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闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

静かな深みをたたえたワイダの『菖蒲』

2012-10-23 23:32:49 | 映画
このところ、ブログに何も記事が書けなくてもうしわけない。

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さて本日は、岩波ホールに行き、ポーランドの監督アンジェイ・ワイダの新作映画『菖蒲』(2009年作品)を観た。

作品は、ポーランドの小説家ヤロスワフ・イヴァンシュキェヴィチの同名小説を映画化したもの。舞台は1950年代末のポーランドの地方都市。死を予期した中年婦人マルタが街で見かけた若者ボグシに惹かれていくプロセスが、物語の骨子になっている。
しかし、ワイダがマルタ役を依頼した女優クリスティナ・ヤンダは、映画撮影開始の直前にワイダと親しかった撮影監督の夫エドヴァルド・クウォシンスキを亡くしており(作品は彼に捧げられている)、夫の死を看取ったことをどう受け容れるかが、彼女の演技や撮影プロセスに影響を及ぼしてしまう。
そこでワイダは、これを通常の文芸映画にしてしまうのではなく、女優ヤンダの苦悩と癒しを同時に写しとって再構成するという手法を採用した。作品全体は、ホテルの部屋でのヤンダの独白、『菖蒲』の撮影シーン(ワイダ自身も出演)、物語『菖蒲』の三重構造をとる。その構造が作品に深みをあたえ、ある女優の癒しのドキュメントとして、ずしりと重みがあった。また、ドキュメントといえば、映画の背景となっていつも流れている河(ヴィスワ川?)の静かな存在感がいい。

ヤンダ以外の出演者では、物語『菖蒲』のなかの若者ボグシ役のパヴェウ・シャイダがセクシーですばらしい。実は、彼はポーランド系のアメリカ人で、生粋のポーランド人では役のイメージに合わないという理由で抜擢されたという。プログラムの解説によれば、原作者のイヴァンシュキェヴィチには同性愛の傾向があり、このボグシにはモデルがいたとのことだが、シャイダの存在が、虚構のドラマにリアリティを付与している。死期の近いマルタが、生命力そのものの化身のようなボグシに惹かれていくプロセスの描写は、ヤンダのまなざしによる演技が中心で、ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』を思い出した。そして、50歳を超えてからセクシーな若者に惹かれるという話に、おもわず自分自身を投影してしまった。

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『菖蒲』を見終わって、心地よい気持ちで、小雨の街に出る。そのまま新宿の○井に立ち寄り、細身のジーンズを購入した。このジーンズは、裾をブーツの中に入れて履くつもり。年齢不相応の若者ファッションだが、まあいいか。映画を観たあとの気持ちをもう少し整理したかったので、同じく○井のブルックリンパーラーに入り、ゆっくりビールを飲んでから帰宅した。

【映画『菖蒲』の公式サイト】
http://shoubu-movie.com/

雪のなかで『風にそよぐ草』を観る

2012-01-20 23:14:16 | 映画
今日は自分の連休の最終日。寒かったが9時過ぎに起床した。
フランス語のテクストを少し読んでから、ミネストローネ、サラダ、冷蔵庫の残り物でブランチ。食後またフランス語のテクストに戻る。
今、訳しているのは「想像力(imagination)」の説明の部分だが、そのなかでportraitとtableautが比較されており、この2つの言葉の訳語で少し頭を悩ました。というのは、テクストのなかでは、portraitは想像力と無関係でtableauが想像力の産物とされているため。このうちportaritを「肖像画」と訳すのはあまり問題ないのだが、tableauを近代的に「キャンバス画」とすると、肖像画との対比がうまくいかなくなる(それにだいいち、キャンバスに描いた肖像画も存在する)。そこでいろいろ悩んだあげく、tableau1の方は「寓意画」と訳すことにした。つまり、peinture(絵画)には、実在のモデルが存在する肖像画とモデルが存在せずもっぱら想像力による寓意画があるというわけだ。訳そのものはあまり進まなかったが、流れはこれですっきりした。

午後、小雪のなかを岩波ホールに行く。尊敬するフランスの映画監督アラン・レネが86歳で撮った最新作『風にそよぐ草』を観るためだ。ホールに着くまでは、雪の降るなかをあまりポピュラーではない映画を観にくる好き者などいるだろうかといぶかっていたが、ホールにはそこそこ観客が入っている。さすがはレネだ。
作品は、レネの代表作とされる『去年マリエンバートで』のパロディのような感じで、一筋縄ではいかない恋愛物語が描かれる。あえていえば、恋愛と「想像力」の関係がテーマだ。冒頭のシーンから、カメラワークや演出の端々にみられるレネの健在ぶりには関心したが、レネに対する既存のイメージを一新するような新機軸はない。このため、全体としてはどこかこぢんまりとした感じをどうしても否めない。レネの年齢を考えると、これもやむなしか。

見終わったあと、新宿に出て、タワーレコードでクーベリック指揮のベートーヴェン交響曲全集(タワーレコード独自企画として再発されたもので、発売されたときは、ベートーヴェンの9つの交響曲をすべて違うオーケストラで演奏したことが話題になった)と、グリュミオーと比較するためにクイケンが弾くバッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」を買ってK堂に戻った。

映画遍歴事始ーーレネの『ミュリエル』にはまる

2009-12-29 17:35:48 | 映画
直前の記事を読むと、19歳から20歳代前半の私は、二丁目に探検に行ったりして遊び狂っていたような感じだが、この頃私は、将来映画評論や映画批評をやりたいとおもっていたので、あちこちの名画座や当時京橋にあったフィルム・センターにも足しげく通っていた(←それってやっぱり遊び狂っていたっていうことですよね)。このあたりのことは、二丁目探検の記憶とつながるだけでなく、その前のデルフィーヌ・セイリグの記事ともつながるので、少しくわしく書いておきたい。

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さて大学受験に失敗して予備校に通うことになり、私が本格的に東京に出できたのは1973年4月。住む場所といっても東京に特に地縁や知り合いもなし、親の知人の紹介で、埼玉県蕨市にアパートを借り、ここから大塚の予備校に通っていた。予備校に行けば高校時代からのあこがれの対象Mくんに会えるので、けっこうまじめに学校に通ってはいたが、一生懸命勉強したような記憶はない。それよりも、あこがれの東京きて、話題の映画がすぐに観れることが、私としてはとてもうれしかった。
しかし、この年公開された外国映画には特筆すべき作品はあまりない。『キネマ旬報』の外国映画のベスト10は、この年『スケアクロウ』と『ジョニーは戦場へ行った』のトップ争いだったが、私はどちらの作品にも興味がわかなかった。だがこの年の暮、次の年に公開予定の話題作の試写会があり、そこで私はアラン・レネ監督の『ミュリエル』を観て、その奥行きの深さにすっかりはまり込んでしまった。また続く74年の1月には、ベルイマンの『叫びとささやき』が公開され、まだ1月というのに、こんなすごい映画が2本も公開されるとは、今年はすごい年になりそうだとふるえあがったものだった。

レネの『ミュリエル』については、ネットをざっと見回しても適切な評がのっていないようにおもわれるので、ここで簡単に紹介しておく。
この作品は、レネのドキュメンタリー映画『夜と霧』のテクストを書いたジャン・ケロールと組んで『去年マリエンバートで』の次に撮った作品だが、経過する時間を複雑に交錯させた大胆な作品として世界的な話題となった『去年マリエンバートで』の影に隠れて、とりあげられることが少ない。実際、作品の日本公開も制作から10年以上遅れている。
物語は、フランスの田舎町に住むエレーヌ(デルフィーヌ・セイリグ)のもとに昔の恋人アルフォンスが尋ねてくるが、別れてからかなり時間の経つ二人が、なぜ互いに会いたいという気持ちになったかはわからない(映画はそれを説明しない)。ただアルフォンスは誰かに追われているようであり、姪と称して若い愛人をともなっている。エレーヌの息子ベルナールに会ったアルフォンスは、「二人はよく似ている」と言うが、エレーヌは、「みんなにそう言われるけれど、彼は死別した夫の連れ子で、自分たちには血のつながりはない」と説明する。ベルナールは、アルジェリア戦争で「ミュリエル」という女性を殺してしまったというコンプレックスをもっており、いろいろな人にインタビューしてアルジェリア戦争を告発するテープをつくっている。数日をその町で過ごしたアルフォンスは、また別の町へ発つことをエレーヌに告げる。エレーヌはアルフォンスを見送りに行くが、その駅で、町に新しい駅ができたので、彼女が見送るはずの列車はこの駅には止まらないと駅員から告げられる。自分は彼を見送りにきたのだけれど、彼は自分は見送らなかったと思いながら町を去っただろうと思う。しかしアルフォンスは、実際にはその列車に乗らなかったので彼女の推測はあたっていない…。
このようなちょっととりとめもない物語で、普通の意味での事件はなにも起こらないのだが、作品全体から伝わってくるのは、いろいろな人に確実にいろいろな出来事が起こっているのだが、何が起こっているのか、その出来事がどのような意味をもつかは、本人を含め誰にも語れないというメッセージだ。映画のなかで一番ショッキングだったのは、ベルナールが録音しているテープが誤って再生されるシーンで、それは、戦争告発というテーマから予想される内容とはおよそかけ離れたものであったことが明らかになる。この場面で、私はこのテープに対する私の想像が、(映画が説明する)状況からくる予断に過ぎなかったと思い知らされる。このように、他者や出来事に対するわれわれのあらゆる判断は予断に過ぎないかもしれないが、こうした予断を離れてはわれわれは生活を営むことができないことも、映画は明らかにする。
『去年マリエンバートで』のようなケレン味はないが、この作品から表現の複雑さを取り払ってしまえば意外と単純な話に要約されるのに対し、『ミュリエル』は、表面的には単純でありながら、奥にものすごい複雑さを秘めている。
レネは、映画台本に非常にこだわり、常に第一級の文学者と組んで映画台本を書いているが、この作品を観てから私は台本作者であるジャン・ケロールに非常に興味がわき、当時、白水社から刊行されていたケロールの小説を次々に読み漁った。
ケロールは1910年に生まれ、2005年に亡くなったフランスの文学者で、第二次世界大戦中に対独レジスタンス運動に関わったことが彼の一生を決定づけた。42年にゲシュタポに逮捕された彼は、マウトハウゼンに強制収容所に収容される(この体験が『夜と霧』に結び付く)。強制収容所で、仲間たちが次々に殺されていくのを目の当たりにした彼には、自分の死以外を考えることができない。ところが戦争が終わり、彼は奇跡的に収容所から解放される。しかしケロールにとりそれは真の解放ではなかった。収容所のなかで毎日死と直面し、その反対物として生を強烈にとらえていた彼には、現実の生は、あまりにも色褪せた虚構のようなものとしてしか映らなかったのである。彼は、こうした自分の虚脱状態を「ラザロ体験」と名づけ、その虚脱感を言葉に定着すべく、次々に詩や小説・物語を書いていく。
当時訳されていて私が読んだ作品には、『異物』(59年)、『真昼真夜中』(66年)、『その声はいまも聞える』(68年)、『一つの砂漠の物語』(72年)があり、一つ一つが衝撃的な傑作だった。たとえば『真昼真夜中』は、極限状態に追い込まれた人間には、一日の極としての真昼と真夜中が同じように感じられるということを描いていた。
このようにして、レネ、ケロール、セイリグは、私のなかに三位一体のように深く刻みこまれたのである。

これに比較すると、実は、ベルイマンの『叫びとささやき』はあまりにも形式にこだわりすぎているような感じもして、演出・演技のすごさ、赤を基調にした映像の美しさには感心したが、ほんとうに深く共感することはできなかった。それがなぜかということを、最近になってDVDでこの作品を見直して納得したのだが、『ミュリエル』の手法とはまったく逆に、『叫びとささやき』は登場人物の回想シーン、幻想シーンを作品に大量に挿入し(現在のシーンは回想シーンを挿入するための「枠」として存在し、映画の主要部分は回想や幻想から構成されている)、一人ひとりの人間の内面をその根底まで追及するという手法を採用しているのだが、この説明的な手法そのものに対し、私はまったく否定的なのである。

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いずれにしても、このようにして東京での私の映画遍歴ははじまった。

『去年マリエンバートで』とソシュールを繋ぐ存在

2009-12-26 01:04:11 | 映画
クリスマスというのに話し相手もいないので、遠方のカレシモドキに電話しているうちに、それがきっかけとなっておもしろい発見をしたので今日はそれを書いておきたい。

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カレシモドキとの話のきっかけとなったのは、クリスマス・プレゼントに送っておいたスウィングル・シンガーズのアルバム。バッハ、モーツァルト、ビートルズ、世界の民謡をアカペラで歌った4枚組の廉価盤CDだ。9時すぎにアルバイトから戻ると、しおらしくお礼の留守電がはいっていたので、その返信ということで、こちらから電話をしてちょっと話をしたという次第。
話してみると、彼はスウィングル・シンガーズがどういうグループか知らないというので、ウィキで調べなさいと電話を切ってから、確認のため、自分でも調べてみた。
するとまず、スウィングル・シンガーズはアメリカのワード・スウィングルによって1962年に結成され、当初フランスを中心に活躍していたヴォーカル・グループであるとわかった。このグループのリード・ヴォーカルが作曲家ミシェル・ルグランの姉クリスティアーヌ・ルグランで、このため、このグループはミシェル・ルグランと非常に縁が深い。
そのミシェル・ルグランが世界的に有名になったのがジャック・ドゥミー監督のミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(64年)で、クリスティアーヌはその中でもエムリ夫人の役を歌っている。さてドゥミーとルグランのコンビが次につくったミュージカル映画が『ロシュフォールの恋人たち』(67年)で、私はこの作品が『シェルブールの雨傘』以上に好きなのだが、その歌の吹き替えを担当したのが、スウィングル・シンガーズのメンバー。したがって私にとっては、『ロシュフォールの恋人たち』がスウィングル・シンガースを知った原点ということになる。またルグランとドゥミーは、70年にも、ペロー原作のミュージカル映画『ロバと王女』をつくっているが、クリスティアーヌはここでもデルフィーヌ・セイリグが演じた妖精の役を歌っている。
と、ここまできて、今度はデルフィーヌ・セイリグについて調べてみようということでフランス語のウィキにアクセスしたことがおもわぬ「発見」につながった。
実はデルフィーヌ・セイリグは、私がとても好きなフランス女優なのだが、日本ではあまりポピュラリティーがなくほとんど知られていない。主な主演作品は、『去年マリエンバートで』(61年、レネ監督)、『ミュリエル』(63年、レネ監督)、『夜霧の恋人たち』(68年、トリュフォー監督)、『ロバと王女』、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(72年、ブニュエル監督)などで、予備校生として私が東京に出てきた翌年の74年、このうち『ミュリエル』と『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』が日本で公開され、どちらもとても印象深い作品だったので、セイリグの存在は、いっぺんで私の脳裏に刻みこまれたのだ。
セイリグがドゥミーと縁が深かったのは、彼の作品に出演していることからわかるのだが、私が意外におもったのは、彼女がドゥミー夫人のアニェス・ヴァルダとも縁が深かったということ。ヴァルダの近作『アニエスの浜辺』のなかで、ヴァルダとセイリグが先頭を切って妊娠中絶公認運動を行ったというエピソードが、なつかしく紹介されている。
さて、一番の意外はこれからだ。
実は、デルフィーヌ・セイリグの父は、アンリ・セイリグという考古学者で、かつてフランスの植民地だったシリア、レバノンで活動したという。またこの関係で、デルフィーヌもベイルートで生まれている。そしてこのアンリの配偶者でデルフィーヌの母親という人の名前を読んで、私は驚いてしまった。
彼女はエルミーヌ・ド・ソシュール、そう、かの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの姪だ(フォルディナンの弟レオポールの娘)。
これをまとめると、デルフィーヌはスイス系の学者一家(ソシュール家もセイリグ家もスイス系)に生まれ、恵まれた環境のなかで演劇を志し、アラン・レネと出会って『去年マリエンバートで』に主演したことで、どこか透明な感じのするそのふしぎな存在感を確固たるものにしたのだ。続く『夜霧の恋人たち』や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』のなかでも、知的でクールなブルジョワ夫人をさりげなく演じている。それと、彼女の最大の魅力はふるえるような声で、この声はちょっと他にはえがたい。
その配偶者はアメリカの画家ジャック・ヤンガーマン。
デルフィーヌは32年生まれで、肺がんのため90年にパリで亡くなっている。

シュレイダー『映画における超越的形式』から:その1、小津安二郎

2009-12-04 00:10:15 | 映画
前日の記事のなかでも少しふれたが、ポール・シュレイダーの『映画における超越的形式(Transcendental Style in Film)』(1972年刊、邦訳タイトル『聖なる映画』フィルムアート社、1981年、山本喜久男訳)は、小津安二郎、ロベール・ブレッソン、カール・ドライヤーの3人の映画監督の作品を比較し、彼らの方法論(表現形式)と超越性(聖なるもの)とのかかわりを論じたユニークな映画論である。
そのなかでは、たとえば小津について、その多くの要素を禅文化とのかかわりでとらえるなど、過度の単純化も目につくが、それでも、この映画論が小津作品の世界的な理解と評価の高まりにはたした役割は無視できない。今回は、この著作のなかから、目についたところを抜き出しておくことにしよう。まずは小津安二郎の作品の分析から。

     ☆     ☆     ☆

「近年、映画は超越的スタイルを発展させた。このスタイルは至聖者を表現するために、さまざまな文化圏のさまざまな監督によって使われてきた。今世紀の変わりめに人類学者が明らかにしたことだが、かつて、互いに関係のない職人たちが、同じような精神的感動を表現するための同じような方法を発見したように、映画でも、互いに関係のない監督たちが超越的スタイルという同じスタイルを創造したのである。このスタイルは本質的に超越的とか宗教的というのではないが、超越者に近づく方法(広い意味での“道”)を示している。超越される事物はそれぞれの場合で異なっているが、その目標と方法は、それだけをとりだせば同じである。日本の小津安二郎、フランスのロベール・ブレッソン、この二人ほどではないが、デンマークのカール・テホ・ドライヤー、そしてさまざまな国の監督たちが驚くほど共通した映画形式をつくりだした。この共通的な形式を決定したのは、監督たちの個性、文化、政治傾向、経済状態、あるいは道徳ではない。それはむしろ、芸術活動に付随して起こりうる二つの偶発事、つまり超越者を芸術に表現しようとする欲求と、映画という媒体が持つ性質、の結果なのである。」(『聖なる映画』18頁)

「小津安二郎の作品は東洋の超越的スタイルの良い例になる。小津の作品におけるこのスタイルは、そもそも日本文化そのものに由来しており、それゆえに自然で土着的なものであり、興行的な成功を収めた。超越的経験の概念は、日本(および東洋)文化に本来備わっているものなので、小津は超越的スタイルを発展させつつ、同時に日本の芸術の庶民的伝統のわく内にとどまることができたのである。」(同書38頁)

「日本文化の伝統は小津にある輝きを与えはしたが、彼の仕事ははた目ほど容易ではなかった。映画は現代日本の西欧化における重要な影響力の一つであった。それに対して、小津は伝統的価値を求めて時流に逆らうことが多かったし、現在でも日本の多くの若者によって反動的だとみなされている。」(同書39頁)

「小津のカメラはいつも、畳に伝統的な流儀で座った人の目の高さ、床上約90センチメートルのところにある。「この伝統的な見方は、非常に限られた視野を持った静的な見方である。これは傾聴と注目の態度である。それは日本人が能や月の出を見たり、茶の湯や酒席で相伴する時の姿勢と同じである。それは審美的な態度であり、受動的態度である。」このカメラは、ごくまれな場合をのぞいて、けっして移動しない。後期作品では、パン、移動、ズームはない。小津作品での唯一の映画的句読点[つまり区切り]はカットであり、それは観客に衝撃を与える急激なテンポのカットではなく、あるいは比喩的な意味を与えるための対照的なカットでもなく、出来事の一定したリズミカルな連続を示すところのゆったりしたカットである。」(同書46頁)

「小津のスタイルは、彼がどれほど技術を抑制したか、そしてどんな技術を使わなくなったかを明らかにすることによって、定義が可能になる。最初の作品から最後の作品にいたるまで、生涯彼の抑制は続いた。年をとるにしたがって、小津の抑制はますますその度を増したのである。これは初期と後期の作品(たとえば『生まれてはみたけれど』と『おはよう』)を比べてみればわかるだけでなく、後期の各段階の作品を比べてもわかる。後期(戦後)のなかごろにつくられた『麦秋』(1951年)は、10年後の後期の終わりごろにつくられた『小早川家の秋』(1961年)や『秋日和』と非常に違っているのだ。たとえば小津は、『麦秋』で使った次のような技術を、後期の終わりにつくった作品では完全に捨てているーー
 1)移動撮影。『麦秋』で15回使われている。
 2)顔の表情を強調するクロース=アップ。たとえば、芝居を見て喜んでいる老人の顔。
 3)感情をはっきり表現する動作。たとえば、うんざりしてハンカチを投げだす動作。
 4)アクションつなぎのカット。人物の連続している動作を二つのショットに分解したもの。
 5)“終結部”的区切りとしての戸外場面を挿入しないで、それぞれ異なる室内場面を直接つなぐ編集方法。
 6)平板でない照明、明暗法の使用。もっともこれは初期作品でも非常にまれであった。」(同書46-47頁)

「小津は晩年のころ、“庶民劇”の一定のパターンに従った葛藤に注意を集中したが、この葛藤は西洋的な意味でのドラマではなく、もちろんプロットでもない。小津はリチーにこう語っている。――「見えすいたプロットの映画は私には退屈だ。もちろん映画である以上、構造がなくてはならないが、ドラマ、あるいは事件が多すぎるようなのは良い映画ではないと思う」。」(同書42頁)

「小津作品にはブレッソンの作品にあるような、肉体のもろさや敵対的な環境に対するむなしい抗議はない。ブレッソンの作品には小津作品にあるような、環境の諦念的な受容はない。小津作品の決定的な事件は、家族、あるいは隣近所の人たちにかかわりのある共通の出来事である。ブレッソンの作品の決定的な出来事は、敵対する環境に対抗する孤独な一人物にかぎられる。ブレッソンは独りの救世主というユダヤ教=キリスト教の伝統に従っている。つまり、モーゼ、キリスト、僧、聖者、秘儀を授かった人たちは、各自がそれぞれの人生で世俗の利害を持つ人類を救ったのである。小津は自分の作品を特定のキリスト教やゴルゴダの丘のまわりに組み立てはしない。小津作品では多くの登場人物が多くの決定的な出来事によって超越者にかかわることができる。」(同書98頁)

映画『アニエスの浜辺』のみずみずしさに脱帽

2009-10-18 23:55:27 | 映画
このところブログがなかなか更新できず、申し訳ない。
それは、新しいアルバイトが順調で、以前のスーパーのアルバイトに比べて労働時間が増え、PCに向かえる時間が少なくなったことにくわえ、この間から読み始めたライプニッツの読書が佳境をむかえ、少ない時間をそれにかなりとられているという事情がある。ご了解頂きたい。

そんなことで、今日はライプニッツとクラークの往復書簡集を読み終えた。クラーク(1675-1729)はイギリスの思想家で、ニュートンの友人として知られ、1715年にはじまった二人の書簡のやりとりとそれによる論争は、実質的にはライプニッツとニュートンの論争として知られるものである。

     ☆     ☆     ☆

さて、午前中にそれを読み終えると、午後は神保町の岩波ホールに行き、フランスの女性監督アニェス・ヴァルダの新作映画『アニエスの浜辺』を観た。これは80歳を直前にしたヴァルダの回顧録風の作品で、ヴァルダ自身も最初から最後まで登場し、そのつどの自分のおもいを自分自身の言葉で語っている。全体としてドキュメンタリー・タッチの作品ではあるが、写し出す対象が自分自身なので、単純なドキュメントにはならないし、過去のヴァルダを若い女優に演じさせて演出した部分も随所に挿入される。
しかしそうした演出部分も含めて、自分を客観的に見つめ、また、周囲のさまざまなことやとりわけ新しい映像表現や技術への関心を失わないヴァルダの感性のみずみずしさに感心した。
また追想といっても、けして自分中心の主観的なものにはならず、表現に抑制をきかせ、つねに客観性を保っている。たとえばそれを演出面でいうと、カメラに向かって語りかけながら後ろ向きに後退していくシーンが何度もでてきて不思議な効果を生んでいる。また浜辺に鏡をたくさんならべたシーンのなかで、鏡のなかに鏡の映像が映し出されるてくるところをとらえているのもおもしろいとおもった。
ヴァルダが生まれたのがベルギーとのことで、作品はベルギーの浜辺でのロケからはじまるが、それを見ながら、私はベルギー出身のもう一人の聡明な女性、マルグリット・ユルスナールをおもい浮かべていた。

主人公ロージーの性格描写を追うーー『ライアンの娘』を観る③

2008-12-21 11:46:11 | 映画
『ライアンの娘』の主人公ロージー(サラ・マイルズ)の性格およびその描写について、そしてそれをとおしてリーンの作品についてもう少し考えてみよう。

映画は、冒頭、彼女が父のライアンに競売で買ってもらった贅沢な日傘を高い崖から落としてしまうシーンからはじまる。すべて無言で行われるこのシーンがどのような意味をもつかは解釈が難しいところだが、風と波にもてあそばれる贅沢な傘にリーンとボルトがなんらかの象徴性をもたせたということは十分に考えられる(ちなみに作品のポスターにもなったこの重要なシーンは、私が最初に観た「短縮版」では、意味がないとしてバッサリとカットされていた。これではリーンが怒るのは当然であり、このこともあって、当時私は、この作品への評価を保留したのだった)。
ストーリーはこの後、ロージーが、ダブリンへ研修旅行に出かけていた村の小学校教師チャールズ・ショーンシー(ロバート・ミッチャムーーアメリカ映画のアクション・スターであったミッチャムの起用はこの作品のなかでは最も意外な配役だが、リーンの期待にこたえて抑えたいい演技をしている)を出迎えるシーンに移り(実はそのためにロージーはおめかしをしていたのだ)、ロージーからショーンシーへの恋の打ち明け、結婚へとすすんでいく。
このあたりまで、前の記事に書いたようにロージーの性格を考える手がかりになるような描写はほとんどないのだが、作品全体からは、ロージーは村で唯一の居酒屋を営むライアン(レオ・マッカーン)の一人娘で、ライアンの妻はすでに亡くなっており、その代わりに娘のロージーに対して金と愛情を注ぎ込み、甘やかして育てたということが示唆される(ライアンはロージーをいつも「プリンセス」と呼んでいる)。ライアンとしても適齢期になった美しい娘ロージーの結婚が気にならないわけではないが、ロージーが選んだショーンシーが気に入っているわけではない。それどころか、青二才のインテリとして、どちらかといえば敬遠している。
ロージーはロージーで、結婚とその後の性生活に対し強い好奇心をもってはいたのだが、本来的に年齢のかけ離れた男性が好き(要するにフケ専ということ!)というわけではなく、ただ村の荒くれた若者たちのなかに結婚相手(性的対象)と見なすことができる者はおらず、相対的に知的なショーンシーが自分の理想の男性ではないかと思いこんでしまったのだ。つまりロージーという女性には、最初から村のなかに居場所はなく、その逃避口として、同様に村からやや浮き上がった状態にあるショーンシーが選ばれたのだと言えなくもない。
にもかかわらず、彼女は、性交によって自分の心身が変化すること、いわば一気に舞い上がるようなセックスをショーンシーに期待するが、それは見事に裏切られる。

だいたい以上がロージーの基本的な性格だが、複雑な主人公が登場する派手な性格ドラマを見慣れた目からすると、これがやや画一的な性格描写であることは否めないだろう。要するに、脚本家ロバート・ボルトのなかにあった「ボヴァリー夫人」のイメージを、アイルランドの寒村に移しただけといえないこともない。 ただ、リーンとボルトの人間描写は、対象に深く踏み込むというタイプではなく本質的にこうしたパターン的なものであり、そうした意味においては、二人が組んだ前作『ドクトル・ジバゴ』のヒロインであるラーラも、男性の目からみるとある魅力をもってはいるが、全体的にはさらに無性格な女性として描かれている。極端に言ってしまえば、ラーラは、偶像的な永遠の恋人を形象化しただけの女性であり、実体がない分だけ魅力的なのだ(要するに典型的な「萌えキャラ」)。
そうした観点からすれば、ロージーという女性は、リーン/ボルトのコンビが生み出した女性としては、性格が細かく描かれている方だといえるが、そのロージーの性格描写がこの程度であるということは、描写の失敗というより、『ライアンの娘』についての最初の記事にも記したとおり、リーンは映画をとおして人間の性格を追求するということに、最初から関心をもっていないためだと考えられる。
したがってこのあたりが、この作品、あるいはリーン作品に対する評価の非常に難しいところとなるわけで、リーンの作品に華々しい人間ドラマや特定のテーマの深い追求(たとえば女性の自立)を期待するならば、その期待はつねにすでに裏切られることになる。またリーン作品の政治性についても、リーンは作品のなかで、政治が個人の生き方に干渉し場合によっては人生を左右することを強く指摘し、それに対して批判的な態度を示唆するが、自己の政治的信条を示すことはない(ロシア革命とからんだ『ドクトル・ジバゴ』の政治性という問題については、別の機会にふれてみたい)。
となると問題はまた振り出しに戻って、リーンはその作品において映像美と抒情性だけを追求しているのかということになってしまうのだが、映像美においても抒情性においても最高度のものを達成しているにもかかわらず、リーンの最終目標はおそらくそこにはない。映像美をも人間の表層的な感情をも突き抜けたその先に存在するある不確かなもの、これこそがリーンの表現目標であろうか。
したがってそうした目標をより明確に示すことを望むならば、リーンは映像美を放棄すればよかったということになるだろう。現にそうした方法論によって自己の目指すところをより簡潔に示している映像作家は多い。しかし矛盾するようだが、そうした目標に到達するためにプロセスを省略しないというところにもリーン作品の大きな特徴がある。ゆえにリーンを、なにを置いてもまず大自然の映像美を追求した映像作家と考えている人は多い。そしてそうした性急な判断が、次に、リーン作品はうまく出来上がっているが個性がないといった、あまりにも安易な批判を呼び込んでしまうのだろう。
しかしリーンの考える映画監督の作家性や個性がそうした単純なものでないことは、彼の作品を観れば明らかだ。

『ライアンの娘』は、そうしたリーンの高い目標に、限りなく肉薄している。

女性が自立して生きるとはーー『ライアンの娘』を観る②

2008-12-19 23:03:39 | 映画
一昨日の記事は、デイヴィッド・リーン監督の映画『ライアンの娘』について、映像美という観点からしか触れなかったが、この作品について語って女性の自立という問題にまったく触れないのは片手落ちだろう。とはいえ、監督したリーンが男性で、鑑賞者である私も男性ーーしかもゲイーーなので、視点がどうしても偏ってしまうのはご容赦いただきたい。

さて、『ライアンの娘』は、『アラビアのロレンス』『ドクトル・ジバゴ』でもリーンと組んだ脚本家ロバート・ボルトのオリジナル脚本なのだが、はじめボルトは、フランスの作家フローベールの小説『ボヴァリー夫人』の翻案としてこの作品を構想したという。しかしそれはリーンの容れるところとならず、単なる私小説風の不倫ドラマではなく、もっと政治がからむ物語にしたいとの希望で、第一次世界大戦中、イギリスからの独立運動が高まっているアイルランドを舞台に、原案は書き換えられたのだという。
こうして作品の舞台と時代背景は定まったが、ドラマの核となるのが、夫との性生活に不満な若い女性が不倫によって性に目覚める物語であるというボルトの基本構想に変化はなかったようだ。映画のなかでは、その不倫相手がアイルランドを弾圧しているイギリス軍の将校であることから緊張はさらに高まるが、逆にいえばリーンは、こうした状況設定によって性愛の歓びは政治的対立を超越していることを示そうとしたのだともいえる。
若い妻ロージー(サラ・マイルズ)の不倫を知ったうえで、元々彼女の学校の教師であった年上の夫ショーンシー(ロバート・ミッチャム)は、いつかはそうした関係も終わるだろうとじっと耐える。しかし、小さな村のなかでロージーの不倫が村人に知られないわけにはいかず、アイルランドとイギリスの敵対関係のなかで、ロージーは村中から二重に白眼視される。そうした人間関係の緊張と政治的ドラマの盛り上がりのなかで将校(クリストファー・ジョーンズーー線の細さが非常にいいーー)が心身的に危機に陥ったとき、彼を救うため、ロージーは村人と夫の目の前で将校に手をさしのべ、それによって二人の不倫関係は公然のものとなる。性愛による結びつきの強さは理性の制止など簡単に超えてしまうことを、リーンは非常に明確に描く。
しかしこうなると、もはや、ロージーとショーンシーが夫婦生活を続けることは不可能であり、またすべての人に蔑まれながらこれ以上村に留まることもできない。そんな最後の瞬間にロージーが村人のリンチにあい、ショーンシーは、イギリスへの憎しみが転化した理不尽なリンチからロージーを必死でかばう。それによってロージーとショーンシーは、はじめてなんの隠し立てもなく互いの本音を語り合うことができるようになる。
そしてこれに続くのが、前の記事にも記した二人の旅立ちである。
二人は単に別れるために旅立つのか。それとも旅立った先でもう一度徹底的に語り合い、結婚生活を続けることになるのか。このドラマの結論は誰にもわからない…。
中年男の希望的観測としては、ここで二人にもう一度新しい人生をやり直して欲しいという気持ちが強い。カップルのあいだに年齢差があるから、セックスがうまくいかなかったから愛もそれで終わりというのでは、あまりにも悲しいのではないだろうか。しかし同じドラマを女性が観たらどう感じるだろうか。夫とは別の男性によって性の歓びを徹底的に知ってしまった以上、それを感じさせてくれない夫と暮らすことなど絶対に不可能だと考える人も多いのではないだろうか。
この議論をさらに詰めていくためには、ロージーの過去や家庭環境などもっとさまざまなエピソードが必要だとおもうが、映画の中にその手がかりとなるようなものはほとんどない(映画のなかでは、彼女の母はすでに亡くなっており、父親<ライアン>によって甘やかされて育てられたことだけが描かれている)。ちなみに、『ライアンの娘』には、観客がいろいろな登場人物の性格を知る手がかりとなるような回想シーンがほとんどない(目立つのは戦場で傷ついた将校の回想と夫が二人の不倫の情景を空想するシーンだけ)。これは、そうしたタイプの性格描写は作品に不要であるとリーンが判断したためであろう。
さてこうしてまとめてみると、『ライアンの娘』に描かれているのは、人間の性愛の「業」にも似た強さであり、また結婚制度に対する不信ということになるだろうか(この不信はリーンの前作『ドクトル・ジバゴ』にも共通する。ジバゴとラーラの燃えるような愛は結婚生活からはみだした不倫の愛である)。そうした凄まじさを知ってしまったロージーが、はたしてもう一度安閑とした結婚生活のなかに戻ることができるのか。しかしながら、その凄まじさが異性によってもたらされるものである以上、もし自分のなかに渦巻く欲望に忠実に生きようとすれば、ロージーは、結局なんらかのかたちで男性を求めざるを得ないのではないか。とすれば結婚生活を維持していくのが無意味であるのと同様に、離婚すら無意味ではないのか。
するといったい、女性の自立とは果たしてなんなのか。

『ライアンの娘』は、すべてを淡々と表現しているようで、その根底では計りしれない深刻な問題と繋がった奥行きの深い作品だと、あらためて感じ入った。

心のドラマへの壮大な序曲ーー『ライアンの娘』を観る①

2008-12-17 22:28:11 | 映画
今日は体調が悪く、アルバイトもちょうど休みだったので、部屋で横になって、じっくりデイヴィッド・リーンの映画『ライアンの娘』(1970年作品)を観た。
体調が悪いとさすがに、難しい論理を振りかざして観る側に対決を迫るような映画は疲れるし、また『ライアンの娘』は、舞台となるアイルランドの風景が非常に美しいので、その壮大な風景でもぼんやり観ていたいという、どちらかというと消極的な理由がこの作品を選ばせたといえようか(あえてそれにつけ加えると、『ライアンの娘』は上演時間3時間半強の非常に長い作品なので、こうした機会でもないとじっくり観ることができないのだ)。
ということで、作品を選んだ理由は非常に消極的だったが、作品そのものには非常に感動した。

ちなみにこの作品が日本で公開された1971年当時は、あまりにも長いという興業上の理由から、監督のリーンに無許可で作品がカットされ、私もその短縮版で観たため、作品そのものを評価しづらいところがあった。
またこの作品に限らず、リーンの作品では風景の映像が非常に重要な役割を占めるが(例:『アラビアのロレンス』の砂漠、『ドクトル・ジバゴ』のロシアの大地)、この作品が公開された当時高校生だった私は、生意気にも「映画は映像美に過度に依存すべきではない」と考えていたため、『ライアンの娘』のすばらしさの本質を見逃していたとおもう。今観ると、『ライアンの娘』はなによりも映像が非常に雄弁なのだ。これは一つには、前作『ドクトル・ジバゴ』で政治的な理由からロシアでロケができず、スペインでロケをして冬のモスクワのシーンを撮ったリーンが、「ほんもの」の自然にこだわったのではないかとおもう(砂漠などでの撮影と異なり、アイルランドでのロケは簡単そうだが、天候がすぐに変わるため、晴天待ちや逆に荒天待ちで、撮影は非常に難航したようだ)。
ところで、この映画が制作・公開された当時、アメリカ映画は大きな転換期を迎えていたため、表現方法があまりにも正攻法に過ぎる『ライアンの娘』は、アメリカの評論家に非常に評判が悪く、それがこのあとリーンが映画を10年以上撮らなくなる大きな原因となったようだ。
ただ日本ではこの作品は非常に評価が高く、たまたま同じ年にヴィスコンティの『ベニスに死す』が公開されたため、さまざまなベスト10で第2位に甘んじたが、公開条件が異なれば年間ベスト1に選出されてもおかしくはない作品だったといえるだろう。少なくとも前作の『ドクトル・ジバゴ』よりは非常に高く評価されている(同作品は1966年のキネマ旬報ベスト10で第9位)。登場人物にいろいろなセリフを語らせ、人間同士の絡み合いをとおしてドラマを形成していくのではなく、壮大な自然のなかに人間を置き、自然と人間の交感のなかでドラマをつくっていくというリーンのスタイルは、意外に日本人にあっているのではないかとおもう。
ただリーンの場合、大半の作品で、自然と人間のあいだにもう一つ「政治(社会)」という要素が介在し、自然と人間のストレートな交感を阻むのだが、考え方によっては、そうしていったん政治によって阻まれることによって人間は強くなるともいえる。
『ライアンの娘』も、アイルランド独立運動とのからみのなかで、最後は非常に複雑な終わり方をする。そしてその場面で、故郷の村を旅立つ夫婦にカトリック教会の神父が「これからの二人がどのような生活を送るか自分には謎だし、その謎を二人へのはなむけにしたい」といったセリフを言うのだが、このセリフを私は額面どおりにうけとりたい。『ライアンの娘』は、人間同士の心のドラマのための壮大な序曲なのだ。映画のなかでおこるできごともその叙述方法も非常に単純だが、それゆえこの作品そのものを単純な作品と判断することはできない。

構造的にとくに難しい作品ではないので、作品そのものについてはこれ以上なにも記さないが、ただ、私が今日この作品から受けた感銘は、けして体調不良によって批判精神が鈍ってしまったせいだけではないと最後につけ加えておく。

わがスコセッシ、1ーー映画にとって結末とは?

2008-12-02 13:36:41 | 映画
前の記事で紀氏和之さんから頂いたコメントに返事を書いているうちに、アメリカの映画監督マーティン・スコセッシ(1942年生)の映画のことをすこし書きたくなってきた。スコセッシの作品は、このところ集中的にみているのだが、まずは『ハスラー2』(1986年)あたりからはじめよう。

この作品の企画は、ロバート・ロッセン監督の『ハスラー』(1961年)の演技によって名声を獲得したポール・ニューマンが、その25年後のファースト・エディーを主人公にしてあらたな映画をつくって欲しいとスコセッシに依頼したことからはじまったという(結果として、ポール・ニューマンは『ハスラー2』ではじめてアカデミー主演男優賞を獲得している)。
ポール・ニューマン扮する天才的ハスラー(賭けビリヤード師)ファースト・エディーは、映画『ハスラー』のなかで行われた大勝負を最後にビリヤードから足を洗っている。そんなエディーの目の前にある日姿を現した若者ヴィンセント(トム・クルーズ)の試合運びをみて、エディーは、彼をかつての自分のような一流のハスラーに育てようと決心する。映画の大半は、エディーの「教育」とヴィンセントの反発に終始するのだが、最後のアトランティック・シティでの大きなビリヤード大会の場面で大きな山場を迎える。エディーもヴィンセントもこの大会にエントリーしており、皮肉なことに、二人はベスト・エイトを決定する予選で直接対戦することになる。勝負はきわどいが、そのきわどいところで、ヴィンセントは普通の人の眼にはわからないようにして故意に球をはずし、エディーに勝を譲る。それを知ったエディーは準決勝を棄権し、大会とは関係なしに真剣で勝負しようとヴィンセントに提案する。そして勝負が始まり…。
というところで、この映画は終わっている。二人の勝負結果は永遠にわからない。

スコセッシは、『ハスラー2』の前に撮った『ニューヨーク・ニューヨーク』(1977年)でも同じような終わり方を採用している。
第二次大戦勝利のお祭り騒ぎのなかで出会ったサックス奏者ジミー(ロバート・デ・ニーロ)とジャズ歌手フランシーヌ(ライザ・ミネリ)は、ジミーの強引な求婚によって結婚するが、フランシーヌの妊娠をきっかけにめざす生き方の食い違いが表面化し、別れる。離婚後、フランシーヌはレコード、ステージそして映画で大スターとなる(このあたりのライザ・ミネリ扮するフランシーヌの活躍ぶりが作品の柱の一つとなる)。離婚して6年目、そんなフランシーヌの前にジミーがひょっこりと顔を出し、話したいことがあるのでステージが終わったら会ってくれないかと頼む。いったん待ち合わせ場所に行きかけたフランシーヌは、おもいなおして待ち合わせを無視する。いくら待ってもあらわれないフランシーヌに、無視されたことに気づいたジミーは、彼女に直接電話しようとするが、おもいなおしてやめる。
これが、この作品のエンディングである。ジミーがフランシーヌに頼み込もうとしていてたことはなになのか、映画が終わってから観客は自分で想像するしかない。

以上、スコセッシ映画2作品のストーリーをざっと書き出してみたが、両作品の構造的な類似は明らかだとおもう。そしてそれは、物語の行きがかり上、たまたまそうした結末になってしまったというより、これがスコセッシが好む物語の終わり方ということなのだろう。
『ニューヨーク・ニューヨーク』についてのインタビューのなかでスコセッシは語っている。
「荒編集を見たジョージ・ルーカスがこう言った。この映画をハッピーエンドにして、主人公の二人が一緒に歩いていくラストシーンにしたら、興収が1000万ドル増えるだろうと。彼の言葉は正しかった。でも私は、ハッピーエンドはこのストーリーにはそぐわないとそのとき答えた。ジョージが映画に爆発的な大当たりを求めているのはわかっていたが、自分の進む道はそれとはまた別物だった。」(『スコセッシ・オン・スコセッシーー私はキャメラの横で死ぬだろう』、宮本高晴訳、フィルムアート社、1992年)
自分の進むべき道をきちんとわきまえていて、それをはずさない。それがスコセッシのすごいところであろう。彼にとって大事なのは、おもしろい映画、大当たりする映画をつくることではまったくないのだ。

ところで、こうした明確な結末がないような状態で映画(物語)を終わらせたいという指向は、一見明確な結末をもつ彼の代表作『タクシー・ドライバー』(1976年、ロバート・デ・ニーロ主演)にも共通する。カンヌ映画祭で金賞を受賞するなど世界的に高く評価され、スコセッシの名声を確立したこの映画については、いろいろな角度から語りつくされた観もあるが、ここでその構造(物語)をもう一度点検してみよう。

ヴェトナム戦争からの帰還兵トラヴィスはニューヨークでタクシー・ドライバーの仕事をはじめる。仕事をしていてもトラヴィスの気持ちは落ち着かず、恋人を探したり、少女売春を目撃したり、無目的な生活を続ける。ついでながら記しておけば、この作品に対する讃辞の多くは、ニューヨークに住む若者の無目的で孤独な生活や街の光景を、あまりつくり込まずにほぼ等身大で描き出しているということにあったとおもう。さてそうしたなかであるときトラヴィスは、大統領候補者殺害に自分の人生の目的を見いだし、銃を入手し、射撃練習をし、身体を鍛え、目的実現に向けて着々とすすんでいく。しかしいざ決行というときになって、一瞬のところで警備員によって候補者殺害を阻止されたトラヴィスは、はけ口のない目標を少女売春組織に向け、派手な銃撃のあと、少女を救出する。
事件後、トラヴィスは家出をして売春をしていた少女を命がけで救出したということでマスコミに取り上げられ一転英雄となるが、それはたまたまそうなってしまったというだけのことで、映画をみているわれわれは、そうした結末やまたその結末から遡及したトラヴィスの日々の生活が、実は少女救出とはまったく無関係なことをよく知っている。ラストを変えれば、これは無目的殺人者の日常を描いた作品になったはずなのだ。
したがってこの作品は、『ハスラー2』や『ニューヨーク・ニューヨーク』と違って明確な結末をもっているが、両作品とは逆に、結末そのものが実はまったく無意味なものでしかありえないということを主張している映画なのである。

スコセッシがなぜこうした作品構造にこだわるのか、そのあたりをもうすこし続けて追ってみよう。