闇に響くノクターン

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スーフィズム探求⑦ーーサーディーの『薔薇園』から

2009-03-06 00:03:14 | イスラーム理解のために
時代背景なども含めルーミーの『語録』を一通り読んでみたが、続いては同じくスーフィズムの詩人サーディーの作品『薔薇園』をみてみよう。まずは『イスラーム辞典』(岩波書店)によってサーディーに関する基礎的な事実を確認する。

「教訓文学と恋愛叙情詩の巨匠。ファールスのアタベク、アブー・バクル・イブン・サードにちなんで、雅号をサーディーとする。シーラーズ生れ。バグダードのニザーミーヤ学院で学問を修めた後、ダマスカス、ヒジャーズ、北アフリカを旅行。そこで得た知識と経験を生かし、1257年にペルシア語で『果樹園』を、さらに翌58年にペルシア散文学の最高傑作である『薔薇園』を著す(一部省略)。」
なお、サーディー(Sa'di)の名の日本語表記に関してはサアディー、サァディーなどがあるが、小ブログでは『イスラーム辞典』に合わせ「サーディー」を採用する。また作品『薔薇園』も「グリスターン」「ゴレスターン」といった複数の表音表記があるが、混乱を避けて、基本的に『薔薇園』で統一する。

さて、サーディーに関し私がもっとも興味をそそられるのは、彼が1210年頃~92年頃の人で(年代は『イスラーム辞典』による)、とすれば彼の生きた時代はルーミー(1207年~73年)とほとんど重なるということだ。したがって社会的背景に関して、ルーミーについて言えることは、サーディーにもそのまま通用する。13世紀のイスラーム社会(ペルシア社会)には、やはりスーフィズムの大詩人・思想家を次々と生み出す特異な要素があったのではないだろうか。

サーディーの生地、生国についても少しフォローしておこう。ファールスというのは、現在のイランのペルシア湾岸地域で、ブワイフ朝崩壊後、セルジューク朝に組み込まれていた。アタベクもしくはアタ・ベクは、ほんらい王子の傅育係(摂政と訳されることもある)で、王子の成人・即位後強い影響力をもち、その報償としてセルジューク朝の領地内に自律的な封土を与えられ、「アタベク」の称号のまま、その封土の実質的君主としてその土地を実効支配した。シーラーズはその主邑として栄えていた。14世紀の大詩人ハーフィズ(1326年頃~90年頃)もシーラーズの出身である。詳細不明ながら、モンゴル侵入後、ファールスのアタベク政権はモンゴル系のイル汗国に従属することで長らえたものとみられる。サーディー自身も、イル汗国の宰相らの庇護を受けている。

次にサーディーについての伝記的事実だが、彼が亡くなったのが1191-2年頃というのは確実だが、生年は不明で、100歳以上まで生きたとする説もある。『薔薇園』の翻訳者・蒲生礼二氏は、彼が100歳以上生きたという伝承を支持し1184年頃の生まれと推測している。若い頃父を失い、続いて母も亡くし、ファールスの君主の庇護によりバグダードに出てニザーミーア学院に学んだ。1226年から56年までは、スーフィー教団の托鉢僧としてイスラーム世界を東西に放浪した。ちなみに托鉢僧にあたるペルシア語は「ダルヴィーシュ」もしくは「デルヴィーシュ」だが、日本ハムのダルヴィッシュ投手の名前はこの言葉に由来している。さてサーディーは長い放浪の後、56年に故郷シーラーズに戻り、57年に『果樹園(ブースターン)』、58年に『薔薇園』を次々に発表し、ペルシアを代表する詩人の地位を不動のものにした。なお彼の帰郷と詩集発表の時期は、モンゴルの侵入の大動乱期で、前にも書いたように58年にはアッバース朝カリフが殺害されているが、この動乱とサーディーの動向との関連や反響は不明。

『薔薇園』には、澤英三氏(岩波文庫、1951年)と蒲生礼一氏(東洋文庫<平凡社>、1964年)の二種類の邦訳があるが、蒲生氏の訳の方が明晰で読みやすいので、小ブログの『薔薇園』紹介は基本的に蒲生氏訳によるものとし、不明箇所について澤氏の訳を参照することにしたい。