闇に響くノクターン

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スーフィズム探求③ーーイスラームのルネサンス

2009-03-01 00:54:16 | イスラーム理解のために
ハッラージュからルーミーにかけてのスーフィズム(イスラーム神秘思想)の系譜は、『ルーミー語録』を読めばわかるように、イスラーム思想としては極限に近い、かなり異端臭の強い系譜なのであるが(現にハッラージュはその発言が原因で処刑されている)、それはイスラーム社会のどのような動きに対応して出てきたものなのであろうか。個々の思想家や詩人の言動もさることながら、私はこうした思想を生み出した社会状況に興味がわく。二人の生きた時代は、日本でいうとちょうど平安時代から鎌倉時代にかけて(菅原道真の大宰府左遷が901年)であり、天台宗、真言宗を中心とする国家仏教体制に対し、浄土仏教が研究され、それが民衆のあいだに広がっていく時期にあたるのだが、イスラーム社会の場合はどうだったのだろうか。

「9世紀以降、イスラーム諸学を身につけたウラマー(知識人)は、礼拝・断食・巡礼の指導者(イマーム)、食事の種類・隣家とのもめごと・あるいは遺産相続についての相談役、法学や神学などの教授、裁判官(カーディー)、政府の法律顧問などとして、しだいに社会的な影響力を増大しつつあった「コーラン」や伝承(ハディース)にもとづく立法の権限はウラマーにあり、また政治の公正さ(アドル)や不正(ズルム)の程度を判断することも、彼らの学問と良識にゆだねられた。こうしてウラマーの社会的発言力が高まると、彼らはそれまで「コーラン」や預言者の伝記をやさしい言葉で語って歩いた物語師(カーッス)をモスクの中庭や市場の通りから追放した。ウラマーが練りあげた学問を正しく理解しない物語師は、当局から民衆のイスラーム理解を惑わす邪魔者だとみなされたのである。たしかにウラマーたちの学問的な努力によって、イスラームの神学や法学は高度な発達をとげ、信仰生活を律する六信・五行の規定も細かく定められた。しかし民衆にとって、神(アッラーフ)はもっと身近に感じられるはずのものであった。また、都市社会の上層部をしめる富裕者が贅沢三昧の生活を送っていることも、あるべき信仰の道をはずれているとみなされた。羊毛の粗衣(スーフ)をまとい、禁欲と清貧のうちに、修行によって神への愛を深め、さらに神との一体感をえようとする神秘主義者(スーフィー)の登場は、このような民衆意識の明らかな反映であった。(中略)後世のスーフィーたちは、この「神への愛」の観念を拠りどころにして、瞑想と修行によって神に近づき、さらに神との合一の境地(ファナー)に達しようと努めた。ハッラージュは、「われは真理(神)なり」と叫んだために、バグダードで焚死の刑に処せられたが、これは「われ」と「神」との区別が不分明となる究極の神秘体験をさすものと解釈されている。」(佐藤次高氏『イスラーム世界の興隆』<世界の歴史8>、中央公論社、1997年)

「都市の職人や商人たちは、夜になると市中の道場(ハーンカーあるいはザーウィヤ)に集まり、聖者の指導のもとに神との一体感を求めて修行を積み重ねた。修行の方法は、体を揺すりながら神の名をくり返し唱えたり、笛の音に合わせて旋舞するなど、さまざまであった。また修行の合間を利用して、指導者が過去の聖者の物語をやさしく話して聞かせる講話の時間も設けられていた。はじめのうちは、学識あるウラマーは、これらの神秘主義者たちの活動に対し、正統なイスラーム信仰に反する行為であるとして厳しい批判をくわえた。しかし理性による信仰を強調し、高踏的な教義を守ろうとするだけでは、燎原の火のように民間に広まっていく神秘主義の勢いを止めることはできなかった。」(佐藤次高氏、前掲書)

「ドイツのイスラーム史家アダム・メッツは、10~13世紀ごろの時代を「イスラームのルネサンス」と呼ぶ。これは、神秘主義思想が民間に流行し、各地に教団が結成されることによって、イスラームのエネルギーがふたたび興隆期をむかえたからである。教団員の熱心な活動によって、都市の下層民や農民の改宗がすすみ、西アジア社会のイスラーム化がいちだんと進行した。また、教団員は商人の後を追うようにしてアフリカ、トルコ、中央アジア、インド、東南アジアへと出向いてゆき、イスラームの定着と拡大に大きく貢献した。現地の習俗を取り入れながらイスラームを柔軟に説いたことが、彼らの成功の秘訣であったといえよう。」(佐藤次高氏、前掲書)

周知のように、現在世界最大のイスラーム人口をかかえるインドネシアへの伝道もスーフィー教団によって行われている。
またこうしてみると、ほぼ同じ時代の日本における法然や親鸞、そして踊り念仏の一遍が果たした役割(注1)とスーフィー教団の役割は、やはり非常に似ているような気がする(体制によって弾圧されたという点も)。
それにしても、体制派と神秘主義者の見解は、『コーラン』の解釈一つをとっても極端に異なるものである。それをルーミーによって再度確認してみよう。
そのためまずは『コーラン』を引用する。

「我ら(神の自称)がかの聖殿を万人の訪れくる場所と定め、無危害地域に定めた時のこと。「汝らアブラハムの立処(カアバ神殿の中にある聖石。かつてアブラハムが立った所と伝えられる)を祈祷の場所とせよ」と(我らは命じた)。」(『コーラン』2章119節)

ルーミーは、この節には外面的・内面的の二つの意味があるが、一般の学者・註釈家はその外面的な意味にしか気づかないという。

「コーランを言葉の外面的意味に取って解釈する註釈家たちの意見によると、さっき引用したコーランの一節(2章119節)で「聖殿」とあるのはカアバ、すなわちメッカの神殿のことである、という。確かに、カアバの聖域に逃げ込んだ罪人は罰を免れて身の安全を保証され、そこでは一切の狩猟は禁制であり、何人たりともこれに害を与えてはならない(これはイスラーム以前の無道時代にまで遡る古いメッカの聖域の掟)。神が選び給うた特別の場所だからである。この解釈は正しいし、それはそれとしてまことに結構である。が、要するにこれはコーランの外面的意味にすぎない。聖典の秘義を知る人々の解釈は違う。彼らによれば、「聖殿」とは人間の心の深奥ということである。従って(アブラハムの)言葉は次の如き意味に取られなければならない。すかわち、「神よ、我が内面から、欲情の誘惑と雑念とを取り除き給え。暗い情念とよからぬ妄念から清め給え。我が胸に恐怖の影もとどめず、心は明るい静謐に充ちて、ひたすら汝の啓示の下るべき場所となりますように。悪鬼らとその囁きの近づくすべもなき場所となりますように」と。神は天上の諸処に流星を置いてサタンらを拒け、天使たちの秘密の語らいを盗み聴きしないように計らい給うた、という。だからこそ天使たちは、その秘密を何者にも伺われることなく、あらゆる災害から超然としていられるのだ、という。この伝承に準じて解釈すれば、(アブラハムの祈りは)次のような意味になる。「神よ、(天に流星を置き給うた)その如く、我が内心に汝の御配慮の監視を置き、悪鬼どもの囁きと欲情の奸計を遠ざけ給え」と。これが聖典を内的に理解し、その玄旨を識る人々の解釈である。」(『ルーミー語録』~談話其の44) 

解釈の内面化もここまですすめば、これはこれで、やはり容易には近づきがたい文字どおりの「神秘主義思想」というしかないような気がする。しかし、この平俗さと玄妙さが渾然一体となった不可思議さが、当時の民衆にはたまらない魅力だったのではないだろうか。


(注1)日本の仏教史において、法然、親鸞、一遍ら平安末から鎌倉時代にかけての浄土教は、従来の体制仏教、特に密教と対比的に語られることが多く、またその際に密教の「難」に対して浄土教の「易」が強調されることが多い。またその場合、多くは、浄土仏教は「易」であるがゆえに民衆的であるとされる。しかし私は、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名号を唱えれば唱えた者は救済されるという浄土仏教の思想は、言語神秘主義と深く結びついており、その意味では、密教とも通底していると考えている。また信仰の難易に関しては、たしかに、「ナムアミダブツ」と発音すること自体は非常に容易であるが、この発声行為が救済と結びつくということを信じることは逆に極めて困難だと考える。これについては、親鸞も『教行信証』に浄土教は難信だと記している。