闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

満員電車のようなにぎわい

2010-10-30 08:58:26 | 東欧滞在記
ホテルでしばし休養したのち、いよいよ展覧会のオープニング。美術館に行くと、次々に人がやってくる。いい出足だ。すぐにはじまりかと思いきや、エントランスで開催のセレモニー。
美術館、主催者代表、友人が挨拶して、最後に私にも挨拶の順番が回ってきた。私は、まず作品そのものをじっくり見て頂きたいこと、それと同時に、今回の展覧会のテーマの大きな柱の一つは、日本における表現の自由の問題でもあるので、それをくみ取って頂ければありがたいといったことを話した。
その後ただちに会場の扉があけられると、人々がどっと会場に押し寄せる。信じられないことに、満員電車のようなにぎわいだ。それらの見知らぬ人たちに混じって、昨日会ったフランス人グループのメンバー、皮肉屋のポールさんらの姿も見える。彼らと和気藹々と話していると、見知らぬ人たちが手に手に展覧会のパンフレットをもって押しかけ、友人だけでなく私までサインを求められてしまった。見知らぬ人に話しかけられたりサインを求められたりするのはほんとうにうれしいし、この瞬間に展覧会の成功がかかっていると思うので、一生懸命サインをする。そのうち、ポールさんが人並みをかきわけてやってきて、「あなたの友人の作品はほんとうにすばらしい。心から敬意を表する」と胸に手を当てながら言ってくれた。
そうこうしているうちに、第二会場であるB市のギャラリーでのオープニングの時間が近づき、そちらへ移動。主催者はスタッフもみんな乗れるようにとミニ・バスを用意してくれていたのだが、感激さめやらぬ人々が、自分たちも第二会場へ行きたいと大勢同行。はずむ思いで第二会場へ。

第二会場では、篠○紀信さんの写真が1枚足りないのがとても残念だが、その他はさすがに展示完了。われわれがバスで到着すると、こちらも、すでにもうかなりの人が押しかけている。事前に説明はきいていたが、このギャラリーの来場者は、K市の美術館の来場者よりも年齢が若い。すでに評価の定まった作品を受け身の立場で鑑賞するというより、自分の眼で、作品から何かをつかんでいこうといった熱い雰囲気を感じる。
展示はギャラリーの2階と3階を全部使った2フロアで、展示自体は美術館よりもゆったりしている。作品、写真、資料を所狭しと並べるのではなく、広い空間を活かした配置で、展示自体が1つの作品となっている感じだ。メインの大きな展示室には、篠○さんの写真と関連作品が並べられている。またこのメインの展示室と細い通路を隔てた別室には、今年の文化功労者顕彰が決まった細○英公さんの写真。
3階の特別室は渋○竜彦さんのコーナーで、渋○邸からお借りした『続・悪徳の栄え』などの初版本、細○さんが撮影した渋○さんの写真、篠○さんが撮影したサド侯爵の手紙(渋○家所蔵)の写真、渋○さんのテクストの抜粋などが並んでいる。抜粋ではあるが、渋○さんのテクストが外国できちんと紹介されるのはおそらくはじめてのことだとおもう。早くから来ている人たちは、資料や写真だけでなく、『夢の宇宙誌』などのテクスト抜粋を一生懸命読んでいる。これらの展示は、今回の展覧会のなかでも私が特に力を入れたものなので、その光景を見ると鼻が高い。フランス人グループにも、私から展示説明。
人がさらに増えたところで、あらためてオープニングのセレモニー。B市の市長の挨拶に続いて友人をはじめ関係者がスピーチする。私も何か話すように促され、美術館で言ったのと同じことを繰り返すのもためらわれて、このギャラリーで展示されている写真は、日本を代表する2人の写真家によるものであり、作品としての写真にも注目して欲しいということだけ、簡単に述べた。

オープニング前の最終チェック

2010-10-29 00:03:44 | 東欧滞在記
10月1日、今日は待ちに待った友人の展覧会のオープニングだ。
主催者からは5時からK市の美術館で、7時からB市のギャラリーでオープニングを行うと伝えられている。ゆえに30日の夜は大事な夜なのだが、夜中の12時過ぎから隣の部屋でどんちゃん騒ぎがはじまり、その音が筒抜けでまったく眠れない。3時過ぎに、さすがにいらいらして隣の部屋に注意して欲しいとフロントに電話を入れたが物音はいっこうに止まない。6時頃、空がしらみはじめて、ようやく物音は収まった。私もそれからようやく眠ることができたが、仮眠程度の睡眠時間しかとれない。

いつもよりやや遅く、8時半頃に起きて友人と一緒に朝食。頭が重い。
食堂に新聞がおいてあったので、もしかして昨日のインタビューが掲載されていないかと手に取る。
載っている!
それも驚くことに、カラー紙面2ページを割いて大きく取り上げられている。すごい扱いだ。もちろん友人は大喜び。記事をよく読むと、私の名前まで小さく載っている。
朝食を早々に切り上げて、日本への報告用に2人で新聞を買い出しにいくことにする。郵便局、駅、マーケットを回って20部の新聞を買い込んだ。新聞売りたちは、突然あらわれた東洋人の新聞買い占めに、何事かとみんなあきれている。
新聞を買っていったんホテルに戻ったのち、友人は少し休んでいたいというので、私はもう一度町に戻り、散策と買い物。みなさんお気づきかもしれないが、波蘭(ポーランド)に来てから、私も友人もほとんど買い物をしていない。波蘭では商店の空く時間がみな10時頃で、また午後6時ぐらいには一斉に閉店してしまうので、われわれには買い物をする時間がほとんどないのだ。
まず、駅前に少し大きな本屋を見つけたので、ここでしか買えない波蘭関係の本を物色する。続いてオーブン・マーケットの雑貨屋を回る。ランチョン・マットがわずか1ズウォチだったので、それを数枚買い込んだ。花屋では、少し迷ったのちクロッカスの球根を買う。クロッカスの球根など日本でも買えるのだが、ここで買ったクロッカスが咲けばまた波蘭のことを思い出せるという気まぐれからだ。最後に、ホテル裏の陶器屋に入り、シレジアで焼かれているボ○スワビェツ陶器のカップや皿を買い込んだ。このボ○スワビェツの陶器はワルシャワに直営店がありなんとかそこにも立ち寄りたいと思っていたのだが、その機会がなく購入をあきらめていたところ、ここK市にも直営店があったので、迷わず、記念に買い求めたものだ。この陶器、せっかくなのでほんとうはもっとたくさん購入したかったのだが、日本への発送は行っていないというので、残念ながら手で持ち帰れる量にとどめざるをえなかった。

買い物を済ませてホテルのロビーで待っていると、やがて通訳のリシャールさんも降りてきて、友人、ヴィッティさんたちと全員で美術館へ移動。町にはすでにあちらこちらに友人の展覧会のポスターが貼ってある。また美術館の前にはさらに大きな看板が貼ってあったので、その前で記念撮影。それから、すぐに中に入って、展示物を丹念に最終チェック。チェックしているところに、主催者が依頼したカメラマンもやってきて、展示物や友人をいろいろな角度から撮影。私はというと、記念にカメラマンが友人を撮影しているシーンを撮影。
美術館の展示にはそれほど問題はないので、すぐにB市のギャラリーに移動することにする。週末なので道がこんでおり、ゆっくりしていると渋滞に巻き込まれて、定刻に美術館に戻れなくなると、ヴィッティさんは気が気でない様子。ようやくできあがってきたギャラリー用の展示パネルをもって急いでB市に移動。
着いてみると、昨日はいろいろなものがまだ展示されずにいたのだが、さすがに今日は、展示がほぼできあがっている。しかし展示物を細かくチェックしているうちに、私が指示して篠○紀信さんからお借りした重要な写真が展示してないことに気がついた。すぐに私が抗議すると、そんなのは見ていないとスタッフが反論する。私は、「写真のホジを詰めたのは私で、送っていないはずはない」と主張。そこへルイさんが割ってはいって、「梱包を開けたのは自分たちではなく主催団体のスタッフなので、もしかするとそのときに気が付かず、私が送った封筒の中にポジがまだ残っているかもしれない。急いでもう一度探してみる」というので、とりあえずその場は収束。オープニングには間に合わないが、封筒を確認したうえで、見つかりしだいプリントして展示するということでその場は収まった。そけ以外はほとんど問題ない。そのプリントを除けば、展示もすべてピタリと決まっている。そこまで確認してから、あわててK市に引き返した。

     ☆     ☆     ☆

【ボ○スワビェツ陶器のサイト】
http://www.ceramicboleslawiec.com.pl/

二度会う人は三度会う

2010-10-27 00:04:26 | 東欧滞在記
今回、波蘭(ポーランド)に来るまで、美術館の様子が皆目わからず、新しくつくられたモダンアートの美術館ではないかとか、いろいろな憶測が飛び交っていたのだが、ヴィッティさんに案内されて到着した美術館はドイツ風のクラシックでがっしりとした建物。町の広場からもひときわ目立つ。すぐそばには、劇場、大学などもある。
美術館の創立は1929年で、K市が波蘭領に編入されたシレジア地方の行政の中心だった時期にあたる。創立時は、美術館専用の建物はなく、行政関係の建物の一部が美術館として利用されていたという。その後36年に、美術館専用の建物の建設がはじまる。しかし39年にナチスが波蘭に侵攻すると、美術館は波蘭の自治の象徴とみなされ、破壊されてしまう。破壊を免れた収蔵品は、元々ドイツ領だった近隣のB市の美術館に移された。美術館が再開されたのは共産主義政権末期の84年で、それまでのホテルを改装して美術館にしたという。
重い扉を押してこの複雑な歴史をもつ美術館の展示室に案内されると、エントランスで、まず最初に、私が書いた文章の要約が目に飛び込んできた。事前に、展覧会で配布するパンフレット用の解説は書いてわたしていたものの、その文章がこんな風に使われるとはまったく知らされていなかったので、とても驚いたし、正直に言ってとてもうれしかった(ただし波蘭語に翻訳されているので、内容は私にもさっぱりわからない)。
一方、今回の展覧会は輸送が大変で、日本からそれほど多くの展示物を運んでいないので、展示のチェック自体はそれほど困難ではない。友人と相談したうえ、メインとなる作品の位置変更をお願いし、あとは波蘭側スタッフの現場での判断にすべてまかせることにした。
続いてB市の第二会場に移動。ここは、上にも少し書いたように、第二世界大戦終了時までドイツ領で、K市と行政や文化の中心を競い合った古い都市だ。ただし戦後はK市にその地位を奪い返され、現在はかなりさびれた印象だ。展覧会の第二会場となったギャラリーは、元々裕福なユダヤ人の住居だった建物を改装したものとのことで、あちこちに住居の面影が残っている。宅内に建物ができた当時に設置された古いエレベーターが残っているのも、元の居住者の富裕ぶりを物語っている。場所も、B市の中心に位置する広場の一画という好立地だ。メインの展示室は、広場の側が大きなガラス窓になっているのでとても明るい一方で、外景が見えるという展示会場としてはちょっと変わった雰囲気だ。
ただし展示の準備は美術館にくらべるとかなり遅れており、明日のオープニングに間に合わせるためには、今晩かなりがんばらなくてはいけないという感じだ。遅れを取り戻そうとスタッフが一生懸命動き回っているので、こちらの展示も、細部は現場スタッフにまかせることにして、私と友人は、大まかな状態だけをチェック。明日のオープニング前にもう一度訪問して、そのときに細かい指示を出すということで互いの了解が成立した。
とりあえず現場のチェックが終わったので、急いでK市に戻る。ホテルで休憩しているところに、先日クラクフを案内してもらったリシャールさんが到着した。再会の挨拶をすますかすまさないかのタイミングで、今度は波蘭の新聞社からの取材だ。
最初、通訳を介しての取材にとまどっていた友人も、しだいにリシャールさんと波長がかみ合ってくる。一方新聞社側も事前に友人の経歴をしっかり調べてきたようで、かなり細かいことをきいてくる。ただし実際の作品をまだみていないために、どうこたえたらいいかとまどう的はずれの質問もあったが、最後は和気藹々と取材が終わった。いずれにしても、新聞社側が今回の展覧会から異国情緒以外の何かをくみ取ろうとしている真摯な態度が、ひしと伝わってくる。
取材を済まして安心していると、今度は、市の文化センターで波蘭人の写真家の個展がはじまったので、それに行こうとヴィッティさんからの提案。拒む理由は何もない。
われわれが到着したとき、会場はさまざまな人たちですでにかなりにぎわっていたが、私と友人は、どちらからともなく、午前中にK市を一緒に回ったフランス人グループを見つけ、「やあ、これは奇遇」と再会の挨拶。明日は友人の展覧会の初日だからぜひ見に来て欲しいと、異国でできた新しい友人たちをオープニングに招待。
一方、会場には、リシャールさんの通訳仲間という波蘭人のポールさんがいて、リシャールさんを介してわれわれに親しく話しかけてくる。ポールさんはシニックな毒舌家で、曰く「芸術家は好き勝手に何でも言う権利があるんだから、会見とかがあるんだったら、何でも言って相手を煙に巻いた方がいいですよ。ジャーナリストなんて適当にあしらいなさい。バカはしょせんバカなんだから」とか、言いたい放題だ。ともかく、このポールさんをも、明日はぜひオープニングに来て欲しいと誘う。
ところで、われわれが展覧会をみているあいだ、ヴィッティさんは、まだ作業を続けているB市のギャラリーのスタッフをずっと気遣っていたのだが、だいぶ遅くなったのでともかく食事にしましょうと夕食の提案。場所は例によってヴィッティさんにおまかせすると、今回は、ロシア料理のレストランに案内してくれた。移動の途中、町のあちこちに明日からはじまる友人の展覧会のポスターが貼ってあるのが目につき、友人は大喜び。
さておもしろいことに、ヴィッティさんに案内されて入ったレストランは、別のグループの打ち上げ会場と重なっており、われわれは例のフランス人グループとまたしても再会した。1日に三度も会えば、もうすっかり友達だ。フランス人たちは、れわれの席の方が話がはずむと打ち上げのグループを離脱してわれわれに合流。そのせいで会話は、言葉も内容も、いろいろなものがごったまぜになってしまったが、みんなアルコールが入っているので、このごたまぜの会話がとても楽しい。滅茶苦茶いろいろなことを話して、千鳥足でホテルに戻った。

ポーランドの1920年代

2010-10-24 21:30:49 | 東欧滞在記
30日、今日はいよいよ美術館に行き、展示をチェックすることになっている。
疲れているせいでこれまでよりはぐっすり眠れるが、それでも早朝に目を覚まし、前日アウシュヴィッツで購入した絵はがきを取り出して、中○新一さんや大学時代からの友人宛てに印象を記す。アウシュヴィッツの印象は、あまりにも重いので、誰にでもというわけにはいかない。
8時に友人を誘って朝食。ホテルのレストランでの朝食もだいぶ慣れてきたので、この日はア・ラ・カルトのメニューから、気になっていた「ウィーン風卵」とカプチーノ・コーヒーを頼む。ウィーン風卵というのは、簡単にいうと、ガラスの器のなかで半熟にした卵にバターと香辛料をのせたものだったが、けっこういける。これはその後帰国するまで、私の朝の定番となった。
朝食後は、ホテルの周囲を散歩して時間を過ごす。戻ってから急いで着替え。今日は美術館に行くので少しこざっぱりした身なりにしようとちょっと悩んだが、20年ほど前にMくんにもらったペイズリー柄のシャツを着ていくことにした。

前日、「ワルシャワ、クラクフ、アウシュヴィッツと、波蘭(ポーランド)の町の印象は、毎日驚きの連続で、日ごとに違う波蘭の姿が見える」とヴィッティさんらに話したところ、「明日の午前中、今度はK市をまわるミニ・ツアーを予定しているので、ぜひK市の新たな印象も<発見>して欲しい」という。ただし、このツアーもガイドはフランス語で、フランス人グループと一緒だという。またしてもフランス語のガイドというのはつらいが、せっかくの好意なので、楽しみに迎えを待った。
10時30分頃にミニ・ツアー出発。いっしょにK市内を見学したフランス人グループを簡単に紹介すると、K市は現在、友人の展覧会をすすめているだけでなく、さまざまなアート・フェスティバルを開催中なのだが、その一環で招聘したフランスの建築家たちだ。彼らに、1920年代に建造された建物を具体的に見てもらうのがツアーの狙いという。1920年代というと、第一次世界大戦終了後間もない時期で、この時期、戦後処理の一環としてK市はブロツワフなど他のシレジアの都市から分離されて新しく誕生した波蘭共和国に編入され、それまでのドイツ文化とは異なる新たな文化の確立を模索していた。われわれが滞在しているホテルをはじめ、市の中心部はドイツの面影を強く残しているのだが、少し離れた地域には1920年代に建築された建物がかなり残っており、それらからその時代の雰囲気を伺うことができるというのだ。
まず最初にみたのは兵士のための教会。ヨーロッパの教会は、独立した建造物として広場の中心にある(もしくは教会を中心にして広場が形成される)のが一般的だが、この教会は、となりの建造物から繋がっていて、独立した建造物になっていないことがもっとも大きな建築学上の特徴だという(具体的な建築を前にしての解説なので、このあたりは私でもなんとか理解できる)。建築自体も、装飾がほとんどなく、直線だけで構成したいわゆるモダンなスタイルだ。
続いて住居に使われた一般の建物を次々に案内してもらったが、いずれも直線的な構成で、古い建造物に見られる外に張りだしたテラスや装飾がないのがまず大きな特徴。そして建物の角は柱や外壁で直角になっているのではなく、大半が、角の部分をカーブさせて二つの面が明確にわかれるのを回避し、直線的な構造からくる固い印象を緩和している。またそのカーブしたコーナーには、やはり大半の建物が大きなガラス窓を配置して、外観上も内側からも、明るさを強調している。一方、建物の外壁には一見したところなんの装飾もないのだが、くぼんだ窓框の内側などのちょっと目につきにくい部分に、細かい装飾を入れ、機能一点張りの建築ではないということをさりげなく主張している。
さらに、一部の建物は、窓枠などを大胆なアンシンメトリーに配置している。
そうした建物の代表例として、特別のはからいで、現在某国の領事館として使われている建物に案内され、その内部装飾も一部見せてもらった。

建物見学の後、フランス人グループと別れて展覧会の主催団体の事務所に案内され、ここでヴィッティさんと落ち合っていよいよ美術館に移動。だがその前に昼食をしなくてはと言われて、今度はハンガリー料理のレストランに連れていってもらった。ただしわれわれはまだそれほど食欲がない。スープとサラダくらいでいいといったところ、名物だからといって、金属の器に入れてそのまま直火で下から暖める濃厚なスープを選んでくれた。飲み物は、私は水にしたが、友人はこれもすすめられるまま、甘いトカイ・ワインを試している。その後、一度は乗りたいとおもっていた市街電車で美術館前の広場まで移動。

     ☆     ☆     ☆

現在小ブログに書いている記事にもとづき、11月13日(土)と11月20日(土)に、渋谷の某ギャラリーでちょっとしたお話をすることになりました。会費\2,000で1ドリンク付き、開始時間は両日とも19:15です。この会では、もちろん波蘭の画像も公開します。新宿のタックスノットに案内のチラシを置いてきましたので、ご興味のある方は、タックスノットで詳細をご確認頂くか、メール(tenebres@mail.goo.ne.jp)で私に直接ご連絡ください。

アウシュヴィッツを見て回る

2010-10-22 00:50:30 | 東欧滞在記
29日、夜中に目が覚める時差ボケはなかなか解消しない。日本に宛てて、昨日の続きのハガキを書く。昨日、ホテルでK市の地図を入手してあるので、朝食後、その地図をたよりに郵便局にハガキを出しに行く。小雨混じりの天気で、この日は波蘭(ポーランド)に来てからもっとも寒い。
郵便局の建物は、ホテルの近くにすぐに見つかった。重い木戸を押してなかに入る。なかは簡素というか質実剛健なつくり。ただし外国語による案内はなにもない。受付をざっと見回してハガキ類の受付とおぼしき窓口に行き、ガイドブックで覚えた「日本へ」という表現を口に出してともかくハガキを出す。昨日のクラクフの郵便馬車の受付とは異なり、ここK市の郵便局窓口の女性は、外国語にはすこしも対応できないという感じだ。ただしお金の計算はしっかりしている様子なので、高額紙幣を崩すには、郵便局はもってこいだ。郵便局から戻って一休みしているうちに、アウシュヴィッツ見学の時間となった。

時間どおりにいつものプジョーが迎えに来る。手順説明のため主催団体の若者ジャックさんも一緒に来て、アウシュヴィッツに行くと、現地にはすでにガイドを手配してあるので、そのガイドと一緒にアウシュヴィッツを見学して、時間になったらまたプジョーで戻ってきて欲しいという。ただしである。そのガイドはフランス人向けのガイドなので、フランス人グループにまじって一緒にアウシュヴィッツを回って欲しいという。う~む、これでほんとに大丈夫なんだろうか。気が重いがともかくK市を出発。
K市からアウシュヴィッツまでの道は途中まで昨日のクラクフ行きと一緒。最後にその道から離れて、30分ほどのドライブでアウシュヴィッツに着く。しかし、目的地に近づくというのにすこしも浮いた気分にならない。近づけば近づくほど気が重くなる場所、それがアウシュヴィッツだ。車を降りると、受付のサービスセンターのそばの柳の大木が目につくが、その枝が静かに揺れているのも悲しみをそそる。
さて、サービスセンターには、世界各国から次々に見学者が到着しものすごく混雑している。その人たちが、それぞれの言葉ができるガイドに連れられて収容所見学のミニ・ツァーにたっていく。待つことしばし。フランス語のガイドの女性がやってきて、われわれと一緒にアウシュヴィッツを回る同行者とも顔合わせ。聞けば彼らはベルギーからやってきた若者の2人組で、われわれのチームは4人だけの小編成。ガイドには、「われわれは日本からやってきた。ほんらい自分たちだけで見学しようとおもっていたら、波蘭の人たちが好意であなたを紹介してくれた。われわれはフランス語がそれほどできるわけではないのであなたの説明がほとんど理解できないと思う。しかしわれわれはそれでもすこしも気にしないので、あなたはわれわれを意識せず、ふだんのとおりガイドして欲しい」と挨拶した。
実際、収容所のなかは、いろいろな情報誌やガイドブックに書いてあるとおりの内容なので、言葉が理解できなくてもだいたいの展示は理解できる。それでも、ちょっとけげんな顔をしていると、ガイドがゆっくり丁寧に説明してくれる。こうしてわれわれは、殺された人たちの顔写真の列、死者からはぎとった毛髪で編んだ織物、眼鏡の山、カバンの山、ガスの材料とその空き缶の山、反抗者の公開処刑場そしてガス室などを次々に見て歩いた。友人も、こわばった顔をしながら展示を見ている。しかし展示のあまりの悲惨さに、写真をとるのがはばかられる。ポーランド語や英語のガイドの一行と違い、われわれは小編成なので、小回りをきかせていろいろなものを見学できたのではないかとおもう。アウシュヴィッツを一とおり見学した後、バスで近隣のビルケナウの収容所跡に向かう。このビルケナウは、アウシュヴィッツを上回る規模の広大な収容所で、その敷地の中央に立ったとき、この空間が見渡す限り収容所であったという事実に身震いを禁じることができなかった。
アウシュヴィッツがどういう場所でどのような残虐な行為が行われていたかは、いろいろなところに記され、また探せばその記録映像も見ることができる。しかしこの空間の広がりとそのことがもつ恐ろしさは、おそらく実際にこの空間に立ってみなければ感じることができないだろう。歩けば歩くほど体が震えるのは、冷たい雨が降っているせいばかりではない。ガイドは最後に、「残念なことに、今も世界のどこかで野蛮な行為が続いているが、それとここで行われたことの違いは、ここの蛮行は計算された蛮行だったということだ」と語って案内を終えた。私は「正直に言って、今日のあなたの説明を半分ほどしか理解できなかかったが、今日に関しては、すべての説明を理解できないことを幸せだと感じた」と感想を伝えた。
ビルケナウの見学を終えると外には約束どおりプジョーが待っている。われわれは無言でプジョーに乗り込んでK市に戻った。

     ☆     ☆      ☆

ホテルに戻ったわれわれがどういう気持ちになっているかは、ヴィッティさんも十分に察してしる。しばらく気持ちを整理するための時間をつくってくれたうえで、気散じを兼ねて、ヴンダバールというミュンヘン料理の店に誘ってくれた。

高校時代のあこがれの人を夢に見る

2010-10-18 23:34:03 | わが酒と薔薇の日々
ポーランド(波蘭)から戻って以来、なかなかよく眠れない。寝付きが悪いというのではなく、横になるとすぐ眠れるのだが、朝早く目が覚めてしまうので、結果として睡眠時間が充分確保できないのだ。毎日6時間程度の睡眠が続いている。
そんなことで、今日も睡眠時間は短かったのだが、かなり深く寝込んでいたようだ。
起きる直前、高校時代にあこがれていたMくんの夢を見た。私がMくんとつきあうことを、Mくん自身が受け容れてくれて、彼の友達に私を紹介してくれるという夢だ。
目ざめてから、夢の印象が薄れてしまうのがもったいなくて、しばらくうとうとしていた。

とはいえ、いつまでも蒲団にもぐりこんでいるわけにはいかないので、9時少し前に起床して朝食と弁当の準備。11時少し前に家を出た。

実は私の派遣先の職場では、今日から新しい業務がはじまることになっていて、わずらわしいとみんなそれをいやがっていたのだが、勤務先に行ってみると、他の数名にまじって私もその新業務担当にまわされていた。他の顔ぶれをみると、いつも私が仕事上で一目置いているメンバーばかり。難しい新業務ということで、派遣先としても、仕事ができる人間だけを新業務に配したのであろう。
そのメンバーのなかに選ばれたということは、現職場で4カ月半ほど仕事をしているうちに、私も仕事ができると見なされるようになったということで、そのこと自体はうれしかったのだが、実際の新業務はやはりきわめてわずらわしく、複雑なおもいで1日の業務をこなした。

     ☆     ☆     ☆

ちなみに今は、ルイさんが来日したときにおみやげにともってきてくれた、ヴィシニュフカという波蘭のチェリーウォッカを飲みながらこの記事を書いている。

クラクフのユダヤ・レストラン

2010-10-17 22:44:19 | 東欧滞在記
ヴァヴェル城からゆっくり10分ほど歩くと、そこはクラクフの中央市場広場。その北東に目指す聖マリア教会がある。
この教会は1222年の創建で、正式名称は被昇天のマリア教会。没後にキリストの母として天に迎えられるマリアを祝している。内陣に多く使われているコバルト・ブルーの彩色と金彩が天を象徴しているという。ステンドグラスの効果もあって、祭壇はまばゆいばかりの美しさだ。現在も宗教的な儀式や富裕な市民の結婚式などに使われているとのことだったので、はじめ写真撮影がはばかられたのだが、内陣のあまりの美しさと、リシャールさんの薦めもあって、入り口に戻って撮影料を払いあちこちを写真に納めることにした。
大きな教会だけに時間をかけて建てられたり修復されたりしているのだが、そのなかで私が注目したのは、主祭壇横の、19世紀に描かれたというマリアの昇天を祝う天使たちの像。雲に乗った複数の天使たちが手に手にさまざまな楽器をもちマリアを祝福しているのだが、その構図が宇治の平○院鳳凰堂の空中供養菩薩像にそっくりだ。その感想をリシャールさんに告げると、「マリア教会に来てそんなことを言ったのはあなたがはじめてだが、言われてみると確かに似ているかもしれない。比較的新しい時代のものなので、もしかしたら平○院鳳凰堂の影響が何かあるのかもしれない」と首をひねっている。こちらはこちらで、クラクフで平○院の話をして、すぐにそれに相づちが打てる波蘭(ポーランド)人にすっかり感心。

聖マリア教会を出たところで、リシャールさんから昼食の提案。すぐ近くにおいしいレストランを知っているのでそこに行こうと薦められるのを断り、私は、ガイドブックに載っているア○エルという店に行くことを強硬に主張。最初難色を示したリシャールさんも、それほどまでに言うならばタクシーで行けなくはないので、ア○エルに行ってみようと同意し、教会裏でタクシーをひろう。
ア○エルはユダヤ料理のレストラン。ユダヤ料理のレストラン自体はパリのユダヤ人地区でも見かけたことがあり興味があったのだが、どんな店かわからないので案内できないとガイドに拒否されて行くことができずにいたもの。波蘭は治安も安定しているので、クラクフに行ったら、他のレストランではなく絶対これにしようと事前に固く決めて、友達をも説得していたのだ。
タクシーはすぐにレストランのある一画についたが、いざ着いてみると、リシャールさんはこの地域の事情にも非常に詳しい。曰く、この地域は戦前のユダヤ人のゲットーがあった一帯で、ナチスによって徹底的に迫害され、元々の居住者はほぼ100%虐殺され、戦後の共産党時代もこの一帯は無人の地域だったという。また、ポランスキーがこの近くの出身であるだけでなく、スピルバーグが『シンドラーのリスト』を撮影する際にも、戦前のゲットーのイメージを残しているというのでこの一帯がロケ地として利用されたという。一通り説明を聞いてからレストランに入る。
レストランに入るとリシャールさんはさらに大活躍。店と交渉してきちんと席を確保してくれただけでなく、何を頼んだらいいかさっぱりわからないわれわれに、この店のおすすめはズバリこれだと、おいしいものをサジェストしてくれる。
まずスープだが、牛肉とハチミツとシナモンのはいったスープがここでしか味わうことのできないもので、濃厚な味だが試す価値があるというので、みんなでそれを選ぶ(16ズウォチ)。
メインは魚、鳥、獣肉の何にするかときかれて迷ったが、この店でしか食べれないものということで、結局、鵞鳥の足のチェリー・ソースを選んだ(48ズウォチ)。それにサラダを1皿とって、鵞鳥とサラダは3人でシェア。飲み物は例によって地ビール。
さてスープだが、確かにこれまで一度も味わったことのない不思議な味で、やや甘いがスパイシーで非常においしい。続いて出てきた鵞鳥の料理も、チェリー・ソースの甘酸っぱさとうまくマッチしている。われわれは、はじめての食感をすっかり堪能した。
少し落ち着いて店内を見回すと、狭い店のなかには、旧約聖書に題材をとったものなど、ユダヤ絵画やユダヤ関係のグッズがところ狭しとならべてある。
来客もひっきりなしで、すぐさっきまで英語が飛び交っていたかとおもうと、いつの間にか隣はドイツ人になっている。世界各地のユダヤ人や一般観光客が、この店を目指してやって来るのだろう。そんなことに感心していると、また新しい客がやって来て、ギャルソンが今度はフランス語で接客している。それに励まされて、店内を撮影していいかとフランス語で訪ねると、どうぞどうぞと言うので、観光客の特権で、遠慮なくパチパチ写真をとらせてもらった。
おいしい食事とビールが手伝って、リシャールさんとの会話もスムーズで、今回の友人の展覧会の大きなテーマとして、われわれは、戦後の日本社会における人間存在の希薄化の問題を、波蘭の人々に伝えたいとおもっていると説明した。
またせっかくの機会なので、波蘭語のなかの難しい発音をどうすればいいかも教えてもらった。
同じく言葉の問題では、日本語の「おはよう、こんにちは」にあたる表現が波蘭語では「ジェーン・ドーブルィ」なのだが、このなかの「ジェーン」は、フランス語の「ボンジュール」の「ジュール」と語根を同じくしていること、また「ありがとう」にあたる「ジェンクィエン」は、英語の「サンクス」、ドイツ語の「ダンケ」と語根を同じくしていることを教えてもらった。
そうこうしている間にあっという間に時間がたち、いつの間にかK市に戻る時間が迫ってきた。タクシーで市場広場に戻り、朝ホテルで書いた絵はがきを日本に出したいのだが近くに郵便局はないかと言うと、広場の端に留めてある馬車が郵便馬車なので、それから郵便を出せばいいと教えてくれる。われわれは、郵便馬車からはがきを出すということにまた感激。
そののち広場中央の古い織物会館内の土産物店を簡単に見て、待っていてくれたプジョーに乗り込んでクラクフを後にした。

K市に戻るとヴィッティさんがホテル・ロビーで待っていて、クラクフはどうだったか、さっそくその印象を聞いてくる。われわれはもちろん、「ほんとうに、大変すばらしかった」応じる。「それはとてもよかった。では、一息入れたら夕食にしよう」と、間髪を入れずに食事のお誘い。「すべてお任せします」とこたえて、とりあえず部屋に戻る。
8時過ぎに、ヴィッティさん、ルイさん、ジャックさんに加え、もう一人、髭のジャックさんを交えて、今度はタチアナというカジュアル・レストランへ。昨日の経験にこりて、われわれはごくごく軽いものを選んでもらって、ビールで乾杯。クラクフの話、リシャールさんの話など、仕入れたばかりのネタをいろいろと披露した。
われわれが大満足だったことにヴィッティさんたちもとても喜んでくれて、「では、明日はアウシュヴィッツ見学をアレンジしてあるので、今日と同じくらいの時間にホテルで待っていて欲しい」と、新たに明日の予定の提案。展覧会の様子が気にならないではなかったが、主催者がすすめるのだからと喜んでそれにしたがうことにし、明日の予定を再確認してお開きになった。

     ☆     ☆     ☆

【ア○エルのサイト】
http://www.ariel.ceti.pl/

象の家、犀の家

2010-10-16 12:56:26 | 東欧滞在記
9月28日。やはり午前3時くらいに目が覚める。もう一度目をつぶってみたり、あきらめて本を取り出してみたり、無駄な努力。ホテルの部屋に絵はがきが備え付けてあったので、実家とカレシモドキに宛てて、ぶじ到着したと近況を記す。
この日も小雨交じりで外は寒いが、夜明けを待ってK市内を散策。ただし地図がないので自分がどこにいるかもさっぱりわからないし、駅や美術館がどこにあるかもわからない。ホテルのまわりを少しうろうろして散策を終えた。
8時になって、友達を誘って朝食。日本にいたときにネットで調べたところ、このホテルの朝食は非常によかったと滞在客が絶賛していたので期待大。食堂は5階まで吹き抜けで非常にゆったりとしたつくり。天井もガラス張りになっていて、そのことが開放感をさらに大きくしている。食事はビュッフェ・スタイルだが、野菜、肉、チーズなどが豊富にならべられ、いずれも非常においしい。野菜では、キュウリのみずみずしさがとりわけすばらしい。
前日約束したとおり10時過ぎに、プジョーがわれわれを迎えに来る。わざわざ傘を2本もってきてくれた親切にも感動。運転手さんは英語がほとんどできないので、ともかくすすめられるままに車に乗り込み、クラクフまで気楽なドライブ。K市からクラクフまでは約1時間ほどだが、昨日のワルシャワからK市までと同様、途中に山や丘はまったくなく、どこまで行っても平坦な道が続く。

クラクフは、16世紀末まで波蘭(ポーランド)の首都だった古い都市。第二次世界大戦の戦禍を受けなかったので、旧市街は、古い街並みがそのまま残っている。
クラクフが首都だった当時の波蘭は、リトアニアと連合して、東ヨーロッパ中央で繁栄を謳歌していた。遷都後ではあるが、神聖ローマ帝国がオスマン・トルコに攻撃されたとき、参戦してウィーンをトルコの包囲から解放した勇猛ぶりは、ヨーロッパ史のなかで非常に有名。それとは逆に、18世紀になると王権が弱体化し、当時ひたすら領土拡大を目指していたロシア、プロイセン、オーストリアの餌食となって国土を分割され、ついには国家が消滅してしまったこともまた有名。波蘭問題は、18世紀ヨーロッパ世界の最大の政治問題の一つであり、ふだん18世紀の社会思想をいろいろと勉強している私にとっても、非常に興味深い国だ。ちなみに、当時のフランス国王ルイ15世は、波蘭の大貴族で1704年~09年にスウェーデンの支持で一時的に国王に推戴されたスタニスワフ・レシチニスキの娘マリア・レシチニスカ(フランス風に発音するとマリー・レグザンスカ)を王妃に迎えており、フランスも波蘭と縁が深い。

閑話休題。
鉄道でクラクフに着く場合、旧市街北端の城門・バルバカンをとおって市内に入るのがお決まりのコースのようだが、われわれはヴィスワ川をわたって南側からクラクフ旧市街に入り、まずは旧王宮ヴァヴェル城前に車を止める。ここでガイドと落ち合い、運転手とガイドのあいだで待ち合わせの時間を決めた後、いよいよクラクフ観光に出発。
ガイドをつとめてくれたリシャールさんは、ヨーロッパでも最古の大学の一つヤギェウォ大学の大学院生と説明されていたが、直接話を聞いてみると、もう40代で、自分の研究を続けるために大学に残っているのだという。専攻は言語学で、波蘭語、日本語だけでなくヨーロッパの主要言語のほとんどに堪能で、10カ国語ができるという。大学生活を続けるために、クラクフを訪れる日本人観光客のガイドや日本を訪れる波蘭人観光客のガイドを行っているとのことで、日本語ができるだけでなく、日本の事情にも非常にくわしい。ガイドとしてもとてもすばらしく、歴代の王の事跡、ヴァヴェル城の建築上の特徴、展示物それぞれの重要なポイントなどを余すところなく説明してくれる。
われわれは、さっそく王宮の建物をそのまま利用した博物館に入ったが、展示物のなかで圧倒的なのは、壁を飾るタペストリーの数々。波蘭国王の富を誇示するかのように、ヨーロッパのなかでも貴重なものとされるネーデルラント産のタペストリーが、ところ狭しと掛けられている。国王の謁見の間が、玉座とともに残されているのもみもの。
そうしたなかで私は、リシャールさんによるヨーロッパにおける家具の歴史の説明をとりわけ興味深くきいた。曰く、王侯の居城でもイスやテーブルなどと異なり箪笥が家具として入りこんだ歴史は比較的浅く、ヴァヴェル城では、その初期の簡素なものから装飾が施された華美なものまで、さまざまなタイプの箪笥が見られるという。
博識なリシャールさんの説明を聞いていると、王宮内の博物館見物だけでも1日かかりそうだが、惜しみつつそれを割愛して頂いて、続けて、歴代の王が戴冠式を行った城内の大聖堂を見物し、ヴァヴェル城をあとにした。
リシャールさんが次に目指すのは聖マリア教会。そこに至る道すがら、古い来歴をもつ教会が次々と姿をあらわすが、時間の制限があるので、残念ながらその見学も断念せざるを得ない。
おもしろいのは、ヴァヴェル城から聖マリア教会に至る通りの光景で、リシャールさんは、14世紀に開かれたというクラクフでもっとも古い通りを選んだのだが、その通りに残る古い建物の正面扉の上のレリーフにわれわれの注意を促す。それらの大半は、象、犀などの動物の図柄なのだが、通りに面した家にまだ番地がなかった時代、各家は目印のために正面にレリーフを刻み、それによって「象の家」「犀の家」などと呼ばれていたのだという。
ちなみに、波蘭も13世紀にモンゴルの侵入を受けており、クラクフをはじめとする都市が本格的に建てられ始めるのはモンゴル侵入以降。したがって14世紀の建造物や構築物は、現存する最古の建造物群ということになる(ただし、それ以前のもので例外的に残っているものは一部あるが、13世紀以前の建造物は木造が多く、それも残存しない原因の一つになっているという)。

地下体験

2010-10-13 23:32:10 | 雑記
日本に戻った翌々日の7日から派遣先のアルバイトを再開しているが、今日は業務がひまだったので、みんな一日中チリの落盤事故からの救出作業をみていた。
かくいう私も、最初の一人が救出される瞬間をはじめ、けっこう真剣に救出ドラマに見入ってしまった。現時点でまだすべての作業員が救出されたわけではないが、作業が順調でほんとうによかったとおもっている。

ところで、波蘭(ポーランド)旅行記の合間に落盤事故からの救出への感想をはさんだのは、今回の旅行の目的地であるシレジア地方も地下資源が豊富で、昔から鉱山や炭鉱がたくさんあり、地下での採掘作業に対する特殊な考え方があるという説明をきいたのをおもいだしたため。
それはある意味では非常に単純なことで、地下での採掘作業に従事する人たちのなかには、鉱山を母胎にたとえ、自分たちは母胎のなかに入ってそこで出生をもう一度疑似体験するいった神秘主義的な思想があったのだという。

それをきいて私は、反射的に、東洋でも胎蔵界という世界が密教のなかで根本的な二大原理の一つとして位置づけられ、母胎や出生、ひいては生殖行為に対する神秘的憧憬があったことをおもいうかべた。

これなどは現地の人と話して見ないとわからないシレジアと東洋の意外な共通点、共通憧憬で、現地で行われたインタビューでも、シレジアにそうした神秘思想があるということを知っただけでもシレジアに来ることができてよかったと思うとこたえた。
この辺を手がかりにして、次にそれぞれの神秘思想がどういう造形や作品を生み出したかなどまで深くつっこんで比較検討することができれば、これはもっとおもしろいことになるとおもう。

さて、チリの生還者たちは、地下で、そして地上でなにを見、なにを感じているのだろうか。TV画面でみる限りみんな非常に元気そうではあるが、このラザロたちがこれからどうやって普通の生活に戻っていくのか、まだまだ大変ではないかと、ふとおもってしまった。

ポーランドの大平原を列車で移動

2010-10-12 13:25:14 | 東欧滞在記
波蘭(ポーランド)国内を列車で移動するというのは、ヨーロッパ映画に出てくる列車のコンパートメントを一度味わってみたいという私の強い希望で実現したのだが、なにせ日本からもってきた大きなスーツケースを引きずっているので、映画のように格好よくというわけにはいかない。車内片側の通路をゴトゴトと移動し、ようやく目指すコンパートメントを探し出した。6人席の同室者は、ビジネスマン風の男性、遊び人風の若い男性、有閑マダム風の女性の3人だったが(残る1つは空席)、突然の東洋人の闖入にみなびっくりした様子だった。ただしこの3人は波蘭人のなかではインテリらしく、幸いなことに英語が通じる。最初に、「われわれは日本からの旅行者だが、ヨーロッパを列車で旅するのははじめてなので、非礼があったら許して欲しい。また車内ルールなどで気づいたことがあったらいろいろと教えて欲しい」と頼むと、快くそれに応じてくれた。
まずスーツケースだが、これは大きすぎてどうしてもコンパートメント内に入れることができない。困っていると、無理に入れずにそのまま通路に置いておけばいいと教えてくれた。
また乗車してからしばらくするとワゴンを引いた男性がやってきたが、この飲み物は乗客への無料のサービスだから、のどがかわいているなら好きなものをもらえばいいと教えてくれた。
それ以外は、(それなりに興味津々なのだろうが)こちらが話しかけない限り無関心を装って、こちらの領域に侵入してくることはない。おかげでこちらもすっかりくつろいで、窓の外を見る余裕がでてきた。

ワルシャワを出ると、K市まで途中大きな町はほとんどなく、外の景色は行けども行けども平野が続いている。幾つか森はあるのだが、日本のように山の中が開発されずに森になっているのではなく、平野の真ん中にこんもりとした森が点在している。また森が切れると今度は牧場があったりして、牛の放牧もあちらこちらに見受けられる。北国なので採れる農産物は限られているのだろうが、その点を除けば、ポーランドはかなり豊かな農業国という印象だ。

ワルシャワからの途中停車(やはり5分ほど)は1駅のみ、2時間30分ほどの乗車で、午後5時少し前にめざすK市に着いた。同室の女性もK市で下車で、「私も一緒に降りるから、私と同じようにすれば下車は大丈夫」とわれわれを誘導してくれる。列車はゆっくりとK駅に停車する。駅はそれほど大きくなく、ホームも薄汚れている。
日本的な感覚で言うと、このホームで主催者の出迎えがあってしかるべきだと思うのだが、それらしき人の姿は見えない。風習が違うのだからそんなものかとおもいながら出口へ向かう階段を下っていくと、階段の途中でようやく、日本でも会っているルイさん(以下、人名は仮名)と主催団体勤務の若者ジャックさんに遭遇した。後から考えてみると、波蘭では列車がホームのどの位置に停まるかわからないので、すべての乗客が降りてくる階段で待つのが一番確実な出迎え方ということなのだろう。
駅の外にはプジョーが待たせてあって、スーツケースをそれに積み込み、まずはホテルに直行。ホテルの外観はウェブで何度も見ているのだが、実際の建物をみると、それとまったく同じクラシックで瀟洒なつくりだ。部屋に入ってさっそくスーツケースをあけ、日本から持参した上善如水をルイさんとジャックさんにわたす。そのうえで午後7時頃にロビーで再会することを約して、二人は引き上げた。
午後7時、ルイさん、ジャックさんのコンビに主催団体の会計係ヴィッティさんが加わり、まずは歓迎の小宴。われわれが泊まっているホテルよりも隣のホテルの方が気楽だというので、隣のホテルに移動し会食。
着席してまず展覧会オープニングの案内状を見せてもらったが、美術館の尽力で日本大使館の後援がとれている。これには友達も大喜び。こちらからは、「事務所でみなさんでお召し上がりください」と日本茶のティーバッグと和菓子をわたす。
続いて、飲み物でも食べ物でもなんでも好きなものをどうぞという薦めに応じて、固いパンをくり抜いた器に盛った波蘭名物のキノコのクリーム・スープとピエロギを注文する。飲み物はビール。波蘭はワインの産出国ではないのでワインは基本的に輸入物であまりいいものがない。これに対し、ビールは地ビールがとてもおいしいので、以後、食事の飲み物はたいていビールでとおした。
ピエロギはキャベツや肉などを小麦粉の皮でくるんだ一種の餃子とガイドブックに説明してあるが、餃子のつもりで食べると、皮が厚くてかなりモソモソしている。またサイズも大きい。疲れも手伝って、1個食べたらすっかり満腹になってしまった。
あとは食べながら歓談だが、事前打ち合わせのためにルイさんが東京に来たとき、波蘭に行ったら古都クラクフをぜひ訪ねて見たいと言ったのを覚えていてくれて、明日はすでにクラクフ観光の用意がしてあるという。
また、「せっかくの機会なので、クラクフ以外にも行きたい場所があったら遠慮なく言って欲しい」と言うので、「われわれは展覧会の準備のために来たので、もちろん展覧会関連のスケジュールを組んでもらってもいっこうにかまわない。でももし可能であれば、その合間でいいからアウシュヴィッツとヴロツワフにも行ってみたい。そういう空き時間をつくってもらえればとてもうれしい」と希望を伝える。「検討してみましょう」とヴィッティさん。全体として、まずは互いの自己紹介のための軽い会話がメインで、こちらの疲労に配慮して会食は早めに終了。「明日の午前10時にホテルまで車を差し向けるので、それに乗ってクラクフに行って欲しい。現地には日本語ができるガイドを手配済みで、かつそのガイドにはオープニングの時のささまざまな通訳も頼んであるので、伝えたいことがあったら明日そのガイドによく伝えておいて欲しい」という。至れり尽くせりの配慮だ。