闇に響くノクターン

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弱虫の論理ーー尾辻かな子さんの落選におもう

2007-07-31 05:30:24 | 雑記
民主党が圧勝した参議院議員で、尾辻かな子さんが落選した。私は、これは惜敗ではなく惨敗だったとおもう。
実は選挙前から、私は、選挙によって日本の同性愛の状況を上から変えるという考え方には少なからぬ疑問をもっており、また国政に同性愛の問題を持ち込むことへの疑問もあり、尾辻さんには絶対投票しないつもりでいたのだが、他に投票したい候補者もなし、投票当日に尾辻さんに投票することに決めた。しかし私の勝手な予測では、彼女はもっと善戦するだろうとおもっていたので、個人名の得票が38,000というのは、意外に少ないという気がしている。これは、尾辻さんの知名度が少なかったというよりは、同性愛者の多くが彼女の行動を支持しなかったということであり、そのことはすなおに認めるべきだとおもう。
こんなことを書くと多くの人からおしかりをうけそうでちょっとこわいのだが、選挙が終わったことであり、少なくとも私の発言が中傷や選挙妨害とみなされる心配はもはやないわけだから、この辺で彼女の行動にストレートに共感できなかった私の気持ちを自己分析してみることぐらいはゆるされるのではないだろうか。
さて、私が尾辻さんの政治行動にすなおに共感できなかったのは、端的にいえば、社会的弱者(性的マイノリティー)の権利を明確に主張し擁護するという彼女の基本的立場に、なにかしら強者の論理を見出して違和感を感じてしまったからだ。
たとえば、社会から同性愛者への差別をなくすといっても、そうした平等を享受するためには、被差別者は自分が差別されているということ、つまり自分が同性愛者であることを社会に対して認めなくてはならない。ところで、ここで自分の心情を分析してみると、私には、社会全体に対して自分が性的マイノリティーであることを公言するつもりはまったくなく、したがって、社会からの差別は容認せざるをえないものとおもっている。だから、尾辻さんの主張と私の心情は、そもそも最初からまったくかみあっていないのだ。
ところで、同性愛者への差別なり権利侵害といってもあまりにも漠然としているので、たとえば結婚ということを考えると、同性愛者が同性同士で結婚できないのは社会的不平等だというのは、議論としてはたしかにそのとおりだが、仮に同性婚が認められたとしても、私は同性と結婚したいとはおもわないし、そうした権利も平等も、ありがたくもなんともない。同性婚が認められたとして、それを実行するのは、心情的な強者だけなのではないだろうか。それと、こと結婚に関しては、近年では男女間でも結婚を必ずしも絶対視しない考え方が出てきており、「結婚」という制度もしくは契約にしばられるのはいかがなものかという個人的なおもいもある。
(くどいようだが、仮に同性婚が法的に認められたとして、同性婚するということは、当事者同士が社会的にカミング・アウトするというこであり、カミング・アウトせずの同性婚というのは事実上ありえないし、あったとしてもほとんど無意味ではないかと考える。したがって、同性婚論は結局同性愛者のカミング・アウト論と密接に結びついてくるとおもうのだが、はたして、日本の同性愛者の多くは、自らのカミング・アウトをのぞんでいるのだろうか。カミング・アウトする人が増えれば、同性愛は社会的に容認されるといった、他者を意識したカミング・アウト論を私はとらない。ある人がカミング・アウトするかどうかは、結局、その人個人の問題なのではないだろうか。こうしたことについての十分な議論なしに、同性婚が容認されることの法的な利点だけをうたうというのは、私には、いささか論理のすり替えという感じがする。)
また報道や芸術表現のうえで差別撤廃ということに関しても、表現の自由とのからみで、私は否定的にならざるをえない。
だから結局、同性愛者に対する社会的な差別をなくすということは、制度の問題として考えるだけではなく、当事者の心情を顧慮しながら少しずつ行っていくべきではないかと私はおもう。自己の権利を主張しないものは、その権利を享受することはできないといった論理は、あまりにも建前論的に過ぎて、少なくとも私はついていけない。
尾辻かな子さんの落選をうけて、彼女に投票したとある者は、今こんなことを考えているということで、かってなおもいをつづってみた。こうした弱虫の論理に対する批判にはあまんじよう。

一難去ってまた一難

2007-07-24 04:12:20 | 雑記
先週は、また、なんだかとても忙しかった。
先日、四国まで取材旅行にいった知人の関係のテレビ番組の編集が大詰めを迎えたのに引き続いて、別のテレビ局からも、知人に、あるテレビ番組のコーディネイトの依頼がきた。テレビの話が二つも同時に進行するというのは、なんだかちょっと売れっ子になったようだが、どちらの番組も、知人にも私にも、直接収入に結びつきそうにないところが、またすごい!いや、ほんとはそんなことに感心している場合ではないのだが、でも現実にはそうだからしかたがない。この現実がうまく切り盛りできるようだったら、カレシモドキに振り回されるようなこともなかっただろう(笑)。
それに加えて、ローマからもややこしいメールが来た。
これは十一月ごろの過去ログに書いたローマ大学のMさんからのもので、新しい本を出したので今月のはじめに送ったが、もう届いたかと様子をきいてきている。しかしMさんの本は、出したという日付から三週間以上たつというのにまだ届かない。もしかしたら私の転居騒動でトラブっているのかもしれないとおもい、新しい住所を伝えて再送してもらった。
そんなやりとりだけでは味も素っ気もないので、Mさんのへのメールにはこちらの近況も書いたのだが、すると、「そのテレビの話というのはおもしろそうだ」と乗ってきた。その返事を読んでこれはしまったとおもったがもう遅い。むこうは興味しんしんなので、苦手な英語で、テレビ局との打ち合わせの様子を伝えるはめにおちいってしまった。
とはいえ、実はMさんの本のテーマも、このテレビ企画と関連するもので、だから彼もその企画に興味があるというわけなのだが、こちらはこちらで、打ち合わせのときに、テレビ局のスタッフにMさんの本の話を出して、その到着を待っているところだと言ったところ、日本のスタッフもその本に関心を示しだした。
そんな経緯をメールで簡単に伝えたら、Mさん大喜び。すぐに「お前のメールに感動した」という返事がきた。で、実はその率直さに、私も少し感動している。
ただし、その直後に、Mさんから、本が届かないならファイルですぐにでも自分の文章を読んでくれとイタリア語で書かれた(はず)のファイルが送られてきたのだが、幸か不幸か、そのファイルは私のPCではひらけない。
ということで、イタリア語で書かれた文章の感想を言うという苦行からだけは、今のところ、なんとかまぬがれている。