闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

一年の終わりに

2009-12-31 20:18:36 | 雑記
本年も余すところあと数時間となってしまった。
今日は寓居を少し片付け、今、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴きながら、ことし最後になるであろうこの記事を書いている。

さてことしは、転居に転職がかさなり、なにかとあわただしい一年だったが、個人的には、昨年着手したフランス語の著作の翻訳に出版の可能性が出てきたことが一番大きな収穫だった。このところ私事に取り紛れ翻訳の進行は遅れ気味だが、年明けからは精力的に訳をすすめたいとおもっている。
またいきあたりばったりのこのブログにとっては、年末に大塚隆史(タック)さんの著作『二人で生きる技術 幸せになるためのパートナーシップ』(ポット出版)が刊行され、それをめぐるシンポジウムを聴き、この本を読んだことが大きなターニング・ポイントとなった。大塚さんの『二人で生きる技術』は、ものごころついてからの彼の人生、これまでパートナーとしてつきあってきた(つきあっている)人たちをふり返り、「二人で生きる」という理想を実現するには、どのような意思的展望と配慮が必要なのかを、具体的に明らかにした著作だ。大塚さんは、この本を自分がそうであるようなゲイのために書いただけでなく、男女等を含むあらゆるカップルのために書いたという。
ただそのなかでは、自分を含めた「ゲイ」の生き方を問うということが太い柱となっているのは事実だとおもうし、実際、この本は、とあるゲイのカップルたちがどのように生きてきたかの貴重なケーススタディとなっている。
その大塚さんの執筆姿勢をきちんとうけとめるためには、具体的なケーススタディ、特に失敗談をもっと増やす必要があると感じ、先日来、恥ずかしながら自分がどのような男たちとどのように知り合い、どのように失敗したかの反省記をこのブログに書いている。それがうまくいっているかは読者の判断にまかせるしかないが、私としては、自己満足に終わらせないよう、精一杯書いたつもりである。

以上、本年も小ブログにお付き合いいただき、どうもありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

はじめてのSEX

2009-12-30 22:27:57 | わが酒と薔薇の日々
行きがかり上、この辺で恥ずかしながら私のセックス初体験のことを書いておこう。そのためには時間を少し戻さなくてはならない。

     ☆     ☆     ☆

私の田舎は東北地方のY県だが、運よく高校は、田舎ではわりと名門の公立高校に入学することができた。ただし、私の出身中学校からこの高校に進学したのは10数人に過ぎず、この高校に通うことは、実質的に、まったく知らない人たちの中に放り込まれたのも同然だった。ただ私には、同性愛の自覚があったので中学時代も友達はほとんどおらず、そんな群集のなかの孤独のような状態はさほど気にはならなかった。むしろ、中学から10数人しか同じ高校に進学しなかったことで同窓生同士は変な親密感がわき、それまで口もきいたことがなかった同窓生と多少親しく付き合うようになったということはあった。そうしたなかで私は、別の中学から入学したスポーツマンのMくんにしだいにひきつけられるようになっていったのだった。
さて、私のクラスには、私以上に孤独な人間がもう一人いた。それはKくんで、サラリーマンだった父親の転勤の関係で転校が多く、このときも、他県の中学からただ一人進学してきて、なじみの話し相手などまったくいなかったのだ。この高校で私は、たまたま混声合唱部に入部したのだが、実はKくんも合唱部に入部し、私たちが親しくなるのにそれほど時間はかからなかった。しかし、2年生になると受験勉強のためにクラブ活動をぬけるのが私たちの高校の暗黙の了解で、Kくんは合唱部をやめ、加えてクラス替えで別のクラスになってしまったので、私たちの直接の交友関係は断たれたのも同然だった。ちなみに、変わり者でとおっていた私は、3年までクラブ活動をやめず、卒業までだらだらと合唱を続けていた。
それでも新しいクラス編成でKくんはMくんと同じクラスだったので、Mくん目的で私もそのクラスに遊びに行くことが多く、1年のときのような親近感はなくなっても、知的な話題を共有できるKくんとそれなりに親しく付き合っていた。いやもしかすると、Mくん目的で隣のクラスに入り浸っているのをカモフラージュするため、私は必要以上にKくんと親しくしていたのかもしれない。そういえば、1年のときだったか2年に進級してからか忘れてしまったが、郊外にある彼の家まで遊びに行ったこともある。
その後大学受験のために二人の進路は別々に離れてしまったが、ストレートで大学に受かったKくんは、浪人することになった私に同情してくれて、予備校選びもいろいろアドバイスしてくれた。
そんなこともあって、Kくんとはかなり気が許せる関係で、彼は、中学時代からの彼女から送られてきたラブレターなども私に読ませてくれていたのだが、ともに夢中になっていた映画や文学の話に熱中して遅くなり、埼玉県にあった私の下宿に泊めたとき、突然唇を奪われ、続いて私は、彼にすべてを許したのだった。私がMくんが好きで同性愛者だということは、私たちの高校では公然の秘密だったからおそらく彼はそれにも気づいていたはずで、そのうえで私が彼を拒まないだろうと自信をもっていたのだろう。私はというと、Kくんが私の身体に興味をもってくれたのはうれしかったし、彼のキスにはとろけるような気持ちになったのだが、初バックは痛いだけで何も感じなかった。ちなみにその後も何度かバックをためしたことはあるが、基本的にバックは痛いだけで感じないし、自分から挿入したいという気持ちもおこらない。キスをして、その延長でまったりしているのが私は好きなのだ。
さてこうしてKくんと特別の関係になったことは私にはとてもうれしかったのだが、とはいえ彼が女の子と付き合っており、セックスをしたことがあるということも私は聞かされている。だから私はとても複雑な気持ちで、自分たちは特殊な友人なのだとおもうことにした。その後もKくんとは何度かデート(?)をしたし(そういえば、二人で『ミュリエル』の話をしたこともあるし、『ベニスに死す』を一緒に観たりもした)、セックスもしたが、少なくとも私の方からはMくんに抱いていたような恋愛感情はおこらず、数年経つうちに、自然と彼から足が遠のくようになってしまった。
それでも年賀状の交換を欠かしたことはないし(それによって彼は結婚し子供がいることも知っている)、10年ぐらい前だろうか、どちらからともなく久しぶりに再会しようと連絡を取り合い、渋谷で一度会ったことがある。そのときは、10年以上あっていなかったKくんと再会しても互いに見分けられなかったらどうしようとか心配したりはしたが、待ち合わせ場所に行くと、互いにすぐにわかった。それでもなんだか恥ずかしい気がして、あたりもさわりもない会話をし、カラオケで一緒に歌って、そのまま別れた。

映画遍歴事始ーーレネの『ミュリエル』にはまる

2009-12-29 17:35:48 | 映画
直前の記事を読むと、19歳から20歳代前半の私は、二丁目に探検に行ったりして遊び狂っていたような感じだが、この頃私は、将来映画評論や映画批評をやりたいとおもっていたので、あちこちの名画座や当時京橋にあったフィルム・センターにも足しげく通っていた(←それってやっぱり遊び狂っていたっていうことですよね)。このあたりのことは、二丁目探検の記憶とつながるだけでなく、その前のデルフィーヌ・セイリグの記事ともつながるので、少しくわしく書いておきたい。

     ☆     ☆     ☆

さて大学受験に失敗して予備校に通うことになり、私が本格的に東京に出できたのは1973年4月。住む場所といっても東京に特に地縁や知り合いもなし、親の知人の紹介で、埼玉県蕨市にアパートを借り、ここから大塚の予備校に通っていた。予備校に行けば高校時代からのあこがれの対象Mくんに会えるので、けっこうまじめに学校に通ってはいたが、一生懸命勉強したような記憶はない。それよりも、あこがれの東京きて、話題の映画がすぐに観れることが、私としてはとてもうれしかった。
しかし、この年公開された外国映画には特筆すべき作品はあまりない。『キネマ旬報』の外国映画のベスト10は、この年『スケアクロウ』と『ジョニーは戦場へ行った』のトップ争いだったが、私はどちらの作品にも興味がわかなかった。だがこの年の暮、次の年に公開予定の話題作の試写会があり、そこで私はアラン・レネ監督の『ミュリエル』を観て、その奥行きの深さにすっかりはまり込んでしまった。また続く74年の1月には、ベルイマンの『叫びとささやき』が公開され、まだ1月というのに、こんなすごい映画が2本も公開されるとは、今年はすごい年になりそうだとふるえあがったものだった。

レネの『ミュリエル』については、ネットをざっと見回しても適切な評がのっていないようにおもわれるので、ここで簡単に紹介しておく。
この作品は、レネのドキュメンタリー映画『夜と霧』のテクストを書いたジャン・ケロールと組んで『去年マリエンバートで』の次に撮った作品だが、経過する時間を複雑に交錯させた大胆な作品として世界的な話題となった『去年マリエンバートで』の影に隠れて、とりあげられることが少ない。実際、作品の日本公開も制作から10年以上遅れている。
物語は、フランスの田舎町に住むエレーヌ(デルフィーヌ・セイリグ)のもとに昔の恋人アルフォンスが尋ねてくるが、別れてからかなり時間の経つ二人が、なぜ互いに会いたいという気持ちになったかはわからない(映画はそれを説明しない)。ただアルフォンスは誰かに追われているようであり、姪と称して若い愛人をともなっている。エレーヌの息子ベルナールに会ったアルフォンスは、「二人はよく似ている」と言うが、エレーヌは、「みんなにそう言われるけれど、彼は死別した夫の連れ子で、自分たちには血のつながりはない」と説明する。ベルナールは、アルジェリア戦争で「ミュリエル」という女性を殺してしまったというコンプレックスをもっており、いろいろな人にインタビューしてアルジェリア戦争を告発するテープをつくっている。数日をその町で過ごしたアルフォンスは、また別の町へ発つことをエレーヌに告げる。エレーヌはアルフォンスを見送りに行くが、その駅で、町に新しい駅ができたので、彼女が見送るはずの列車はこの駅には止まらないと駅員から告げられる。自分は彼を見送りにきたのだけれど、彼は自分は見送らなかったと思いながら町を去っただろうと思う。しかしアルフォンスは、実際にはその列車に乗らなかったので彼女の推測はあたっていない…。
このようなちょっととりとめもない物語で、普通の意味での事件はなにも起こらないのだが、作品全体から伝わってくるのは、いろいろな人に確実にいろいろな出来事が起こっているのだが、何が起こっているのか、その出来事がどのような意味をもつかは、本人を含め誰にも語れないというメッセージだ。映画のなかで一番ショッキングだったのは、ベルナールが録音しているテープが誤って再生されるシーンで、それは、戦争告発というテーマから予想される内容とはおよそかけ離れたものであったことが明らかになる。この場面で、私はこのテープに対する私の想像が、(映画が説明する)状況からくる予断に過ぎなかったと思い知らされる。このように、他者や出来事に対するわれわれのあらゆる判断は予断に過ぎないかもしれないが、こうした予断を離れてはわれわれは生活を営むことができないことも、映画は明らかにする。
『去年マリエンバートで』のようなケレン味はないが、この作品から表現の複雑さを取り払ってしまえば意外と単純な話に要約されるのに対し、『ミュリエル』は、表面的には単純でありながら、奥にものすごい複雑さを秘めている。
レネは、映画台本に非常にこだわり、常に第一級の文学者と組んで映画台本を書いているが、この作品を観てから私は台本作者であるジャン・ケロールに非常に興味がわき、当時、白水社から刊行されていたケロールの小説を次々に読み漁った。
ケロールは1910年に生まれ、2005年に亡くなったフランスの文学者で、第二次世界大戦中に対独レジスタンス運動に関わったことが彼の一生を決定づけた。42年にゲシュタポに逮捕された彼は、マウトハウゼンに強制収容所に収容される(この体験が『夜と霧』に結び付く)。強制収容所で、仲間たちが次々に殺されていくのを目の当たりにした彼には、自分の死以外を考えることができない。ところが戦争が終わり、彼は奇跡的に収容所から解放される。しかしケロールにとりそれは真の解放ではなかった。収容所のなかで毎日死と直面し、その反対物として生を強烈にとらえていた彼には、現実の生は、あまりにも色褪せた虚構のようなものとしてしか映らなかったのである。彼は、こうした自分の虚脱状態を「ラザロ体験」と名づけ、その虚脱感を言葉に定着すべく、次々に詩や小説・物語を書いていく。
当時訳されていて私が読んだ作品には、『異物』(59年)、『真昼真夜中』(66年)、『その声はいまも聞える』(68年)、『一つの砂漠の物語』(72年)があり、一つ一つが衝撃的な傑作だった。たとえば『真昼真夜中』は、極限状態に追い込まれた人間には、一日の極としての真昼と真夜中が同じように感じられるということを描いていた。
このようにして、レネ、ケロール、セイリグは、私のなかに三位一体のように深く刻みこまれたのである。

これに比較すると、実は、ベルイマンの『叫びとささやき』はあまりにも形式にこだわりすぎているような感じもして、演出・演技のすごさ、赤を基調にした映像の美しさには感心したが、ほんとうに深く共感することはできなかった。それがなぜかということを、最近になってDVDでこの作品を見直して納得したのだが、『ミュリエル』の手法とはまったく逆に、『叫びとささやき』は登場人物の回想シーン、幻想シーンを作品に大量に挿入し(現在のシーンは回想シーンを挿入するための「枠」として存在し、映画の主要部分は回想や幻想から構成されている)、一人ひとりの人間の内面をその根底まで追及するという手法を採用しているのだが、この説明的な手法そのものに対し、私はまったく否定的なのである。

     ☆     ☆     ☆

いずれにしても、このようにして東京での私の映画遍歴ははじまった。

二丁目に通いだしたころ

2009-12-28 23:08:07 | わが酒と薔薇の日々
今日は、私が二丁目に出だした頃のことを少し書いてみよう。

タック(大塚隆史)さんの『二人で生きる技術 幸せになるためのパートナーシップ』(ポット出版)によれば、彼が新宿二丁目に行くきっかけをつくってくれたのは、美大で同級だったキューピーさんというゲイの友人だったということだが、まわりになんでも話のできるゲイの友人などいなかった私には、それはけっこう遠い道のりだった。
それでも、東京に出て予備校に通っていたとき、好奇心まんまんでまずは一度二丁目への扉を開いてみたのだが(たぶんそれは、高校時代の同級生Kくんとの初体験の後だったとおもう)、それは、ともかくゲイバーへ行ってみたというだけで終わってしまった。そのときに行った店は、ゲイ雑誌『薔薇族』に安心して入れる店として紹介してあった「スタアグ」という店だったのだが、この店のことは、どういう感じの店だったか、どんな客がいたか、何も記憶に残っていない。当時の私にとって、そもそもゲイバーのドアをあけるということそのものがかなり緊張する行為で、店に入ってもその緊張感から開放されず、何かアルコールを注文したものの、たぶん店内で私が行った会話はその注文だけで、あとは店の雰囲気もそのほかのことも、いっさい覚えていないのだ(後からきくと、この店は「PAL」の姉妹店で、クロちゃんも一時この店にいたらしいのだが、そんなことはまったく記憶にない)。ただ、店を出たら客のひとりと一緒になって、その人が、店のことや二丁目のことをいろいろ教えてくれながら新宿駅まで送ってくれたことだけはよく覚えている。
それから一、二年、二丁目にはまったく行かなかったのだが、そのうち、76年に『薔薇族』が新宿の厚生年金会館の近くに「祭」という直営店を開店させ、そこは初心者でも安心してはいれる談話室風の店だというので、今度はしばらくこの店に通っていた。
とはいえ、祭に行っても緊張するのは同じことで、結局、自分がなにを欲して祭に行っているのかさっぱりわからない。いや、男探しに行っているという意識はそれなりに働いていたはずだが、はずかしくて客とも店の人とも何も話ができないので、好みの相手など見つかるはずがない。この頃の私は、結局、誰かに声をかけられるのを待って、声をかけられると断りきれずについていくという感じで、セックス体験はふえても、特定の誰かが好きになることなど皆無に近かった。で、特定の人と一度関係ができると、その人ともう一度会うことの決まり悪さから、しばらく祭から遠ざかるということを繰り返していた。
そんななかで、ただ一人、これはという相手ヒロくんに会ったのだが、どちらからともなく話してみると、彼は結婚して神戸に住んでおり、たまたま仕事で東京に出てきたので、好奇心から祭に寄ってみたということだった。実は、ヒロくんは私と同年代で、私の部屋に来ると、さまざまな蔵書にもおもしろがって反応した。しかし、彼を部屋に誘う前にあらかじめ分かっていたことではあったが、またすぐに家庭に戻るので、私とつきあうことも、何かの痕跡を家に持ち込むこともできないということだった。私たちは、たった一度限りで二度と会うことはないということを了解したうえで体を重ねあった。
そんなことを繰り返すうちに、祭に行っても(私自身が変わらない限り)何もはじまらないということに気づくようになり、また、新宿自体下宿から遠かったので、私はしだいに祭から足が遠のくようになった。

『去年マリエンバートで』とソシュールを繋ぐ存在

2009-12-26 01:04:11 | 映画
クリスマスというのに話し相手もいないので、遠方のカレシモドキに電話しているうちに、それがきっかけとなっておもしろい発見をしたので今日はそれを書いておきたい。

     ☆     ☆     ☆

カレシモドキとの話のきっかけとなったのは、クリスマス・プレゼントに送っておいたスウィングル・シンガーズのアルバム。バッハ、モーツァルト、ビートルズ、世界の民謡をアカペラで歌った4枚組の廉価盤CDだ。9時すぎにアルバイトから戻ると、しおらしくお礼の留守電がはいっていたので、その返信ということで、こちらから電話をしてちょっと話をしたという次第。
話してみると、彼はスウィングル・シンガーズがどういうグループか知らないというので、ウィキで調べなさいと電話を切ってから、確認のため、自分でも調べてみた。
するとまず、スウィングル・シンガーズはアメリカのワード・スウィングルによって1962年に結成され、当初フランスを中心に活躍していたヴォーカル・グループであるとわかった。このグループのリード・ヴォーカルが作曲家ミシェル・ルグランの姉クリスティアーヌ・ルグランで、このため、このグループはミシェル・ルグランと非常に縁が深い。
そのミシェル・ルグランが世界的に有名になったのがジャック・ドゥミー監督のミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(64年)で、クリスティアーヌはその中でもエムリ夫人の役を歌っている。さてドゥミーとルグランのコンビが次につくったミュージカル映画が『ロシュフォールの恋人たち』(67年)で、私はこの作品が『シェルブールの雨傘』以上に好きなのだが、その歌の吹き替えを担当したのが、スウィングル・シンガーズのメンバー。したがって私にとっては、『ロシュフォールの恋人たち』がスウィングル・シンガースを知った原点ということになる。またルグランとドゥミーは、70年にも、ペロー原作のミュージカル映画『ロバと王女』をつくっているが、クリスティアーヌはここでもデルフィーヌ・セイリグが演じた妖精の役を歌っている。
と、ここまできて、今度はデルフィーヌ・セイリグについて調べてみようということでフランス語のウィキにアクセスしたことがおもわぬ「発見」につながった。
実はデルフィーヌ・セイリグは、私がとても好きなフランス女優なのだが、日本ではあまりポピュラリティーがなくほとんど知られていない。主な主演作品は、『去年マリエンバートで』(61年、レネ監督)、『ミュリエル』(63年、レネ監督)、『夜霧の恋人たち』(68年、トリュフォー監督)、『ロバと王女』、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(72年、ブニュエル監督)などで、予備校生として私が東京に出てきた翌年の74年、このうち『ミュリエル』と『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』が日本で公開され、どちらもとても印象深い作品だったので、セイリグの存在は、いっぺんで私の脳裏に刻みこまれたのだ。
セイリグがドゥミーと縁が深かったのは、彼の作品に出演していることからわかるのだが、私が意外におもったのは、彼女がドゥミー夫人のアニェス・ヴァルダとも縁が深かったということ。ヴァルダの近作『アニエスの浜辺』のなかで、ヴァルダとセイリグが先頭を切って妊娠中絶公認運動を行ったというエピソードが、なつかしく紹介されている。
さて、一番の意外はこれからだ。
実は、デルフィーヌ・セイリグの父は、アンリ・セイリグという考古学者で、かつてフランスの植民地だったシリア、レバノンで活動したという。またこの関係で、デルフィーヌもベイルートで生まれている。そしてこのアンリの配偶者でデルフィーヌの母親という人の名前を読んで、私は驚いてしまった。
彼女はエルミーヌ・ド・ソシュール、そう、かの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの姪だ(フォルディナンの弟レオポールの娘)。
これをまとめると、デルフィーヌはスイス系の学者一家(ソシュール家もセイリグ家もスイス系)に生まれ、恵まれた環境のなかで演劇を志し、アラン・レネと出会って『去年マリエンバートで』に主演したことで、どこか透明な感じのするそのふしぎな存在感を確固たるものにしたのだ。続く『夜霧の恋人たち』や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』のなかでも、知的でクールなブルジョワ夫人をさりげなく演じている。それと、彼女の最大の魅力はふるえるような声で、この声はちょっと他にはえがたい。
その配偶者はアメリカの画家ジャック・ヤンガーマン。
デルフィーヌは32年生まれで、肺がんのため90年にパリで亡くなっている。

最初のパートナー

2009-12-22 00:15:03 | わが酒と薔薇の日々
インランちゃんの記事が好評だったので、今日は私の最初のパートナーだったタケシのことを書いてみよう。その前に、行きがかり上、まずはてっちゃんのことから。

てっちゃんは、私と同じ年のとてもセクシーな人で、今から30年ほど前、二人とも20代だったとき、二丁目ではじめてあった夜互いに一目で気に入って、そのまま、私はてっちゃんの部屋にとまりにいってしまった。それで、てっちゃんに夢中になった私がまた彼の部屋に遊びに行くと、今度は別の男が部屋にいる。うぶな私が見ても、二人は昨日、今日の仲とはおもえない親密さなのだが、さりとて恋人のような感じもなく、どこかよそよそしている。いろいろ見ていると、二人は同居していることはいるのだが関係がうまくいかなくなって、てっちゃんは、そんな関係を解消したくて、いろいろな男を部屋に連れ込んでは、同居しているパートナーにあきらめさせようとしているという感じだった(これは、少し時間がたって落ち着いてからなんとなくわかってきたことで、当時の私は、最初狐につままれたような感じで何かなんだかさっぱりわけがわからなかった)。その間抜けな第三の男が私だったというわけだ。
でも、てっちゃんはほんとうにセクシーで、不思議なパートナーがいるからといって、私としても簡単に引き下がるわけにはいかない。なんだかんだと理由をつけてはてっちゃんの部屋に遊びに行っていた。そう言えば、器用なてっちゃんは散髪もうまく、当時私は髪が伸びるとてっちゃんに切ってもらって、それを「てっちゃんカット」と呼んで自慢していた。
当時てっちゃんはほんとうに人気もので、てっちゃんが好きという男は大勢いたのだが、てっちゃんはそれをうまくさばいて、いつも人気の中心にいるのだった。彼が開店当初のクロノスを手伝っていたということも後で知った。
そんな彼が、ある日、部屋に友達を招いてパーティーを開くというので、私もよろこびいさんでそのパーティーに出かけたのだが、そこで互いに意気投合して、てっちゃんに仲介をたのんで付き合いだしたのがタケシだった(彼は元々てっちゃんの恋人だったのだ)。タケシと付き合う前、ハマちゃんをはじめ好きになった男はたくさんいたし、それなりにセックスもしていたが、私がきちんと付き合ったといえるのは、タケシがはじめてだった。
私とタケシは、考え方の波長もうまくあった。たとえば、二人とも吉田秋生のコミック『BANANA FISH』がとても好きだったのだが、私が主人公のアッシュに共感するのに対し、タケシは副主人公のエイちゃんに共感してしまうというタイプだった。ただ二人には、どうしてもあわないことがあった。セックスだ。私と彼がセックスをすると、いつも私だけがいってしまい、彼は全然いかないのだ。そんなこと、誰に相談したらいいかもわからなかったとき、よく相談相手になってくれたのがインランちゃんだ。「自分だってもういろんな男とつきあっているんだし、相手のことをどうこう考えるより、ほんとうに相手が好きなら、相手を信頼して、相手のことだけを考えればいいんじゃないの」というのが、インランちゃんのアドバイスだった。そんな状態で、タケシとは2年くらいつきあい、会えばいつも裸でくんずほぐれつやってはいたが、どうしても彼をいかせることができず、悩みは続いた。そのうち私は、もっと簡単にいってくれる相手と浮気するようになり、これではいけないと、話し合いの結果、彼とわかれることになった。
さてわかれてから数年後、二丁目で偶然タケシを見かけた私は、「どうしてる」と、また彼に声をかけ、結局、また自分の部屋に誘い込んだ。二人だけになれば、二年も付き合ったのだから自然に昔の感情が戻ってくる。その晩、彼は今日は服を着たままでいたいというので、むりに脱がせることもなく、部屋を暗くして「ローエングリン」の前奏曲を聴きながら彼を抱いていたら、なにかそれだけで涙が出てきた。「自分たちはもうこれ以上の関係にはならない、でも抱き合ってじっとしているだけで満足できるこの関係を、他の人間と構築することはありえないだろう」と感じながら、私はただじっと彼を抱いていた。
それからまた彼と会い、もう一度彼を誘ったとき、今度は裸になって絡みあったが、そのとき彼ははじめて射精した。
それをきっかけに、私たちはまたいろいろなことを話し合ったが、私とつきあっていたときは、風変わりな私とどうセックスしたらいいのかわからず、それがひっかかってどうしても射精できなかったのだという。皮肉なことに、私とわかれ、私を満足させなくてはいけないという義務感から開放され、タケシははじめて私相手のセックスがうまくいったのだった。
そんなこともあって、私とタケシは、つきあっていた当時はなかったほど心が通い合うのを感じたが、同時に、互いのに生活が二人が付き合うことを許さないこともまた了解し、私と彼は、この関係を続けず再びわかれることに同意した。

     ☆     ☆     ☆

当時彼からもらったネクタイは今も大事にしていて、この間もアルバイト先につけていった。

インランちゃん

2009-12-17 23:53:34 | わが酒と薔薇の日々
月曜日は、仕事の帰りに<新宿三丁目>のバー、タックスノットに寄り、マスターのタックさん(大塚隆史さん)に彼の近著『二人で生きる技術 幸せになるためのパートナーシップ』(ポット出版)の感想を伝え、本には書かれていない話をいろいろときいてきた。

このブログでもすでに何度か書いているが、私の新宿二丁目への実質デビュー店は「クロノス」という店で、この店とマスターのクロちゃんのことは、『二人で生きる技術』のなかでも何度かふれられている。このクロノスのことやタックスノット開店当初のことがいろいろ書かれてあって、『二人で生きる技術』は、私にとって、自分のゲイ・ヒストリーと重なるとてもなつかしい感じのする本なのだ。実際、この本を読んだあとの数日は、クロちゃんやタックさんらが登場する夢をみてしまった。

ところで、この本のなかでも私の個人的親近感を強くかきたてのが、タックさんが最初につきあっていたインランちゃんとのエピソードで、実は、インランちゃんは佐○という別の名前でこのブログにもすでに登場している。
タックさんも書いているとおり、タックさんもインランちゃんも、クロちゃんが自分の店クロノスを開く前のパル時代からのクロちゃんの客だ。また、長いことタックさんにエールを送り続けているケイとマサキのカップルもクロちゃんの客で、もちろん私はこのカップルもよく知っている。ただ二丁目デビューの数年の違いで、私はこのパルという店は知らない(ついでに書いておけば、K堂の寓居をシェアしている友人もパル時代からのクロちゃんの客だったという)。
さて話はインランちゃんに飛ぶが、タックさんの二番目のパートナー、カズさんが原因となり、タックさんとインランちゃんが別れてから、インランちゃんは、ハマちゃんという新しいパートナーを見つけ出した。実は私は、このハマちゃんが大好きで、金魚のウンコのように、いつもハマちゃんとインランちゃんを追いかけまわしていたのだ。さてそうこうするうちに、今度はインランちゃんとハマちゃんが「佐○」という自分たちの新しい店を持つことになり、私をはじめクロノスの客は、このカップルを応援するため、クロノスに呑みに行くとその帰りに佐○にまわって呑みなおすという新コースがなんとなくできあがった。その佐○の店のマッチがタックさんがデザインしてインランちゃんにプレゼントしたもので、当時事情を知らなかった私は、なぜタックさんがマッチのデザインをプレゼントしたのだろう、タックさんとインランちゃんは似ても似つかない感じだけど(音楽でいうと、タックさんがバタくさいシャンソンの雰囲気だとすれば、インランちゃんはまったりとした演歌が似合う雰囲気)、それでもなにか気が合う部分があるのだろうと、ぼんやり感じていた。
そのうち、当時私がつきあっていたSさんとある晩クロノスに呑みに行き、そこでHさんという客と遭遇して起こったのが、以前このブログにも書いた「二丁目シカト事件」(2007年1月12日付)なのだ。
その後私は、実はタックさんとインランちゃんは昔付き合っていたということを第三者から聞いて知るのだが、そのときにも、二人の「付き合い」のイメージをうまく描くことができなかった。それが『二人で生きる技術』のなかでタックさん自身の口をとおして語られ、私の二丁目ヒストリーのなかの空白が見事にうまったのだ。

で、ここから先はタックさんから聞いたばかりの後日談。
先日タックさんが部屋を片付けていたらカズさんの歌を吹き込んだテープが見つかり、インランちゃんもそれを聞きたがっているというので、『二人で生きる技術』と一緒にそれを届けに行き、たまたま誰もいなかったのでインランちゃんと二人だけでカズさんの歌を聞いているうちに、いろいろな思いがこみ上げてきて、二人でさめざめと泣いてしまったという。いろいろな修羅場を潜り抜けてきたタックさんとインランちゃんだけに特別のおもいがあるのだろう。
いい話を聞いたとおもった。

フランドル楽派を聴きながらライプニッツを読む

2009-12-13 23:18:44 | 雑記
今日は、夕食時に新宿まで出かけタワーレコードをちょっと覗いたほかは、一日中寓居でライプニッツの『人間知性新論』(工作舎)を読んでいた。今日読んだのは第三部「言葉について」の主要部分だが、概念や事物に自然的な区分はあるかということとそれと言語(名称)のからみについての議論は、単純ながらおもしろい。
これは要するに、青色と緑色に明確な違いはあるのか、青色と緑色がグラデーションのような状態になっているとき、どこまでが青色でどこからが緑色だと明確に言えるのかというようなこと。この議論が生物の種にまで広げられて、たとえばさまざまな品種があるにもかかわらずそれらを「犬」と呼ぶことができるのはどうしてか(長い縮れ毛の子犬とグレーハウンド犬とは、なぜスパニエル犬と象の場合と同じように別個の種ではないのか)などが取り上げられたのち、「ライオン・虎・山猫のような、猫に似たところをもつ多くの動物は、同一の種族に属していたのかもしれず、猫の古い種の新たな再区分として今あるのかもしれません」と進化論を予告するようなところまでいく。ちなみにライプニッツがこうした着想をもっていたのは、フランス語、イタリア語、スペイン語などがラテン語から分かれて出てきたという事実に関心をもっていたため、そこからの類推として自然に出てきたのではないかとおもう。

さて、その間聴いたCDだが、今日は朝から気合を入れて、エリク・ファン・ネーヴェル指揮の『Masters from Flanders(フランドル楽派の巨匠たち)』10枚組セット(Etcetra輸入盤)を順番に全部聴いた。
このCDセットは、10枚組で約7,000円と価格も手ごろで、しかも15世紀から16世紀のフランドルとブルゴーニュで活躍した作曲家が網羅的にほとんど入っている。すべて聴いてみて、演奏もそこそこの水準に達しており、この時代の音楽に興味をもっている人にはお勧めだ。参考までに、以下に10枚のタイトルをあげておく。

 1. Adriaan Willaert and Italy
 2. Philippe Roger and Spain
 3. Orlandus Lassus
 4. 16th Century Songs and dances from Flanders
 5. Philippus de Monte and the Hapsburgers
 6. Nicolaas Combert and the Court of Charles V
 7. Isaac, Obrecht, De la Rue
 8. Josquin des Prez
 9. Johannes Ockeghem and France
 10. Guillaume Dufay and Burgundy

すべての曲と演奏をじっくり聴いたわけではないが、なかでは、CD-6に入っていたクレメンス・ノン・パパ(1510/15年-1555/56年)の曲がおもしろかった。

『二人で生きる技術』を読む

2009-12-12 23:47:31 | 愉しい知識
敬愛する大塚隆史さんが、このほど『二人で生きる技術 幸せになるためのパートナーシップ』という本を出した(ポット出版)。また6日には、大塚さんもゲストとなり、この本が提示した同性愛のパートナーシップをテーマとするシンポジウムが高田馬場のパフスペースで開かれ、私もそのシンポジウムを聴講してきた。
そこで今日は、この本のことをちょっと紹介してみたい。

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この本の内容は、ひとことで言えば大塚さんのライフヒストリー。これまで大塚さんが一緒に生活した5人のパートナーたちについて、どのようにして彼らと出会ったか、そのパートナーとの生活はどのようなものであったか、どのようにして彼らと別れたかを淡々とリアルに描写している。私は、大塚さんのパートナーのうち3人を実際によく知っているので、彼らが等身大で生き生きと描かれていることにまず感嘆した。また、彼らとどのようにして知り合い、別れたかというエピソードには、なるほど背後にはそういう苦悩があったのかと納得した。
ところで、リアル、等身大というからには、大塚さんとパートナーたちとの性生活についても細かく描写されているのだが、それは興味本位のものではけしてなく、むしろ客観的なタッチであっさり描かれている。しかし、そうしたさらっと読める描写にいきつくまでは、大塚さん自身にも相当の苦渋があったのではないかとおもう。それは、自分について冷静に書くことの難しさに加え、パートナーシップというのは相手があってのことであり、書くことが知らず知らずのうちに相手を傷つけてしまうこともあるからだ。そういう点からして、現パートナーであるシンジさんとの出会いや生活の描写は、シンジさんからの深い理解と信頼がなければ書けない記述だと、あらためて感心した。

ところで、大塚さんはこのブログにも新宿「三丁目」のゲイバー「タックスノット」のマスター・タックさんとして何度か登場しているのだが、タックスノットは、その店に行ってマン・ハントすることを目的とするありきたりのゲイバーではない。ゲイとして、自分の周りの世界をどう見、どう感じたかを、大塚さんや居合わせた客と語り合う独特のくつろぎスペースであり、大塚さんの人柄と高い見識もあいまって、開店以来の長い間、ゲイの世界の道標的な役割を果たしてきた。したがって、タックスノットという店の歴史は、新宿に群れ集うゲイという集団の自己認識の歴史のなかで大きな位置を占めていると私はおもっているのだが、店の誕生のきっかけから現在まで、その店の歴史がマスターの大塚さん自身の口から語られたことの意味は、彼の個人史が語られたこと以上に大きい。
また大塚さんの新宿遍歴の歴史は、「パル」「クロノス」という二軒のゲイバーを経てタックスノットをオープンに至るのだが(その間にラジオ番組「スネークマン・ショー」のパーソナリティーとしてゲイの自覚を訴え続けた)、このクロノスという店も新宿二丁目のゲイの歴史に一時代を画する店であり、タックスノット開店の前史がきちんと語られたことも重要である。

しかしながら、この本は、通常の意味でのゲイ向けの本ではない。最初にこの本が企画された段階では、ゲイ以外の人を対象に、特定のパートナーを見つけその人と一緒に暮らすためにはどのようなことが重要なのか(二人で生きる技術)を、ゲイである大塚さん自身を素材として語るということにポイントがあったといい、こうした当初の狙いと大塚さんの個性があいまって、ゲイを特殊な関係として描くということをまったくしていない。要は、この本はゲイのパートナーシップについて知ってもらうことや考えてもらうことを目的とした本ではなく、ゲイのカップルを題材にしてパートナーシップ全体の問題を考えてもらうことを目的とした本なのだ。
とはいえ、この本にゲイ向けの視線が欠如しているわけではない。むしろ、出会っては別れるということを繰り返し、それがあたり前のことと考えているゲイたちに対し、大塚さんは、人と暮らすことはとても大変だけれどもすばらしいことなのだということを、5人のパートナーとの出会いと別れを公開することで、身を切るような切実さで訴えている。

ところで、この本のなかで一番美しく、胸をうつのは2番目のパートナー・カズさんとのエピソードの数々だろう。実はカズさんは私と同じ世代なのだが、大塚さんはこのカズさんをHIVでなくしている。この本は、そうしたカズさんに対するレクィエムなのだなということをひしひしと感じた。
とはいえ、そういう運命の人を失ってからまた新たにパートナーを求め続けているというのが大塚さんのバイタリティーなのであり、そのことがこの本を前向きで筋のとおったものにしている。

『東京物語』公演の打ち上げ風景

2009-12-10 22:58:47 | 観劇記
芝居とクラシック音楽の好きな友達(彼女は今ヤンソンスにいれこんでいる)が、先日の新転位・21の公演『東京物語』の打ち上げ風景をとった写真を送ってくれましたので、今日はそれをアップしてみます。
全体が暗いのでわかりづらいのですが、中央の眼鏡をかけた人が演出の山崎哲さん、一番左で老醜をさらしているのが私、右奥に小さく見えるのが天○荒太さんです。