が理解できなかったのは、下方に引用している仏文テクストの中程の「si perçant au fond des coeurs(心の底にこれほどまでも侵入する)」という箇所だったのだが、英訳を読むと、仏語のsiにあたるifの直後にコンマがあってフレーズが二分され、「perçant au fond des coeurs」が挿入句という扱いになっている。これなら私も意味がわかる。要するに二日ほど理解できなかったフレーズは、おそらくテクストの誤植なのだ。
【仏語テクスト】
Voilà ce qui différencie, de la maniere la plus nette, la plus précise et la plus conforme à l'expérience, l'homme vertueux de l'homme vicieux : c'est sur ce plan que le public ferait un thermometre exact, où seraient marqués les divers degrés de vice ou de vertu de chaque citoyen, si (,) perçant au fond des coeurs, il pouvait y découvrir le prix que chacun met à sa vertu. L'impossibilité de parvenir à cette connaissance l'a forcé à ne juger des hommes que par leurs actions ; jugement extrêmement fautif dans quelque cas particulier, mais en total assez conforme à l'intérêt général, et presque aussi utile que s'il était plus juste.
【英訳】
This is what distinguishes the virtuous from the vicious man, in a manner the most clear, precise, and conformable, to experience ; on this plan the public might make an exact thermometer, which would shew the various degrees of virtue and vice in each citizen, if, by penetrating to the bottom of the heart, we. could discover there the value that each sets on his virtue. But the impossibility of arriving at this knowledge forces us to judge of men only by their actions,—a judgment extremely faulty in every particular, but on the whole sufficiently conformable to the general interest, and almost as useful as if it were just.
【試訳】
「以上のようにして、もっとも明瞭、もっとも正確、もっとも経験に合致した方法で有徳な人間と不徳の人間が区別される。心の底に侵入しながら、もしそこに各人が自分の美徳につける代価を見いだすことが可能だったならば、民衆が、各市民の悪徳もしくは美徳のさまざまな度合いが示される正確な温度計をつくっていたのは、そうした見取り図にもとづいてである。こうした認識に到達することの不可能さは、人間をその行動によってしか判断しないよう民衆を強制した。こうした判断は、なんらかの特別な事例においては非常に誤りに陥りやすい。しかし全体としてみれば、一般的な利害関心に十分合致しており、あたかももっとも公正であった場合のように有用である。」
☆ ☆ ☆
とりあえず問題が解決したところで、昼食後、次の問題を解決するために図書館に出かける。というのは、上に引用したフレーズの少し前に、アウグスティヌスからの引用文があって、それがどういう文脈からの引用かわからなかったので、その確認のためだ。つまり、引用文「Secudum id quod amplius nos delectat operemur necesse est(行動において、われわれは必然的にわれわれに最大の快楽を与えるものに従う)」が、新約聖書のガラテア書の注解にもとづくものであることはウィキペディアなどで調べてすでにわかっていたのだが、肝心のアウグスティヌスの注解がどういう本なのかよくわからないので、その確認が目的だ。
しかし図書館に行って調べてみると、日本語訳のアウグスティヌス著作集には、目当てのガラテア書注解は含まれておらず、探求はふりだしにもどることとなった。
そこでもう一度ネットで細かく調べてみると、アウグスティヌスのこのフレーズは、キリスト教のジャンセニスト(ヤンセン派)が自説のよりどころの一つとしたものであることがわかり、このため『人間の精神について』の著者も、(宗教的な紛糾を怖れて?)あえてラテン語のままで引用したのではないかという事実が見えてきた。
要するに、ジャンセニストは、アウグスティヌスの権威を借りて、「人間の行動を決めるのは直接的には快楽であり、人間は快楽に反して行動することはできない」としたうえで、その快楽を定めるのは神であり、したがって人間は、快楽にもとづいて行動しているときに最終的には神の意のままに行動しているということを主張しようとしたのだとおもわれる。これはどういうことかというと、快楽を感じることなく、世間体などのために無理に善行を行っても、そのような行為は無意味であり、そういう人間を、神は救済へと定めていなかったという特異な救済論につながってくる。
このためこの独自の快楽論は、17~18世紀にかけて、善行を否定するものとしてキリスト教社会のなかでかなり物議をかもしたのだが、著者は、その議論をもう一度ひっくり返して、ジャンセニストが想定していた神の決定抜きにこの言葉を読み込もうとしているのだと思われてきた。すると、おそらくもともとのアウグスティヌスの文脈では、信仰の快楽を表現していたと思われる表現が、単純に、エピクロス的な快楽主義の表明と解釈できるのだ。
冒頭の引用文のすこし先の部分で、著者は、こうした「快楽主義の哲学」を、次のようなかたちで政治論につなげていく。
☆ ☆ ☆
「もし快楽が人間の探求の唯一の対象であるならば、彼らに美徳への愛を吹き込むためには、自然を模倣するだけでよい。快楽はその意志を告げ、苦しみは禁止を告げる。人間はそれに従順に従う。同じ力によって武装しながら、なにゆえ立法家は同じ結果を生み出さないのであろうか。もし人間に情念がなかったならば、彼らを善良にする手段は何もなかったであろう。しかし、啓発されたというよりは尊敬すべき誠実さをもった人々が自分を高めるときに反対した快楽への愛は、個人の情念を一般的な善へとつねに導くことができる歯止めである。美徳に対する大半の人間の嫌悪は、それゆえ、彼らの本性(自然)の堕落の結果ではなく、立法の不完全さの結果である。あえて言うならば、あまりにもしばしば悪徳に快楽を混入しながら、われわれに悪徳をかきたてるのは立法である。立法家の大きな技術とは、それらを分離し、極悪人が罪から引き出す利得と彼がさらされる苦痛のあいだにいかなる釣り合いもとれないようにする技術である。」