闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

おいしい話は続く

2009-04-30 00:25:58 | 雑記
不思議なことに、おいしい話しは続くものである。
アルバイトから帰ってPCを開くと、O君という若者からのGW中の食事の誘いのメールが入っていたので、喜んで応じることにした。場所は草剛さんの自宅マンション近くの高層ビル51階にある会員制クラブ。自分ではまず絶対に行くことがないであろう場所だ。

おもしろいことに、O君と知り合ったのは、O君の先生であったHさん(たぶん絶対にノンケ)という人の掲示板上。Hさんは、私がいつも自分の翻訳のコピーに利用している大学の教官で、彼とは実際に面識があり、私もその掲示板にいろいろと書き込みしていたのだが、そこで彼の教え子であるO君と知り合ったというわけ。実はO君はゲイなのだが、彼がゲイだと知ったきっかけや私がゲイだと話したいきさつはまったく覚えていない。ネットでの会話の内容から、互いに相手はゲイでしかありえないと確信したのかも知れない。また、今回はO君の学友のS君も一緒のご招待とのことだが、もちろんS君もゲイで、彼とも何度か話しをしたことがある。

O君とはしばらく会っていないが、卒業後、さる大企業に就職したので、私も気兼ねなくご馳走に与ることができる。ただ手ぶらではさすがに気がひけるので、このようなこともあろうかと秘蔵していたクリスタル・グラスを手みやげにもっていくことにした。

それと、翻訳のコピーももっていこう。O君、S君が利用したはずの生協でコピーすれば、学校の思い出話しも出てこようというものだ。

マルサラで食事を締めくくる

2009-04-27 22:52:31 | 雑記
昨日(26日)はアルバイトがオフだったので、知人に同行して、作品の搬入に立ち会った。鎌倉に住んでいるMさんという人が、知人の作品が気に入り、ぜひにということで購入が決まったものだ。実はMさん自身もアーチストで、その個展は私も拝見したことがあって面識があるので、天気もよし、Mさんがどういうところに住んでいるのか、興味津々でついていったもの。

Mさんの自宅は、鎌倉駅から5分ほどの静かな住宅街の中にあったが、門構えからして威風堂々としている。
ついてすぐにリビングにとおされたが、ここは20畳以上あろうかという広い部屋で、しかも部屋の真ん中にほんものの暖炉があるのには圧倒された。また壁にはビザンチンのイコンを模した絵がかけてあるのだが、それが、このどっしりした部屋にはほんとうにぴったりだ。リビングに続く庭も広々としていて申し分がない。こういうゆったりした家に住んでいるので、Mさんの作品にはこせこせしたところが少しもないのだなと、後で知人とうなずき合った。
Mさんは、この家にお姉さんとお姉さんの息子さんの3人で住んでいるとのことで、そのお姉さんと甥子さんにも紹介してもらった。甥子さんはまだ若いのだが、アレルギー体質でなかなか外出できず、家にいることが多いのだそうだ。リビングの隅には、この甥子さんがレッスンしているチェロとボッケリーニの楽譜がさりげなく広げてあった。甥子さんとは音楽のことですぐに話しが合い、チェロだったら、バッハの無伴奏チェロ組曲とブラームスのものがいいなどと雑談した。私は最近ちょうどブラームスの曲をいろいろ聴いているところだったので、「タータータ、ターター、タータタタータ、ターター」とチェロ・ソナタのメロディーを口ずさむと、よく知っていると感心してもらった。またそのお母さん(Mさんのお姉さん)は、和服がよく似合う美人だ(当日の着物は、着物も帯も草木染めとのこと)。知人はというと、このお母さんと世代がほぼ同じで、彼女と話が合ったようだ。
さてこの優雅な部屋で歓談することしばし、Mさんが近くのレストランに予約を入れてくれて、せっかく来たのだからと、みんなのすすめで、私もご相伴に与ることになった。
鎌倉には知られざるおいしいレストランが多いが、Mさんが選んだのはイタリアンで、5人で、前菜にはじまる申し分のない料理を堪能した。またMさんは、お酒の選択を私にまかせてくれたので、食前にはスプマンテを、食中はヴェネツィア地方のシャルドネを選んだが好評だった。Mさんが食後酒もとすすめてくれるので、今度はみんなそれぞれに、グラッパやレモンチェロなど好きな酒を選んだが、私は本格的なレストランでこんなおいしい食事をするのは久しぶりのことなので、マルサラで気分よく最後をしめくくることにした。
鎌倉に着いたのは3時頃、レストランに行ったのは6時頃だが、気が付いたらいつのまにか10時近くになっていた。みんなほんとうによく話しよく食べた。Mさんには楽しい一日とおいしい食事へのお礼を述べ、狭いわが家にもどって来た。
(食べ過ぎと飲み過ぎで、さすがに、今日のアルバイトはややきつかった。)

草なぎさん騒動に思う

2009-04-24 08:23:22 | 雑記
昨日、SMAPの草なぎ剛さんが公然わいせつ罪で逮捕され、マスコミは大騒ぎになっている。小ブログでこの事件を取り上げること自体、マスコミに乗せられているようでやや気が引けるが、アイドルが酒を飲み過ぎて裸になっり深夜に大声を出したということに対し、世間は騒ぎ過ぎではないかという気がするので、ちょっと取り上げてみることにした。

そもそもこの「事件」は現時点ですべての事実がまだ明らかになっていないので、もしかすると薬物使用などの背景があるかもしれず、草なぎさんの家宅捜索をするなど、酒の飲み過ぎにしては警察もかなり強権的な態度に出ているが、もしこれが単純な飲み過ぎだとすると、草なぎさんに対して人権蹂躙気味ではないかという気がする。これが一般人が起こした事件だったとすれば、警察の態度ももっと変わっていたのではないだろうか。
またこの出来事では、草なぎさんが裸になった動機がよくわからないのだが(仮にこれについて後に本人のコメントや「公式発表」があったとしても、事件の社会的性質上、そうした公式見解はほとんど信頼できないであろう)、想像すれば、トップ・アイドルとして10年以上活躍してきた若者の心の深層部にあった抑圧が原因なのではないだろうか。つまり、人間は誰でも、人前で自分のすべてをさらしたり、裸になって自分を解放したいときがあるのではないだろうか。抑圧が強ければ強いほど、そうした潜在的欲求も強いのではないかという気がする。
しかし今のところ、世間一般やマスコミが問題にしているのは、アイドルとしての表層的な華やかさやクリーンさと深層部のギャップであり、アイドルたるもの内面までクリーンであれということなのかもしれない。だがそれは、しょせん無理な要求ではないだろうか。「普通の人間」などどこにも存在せず、個々の人間は、そもそも一つの言葉だけでは表現しきれないさまざまな側面をもっているのが当たり前で、そこから一つの面だけを抜き出して、それがその人のすべてであると考えること自体無理があるのだ。
しかしもしかすると、アイドルとはそうしたさまざまな面を切り捨て、自分を特定の面に一元化することによって商品化され収入を得ている存在であり、そうした商品が自己を露呈させてしまうことそのものが社会的ルール違反だという考え方もあるのかも知れない。しかし私には、これもどうも、あまりにも非人間的な考え方ではないかという気がする。たとえば彼をキャラクターに使っていた「地デジ」のイメージ・ダウンと言ってみたところで、それは、そもそもその「地デジ」そのものが、ある人のイメージに依存しなければ社会的に浸透できない脆弱なものだという内実をさらけだしているだけではないだろうか。

結局、わいせつといっても、婦女暴行や痴漢行為などと違い、今回の出来事は相手あっての行為だったわけではなし、もう少し大目に見るべきではないかというのが、一クイアとしての感想だ。アイドルが人前で裸になったというだけでこれだけの騒動が起こる国では、一部の人たちが言うような、アイドルや芸能人のカミングアウトなど、土台無理な話ではないだろうか。

     ☆     ☆     ☆

【追記】
現時点(4月26日朝)で私は、次のような見解が今回の出来事に対する妥当な見方ではないかとおもっている。
・山口一臣氏『ダメだめ編集長日記』~「草剛「全裸で逮捕」報道への違和感」
http://www.the-journal.jp/contents/yamaguchi/2009/04/post_63.html
・雁屋哲氏『雁屋哲の美味しんぽ日記』~「草氏の不当逮捕」
http://kariyatetsu.com/nikki/989.php

美大で知人の講演会の打ち合わせ

2009-04-18 23:59:11 | 雑記
今朝(18日朝)は9時頃に起きて、しばらく翻訳の校正をしてから、ブリ焼き、春菊のおひたし、サラダなどでブランチ。その後11時頃からコインランドリーで洗濯。
午後1時からは大河ドラマ『天地人』の再放送を観る。このドラマ、上杉家の跡目争い(御館の乱)がはじまってからは、ストーリーがかなり御都合主義的でまどろっこしい。そもそもこの跡目争いは、先に春日山城を奪取した方が有利ということで景勝側(兼続側)から仕掛けたことになっているのだが、いざ春日山城を奪ってみると、いったん撤退して城の麓の御館に布陣した景虎側が有利になったことになっていて、先制攻撃を仕掛けた兼続が戦略失敗の責任をとらされないのは不審。この展開は、普通に考えれば戦闘を仕掛けられた景虎側に大義名分があるとおもう。また今日の再放送のなかでは、兼続が、人質にさしだされた景虎の嫡子を殺害したのは自分たちではないと景虎に弁明するシーンがあるが、この弁明はあまりにもいいわけがましく、事実を黙って呑みこんだことにした方が兼続の人物像に奥行きが出たのではないかとおもう。いずれにしても、跡目争いは今回で決着したので、次回からはすこしおもしろくなるかもしれないと、多少期待。
ところで本日は、ゲイをテーマとする映画『MILK』と『アンティーク~西洋骨董洋菓子店~』(よしながふみのコミックが原作でチュ・ジフン主演の韓国映画、原作については小ブログ2008年1月14日の記事「遅ればせながら『西洋骨董洋菓子店』を読む」をご参照)の公開日なのでそれに気をひかれなかったわけではないが、夕方から某美大で知人の講演会の打ち合わせを予定しているので、『天地人』を観たあと慌ただしく部屋を片付けて、打ち合わせの準備。
講演の内容案の作成とプリントアウトなど準備が順調に済んで、少し時間ができたので、余裕で花期が済んだヴェランダの小さなアヤメの鉢を植え替えた。
夕方からの打ち合わせ本番も極めて和やかなムードで、講演の形式、内容、タイトル、宣伝方法などについて、こちらで準備したとおりスムーズに了解に達した。また思いがけぬことに先方は、私の名前も宣伝物に入れたいというので、私はあくまでも裏方に過ぎないからと辞退したのだが、先方には先方のスタイルがあるとのことで懇願に折れて、すべて先方のやり方にまかせることにした。
実は美大の担当者は人間の身体について専門的に研究しているのだが、こちらは人間の精神についての本を翻訳している最中なので、打ち合わせのあいまの雑談もはずみ、身体と精神の交錯などについてさまざま話し合った。
とはいえ多少疲れたので、知人に結果報告してから、帰宅後すぐに缶ビールをあけて、鰺フライと朝食の残りのサラダで夕食を簡単に済ませ、ブラームスのCDを聴いてぼんやりすごした(今現在はブラームスの弦楽四重奏曲を聴いている)。

歌舞伎『伽羅先代萩』を観る

2009-04-15 21:49:03 | 観劇記
昨晩の就寝が遅かったので、今日は9時過ぎに起き、10時に部屋を出て、歌舞伎鑑賞。演目は『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』。主要な出演者は坂東玉三郎(政岡)、片岡仁左衛門(八汐、細川勝元)、中村吉右衛門(仁木弾正)。江戸時代におこった伊達家のお家騒動にヒントを得て、時代を室町時代に移して、奥州足利家のお家騒動という設定で描いた時代物のドラマだ。タイトルの「先代」が「仙台」をほのめかし、これが仙台の伊達家の物語であることを暗示している。現在上演される『先代萩』の原型となった歌舞伎『伽羅先代萩』の初演は安永6年(1777年、タイトルは同じだがこれは現在の『先代萩』とは異なる作品)。実は先週末会ったロシア人のR君が歌舞伎を観たいというので勧めていたものだが、4月は彼の都合が悪いとのことで、今回は1人で観ることにしたもの。歌舞伎はかなり昔から観ているが、思い返してみると、『先代萩』はこれまで観た記憶がなく、私としても今回がはじめての鑑賞だ。

ということで、今日は、筋立てや作品全体の構造の把握が主の鑑賞となったが、結果からいうと、この作品、歌舞伎の名作としてたびたび上演されるものの、芝居としては構造が弱いとおもった。
ドラマは、奥州足利家の主君・頼兼が遊蕩にふけり政治をおろそかにしているので、幼い嫡男・鶴千代に跡目相続の期待がかかるのだが、足利家の執権・仁木弾正が鶴千代を殺して政治を我が物にしようと企み、乳人・政岡がそれを必死で阻止するというもの。これに弾正の妹・八汐がからみ、最後は細川勝元の裁きで弾正の悪事が露見し成敗される。
さてこのなかで、鶴千代を毒殺から守るため政岡が自分でご飯を炊いて食べさせる場面は「飯炊き(ままたき)」という有名な場面で、鑑賞の大きな眼目であるのだが、物語としては特に何も進行しないため、私の感覚からするとあまりにも長すぎる(ドラマそのもののおもしろさというより、ここはご飯を待つ子役のあどけないかわいさを見るべき場面なのであろう)。
続いて、弾正方の陰謀で政岡と鶴千代が窮地に陥ったとき、政岡の息子・千松が身替わりになり鶴千代を救うという場面も政岡の見せ所とされるが、この愁嘆場は、政岡と対峙する相手がいない一人舞台なので、ドラマの構造としてはやはり弱いとおもう。つまり、演じる側としてはここでたっぷりと自分の悲しみの演技を披露したいわけだが、観る側からすると、仮にこの場面がないとしても子供を失った政岡の苦しみはわかるわけで、ドラマ全体の進行からすると、この場面は冗長な気がする。もしこの場面がなければ、観客は子供を殺された政岡の苦しみを自分の中で象徴的にうけとめてふくらますことができるが、この場面があるために、政岡の苦しみは役者によって見せられただけのものになってしまうのである。
ちなみに私は、ここで、歌舞伎や人形浄瑠璃の作劇法があまりにも古すぎて冗長だといおうとしているのではない。たとえば『先代萩』より前につくられた近松門左衛門の心中ものは、ドラマの約束として心中の場面もみせるが、その死の瞬間、死の苦悶がドラマの中心となることはない。近松の心中ものの核心は、恋人たちが死を決意する心理的なプロセスにあって、このため今観ても新鮮だ(これに比べると、『先代萩』のドラマには結末しかない)。
さて続く問注所での裁判の場面(対決)は、証拠の吟味などの描写が今度はあまりにも理詰めに過ぎて、やはり心理的なドラマとしてのおもしろさを欠く。もしかするとこの場面では、裁判劇的なおもしろさを感じる人もいるかもしれないが、それにしては、前半の心的なものの比重が大きいドラマトゥルギーと重心があまりにも違いすぎるため、鑑賞態度の切り替えがうまくいかないのだ。
結局この芝居は、お家騒動や忠義といったものが身近に感じられた時代にはある種のリアリティーをもっておもしろく感じられた作品かもしれないが、現代的な感覚からすると自己投影が困難で、かなり難しい作品だとおもった。
そうしたなかで玉三郎の乳人・政岡は、過度な思い入れを排した演技で、それ自体は評価されるべきものだとおもうが、さらりとしすぎて上に書いたような作品の弱点が浮き彫りにされるといえなくもない。
それに比べると仁左衛門の敵役・八汐は出色のできで、ふだん立役(男役)しか演じない彼が、そうした役者のために書かれた憎々しい奥女中を楽しそうに演じていた。
吉右衛門の弾正は、私の席(三階)からは最初の花道すっぽん(床下の穴)からのせり上がりもよく見えず、そのまま問注所の場面に移るので、「らしさ」があまり感じられない。
仁左衛門が二役で演じる細川勝元(裁き役)は、理屈で裁判を進行するだけなので可もなく不可もなし(仁左衛門を襲名する前の孝夫のころの彼だったら、もっとさっそうとしてとおもう)。
ということで、今回の『先代萩』、私としてはかなり期待していたのだが、おもっていたほどの出来ではなかったようにおもう。

     ☆     ☆     ☆

歌舞伎の帰りに、築地に住む知人を訪問してしばし雑談して帰宅した。

テレビ東京『ママはニューハーフ』を観る

2009-04-14 21:05:14 | 雑記
今日は8時過ぎに目覚め、しばらく翻訳作業。
10過ぎにとりあえず作業を中断し、冷蔵庫のなかに残っていた豚コマとキャベツを豆板醤をからめていため、ブランチ。
天気が悪くなりそうなので洗濯はせず、ブランチ後は、翻訳のコピーを綴じたりしながらしばしぼんやり過ごす。
昼過ぎにテレビをつけると、12チャンネルで主婦向けに『ママはニューハーフ』という奇想天外なドラマをやっていたので、あっけにとられながらしばし鑑賞。
このドラマ、ニューハーフ・パブ「シャレード」でナンバー1のダンサーとして活躍している大熊岩太郎という主人公(金子昇)が、元恋人から突然息子・清人を押しつけられ、ニューハーフとしての生活と父親?としての生活のギャップに七転八倒する様を、周囲の人物関係をからめながら描いたコメディーだ。ニューハーフ・パブ「シャレード」の様子は、私が一度だけいったことのある六本木のニューハーフ・パブによく似ていて、雰囲気をうまく出している。
ただ、何の予備知識もなく今日始めて見たので、全体のシチュエーションがうまくつかめない。もろもろの状況からは、岩太郎(ルナ)は性転換したニューハーフとはおもえず、ドラマのタイトルがニューハーフの実態を反映しているようには考えられない。このあたり、同性愛者の人権擁護に敏感な人であれば、一般の人に対し「ニューハーフ」という概念に誤解と混乱をもたらすとして批判的にみるかもしれない。
私はというと、スーツ姿で普通の男言葉をつかう岩太郎と、自室で清人と二人きりになったときのオネエ言葉によるママ?振りの対比をとてもおもしろいとおもった。
このドラマに関しては、テレビ東京に番組のサイトがあるので、興味のある方はご参照頂きたい↓。
http://www.tv-tokyo.co.jp/mama/
それから、翻訳をきりのいいところまで仕上げたのち、買い物、メール・チェックを済ませ、夕方から、銀座の画廊スパンアート・ギャラリーに昨日からはじまったグループ展「私の劇場2009」を観みいく。展覧会のコンセプトは、「人生も一つの幻影なのだといういい方にしたがえば、舞台という虚構は私たちが覗いてみたい、もう一つの真実なのかもしれない」ということ。この展覧会、昨日が初日だったのだが、昨日はスーパーのアルバイトでオープニングに行けなかったので、遅ればせながら本日の鑑賞となったしだい。会場には知り合いが二人ほどいて、観たばかりの『ママはニューハーフ』の話題などで盛りあがった。展覧会は25日まで開催。
アート鑑賞のあとは、山野楽器でCDを物色。
先日入手して気に入っている『ビザンティウムからアンダルシアへ~中世の音楽と詩』(Naxos)を演奏しているオニ・ウィタルス・アンサンブルの演奏で『ベツレヘム巡礼の途上にて』(Naxos)というCDを発見したので、まずそれを購入。もう1枚、ブリュメル(1460年頃~1515年以降)の「見よ、大地が多く揺れ動き」という12声部の複雑なミサ曲のCDを見つけたので、これも購入した(演奏はドミニク・ヴィスとクレマン・ジャヌカン・アンサンブル、Harmonia Mundi)。
ということで、今は自室で『ベツレヘム巡礼の途上にて』を聴いている。このあたりの音楽の演奏は、曲のことがよくわからないので簡単にうまいとかへたとかいえないのだが、個人的には『ビザンティウムからアンダルシアへ』の方がおもしろく聴ける。ノリもそちらの方がいいようだ。『ベツレヘム巡礼の途上にて』の方が1994年録音と録音が古いので、こちらはまだ暗中模索のものがそのまま録音されたのかもしれない。

ワイングラスを取り寄せる

2009-04-11 22:18:47 | 雑記
今日はなんだか慌ただしい一日だった。
鯖の味噌煮とありあわせの野菜の味噌汁でブランチをとったのち、まず某学会会場校の教官に私の翻訳のコピーを送る。
それから若草色のセーターに同じ色の靴を合わせてふらっと新宿に出かけ、伊勢丹に立ち寄ると、売り場で憧れの店員H君と鉢合わせ。
「相変わらずすてきですねえ」
というH君からの挨拶に、お世辞がうまくなったとおもいつつ、
「そうかなあ、でももう50歳をとっくに越えちゃったし」
とさり気に応じる私。
「ところで、いつぞやは贈り物ありがとうございました」
という控え目な言葉には、
「いえ、あれは私の愛の一端に過ぎませんから」
と、いつになく大胆な対応。これが都心のデパートの売り場で普通に行われる店員と客の会話なのだろうか?
とはいえ、これで気を良くした私は、定額給付金の交付申請を済ましたことでもあり、倹約の行動予定も忘れてさらに大胆な行動に。
というのは、H君と立ち話をして別れたその足でワイングラスの売り場に行き、グラスを2客注文。このワイングラスは、正月から2度も私の夢のなかに登場しているが、アルバイトが軌道にのるまではと注文を手控えていた商品だ。
ところがいざ実際に注文すると、在庫がないので取り寄せますので半年お待ち下さいとの回答。
「え、半年も!?」とおもいつつ、どうしても欲しい商品ではあるし、また今日まですでに数カ月待っているので、ここは太っ腹に、あと半年入荷を待つことにした。手に入れるまでこんなに時間がかかる商品であるからには、半年後に入荷するときまでには、このグラスで一緒にワインを飲むすてきな人をどうしても見つけなくてはなるまい。

さて小休憩の後、夕方は銀座の画廊に行き、知り合いの個展を鑑賞し、また、ロシア人の友人R君と歓談。
この個展に行くことにしたのは、知り合いの作品鑑賞もさることながら、そこに行けばあるアーチストが来ているだろうと想定し、そのアーチストをR君に紹介するのが主目的。画廊に行くと、案の定目当てのアーチストEさんがいて、さっそく彼をR君に紹介。二人がとても波長があったようなので目的はほぼ達成した。
その後、R君と二人で中華屋に行き、しばしアート談議(ちなみに彼は、水餃子をとてもおいしいといって食べていた)。そこでのおもな話題は、日本の現代アートの状況が閉塞的なのでなんとかしなくてはならないということや、日本語の細かい表現のことなど。とはいえ、R君は日本語がペラペラなので、だいたいは日本語で会話。ところどころ日本語の意味がわからないというところだけ、英語とフランス語で補足説明。話題になった日本語の表現というのは、まず「標本」と「剥製」の違いについて(英語、フランス語ではどちらもspecimen)。次に、「シリアス」という言葉を私が「真剣な」と訳したことから、日本語の「真剣」という言葉がもつ「真実の剣」という意味を説明。これは、「今の日本ではシリアスなアーチストほど苦労している」という文脈のなかで出てきて、R君がこの「シリアス」という言葉を日本語ではどういえばいいのかと訊いてきたことから問題となったもの。
R君とは、近く小石川植物園に「標本」を見に行ってみようということと、6月頃には歌舞伎に行こうということを約して別れた。

のんびりと、当面の行動計画を練る

2009-04-09 23:07:41 | 翻訳への道
今日はアルバイトも休みなので、ゆっくり起きてCD(『意志の扉/中世セファルデイの音楽における典礼歌とユダヤ神秘主義』ミゲル・サンチェス指揮、アリア・ムジカ)を聴きながらブランチ。メニューは鱈の味噌づけ、ほうれん草のおひたし、昨日スーパーで特売していたシジミの味噌汁など(なんだか味噌味のものが多いが、特売品中心なのでやむを得ない)。続いては休日の重要な儀式である洗濯をしながら、当面の行動計画を練った。
といっても、これからすることを新たにいろいろ決めたというのではなく、6月に某学会の年次大会があるので、それまでに現在手がけている翻訳をきりのいいところまで仕上げ、そのコピーをつくって学会メンバーに読んでもらい、翻訳を世に出すきっかけにしようということだ。それが順調にすすむよう、当面は余計なことにはあまり手を出さず、翻訳とコピーづくりを手順良く片付けることにした。大会のためにホテルで1泊するかどうかも、予算の関係でちょっと悩ましい。いずれにしても、大会が終わるまでは、時間もお金も、大会を優先させなくてはならない。
ということで、コインランドリーから戻ると、さっそく寓居近くにある大学生協に現在の翻訳原稿のコピーに行った。
コピーといっても、原稿は400字詰め原稿用紙にして約400枚分あるので、その費用と手間が半端ではない(そしてそれを綴じるのも!)。当初は、この大学生協のコピーカード(1,000円で105枚コピーできる)によるセルフコピーを利用していたのだが、ふとしたきっかけで大学の前に1枚8円でコピーしてくれるコピー専門店を発見して、次にこの店に切り替え。ところが、コピーの枚数(原稿)が増えてそれでも高くなったことから、最近は、A4版の原稿を2枚並べて手差しでコピーする戦略に切り替えて、また大学生協でコピーしている。時間はかかるが、今のところこれが一番安い。
それでも、今日は300枚ほどのコピーをつくったので、1時間ほどかかってしまった。ただ一般のコンビニなどだと、100枚程度のコピーでも順番待ちの人の顰蹙を買うが、大学生協だと、コピー機がたくさんあってあまりこまないうえに、機械そのものの性能がよいので、コピーそのものは非常に速い。同じものをコンビニでコピーしたら、どれだけ時間がかかるかわからない。また今日は、私がコピーしていたあいだ、隣で学生が論文や資料を製本していたので、今度は製本にも挑戦してみようかとおもった。
こうしてぼやぼやしているうちに夕方になり、次に図書館に本の返却に行き、帰りにその足でいつもとは違うスーパーで買い物。夕食用のメンチカツを買ったほか、私はお茶系の飲料が大好きなので、マンゴーとオレンジをミックスしたフルーツハーブティー、ローズティーなどを買い込む。
それから方向転換し、今度は秋葉原の石丸電気のCD売り場をのぞく。先日、大手のCD販売店では石丸電気がわが家から一番近いことを発見し、それ以来たびたびのぞきに行ってはいるのだが、品揃えはともかく、輸入盤はタワーレコードやHMVの方が安いので、こういう企画のCDもあるのかと商品確認はするもののなかなか買うにいたらない。それと、商品とは直接関係ないが、石丸電気の値札があまりにも大きくて即物的なのや従業員の変な制服もちょっと気に入らない。ということで、今日ものぞくだけのぞいて部屋に戻った。
さてこれから、お茶を飲みながら定額給付金の申請書でも書こうかとおもっている(今聴いているCDは、リヒテル演奏のバッハ「フランス組曲」)。

『民衆のイスラーム』を読む⑥ーー反同性愛法はなぜ不当なのか

2009-04-04 17:30:27 | イスラーム理解のために
次に、『民衆のイスラーム』の議論からは離れるが、イスラームと同性愛の問題について私がどのように考えているか、個人的な見解を記して、一連のイスラーム関連の記事をとりあえず結んでおくことにしよう。ただしこれは、あくまでも現在私がもっているイスラーム関連の情報から導き出されたものであって、社会状況や情報が変われば変化しうる暫定的なものであることをあらかじめお断りしておく。

     ☆     ☆     ☆

さて、すでに何度か記しているように、この問題に対して私が関心を抱かざるを得ないのは、一部のイスラーム国家ではイスラーム法に由来する「反ソドミー法」が制定されており、これによって同性愛者が処刑されているからである。
ただし私がまず言いたいことは、イスラームと同性愛の問題は、前回の記事に記したようなイスラームに対する総合的な観点からとらえるべきであって、同性愛の問題を対イスラームの最大の問題ととらえるべきではないということだ。そうではなくて、なにがなんでもまず同性愛の問題を最初に解決しなくてはならないというなら、それは同性愛エゴイズムというべきではないだろうか。
またこれとからんで、同性愛解放や性的自由の問題は、政治や宗教・信条の問題と切り離して考えるべき「人権問題」であって、人権というテーマは、民族や人種にはかかわりのない人類にとっての普遍的課題であるがゆえに政治や宗教の問題の解決より優先させるべきだというならば、私は、人権問題が人類の普遍的問題であるという考え方そのものが、特定の地域の社会性や歴史性を捨象した欧米中心主義的な考え方ではないかといいたい。すなわち、人権重視や生命尊重という考え方は、非常に美しくはあるが、経済力が強く、また社会的達成のすすんだ欧米の現状と表裏一体の一つの「思想」であって、そもそもそれがあらゆる社会に対して不変妥当性をもつのか、まず検証されなくてはならないのではないだろうか(ちなみに私は、人権思想を含む欧米流の「近代主義」こそ、社会にさまざまな差別を生み出した元凶ではないかと考えている)。
同性愛者としてまったく容認しがたいものではあるが、イスラーム社会にはイスラーム社会として独自の同性愛に対する捉え方があるということを認めない限り、この問題は解決に向かって前進しないのではないかと私はおもう。

またこれとからんで、スーフィズムや原理主義といった特定の宗派や教説を、同性愛に対して寛容かどうかという観点のみから論じるのも、同様に、全体性を無視した偏った議論にならざるをえないであろう。

そのうえで、イスラーム法ならびにそれに準じた同性愛の処罰(処刑)に関してわれわれが批判しなくてはならないのは、その裁判が公正なものではありえないということだとおもう。
すなわち、同性愛者ならびに同性愛行為を法的に処罰するためには(これは逆に同性愛者を庇護する場合もほぼ同じ)、「同性愛者」ならびに「同性愛行為」を法的に定義しなくてはならないが、これが正当に行われることはまずありえない。
比較的定義の容易な同性愛行為でこれをみていくとしても、手紙やメールのやりとり、抱擁や握手、キス、フェラチオ、肛門性交、その他、これらの行為のどこからどこまでが性的行為の範疇にはいるのか、(好意的にも敵対的にも)厳密な定義は不可能である。イスラーム法では慣習的に肛門性交をもって明確な禁止の対象としているようだが、たとえばキスが性的行為にはいるかどうかは、状況によってかなり判断が違ってこよう。またフェラチオは明確に禁止される行為のなかには含まれていないようだが、これも、射精をともなうかどうかで微妙な判断の違いがでてきそうだ(イスラーム法は膣外射精を強く禁じているので、そうした事態が生じうる)。
以上のような同性愛行為の定義・認定の不明確さから、同性愛者の定義・認定はさらに困難である。
よって、このような曖昧な定義に基づく処罰は、容認されるべきではないと私は考える。
また具体的な裁判の場において、定義以上に困難なのは事実認定で、特定の人の同性に対する好意が、単に気持ちのうえだけのものか、それ以上の具体的行為をともなうのか、行為をともなう場合、それはどのような行為であるかを、(裁判によって)どのように客観的に論証できるのであろうか。
要するに、同性愛に対する処罰は、それが「人権侵害」であるかどうかという以前に、公正な裁判制度と馴染まないものであり、ゆえに法としては無効と言わざるをえないというのが現時点での私の結論だ(結局それは、風説や状況証拠による裁判でしかありえないであろう)。

いわゆる反ソドミー法の無効性については、以上のような観点から論じることが可能だとおもうが、そもそもイスラームという宗教の反同性愛的性格ということになると、私はこれを変えることは個別の法の改廃以上に困難だと考える。
たとえば『民衆のイスラーム』のなかでとりあげられている民衆もしくはスーフィズムの寛容さや信仰の多様性、柔軟性は、信仰のなかの核心的な部分に限られており、それ以外の生活規定や性行為における寛容さの現状や今後の展望は、この本のなかからは読み取りづらい。そうしたなかで示唆的なのは、インドネシアにおける中華食浸透の現状をレポートした「『ハラール・チャイニーズ』レストランーージャカルタ最近食生活考」という久保美智子氏のショート・コラムである。
インドネシアは、1億7000万人のムスリム人口を抱える世界最大のイスラーム国家であるが、中華文化圏とも強い接触をもつ。ところで、中華料理には豚肉や豚骨スープで味付けしたものが多く、それとは知らずにイスラームでタブー視されている豚肉を食べてしまう可能性が高いことから、インドネシアでは長いこと中華料理そのものがタブー視されてきた。ところがシンガポールなどに住む裕福なインドネシア人などによって、インドネシア本国にも中華料理のおいしさの評判が伝わり、タブーを犯さずにおいしい料理を食べたいというインドネシア人のために、豚肉や豚骨スープをまったく使わない宗教的に「安全な」中華料理(ハラール・チャイニーズ)が考案され、こうした安全な中華料理店がジャカルタで賑わっているというのである。このコラムは、時代に応じてムスリムの食生活が変化してきつつあることを示すと同時に、(豚肉に対する)禁忌そのものは合理性の陰でむしろ強まっているのではないかという雰囲気も感じさせ、イスラーム社会における寛容と禁忌の今後についていろいろ考えさせられた。
いずれにしても、スーフィズムが同性愛に対して寛容だといっても、それは、「反イスラーム的ではあるが黙認する」といった意味での寛容さであり、そうした態度そのものが反同性愛的で不満だと主張することは、結局、逆原理主義的に、イスラームという宗教の存在そのものを認めないということと同じではないだろうか。私は、そうした頑なな態度に手放しで賛同することはできない。

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最後に、イスラーム研究者にお願いしたい。
イスラームと性的禁忌の問題は、非常に難しいテーマではあるとおもうが、今後、そうした領域にも研究を広げて頂きたい。そしてより豊富な情報に基づいて、この問題をさらに掘り下げて行けたらいいと私は考えている。

『民衆のイスラーム』を読む⑤ーー次のステップのために

2009-04-01 21:55:22 | イスラーム理解のために
最後に、小ブログでのこのところのイスラーム(スーフィズム)関係の記事のとりあえずのまとめの意味を兼ねて、『民衆のイスラーム』を読みながら考えたことを記しておこう。

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まず、宗教全般に対する私の基本的な考え方だが、これはイスラームに限らず、宗教・宗派に関しては、こちらがよい(優れている)とかこちらが悪い(劣っている)とかは、原則として存在しないとおもう。宗教に関しては、さまざまな違いをもちながらいろいろな宗教・宗派が存在し、それをいろいろな人が信仰している(または信仰していない)というだけではないだろうか。その多様性を、多様なままとらえていくべきだとおもう。

たとえばこれを仏教でいうと、仏教を大別して「小乗仏教」「大乗仏教」という二つの呼称(区分)があるのは多くの人が知っているとおもうが、そうした区分や違いがあるのは事実にしても、それぞれに属する宗派を小乗・大乗と呼ぶのは、「大乗仏教」の側から自分たちのグループの優位を美化するために行われた呼称であって、大乗仏教側から「小乗」と呼ばれた側は、「小乗」とは自称しない。つまり、大乗・小乗とは、それぞれの教説のもつ救済能力の大小(優越)を大乗側から判断したときの一方的な呼称であるが、それはあくまでも考え方・捉え方の問題であって、はたして大乗仏教が真に大きな救済力をもつか(それゆえ優れているか)は証明不能というのが、「小乗」と呼ばれる側の立場である。ゆえに、いわゆる小乗仏教のことは、「小乗」という呼称の差別性を認めて、現在、「部派仏教」と呼ぶのが普通である。要するに、部派仏教と大乗仏教のあいだに教説の違いはあるが、それぞれの教説の優劣は単純には論じられないというのが仏教の場合、ある程度のコンセンサスを得、それぞれが尊重しあう基盤ができてきているのではないかとおもう。
また救済能力と同時に、教説や宗派成立の新旧も、教説や宗派の優越とは関係しないと見なすべきであろう。
実は部派仏教と大乗仏教の関係は、完全に同じではないにしてもイスラームの伝統派とスーフィズムの関係に似たところがあるのだが、部派仏教と大乗仏教がどのように異なるかといえば、部派仏教が釈迦入滅後の原始仏教教団の教説に比較的忠実で、出家主義、戒律重視主義をとるのに対し、これを批判しながら登場した大乗仏教は、在家主義的でありしたがって戒律も比較的緩い。伝統的釈迦教団に一歩距離をおき、原始仏典の言葉尻にはとらわれず、釈迦の意図したことを社会実態にあわせて解釈し直しながらそれを流用していくところに特徴をもつ。故に、厳密にテクスト中心主義的な立場をとると、大乗仏教は釈迦の言説からの逸脱以外のなにものでもない。では大乗仏教は誤りかというと、現に多くの人が「大乗仏教」の名のもとに信じている信仰は、オリジナルのテクストに忠実かどうかを問わず、そのような信仰として、存在を認めていかなくてはならないとおもう(この点は、私の考え方と『民衆のイスラーム』の考え方はほぼ同じである)。またこれはより微視的に、浄土宗や曹洞宗といった教団やその信者が、祖師である法然や道元のテクストに忠実かといったことを問題にするときにも適用されなくてはならない原則だとおもう。
以上は仏教に即した考え方ではあるが、こと宗教を問題とするときは、「正統」という考え方は存在しにくいとおもう。それぞれの人がそれぞれの信仰をもち、そうした信仰をもつ人にとっては、それがどのように奇妙なものであり少数の支持しか得ていないとしても、自己の信仰こそが正統なのであって、それ以外の正統は存在しようがない。

イスラームについても、私はだいたい以上の原則にのっとって考えるのだが、するとその教説の救済力の大小も教説の新旧も、教説の宗教的価値とは無縁だと見なさざるをえない。ゆえに、スンニー派もシーア派もスーフィズムも改革主義(原理主義)も、宗派(教説)としては等価値であり、その間の優越を論ずることはできないと私は考える。
さてこの原則に基づいて『民衆のイスラーム』を読むと、その論点は以上に掲げた私の原則と微妙に食い違うのだが、これは、私と『民衆のイスラーム』の論者のあいだにある宗教に対するアプローチの違いに由来するのではないかと私は考えている。
すなわち、『民衆のイスラーム』に集められている論考には、人類学、もしくは社会宗教学の色彩が強く、それからすると、宗教の理念的なものはほとんど問題とならず、社会実態としての信仰が問題となる。ゆえにイスラームを問題とするときには「民衆のイスラーム」こそひたすら問題としなくてはならないということになるのであろう。一方私の方は、宗教について考えるとき、それがどのように信仰されているかという現象面だけでなく、理論や言説の違いにもこだわりたいとおもっている。
したがって私は、イスラームを問題にする場合には、改革主義者の主張やそれを支持している知的階級の信仰意識も含めて考えてみたいとおもっている。それはひとつには、改革主義者の主張や方法論があまりにも極端過ぎるにしても、彼らがイスラーム社会の現状を憂えている心情はある程度大事にしたいからであり、また知識階級にしても、迷信や魔術からの解放と社会の停滞のギャップのジレンマが、トルコのようにイスラーム中心主義への支持となってあらわれているのではないかと考えるからである。いずれにしても、改革主義とスーフィズム(その対立軸はこれまでの一連の記事をとおし多少整理できたかとおもっている)のあいだにあるのは、教説としての二者択一の問題ではないとおもう。
スーフィズムも改革主義も、すでに見たように、イスラーム社会のなかである歴史性をもって登場してきた教説であり、それぞれの改変を考えるにしても、それは歴史性、社会性のなかで行わなくてはならないのではないだろうか。つまり、スーフィズムのもつ寛容性を評価するにしても、単純にそれに回帰するといったことは、現代のイスラーム社会には不可能である。ゆえに、スーフィズム回帰が不可能なことをふまえたうえで、(イスラーム社会は)硬化した伝統主義にしがみつくのではなく、次の思想的ステップを考えていかなくてはならないのではないだろうか。
実はこの時点で、私の考察はすでにイスラーム社会の政治性の問題に踏み込んでしまっているのだが、政治性や国際情勢とのからみを抜きにしてイスラーム思想の次のステップを考えることができないというところにも、この問題の困難さは存在する。
しかしいずれにしても、イスラーム社会がよりよい方向に変化していくためには、時間がかかり迂遠なようでも、欧米や日本との緊張緩和、格差是正が不可欠であり、そうしたことへの配慮や環境づくりが、欧米諸国や日本には必要なのだとおもう。