闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

就職活動の合間にベートーヴェンを聴く

2008-01-26 17:54:32 | 楽興の時
前回も履歴書&就職活動をまくらにした記事だったが、この就活がなかなかうまくいかない。
去年の秋は、ハローワーク(職安)を拠点にして、歳をとってもまだ可能性があるのではないかとの幻想から正社員での雇用を目ざしていたのだが、公共媒体に掲出される求人情報と現実の違い(公的な求人情報には年齢不問と記載されていても、実質的には年齢制限がある)に気づき、今月からはハローワークにはたよらず、民間の就職情報誌を中心にしてアルバイトやパートでの雇用を目ざすことに活動方向を転換した。私はここ数年アルバイトで生活しており、正社員での採用はのぞましくはあるがアルバイト、パートもやむなしと考えているので、この路線変更自体には特に落胆はしていない。媒体の変更も、パート、アルバイトなら就職情報誌の方が手っ取り早いという感触がある。現に、就職情報誌のパート募集の求人(その多くは派遣)に問い合わせの電話をかけると、ハローワークが紹介している求人と異なり、まず登録・面接に来て欲しいという返事が返ってくる。そこで今月に入り、3件の面接をこなしたというわけ。
結果からいうと、この3件、いずれも不採用なのだが、ともかくこちらと会ってくれて、私の希望をきき、能力をテストしてくれているということで、不採用になってもそれなりの手応えがあり、これをバネに来週以降また新たな求人に応募してみようとおもっている(一概に比較はできないが、ハローワークをとおした求人の手続きのほとんどは、まず履歴書を郵送してほしいというものので、履歴書を送っても採用見送りとして履歴書が返送されてくるだけで、面接までこぎ着けたのは一回だけだった。いわば門前拒否の連続で、これにはさすがに失望した)。

    ☆    ☆    ☆

で、最近は就活のあいまにベートーヴェンの初期、おおむね1795年頃から1800年頃にかけて、つまり彼の25歳から30歳にかけて作曲された曲をメインにCDを聴いている。曲目でいうと、交響曲第1番、ピアノ協奏曲第2番、ピアノ・ソナタ第1番~第8番、ヴァイオリン・ソナタ第1番~第3番等。ベートーヴェン初期のピアノ・ソナタなど、きちんと聴くのはこれがはじめてという気もするが(鍵盤の獅子王といわれたドイツの大ピアニスト、バックハウスのCDが昨年末に再発されたので、まずはこれを聴いている)、じっくり聴くまでどれもこれも同じような習作ばかりでハイドンやモーツァルトの亜流の域をでないとかってにおもいこんでいた曲が、よく聴いてみると一曲一曲個性的で、とてもおもしろくなってきた。
まずベートーヴェンの曲や彼の「個性」の問題だが、古典的なソナタ形式にしたがっているかという問題を別にすれば、初期の曲、とりわけピアノ・ソナタのいくつかの緩徐楽章は、彼の晩年の曲がもっている曲想とよく似ている。だからこれらを聴いていると、ベートーヴェンがほんとうにつくりたかった曲というのはどのようなものだったのか、つい考えてしまう。つまり、通常最もベートーヴェンらしいと考えられているダイナミックな曲想をもつさまざまな曲(『熱情』『運命』など)は、時代に合わせてつくり、大成功した曲ではあるが、それは彼ほんらいの個性や彼がほんとうに表現したかったものとは違うのではないかということだ。
ベートーヴェンの初期、中期という時代は、フランス革命勃発(1789年)からナポレオン没落、ウィーン体制による社会秩序の固定化(1815年)とすっぽり重なる時期であり、先行きもわからず変動していく社会のなかで、なにかしら新しい秩序を求めるという社会的期待感(もしくは不安感)に合致したのがベートーヴェン中期の音楽ではなかっただろうか。だから、これを古典派からロマン派への橋渡しという音楽様式の変化やベートーヴェンの個性という狭い範囲のなかだけでとらえることは無理があるのではないだろうか?要は、激しく変わっていく時代に敏感で、それを無意識のうちに強く反映したものがベートーヴェン(中期)の音楽ではないかということだ。
(ちなみにこのことは、日本の戦後文学、たとえば三島由紀夫の文学作品のあり方を私におもいおこさせる。つまり、『仮面の告白』など、終戦直後に発表された三島作品は、彼の個性を反映したものなのか、時代を反映したものなのかというだ。)

そんな風におもいながらいろいろな曲を聴いているうちに、ものすごく好きになったのがピアノ・ソナタ第7番とそのなかでも特に第二楽章「ラルゴ・エ・メスト(ゆっくりと、悲哀に沈んで)」。
この曲、実はバックハウスの録音をきいてすばらしいとおもったのではなく、それとは対照的なホロヴィッツの録音を聴いてすばらしいとおもった。ホロヴィッツのベートーヴェン演奏、オネエさん的というか、一般的にはあまりにも線が細くて私の好みではないのだが、このラルゴに関しては、ホロヴィッツで聴いているとベルカント・オペラのアリアをピアノ用に編曲した繊細で悲劇的な音楽に聞こえる。だからそれは、いわゆるいかついベートーヴェンのイメージからはものすごく懸け離れているのだが、ここでベートーヴェンがベッリーニ的な繊細さを探究したのでないと、どうして断定できるのだろう?
ホロヴィッツの演奏は、そういう意味で、とても新鮮で刺激的だ(同じ曲にいかつく野性的な悲劇を求めるならばリヒテルがそういう演奏をしている)。で、肝心のバックハウスの演奏はものすごく淡泊で、ホロヴィッツの洗練ともリヒテルの野性味ともまた違う。悲劇性などどこ吹く風というさらっとした演奏だ。

今はどうかしらないが、日本では、バックハウスのベートーヴェン演奏はほとんど神格化されて称揚されているようにおもうが、私がCDで聴いているバックハウスの演奏はそうしたイメージからはほど遠い。バックハウスがステレオでベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音したのはその最晩年にあたる70歳代後半から80歳代にかけてのことだが、この時バックハウスは、完全無欠なベートーヴェン演奏を目ざすということからはほど遠い心境にあったのではないだろうか。つまり、年齢的にいって、完全無欠な演奏など不可能だから、演奏のなかから可能なかぎり不必要な要素をそぎおとし、自分が本質と考えるものだけでベートーヴェンを演奏してみよう。どうも私にはバックハウスのステレオ録音はおしなべてそういう演奏にきこえるのである。それをもう少し具体的にいえば、曲のなかで強弱の変化をつけることやフレーズによってテンポを変化させることが非常に少なく、部分的な悲劇性といったものを強調することもない。
だからこれは、初心者にはききずらい、とても難しい演奏だというのが、現在の私の感想である。

遅ればせながら『西洋骨董洋菓子店』を読む

2008-01-14 19:56:48 | コミック
このところ毎日求人雑誌に読みふけっており、今日も一件面接のアポイントをいれたが、なにかと鬱陶しい。ちょっと気分転換したいとおもい、本屋の店頭で適当に『西洋骨董洋菓子点』(よしながふみ、新書館)を選んで購入し、さっそく読んでみた。
実はこのコミック、さほど新しい作品ではないのだが(1999年~2002年『Wings』に連載)、連載当時、なにかおもしろいコミックはないかと人にきいたときにこの作品をすすめられたかすかな記憶が頭のすみに残っていて、本屋で無意識的にこの作品を選んだようだ。購入してから、よしながふみといえば『大奥』『きのう何食べた?』等で今をときめくコミック作家ではないかと気づき、どうせ買うならそちらにすればよかったともちょっとおもったが、まあこの『西洋骨董洋菓子店』も以前からそれなりに気になる作品ではあったわけだし、よしながふみの現在の作品につながる貴重な作品だろうとおもいなおし読んでみたというしだい(我ながら、言いわけが長いなあ…)。
たしかに、人物設定は独自のセンスがあってとてもおもしろい。コミック全4巻の終わりまで、あっという間に読んでしまった。

   ☆    ☆    ☆

作品は高校生・小野祐介が同級生・橘圭一郎に思いきって「君のことが好きなんだ」と告白し、「ゲロしそーに気持ちわりーよ!!早く死ね、このホモ!!」と面罵される強烈な場面からはじまる。年月がたち、32歳となった圭一郎が会社を辞め、洋菓子店経営をおもいついたとき、天才洋菓子職人として彼の前にあらわれたのは祐介だった。圭一郎はその偶然の再会に驚くが、男経験を積んだ祐介は、圭一郎にまったく気が付かない。ともかく圭一郎は祐介を雇うことにするが、天才といわれる祐介がいろいろなケーキ店を転々として定職がないのは、彼にゲイとしての性的魅力がありすぎるため、努めたさきざきのケーキ店で彼をめぐる男達のトラブルが起こり、その店にいられなくなるためだった(絵柄でみる限り、どこかふわっとしたところのある祐介くんには私も惹かれます<笑>)。そんな魔性のゲイかつ女性恐怖症の祐介を満足させるため、側にいても祐介になにも感じさせないタイプの美貌の元ボクサー・神田エイジがアシスタント職人として雇い入れられ、やがて圭一郎の実家の家政夫で彼とは子供時代からつき合いがある小早川千影も店員としてはたらきだす。この奇妙な四人の男が狭い店内でおりなす人物関係が極め付きのおもしろさだ(千影は祐介にとって超タイプだが、根っから鈍感な千影は祐介の魔性にまったく気づかず、祐介の気持ちといつもすれ違う)。
作品の後半は圭一郎の少年時代のトラウマと彼がなぜ洋菓子店を開くことをおもいついたかの謎解きが物語の焦点となるが(その伏線は、実は作品の冒頭から用心深く張られている)、この謎解きは直線的すぎて私にはあまりおもしろくなかった(ただし雑誌連載ということを考えると、この謎解きは読者を作品に引きづりこむ大きなポイントとなったのだろうが…)。登場人物のキャラクターと折々のシチュエーション中心の作品に徹した方が、この作品はもっとおもしろいものになったのではないだろうか。ただし、その謎解きのなかで圭一郎は、「自分の引き起こした結果の全てに責任を取れる人間なんてどこにいるんだろう?」というセリフをつぶやくが、このセリフは強く印象に残った。
ちなみに、圭一郎の過去が明らかになるにつれて、高校時代の圭一郎の祐介への面罵は、女子との失恋の腹いせからきたもので、圭一郎はゲイ嫌いというわけではなかったということも明らかになる(めでたし、めでたし♪)。
やがて、エイジがフランスに遊学し、千影が独立して出ていった静かな店内で、圭一郎と祐介は二人で店をはじめたばかりの頃をおもいだし感慨にふける。その二人をみた女子高校生たちが、二人を「男夫婦」だとおもいながら通り過ぎてゆく。そんな誤解も、今の圭一郎はまんざらでもないとおもっている…。

蛇足ながらあえて付け加えておくと、この作品ではケーキについての蘊蓄が抜群におもしろい。

なお、この作品は2001年秋にフジテレビ系でドラマ化されているので、それをみた方もおられるかもしれない(私は未見)。神田エイジ=滝沢秀明、橘圭一郎=椎名桔平、小野祐介=藤木直人、小早川千影=阿部寛という魅力的なキャストだ。

宛名書きの日々ーー年末年始の行動記

2008-01-11 16:40:38 | 雑記
年末、年始のことをブログにアップしておこうとおもっているうちに、どんどん時間が経ってしまった。忘れないうち、ごく簡単に年末年始の行動メモをアップしておこう。

    ☆    ☆    ☆

30日のカレシモドキとの気まずいデートから明けて大晦日、第九のCDを聴き、買い物等の細かい用事を済ませようとしているところへ大家さんから電話。内容は夕飯をどうするかの問い合わせ。実は大晦日のドン詰まりは大家さんの部屋をお邪魔して、さる人秘蔵のシャンパン、ドン・ペリニョンをあけ、年越し蕎麦をいただくことになっていたのだが、夕飯のことまでは考えていない。とするところへ、同じ賃貸マンションの住人で小説家のSさんが三○デパートから豪華おせちをとりそれを大家さんにご馳走してくれるつもりだとの情報がはいり、その計画と元もとわれわれがたてていた計画をドッキングさせることにした。その結果、ドン・ペリニョンを飲みながら、三○のイタリアンおせちをいただき、その後、みんなで年越し蕎麦をいただくことになった。
私はというと、失業者の身でシャンパンもおせちも提供できないので、そのかわりというほどのものではまったくないが、急遽添え物のサラダをつくることにし、持寄品はそれで勘弁してもらうことにした。ただし、ドン・ペリニョン用のグラスは私が提供し、バカラとサン・ルイのカラー・グラスを使用することに。バカラもサン・ルイも私の部屋で使っているとさっぱり見栄えがしないが、広い大家さんの部屋の豪華な料理がのったテーブルに据えられると女王のような輝きだ(このグラスは、「いかにも割れそうだ」と大家さんが洗うことを拒否したので、結局私が自分で洗うはめに…)。
ということで、大家さん、お母さん、小説家Sさん、私と若干のお客さんで年越しのざっくばらんなパーティーだ。途中からみんなで紅白歌合戦をみる。
冒頭の美川憲一とIKKOのからみでは、「おかま」が差別用語かどうか、にわかな議論。「別にいいんじゃないの」というのが私の考えだが、政治がどうこういう前に、同性愛の可視化はメディアでなし崩し的に先行している感じがする。私はそれでもかまわないような気がしている。
さて今回の紅白では、カミングアウトしている人、していない人、さまざまな歌手が次々に登場したが(それぞれの考え方や事情があって各人がカミングアウトしたりしなかったりしているわけだから、私は、それも各人の考えに合わせてまだらなままでいいとおもっている)、実はこの日私が一番共感を感じたのは寺尾聰。昭和22年生まれの彼が56年のヒット曲『ルビーの指輪』を淡々と歌う姿には、自分もまだなにかがんばらなくちゃという気がした。
ところで、本来は次に蕎麦を食べるはずだったのだが、みんなまだ満腹感があり、紅白歌合戦終了後とりあえず近くの神社に年始参りをしてきてから、年始の「年越し」蕎麦をいただいた。きけば吉兆の蕎麦とのことで、乾麺ながらとてもおいしい。Sさんはまだ話したりない様子で大家さんと話しをしていたが、蕎麦をいただくと私は自室に戻った。

明けて元旦。
遅く起きて、今度は自室で日本風おせちをいただきながらしばしぼんやりする。
それからみるともなく年賀状をみていると、いろいろな人からの賀状に混じって、19歳の頃私が最初にセックスした相手からの賀状があり、「久しぶりに会いたいですね」という添え書きに、今はなにをしてるのかと若干の感慨(ちなみに私と彼は、数十年間、賀状のやり取りを継続しており、十年ほど前に一度再会したことがある)。
その後おもむろにおもいたって、年末あまりにもあわただしくてまだつくっていなかった年賀状の制作と住所の打ち出しにかかる。ところが、しばらく使っていなかった住所打ち出しソフトがうまく作動せず、結局、住所はすべて手書きで書くことに。この突然の予定変更があったために、年賀状書きはものすごく手間がかかることになった。ちょっといらいらしているうちに元旦終了。

二日は、起きてからただちに年賀状書きに取り組む。宛名書きが延々と終わらないが、途中で手を止め、夕方、北鎌倉の澁澤龍彦邸に年始の挨拶にうかがうことにする。
日本へのサド文学の本格的紹介者・澁澤龍彦さんが亡くなって去年で20年経ったが、北鎌倉の自邸は、書斎なども澁澤さんの生前そのままに未亡人の龍子さんが一人で住んでいる。私は、去年の秋もN○Kの特集番組撮影のおりに澁澤邸を訪問し、龍子さんにご挨拶しているのだが、年始となれば話はまだ別だからと、再訪。
ことしは澁澤さんの生誕80年ということで、横浜市の神奈川県立神奈川近代文学館で回顧展が予定されている。二日は、その回顧展の監修者である詩人の高橋睦郎さんの他、画家の金子国義さん、合田佐和子さん、人形作家の四谷シモンさん、女優の李麗仙さんらがあつまり、主なき澁澤邸で、終電ギリギリまで澁澤談義に花が咲いた。
澁澤さんといえば、サド侯爵の作品の他に、同性愛作家ジュネの『ブレストの乱暴者』なども訳し(この作品はファスビンダーによって映画化されている<邦題『ケレル』>)、日本での同性愛文学の開花にも先鞭をつけているのだが、生きていたら、現在のゲイ・ムーブメントをどのようにみていたのだろう…。
(澁澤さんの作品および翻訳の多くは、河出書房新社から文庫化されているので、興味のある方は探してみてください。)
【参照】
神奈川近代文学館
http://www.kanabun.or.jp/

三日は酔った頭でまたまた宛名書き。ただしこの日はKくんという若者と「人生」「人間」についていろいろ語ることを予定していたので、宛名書きを適当に切り上げて、夕方新宿に向かう。お会いするまで、Kくんってどんな人だろうとおもっていたのだが、実際に会ってみると第一印象からして好感のもてる若者だったので、彼となら楽しく話ができるのではないかとおもった。とはいえ、いい話場所がおもいつかなかったので、まずは伊勢丹にしけこんで、食事をしながらいろいろ雑談する。
その内容はといえば、文字通りの人生雑感に加え、昨日訪問したばかりの澁澤邸の様子にはじまって澁澤龍彦およびサド裁判(サド侯爵の『続・悪徳の栄え』の翻訳が猥褻罪に問われたこの裁判で、澁澤は終始、国家はとある著作を猥褻かどうか判断する資格はなく、この裁判は不当かつナンセンスであると主張し、検察側と論点が噛み合わないまま有罪となった)について、コミックについてなどで、どちらかといえば、私が一方的に話をしていたような気がする。ただ、デパートの食堂だとまわりにいろいろな人がいて、内容によっては微妙に話しにくいこともあり(Kくんに言わせれば、それでも私はけっこうきわどいことを話していたとのことだが)、とりあえず、話の続きは場所を変えてということにする。
そこでまずは行きつけのタックスノットを目ざしたのだが、あいにく三日は年始休業。そこで急遽予定を変更し、昨日澁澤邸で話題になった「洋ちゃんち」に行ってみることにする。二丁目の一画にある「洋ちゃんち」まで行くと、店内は明るいのに「準備中」の札がかけてあったのだが、昨日○○さんにうかがってお邪魔しましたというと、「実はまだ開けるつもりはなかったけど、どうぞどうぞ」と喜んで「開店」してくれた。カウンターだけの狭い洋ちゃんちには、壁中、昔の写真などが貼ってあったが、こちらから話題をふると、『メゾン・ド・ヒミコ』撮影のエピソードや昔の新宿二丁目のことなどいろいろ語ってくれた。そうこうしているうちに、二丁目でいろいろ物件をあつかっているノンケの不動産屋さん、ゲイ・アクティビストなど、多彩な人が入れ替わり飲みにきて、こちらも思いがけない「人生」「人間」の勉強をしてしまった。

大家さんちで観る『メゾン・ド・ヒミコ』

2008-01-07 16:40:20 | 映画
昨日は、遅れていた最後の年賀状を書き終え、たまりにたまった正月の汚れ物をコインランドリーで洗濯して部屋で少しくつろいでいたところへ大家さんから電話があり、知り合いからちょっとした料理をいただいて食べ切れそうにないし、おせちの残りも片付けてしまいたいので、残り物の整理のようで悪いけど、夕飯をご一緒しませんかとお誘いがあった。失業者にはありがたいお誘いと、すぐにそれをうけることにし、ただし、こちらも夕方にかけて用事があって外出するので、戻ってたらお邪魔したいと返事をした。こちらのためになにか特別のごちそうを用意するといわれると、私も気がねしてしまうが、ありあわせのものだけどそれでよければといわれると、こちらも応じやすい。大家さんはほんとうに誘い方がうまいとおもう(少し見習わなくちゃ)。
ということで、小用を済ましてから階上の大家さんの部屋を訪ねる。ありあわせで特になにも準備はしていないといいながら、テーブルの上にのっているいろいろな料理は、一品一品いわれのある心のこもったもの。おせちのお重のなかに入っていた鯛を食べなかったので、それをほぐして炊いたという鯛飯も、とてもおいしい。
さて、これも正月の来客用にと買って残してしまったという吟醸酒をすすめていただきながら食事を済ませ、NHK大河ドラマ『篤姫』を見るともなく見、話がはずんだのでもう少しなにかということで、次は私がお貸ししたDVD『メゾン・ド・ヒミコ』をいっしょにみることにする。ただし飼い犬の夜の散歩の時間が来て、大家さん自身は途中で中座。結局、大家さんのお母さんと私とで最後まで映画をみた。

私はこの映画がほんとうに好きで、劇場でもなんどもみているのだが、久しぶりにみる『メゾン・ド・ヒミコ』はやはり感動的。この作品についてはすでにいろいろ語りつくされているようにおもうが、ディスコのシーン、それに続くオダギリジョー(春彦)と柴崎コウ(沙織)のベッドシーンには、ついほろっとしてしまった。
また個人的には、三日に、Kくんという若者を案内して、この映画に登場する洋ちゃんが開いている新宿二丁目の飲み屋「洋ちゃんち」に行ってきたばかりなので、あの洋ちゃんがこんな風に動いていたのかということを確認する楽しみもあった(洋ちゃんから直接きいたところでは、オーディションに受かってこの作品への出演が決まり台本をわたされたとき、自分の役は老いたニューハーフ・ルビイの役だと信じ込んでいて、ルビイのセリフを全部覚えて撮影にのぞんだのだという。たしかに洋ちゃんのルビイもおもしろそうだが、それでも、実際に演じたキクエの役はほんとうに洋ちゃんと合っているとおもう。ただしその洋ちゃんにしても、このキクエの役は地で演じているのではない。実際にお会いした洋ちゃんはとても聡明でかつ話し好きの人で、映画のなかの無口さはつくったものだとあらためて感心した)。
ということで『メゾン・ド・ヒミコ』だが、春彦と沙織の「恋愛(恋愛モドキ?)」からは確たる結末がなにもみえてこない。しかし、その不確かさがやはりいいのだとおもう。ゲイの風俗を描いているというより、ある不確かさを徹底的に見据えているところが、この作品のすばらしさではないだろうか。先日も引用した山田史生さんの『渾沌への視座』の次の言葉にこれほど合致した作品もめったにないだろう。
「華厳哲学は、相互に異なる個々の存在者をそのまま如実に受けとめてゆこうとする。矛盾はべつに止揚さるべき悪徳ではなく、むしろ矛盾との出会いこそがリアリティに肉薄しうる切っ掛けである。それゆえ華厳哲学は、対立を回避して統合し、矛盾を解消して同一化することを、徹底して嫌い抜く。法蔵は、個々の矛盾に身を斬られつつ、一切の不可思議な統一を肯定してゆき、さらには全体に還元しえないすべての部分をも統一することなく主張してゆく。」
この映画が公開された当時の批判のなかに、この作品の設定にはあまりにも不自然な矛盾が多く、少しもリアリティが感じられないといったものが多かったようにおもうが、そうではなくて、この作品は矛盾を矛盾として認め、無理にそれを解決しようとすることなくそのまま投げ出しているところがすばらしいのだとおもう(だから、作品のなかに、なにかあり合わせの解決を求める人にはこの映画はとても評判が悪かったのだ)。「リアリティ」ということに関してもう少しいえば、この作品をとおして犬童一心監督が求めていたのは、ゲイの外見的なリアリティ(ゲイらしさ)ではなく、人間と人間がぶつかり合うことから生まれてくる心的なリアリティだったのだとあらためておもう。
また技術的には、晴彦の「欲望なんだよ…」というセリフがはじまる部分のショットを晴彦のアップからはじめなかったさりげなさに感服した(DVDに入っている自作解説によれば、これは犬童監督苦心のショットという)。

ところで大家さんのお母さんはというと、映画の内容というより、進み方が普通のテレビドラマ等とまったく違うので、なにかあっけにとられてみていたようだ。「この映画をみてると、男の人ってみんな同性愛にみえてくるわね」というのがその感想。

なにかなごりの…ーーカレシモドキとの結末

2008-01-04 13:35:08 | わが酒と薔薇の日々
みなさん、年末のカレシモドキとのデートの様子にさりげに関心をもっておられるようなので、こちらもさりげにご報告。

   ☆    ☆    ☆

さて私のカレシモドキというのは、六年ほど前にネットでのやりとりがきっかけで知り合った若者で、当時彼は19歳の学生だった。彼の通っていた大学は地方都市にあり、私とカレシモドキは、当初メールで連絡をとりあって年に数回会うという感じだったのだが、その後、彼が就職して上京し、私とカレシモドキの距離感は一挙に縮まった。
とはいえ、私とカレシモドキがセックスらしいことをしたのは出会った当初の数回のみ。その後はカレシモドキが何かと理由をつけてセックスを拒むので、若いのだからそのうちにその気になるだろうと放ったまま、会えば一緒に食事をし、いろいろ雑談するという関係がしばらく続いた。彼との食事も会話も楽しかったし、私自身はそれでもけっこう充実して満足していた(今からおもえば、私の態度は消極的過ぎたのかなあとも悔やまれるけれど…)。
しかしそのうち、カレシモドキは体調をくずして仕事を辞め、療養のため両親の住む北国の町に帰ってしまった。
その折、私とカレシモドキは話し合い、二人の擬似恋愛関係を終わらせることで合意したのだが、結局未練が残り、その後も私の方から連絡を入れ、クリスマス・プレゼントや誕生日プレゼントを送ったり、お盆と年末に東京で会うという関係が続いた。
これでは「カレシ」とは呼べないから、彼のことを私は「カレシモドキ」と呼び、いつか彼が「カレシ」になってくれることを希望していた。

さて今回彼と会って、久しぶりなので私はベタベタ接近しようとしたのだが、彼の方からそれは誤解だと意図的に接近を避けるそぶりが目についた(ちなみに、クリスマス・プレゼントとして贈ったジュディス・バトラーの『ジェンダー。トラブル』はすなおに喜んでいて、そんなところはとてもかわいいとおもうのだが…)。おもうに、私が嫌いになったとか、恋人が出来た(それならそれで納得できる)といったはっきりした理由があるわけではなく、実家での生活が続くうちに、はじめて会った頃の感覚が薄れてきたということなのだろう。若いのだから、それはそれでやむを得ない。そこで私もようやく、彼との距離を友達以上に縮めるのは不可能だと悟った次第。
ただ彼と絶交するのはつらいし、互いにそのつもりもないのだが、さりとて互いの関係を「恋人同士」に発展させることももはやできそうにないので、私の方で自分の気持ちを整理し、今後は歳の離れた友人として、距離を置いて彼を見まもることにした。
こうした結末はこのところある程度覚悟していたのですぐにどうこういうことはないが、張り合いがなくなって、なんとなく心の中に穴があいたような感じだ。

   ☆    ☆    ☆

まあこれも、昨年つけた結末の一つとはいえる。

心さへまた外人になり果てば 何か名残の夢の通路  藤原定家

新年のご挨拶

2008-01-03 17:51:27 | 雑記
春来れば星の位に影見えて 雲井の階に出づるたをやめ  藤原定家

みなさん、明けましておめでとうございます。

さて、不意打ち的な転居にはじまりいろいろなことのあった昨年ですが、本年ははやく新しい仕事をみつけ、まずは日常生活を安定させたいとおもっています。
そのうえでの本年の計画は、少しだけ手をつけたまま中断している某音楽家の伝記の翻訳をすすめることと、和歌を中心とする中世文化史の執筆です。中世文化史の方は、すぐにまとまった本を書くというわけにはいきませんから、まず関係史料・研究書の精読に着手し、本年中に小論文を発表したいとおもっています。
その中世文化史の核になるのが藤原定家の和歌で、冒頭にご紹介したのは、定家が建久四~五年(1193-4)にかけて開催された『六百番歌合』に参加して詠んだ歌です。
この歌は「元日宴」という題の性格上、定家らしさがかなりおさえられているとおもいますが、私は、定家のめざしたものは究極的には和歌の脱構築だと考えており、和歌における脱構築とはどのようなものか、それが鎌倉時代のはじめに行われたことにはどのような時代・社会的背景があるのかを考えるということが、私のめざす中世文化論の柱になるとおもいます。

本年も小ブログをどうぞ宜しくお願い致します。

追伸:本日放送のNHK正月時代劇『雪之丞変化』、滝沢秀明くんが「闇太郎」と雪之丞を演じるというので以前から楽しみにしていたのですが、ちょっと用事ができ、見れそうにありません。ご覧になった方、感想などぜひお聞かせください。