闇に響くノクターン

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スーフィズム探求④ーー根源的イスラーム性

2009-03-02 01:16:10 | イスラーム理解のために
ここまで、「イスラーム」もしくは「ムスリム」という言葉を非常に一般的な意味でつかってきたが、議論を先にすすめるため、ここで、『ルーミー語録』の翻訳者・井筒俊彦氏によって、「イスラーム」や「ムスリム」という言葉が根源的にはなにを指すか確認しておこう。

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「元来「イスラーム」はアラビア語では前イスラーム的に長い歴史をもつ言葉であって、預言者ムハンマドが使いはじめた言葉ではない。この語は、特に「アスラマ」(aslama)という動詞の形で、ジャーヒリーヤ時代(イスラーム教啓示以前の無道時代)の文献に盛んに使われている。そしてその意味は、一般的に人が自分の大事な所有物、手放すのがつらいような貴重な所有物を他人の手に渡してその自由処理に任せるということである。ただ、ジャーヒリーヤ時代では宗教的な関連は全然考慮の内になかった。純粋に人間と人間との社会的行為だった。
 それをムハンマドがーーあるいはイスラーム自身の立場から言うと、神がムハンマドに下した啓示を通じてーー宗教的次元に移して使った。そこに新しさがあった。すなわち、今まで人間相互の関係にすぎなかった「イスラーム」が神と人間との間の実存的関係となったのだ。
 この新しい「イスラーム」の意味構造ではイスラーム(引き渡し)という内的行為の主体は人間であり、それを受ける相手は神、そして引き渡される貴重品は人間の自我である。つまり、人間が彼にとってかけがえのない大切なものである自分自身を、そっくり神に引き渡すこと。自分に関わる一切を神の手にゆだねて、なんでも向うのなすがまま。これがイスラームという宗教における宗教的実存の最も根本的な姿勢である。そしてこのように自分をすっかり神に任せてしまった人を「ムスリム」(muslim)という。
 ムスリムといえば、後の時代ではたんに回教徒、つまりイスラームの信徒を指す名称で、キリスト教徒とかユダヤ教徒とかいうのと少しも違わないごく普通の名詞だが、もともとは今言ったような宗教的実存としての深い意味があった。ついでながらmuslimとislamとは同じ語根から派出した二つの違った形で、前者は形容詞(より正確には、さっき説明した、これも同じ語根から出た動詞aslamaの能動分詞形)、後者は名詞である。
 なお、このようにislam、muslim、aslamaはいずれもSLMという同じ語根から出た三つの違う語形にすぎない。言い換えると、これらの語は、同じ一つの精神的事態を三つの異なる側面から捉えて言語的に固定したものにすぎない。しかし、動詞aslamaには、他の二つには見られない特殊な含意がある。それはこの動詞が、意味の上で、文法学者のいわゆるinchoative「開始態」、つまりある新しい事態の始まる時点を指示する動詞であるということだ。すなわちaslamaとは、今まで神に自分を任せることを拒否して来た、あるいは怠っていた人が、突然ある瞬間からその否定的態度を棄てて、全く新しい態度に変ることを意味する。そこには一つの実存的飛躍がある。新しい人の誕生だ。
 この意味において、aslamaという内的行為は、それを敢行する人の生涯をきっぱり二つの部分に割って、いわば白・黒に染め分ける転換点をなす。それはその人の内面的生活に決定的な刻印を捺す実存的決断の瞬間である。そしてこの実存的決断の時点を経たその後の永続的状態をmuslimという形容詞が表わす。同じ語根から派生した言葉ではあるが、muslimには「開始態」的な意味はない。ある決定的な瞬間に、決定的な実存的飛躍が行われて、新しい内的事態が生起する、それがaslamaであり、それを機縁として誕生した新しい人の、それからあと一生の宗教的なあり方がmuslimなのである。」(井筒俊彦氏『イスラーム生誕』、中公文庫、第二部「イスラームとはなにか」2)

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このようにしてみてくると、ルーミーらスーフィーの言葉や思想の背景にあるのは、『コーラン』やムハンマドの言動の背後にある根源的イスラーム性の探求ではなかったかとおもえてくる。