闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

真実って一つじゃないーー吉田秋生『海街diary 2』を読む

2008-10-13 22:33:41 | コミック
寓居近くの書店の店頭で吉田秋生のコミック『海街diary 2 真昼の月』(小学館)を見つけたので、さっそく購入し一気に読んだ。昨年でた『海街diary』シリーズの第1巻「蝉時雨のやむ頃」にも非常に感動したのだが(その記事は、小ブログ2007年12月11日付「弱さの強さ」)、第2巻も非常にすぐれている。
第2巻に収載されているのは、前巻に続く「花底蛇(かていのじゃ)」「二人静」「桜の花の満開の下」「真昼の月」の4つエピソードで、ちょうど沈丁花が咲く初春から梅が実る初夏の頃までを描いている。

「花底蛇」は海街(=鎌倉の極楽寺近辺)に住む香田一家の三女・千佳が沈丁花の花の下に小さな蛇を見つける場面からはじまるが、怖がる千佳のかたわらで、長女の幸は「美しいものの下には恐ろしいものが潜んでいる」と「花底蛇」の故事を披露する。このエピソードでは、『海街diary 1』に登場した藤井朋章と、四女・すずのふれあい、朋章の知られざる一面が明らかにされる。
続く「二人静」は、すずのサッカーメイトで小児性腫瘍の手術のために入院中の裕也をめぐるエピソード。
『海街diary 2』は、例によって登場人物それぞれのきめ細かい心理描写がとてもおもしろいのだが、実のところ、この第2話のあたりまではなかなかテンションがあがらず、ややもどかしい。
それがじわっともりあがってくるのが第3話の「桜の花の満開の下」で、この話ではチーム復帰をしたものの義足のためにおもうようにプレイができない裕也をめぐるエピソードが描かれる。復帰した裕也を応援に来た女の子たちを乱暴に追い払ったすずは、新キャプテンの風太をいれて3人きりになったとき、なぜ女の子たちを追い払ったのかを明かす。
「ホントいうと、あの時あたし、裕也のこととか完全吹っとんでたの。だってあの子たち、あんまりかわいそうだ、かわいそうだっていうんだもん。あたしもよくいわれたから。『お父さんもお母さんも死んじゃってかわいそうね』『兄弟いなくてさびしいでしょ、かわいそうね』って。あたし兄弟がいないことさびしいって思ったことなかったし、両親が死んじゃったのは確かにつらかったけど、自分のことかわいそうだって思ったことなかったから。他人にいわれて、はじめて、あたしってかわいそうなんだって、そう思われてるんだって知ったの。」(すず)
「あー、それわかる!おれも親せきのおばちゃんに『かわいそうに!』って大泣きされてドン引いた!あん時おれキレそーだった。アンタにかわいそがってもらうスジあいねえって。マジやばかった!」(裕也)
「かんたんに人のことかわいそうっていう人、すっご、ムカつく!」(すず)
そして今回の表題ともなっている第4話「真昼の月」。香田家の父親が愛人(すずの母)をつくって家出してから、自分も3人の実の娘を捨てて香田家を出た母親が祖母の法事に顔を出すという話に、すずを含めた姉妹は、それそれに動揺する。それに長女・幸の不倫の恋愛、幸の勤務先である病院の先輩のエピソードが複雑にからむ(このあたりの話のからませ方は実にうまい)
話は、すずのサッカーメイトの風太と将士が香田家の梅の収穫を手伝いにきた場面からはじまるが、ふとした拍子に空を見上げて昼の月を見つけ驚く風太に、すずは、「だって月って昼間も出てんじゃん。太陽の光が強くって気がつかないだけだよ!見えないんじゃなくて見てなかっただけでしょ!あたし昼間の月ってけっこう好き。夜だけじゃなく見えるなんてなんか得した気分」とあっさり言う。
そしていろいろなもめごとが一段落した後、極楽寺の駅で母を見送った幸は、駅の上にまた昼の月を見つけ、「おトクな気分なのかなあ、よくわかんないや」とつぶやく。

前回の『海街diary 1』の記事に続いて、この作品のストーリーを細かく紹介したのは、なにもネタばらしを楽しみたかったからではなく、この作品のおもしろさが、ストーリー展開のおもしろさとは違うレベルに存在していると確信しているからだ。つまり、この物語の複雑なストーリーは、その複雑さ自体がおもしろいのではなく、それによって登場人物たちのさまざまな心の動揺を引き出し、また読者にそれを追体験して味わわせるためにある。だから『海街diary 』は、全体のストーリーを知って読み返すと、なるほどここでこの登場人物は表に出ない部分でもっと違うことを考えてるんだなとおもえてきて、深みが増す。
小ブログでストーリーの概要を知って終わりにするのではなく、この記事を読んだらぜひ自分でその奥行きの深さを味わっていただきたい珠玉の作品だ。

      ☆      ☆      ☆

ところで『海街diary 』は、この紹介記事から省いた細かな部分にもおもしろさがぎっしり凝縮されているが、最後に、そんななかから特に強く心に強く残ったセリフを紹介しておく(ーーどうも、ネタぱらしっぽいなあ…)。
突然の母の出現をはじめとするさまざまな問題で悩む幸に、先輩はこう助言する。
「真実ってさ、一つじゃないんだよね。人は信じたいものだけを信じて、見たいものだけを見るのよ。別の何かがあるなんて、思いもしないのよね。」
これがすずのセリフと響き合っているのはいうまでもない。

遅ればせながら『西洋骨董洋菓子店』を読む

2008-01-14 19:56:48 | コミック
このところ毎日求人雑誌に読みふけっており、今日も一件面接のアポイントをいれたが、なにかと鬱陶しい。ちょっと気分転換したいとおもい、本屋の店頭で適当に『西洋骨董洋菓子点』(よしながふみ、新書館)を選んで購入し、さっそく読んでみた。
実はこのコミック、さほど新しい作品ではないのだが(1999年~2002年『Wings』に連載)、連載当時、なにかおもしろいコミックはないかと人にきいたときにこの作品をすすめられたかすかな記憶が頭のすみに残っていて、本屋で無意識的にこの作品を選んだようだ。購入してから、よしながふみといえば『大奥』『きのう何食べた?』等で今をときめくコミック作家ではないかと気づき、どうせ買うならそちらにすればよかったともちょっとおもったが、まあこの『西洋骨董洋菓子店』も以前からそれなりに気になる作品ではあったわけだし、よしながふみの現在の作品につながる貴重な作品だろうとおもいなおし読んでみたというしだい(我ながら、言いわけが長いなあ…)。
たしかに、人物設定は独自のセンスがあってとてもおもしろい。コミック全4巻の終わりまで、あっという間に読んでしまった。

   ☆    ☆    ☆

作品は高校生・小野祐介が同級生・橘圭一郎に思いきって「君のことが好きなんだ」と告白し、「ゲロしそーに気持ちわりーよ!!早く死ね、このホモ!!」と面罵される強烈な場面からはじまる。年月がたち、32歳となった圭一郎が会社を辞め、洋菓子店経営をおもいついたとき、天才洋菓子職人として彼の前にあらわれたのは祐介だった。圭一郎はその偶然の再会に驚くが、男経験を積んだ祐介は、圭一郎にまったく気が付かない。ともかく圭一郎は祐介を雇うことにするが、天才といわれる祐介がいろいろなケーキ店を転々として定職がないのは、彼にゲイとしての性的魅力がありすぎるため、努めたさきざきのケーキ店で彼をめぐる男達のトラブルが起こり、その店にいられなくなるためだった(絵柄でみる限り、どこかふわっとしたところのある祐介くんには私も惹かれます<笑>)。そんな魔性のゲイかつ女性恐怖症の祐介を満足させるため、側にいても祐介になにも感じさせないタイプの美貌の元ボクサー・神田エイジがアシスタント職人として雇い入れられ、やがて圭一郎の実家の家政夫で彼とは子供時代からつき合いがある小早川千影も店員としてはたらきだす。この奇妙な四人の男が狭い店内でおりなす人物関係が極め付きのおもしろさだ(千影は祐介にとって超タイプだが、根っから鈍感な千影は祐介の魔性にまったく気づかず、祐介の気持ちといつもすれ違う)。
作品の後半は圭一郎の少年時代のトラウマと彼がなぜ洋菓子店を開くことをおもいついたかの謎解きが物語の焦点となるが(その伏線は、実は作品の冒頭から用心深く張られている)、この謎解きは直線的すぎて私にはあまりおもしろくなかった(ただし雑誌連載ということを考えると、この謎解きは読者を作品に引きづりこむ大きなポイントとなったのだろうが…)。登場人物のキャラクターと折々のシチュエーション中心の作品に徹した方が、この作品はもっとおもしろいものになったのではないだろうか。ただし、その謎解きのなかで圭一郎は、「自分の引き起こした結果の全てに責任を取れる人間なんてどこにいるんだろう?」というセリフをつぶやくが、このセリフは強く印象に残った。
ちなみに、圭一郎の過去が明らかになるにつれて、高校時代の圭一郎の祐介への面罵は、女子との失恋の腹いせからきたもので、圭一郎はゲイ嫌いというわけではなかったということも明らかになる(めでたし、めでたし♪)。
やがて、エイジがフランスに遊学し、千影が独立して出ていった静かな店内で、圭一郎と祐介は二人で店をはじめたばかりの頃をおもいだし感慨にふける。その二人をみた女子高校生たちが、二人を「男夫婦」だとおもいながら通り過ぎてゆく。そんな誤解も、今の圭一郎はまんざらでもないとおもっている…。

蛇足ながらあえて付け加えておくと、この作品ではケーキについての蘊蓄が抜群におもしろい。

なお、この作品は2001年秋にフジテレビ系でドラマ化されているので、それをみた方もおられるかもしれない(私は未見)。神田エイジ=滝沢秀明、橘圭一郎=椎名桔平、小野祐介=藤木直人、小早川千影=阿部寛という魅力的なキャストだ。

弱さの強さーー吉田秋生『海街diary』を読む

2007-12-11 16:33:10 | コミック
吉田秋生さんの新作コミック『海街diary 1 蝉時雨のやむ頃』を読んだ。
吉田さんは、男子校を舞台にした初期のコミック『河よりも長くゆるやかに』を読んですぐにファンになった作家で、1977年デビューというから、もう30年もコミックを書き続けている少女漫画界の大ベテランだ。『河よりも長くゆるやかに』のなかで男子高校生の生態があまりうまく書けているのでてっきり男性作家だとおもっていたら、実は女性と知ってすごく驚いたことがある。その作品はほとんどすべて追いかけて読んでいたのだが、この『海街diary』シリーズは出ていたのを知らずにいたところ、先日、銀座のスパンアートギャラリーで行われた内藤ルネさんを偲ぶ会ではじめて会った小○館系の編集者の方から、新作が出てますよとわざわざ送っていただき、さっそく飛びついて読んで、その奥行きの深さにあらためて脱帽したという次第。

   ☆    ☆    ☆

さてこの『海街diary』は、「月刊flowers」という少女向けのコミック誌に2006年8月から連載されている作品で、鎌倉を舞台にした四姉妹の物語。といっても、上の三姉妹と一番下の妹は腹違い。
物語は、四人の父が死に、山形の温泉町でその葬儀が行われるところからはじまる。この四姉妹の家庭事情は複雑で、上の三姉妹の父は、姉妹と母を残して家出して15年経つ。長女はそんな父親を憎んでおり、一方三女は父親の記憶もほとんどない。だから父親が死んだときかされても、姉妹には実感もわかなければ、悲しみもおこらない(姉妹の母親はというと、こちらも新しい恋人ができて、姉妹を置いて数年前に家を出ている)。
姉妹が葬儀に参列してわかったのは、父親の恋人(二番目の妻)は娘を一人残して亡くなっており、父親の死を看取ったのは、その三番目の妻だということ。
夫の死に動揺し、喪主の役割も満足に出来ず義理の娘に押しつけようとする三番目の妻をみた長女の幸は、腹違いの妹・すずに、義母と暮らすことになる山形を棄て、鎌倉で四人一緒に住もうと提案する(ここまで第一話「蝉時雨のやむ頃」)。
父親の四十九日が済み、妹・すずを迎えて鎌倉で四姉妹の新しい生活がはじまる。その頃、年下の恋人・朋章と気の合うセックス・フレンドとしてつきあっていた次女・佳乃は、ふとしたきっかけで二人の世界の違いを知り、朋章と別れることになる(この朋章は、吉田秋生さんの大傑作『ラヴァーズ・キス』の主人公。この人物関係の点からみると、『海街diary』は『ラヴァーズ・キス』の裏話という形式になっているが、そのことが朋章と佳乃の別れ話に深みを与えている。ちなみに佳乃には理解できなかった朋章の内面を、初対面のすずは「あの人悪い人じゃない」とすぐに見抜く。複雑な家庭事情のなかで父の死をみとったすずには、抱えきれないなにかをいっぱい詰め込んだ朋章の心の襞が、無意識のうちに読めてしまうのだ。ここまで第二話「佐助の狐」)。
鎌倉で地元の中学に転入したすずは、そこでジュニア・サッカーチーム「オクトパス」に入団するが、その最初の練習試合でキャプテン裕也はケガをし、そのまま入院してしまう。裕也の症状は実は腫瘍で、たまたまケガでそれが早期に発見されたのだ。結局、裕也は右脚を切除することになる。そんな裕也をどのように見舞いなぐさめたらいいのか、すずをはじめチーム・メイトは悩む。そうしたなかで、クリスマスを利用し、すずと新キャプテンの風太は裕也の入院する病院を訪ねる。
「おれたちがプレゼントしたすべり止めつき手袋をして病院の玄関まで送ってくれた多田(裕也)は”本当は足がなくなってから何度も死にたいって思ったんだ”といった。浅野(すず)が真顔で”今も?”と聞いた。多田はもうそなんこと思わねーよと笑った。それが多田の本心かどうかはわからない。」
これは病院から帰るときの風太の内面のセリフだ。「もう死にたいなんて思わねーよ」と笑う裕也の内面は誰にも判らない。吉田作品のすごさは、人の心のうちをすべて描き尽くすところではなくて、人の心のうち、人の心の傷は、本当のところ誰にもわからないと、傷を負った主人公たちを冷たく突き放すところにある。
考えてみれば、幼い時に父親に棄てられた三姉妹は、そのことで心のなかに傷をもっている。末の妹すずは、父親の再婚が心の傷となっている。朋章は朋章で、複雑な家庭事情と傷をもっている(朋章の傷は『ラヴァーズ・キス』のなかで語られている。だから『海街diary』だけを読んでいる読者には朋章の傷は見えないが、吉田さんは、その傷が具体的にどのようなものかを知ることは意味がないと考えているのだとおもう。朋章が心の中に傷を抱えているということだけを示しそれがどのようなものか明かさない『海街diary』の設定は、非常にすぐれている)。
では人はどのように生きたらいいのか。
「多田はやっぱりみんなに会うのがつらくなったんじゃないだろうか」と悩む風太に、すずはきっぱり言う。
「でもいつまでも病院にいるわけにはいかない。世の中って足が二本ある人のほうがずっと多いんだもん。いやでもその中で暮らしていかなきゃならないでしょ。」
多くの人はそれぞれに心の傷やハンデをもって生きている。しかしいつまでもその傷に甘えていては「世の中」を生きていくことはできない。傷やハンデを乗りこえるのではなく、傷やハンデとともに生きていくことを考えなくてはならない(傷やハンデは簡単に乗りこえることができるものではない)。だから人は、可能な限りそうした傷をこらえ、必要以上に他人に頼ることなく、傷などないかのように”普通に”生きていかなくてはならない。そうしたなかから、人間同士の本当の理解や支え合いが生まれてくる。それはけして”もたれ合い”ではない。そんなことが、『海街diary 1』のなかで吉田秋生さんがとりあえず出した結論といえるのではないだろうか(ここまで第三話「二階堂の鬼)。

吉田秋生さんのコミックの登場人物たちはいつも、弱いから強い。
これから先、四姉妹とその恋人・友人たちがどのようにからみあっていくか、また新しい楽しみが増えた。

    ☆    ☆    ☆

ところで、現在発売中の『週刊現代』が「このコミックが面白い!」というタイトルで最近のコミックベスト20を特集していたのでみてみたところ、『海街diary』は第二位にランクされていた(第一位は『ハチワンダイバー』<柴田ヨクサル>)。
ベスト20選出の座談会に参加している評者の一人・藤本由香里さんによれば、『海街diary』は、「「ベテランの安定した作品」のように見えて、構造的には全然そうではない。新しい表現、読んでいてハッとさせるセリフ、鋭い指摘が多い。こんなささいなことから本質を見抜くのか、と驚かされますね」とのこと。

『岳』ーー大自然のなかの人間の生と死を淡々と描く

2007-03-08 01:34:25 | コミック
今日(7日)はアルバイト前に三発ならぬ散髪にいったが、そこで流れていたラジオ番組で『岳(がく)』というコミックを知り、さっそく購入して読んでみた。

『岳』は山岳救助がテーマのマンガで、「ビッグコミックオリジナル」に連載中。小学館から単行本が三巻でている。作者は石塚真一。
マンガというと、実は私は少女マンガ派で、なにを隠そう、かつて「バディ」誌に少女マンガ論を書いたこともある。だから少女マンガのことはそれなりに詳しいのだが(ただし、最近の作品はあまり追いかけていない)、青年誌のマンガというとこれまで全く縁がなかった。
そのせいか、『岳』も、はじめはそのテンポに今一ついていけなかったのだが、テーマそのものは、ラジオ情報どおりで、とてもおもしろい。

根っからの山好きでネパール、北南米、ヨーロッパと世界の高山を踏破した経験をもつ主人公の島崎三歩は、現在、日本アルプスでヴォランティアの遭難救助活動を行っている。
話は、その三歩に飛び込んでくる救助依頼と救助活動からなりたっている。
ただこの作品は、そうした三歩の活動を描く山岳アドベンチャーではなく、助かる人、助からない人、大自然のなかで多くの人の生死を観つづける三歩の内面の物語である。とはいえ、作者の視点は三歩の内部にはあまり踏み込まず、三歩はあくまでも狂言回し的な役割にとどまっている。ラジオでは、この作品は必ずしもヒューマニスティックではなく、むしろ人間の生死をつきはなして描いているところがいいと推薦していたのだが、私もそう思う。たとえば死体がモノでしかないといった事実も冷厳にみつめている。
山のなかに住む三歩が、基本的にはつねに孤独で、そこには社会的な問題や老後といった問題がはいりこむ余地がないという設定もうまくできている。社会問題は、登ってくる第三者が山のなかにもちこんでくるのだが、そうした雑音もすぐに自然のなかに吸収されてしまう。作者は、三歩を特別に厭世的な人間として描いているわけではないのだが、三歩がつねに、社会とか人間とかを超えた何ものかと向き合っている、その何ものかを知りたくて一人で山に住み、山に登り続けているというのは事実だろう。いやこの場合、「知る」という言葉は事態をうまく言い表してはいないかもしれない。それはもっと肉体的もしくは無意識的なものというべきであろう。
「そこに山があるから登る」という言葉はあまりにも陳腐なものになってしまっているが、『岳』は、そんな言葉でしか言い表しようがない三歩をうまくとらえている。だからこの作品のなかでは、「山に登る」というある意味では極めて単純な行為が非常に感動的だ。