闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

初恋の思い出

2006-10-31 13:44:59 | わが酒と薔薇の日々
このブログ、なるべく自分の日常に即して書いてみたいとは思っているのだが、いざとなると、GAYであるといっても生活そのものはノンケと変わらないから、自分の生活のことでこれはという題材は特に思い浮かばない。自分の身近ということで、まずいつも聴いている音楽のことを書いてはみたのだが、第三者的に考えてみれば、GAY的な音楽の聴き方なんてあるのかとも思う。一般のGAYブログをみると、それをGAY映画やGAY小説の感想(あるいはもっと端的には性的な話題)で補って、なんとかGAYとしての特色をだそうとしているように思えるが、昨日も少し書いたように、GAYだからGAYが生み出したさまざまなアートに共感するというのは、どうもあまりに短絡すぎるような気がして、私は好きではない。
たとえばヴィスコンティ映画のことを考えると、彼はいつもGAYを主題にして映画をつくっていたわけではなく、変わったところではカミュ原作の『異邦人』なんて作品もあるし、初期のものは、GAYもノンケも全然関係ないところで映画をつくっている。要するに、ヴィスコンティ映画がGAY的だというのは、GAYの世界を描いているからではなく、普通の世界を描いていても、その見方、描き方がGAY的だということだと思う。ヴィスコンテイには及ばないが、そのGAY的な日常のとらえ方に、このブログでは一歩でも近づいてみたい。

   *    *    *

さてこの辺で話題をかえて、プロフィール第二弾ということで、今日は、私がGAYに目覚めた頃のことを少し書いておこう。
とはいえ、私の場合、ものごころがついたらすでにGAYだったような気がして、GAYに目覚めた具体的なきっかけというものをどうしても思い出すことができない。あえていえば、ほんとうに小さくて幼稚園に行くか行かないかの頃に観た映画がそのきっかけだったかとも思う。映画好きの両親は、私をよく美空ひばりの時代劇につれていってくれたそうだが、当時の美空ひばりの時代劇というのは、彼女が若衆に扮して旅をするというようなものが多く、5、6歳の幼児の性的アイデンティティーを攪乱するには充分だったようだ。その頃何というタイトルの映画を観たのか、今はもう全然覚えていないのだが…。
そんなことで、GAYという言葉は知らなくても、小さいときからなんとなく同性に対する憧れはあったのだが、それが特定の個人と結びついて明確なかたちとなったのは、高校生のときだ。
小中学生時代は近所の子といっしょに公立の学校に通っていたので、家庭ぐるみの近所での交友がそのまま学校での交友だったのだが、高校になってはじめてそれが崩れ、全然知らない同世代の人間と接触することになった。ちなみに、私の通っていた田舎の公立高校は、いちおう男女共学ではあったが、女子の数は圧倒的に少なく、たぶん、全体の二割程度だったような気がする。
まわりがほとんど知らない人ばかりなので、最初はとっかかりにも苦労したような気がするが、自分が知らない人ばかりということは、相手もこっちを知らないというお気楽さはある。そのうち、私は、たぶん一度も口をきいたことのないクラスメートのM君をものすごく意識するようになった。私が文系志望なのに、彼は理系志望、私の興味が、映画、小説、音楽なのに彼は根っからのスポーツマン。二人の世界は全然重なるところはないのだけれど、当時の私にはそれが魅力だった。
二年のときにクラス替えになり、彼とは別のクラスになってしまったけれど、休み時間、何かと理由をつけては彼のいる隣のクラスに入り浸っていた。はっきり「好き」といったことはなかったけれど、彼はそれをわかっていたと思う。
さて受験ということになり、志望校を決めなくてはならないのだが、私は行きたい大学が全然思いつかなかった。ただ、東京に行って思い切り映画を観たいという希望はあったし、学科はなんとなく仏文科にしようと思っていた。それともう一つ。私には変なこだわりがあって、単科大学(カレッジ)には行きたくない、行くなら絶対総合大学(ユニバーシティー)だと決めていた。そんなとき、ふとしたことでM君が某大学を受けると知ったとき、私の志望校は自動的に決まってしまった。その大学は東京にある総合大学で、しかも仏文科があるのだ(笑)。
そんなことでその大学に願書を出しておいたのだけれど、受験当日になり、受験校を変更した。「自分が好きな男が受けるというそれだけの理由でこの大学を選んだのなら(私にとっては現にそれしか理由がなかった)、仮に受かっても一生後悔するのではないか」と思えてきたのだ。万一に備え、私はもう一通別の大学に願書を出していたので、当日は下見もしていない別の大学を受けにいき、みごと落っこちた。ちなみにこの二つの大学は受験日が同じだったので、両方受験するわけにはいかなかったのだ。だから二つの大学に願書を出したからといって、片方がいわゆる「すべり止め」ということではない。考えると相当無謀なことをしたと思う。
そういうことで大学受験には失敗したが、両親は東京の予備校に行くことを認めてくれた。大学の入学試験は一回しか落ちていないのに、予備校の入学試験には落ちまくった。しかたがなくて適当な予備校を選んだのだが、なんと!めぐりめぐってM君もその予備校に入っていたのだ。入学式でそれを知ったとき、夢のような気がした。
予備校時代、予備校生同士で新たな交友ができるわけでもなし、同じ高校から来た同級生数人が一つのグループになっていつも集まっていたが、そんなことで、私は高校時代にどうしても実現できなかったM君の親密な友人グループに入るという夢を、この予備校時代に実現した。
そうこうして毎日M君と会い、いっしょに昼食したり無駄話をする日が続いた数カ月後、がまんしきれずにとうとう彼に自分の思いを打ち明けた。M君は「自分にはその気はない」と言ったが、その後もそれまでと変わらずつき合ってくれた。私はというと、告白した安心感があって、毎日公然と彼を見つめていたと思うのだが、この辺のところはあまり記憶にない。また受験の季節が来て、私もM君もまた同じ大学を受け、私はその大学に受かったが、彼は受からず、別の大学に進学した。
それ以来、彼とはもう会っていない。

   *    *    *

無意識的でぼんやりした同性への憧れを除けば、これが私の自覚的な初恋だ。

GAYな音楽

2006-10-30 14:10:21 | 楽興の時
昨日の記事を読み返してみて、GAYと音楽のかかわりあいのこと、自分の考えを少し補足しておいた方がいいという気がしてきた。

こと音楽にかぎらず、GAYとアートの受容の問題はけっこうややこしいが、アートというのは、GAYだからGAYがつくったものに感動するといった単純なものではないという。
たとえばクラシック音楽の世界では、チャイコフスキーはおそらくGAYだったといわれるが、だから私はチャイコフスキーの音楽が好きで、それに特別強く反応するかといえばそんなことはない。チャイコフスキーよりはやはりブラームスの方が好きで、これはどうしようもない。ただし、自分がチャイコフスキーよりブラームスが好きということを押し売りするつもりもない。私がたまたまブラームスのことを書いたのは、それをとおして、このブログを読んでくれている人に、私を理解して欲しいと思っている、ーーただそれだけのことだ。
演奏家のことももしかすると同じかもしれない。ワルターやクレンペラーの演奏は、あるしつこさをもっており、それが嫌だという人がいるのは認めざるをえない(二人にくらべれば、セルの演奏はもっとストレートだ)。
では芸術上の価値判断はすべてが相対的で、そこにはそれぞれの人の好き・嫌いがあるだけかというと、そうではないような気がする。昨日はそれを、ユダヤ人の問題や、GAYの問題に惹きつけて考えてみたのだが、今もう一度考えても、ユダヤ人演奏家がかかえている問題はGAYの内面の問題と、とても近いところにあると思う。

ところで、昨日の記事を読みかえしてみてもう一つ自分で気がついたのは、結局、私が好きなのは職人芸的な演奏ではないかということ。ドイツ系の演奏家が、演奏行為を自己表現、もしくは芸術活動ととらえているとすると、ユダヤ系の演奏者はそれをまず「わざ」としてとらえているような気がする。そして、「わざ」が拙かったら、いくら恰好のいいことを言ってもしかたがないじゃないかというのが、結局、彼らの主張のような気がする。だからこれは、好き・嫌いというより、もう少し深いところで、聴き手の考え方とかかわることではないかとも思える。
そういう意味ではブラームスの音楽というのも、芸術的というよりは職人芸的だと思う。たとえばブラームスに「悲劇的序曲」という曲があるが、これはブラームスのまわりで悲劇的な事件が起こったことを機に作った曲ではなく、悲劇とはこういうものではないかというイメージをかたちにした曲だ。
だからそこに真実はないと言ってしまえば、真実などかけらもないのだが、音楽とはほんらいそうしたものではないだろうか。つまり、音楽は、絵画や文学作品のように、つくり手のまわりで起こっていることを忠実に写し取ることを使命とするのではなく、それはあくまでもイメージなり雰囲気を問題にしているのだと思う。だから究極的には技巧・技巧ということが音楽の本質とかかわってくる。
ブラームスはそのことをとてもよくわきまえた「プロ」の薫りがする作曲家だ。そしてそんなところ、モーツァルトととてもよく似ていると思う。

ブラームスはお好き?

2006-10-29 13:42:53 | 楽興の時
今日は朝からブラームスばかり聴いている。
まずはヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲。
次に、クラリネット五重奏曲を聴きながら簡単なブランチ。
続いて交響曲第一番。
そしてピアノ協奏曲第一番をかけながら、この記事を書いている。

ブラームスは好きなので、CDもそれなりにさまざまな演奏家でもっているが、今日のラインナップは、クラリネット五重奏曲がライスターとアマデウス四重奏団のものだった以外は、すべてジョージ・セルが指揮するクリーヴランド管弦楽団の演奏。
直前の記事でブルーノ・ワルターのことを書いたが、ワルターのほかに、私はセル、クレンペラーの演奏がとても好きだ。で、ちょっと考えてみると彼らはみなユダヤ人で、世代は少しずつ違うが、第二次世界大戦中にアメリカに亡命したという点でもこの三人は共通する。
「クラシック好き」の人のなかで、タイプの異なるワルター、クレンペラー、セルを同じように聴くという人を私はあまり知らないが(クレンペラー、セルに比べると、ワルターの演奏はウィーンの古い様式美をもっているとよく言われる)、三人の演奏は、なにを置いても音楽を美しく響かせるというところに共通点があると私は思っている。出てくる音の響きが純粋で、美しいから、三人ともモーツァルトとでとてもいい演奏をする。端的にいえば音が美しいということ、それが私が彼らの演奏が好きな最大の理由だ。

彼らと近い世代でドイツ系の指揮者には、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤンらがいて、一般的にいえば、クラシック音楽の世界ではこのドイツ系の指揮者こそが正統とされ人気が高いのだが、彼らの演奏、特にフルトヴェングラーとベームは音そのものにあまりこだわっていないように私には聞こえる。つまり、演奏というのは音じゃなくて心だよというのが彼らの主張ではないかと思えるのだ。
まあ、それはそれでいいのだが、その「音楽は音じゃなくて心だよ」という論理が、実はノンケというか、多数派の論理のようで、私にはものすごく抵抗がある。

多数派はしばしば話せばわかるというが、話してもわからないのが、実は少数派の論理や心情ではないだろうか。
じっさいのところ、GAYの心情をノンケにわかってもらい、存在を認めてもらうことがどれだけの意味をもつのだろう。世間にGAYの社会的存在を認めてもらうことは大事かもしれなけれど、社会的存在を認めてもらったとしてもGAYはGAYであり、いぜん少数派なのではないだろうか。どれほどGAYを理解したとしてもノンケはあくまでもノンケであり、GAYにはならない。安全な高みからGAYを容認する。
音楽の話から突然GAYの話になってしまったが、ユダヤ人演奏家の心情は、こんなGAYの心情にとても近いような気がする。

上の方に、ワルター、クレンペラー、セルの演奏は、「なにを置いても音楽を美しく響かせるというところに共通点がある」と書いたが、結局それは、彼らが人種的少数派であり、ちょっと気を緩めて一般社会に同化しようとするとたちまち反発されるということからくる一種の用心だったのではないかという気がする。それからすると、フルトヴェングラーもベームもカラヤンもとても不用心に「共感」を振り回し、その開けっぴろげな「共感」の押し売りにいらいらすることがあるのだ。
こう書くと、なにかとてもめんどうくさい音楽の聴き方をしているなあと思う人もいるかも知れないが、そんなことはない。私としては「心」や「共感」の押し売りはけっこうですといいたいだけだ。そんな押しつけがましいことをしなくても、前にも書いたように、ワルターらの音楽は、ともかく美しい。そしてこの美しいということが、音楽にとっては最大の説得力なのではないかと思っている。

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この記事を書いているうちにピアノ協奏曲の演奏は終わり、ゼルキンによる「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」に変わっている。
手をとめて、少しこの音楽を聴くことにしよう。

ワルターの回想録

2006-10-27 13:44:45 | 楽興の時
「ノクターン」というブログ名にふさわしく、何か音楽の話題をと、先日から指揮者ブルーノ・ワルターの回想録『主題と変奏』(白水社、内垣啓一、渡辺健訳)を読みはじめた。現在、第一次大戦直前の彼のミュンヘン時代(第四部)まで、読み進んでいる。
私とワルターの縁はふるく、高校時代にヴィスコンティの映画『ベニスに死す』の世界に憧れて、この映画のなかでつかわれているマーラーの音楽が聴きたくなり、レコード店に行ってマーラーが欲しいといったらすすめられたのが、ワルター指揮するマーラーの『大地の歌』だった。実は、『大地の歌』は『ベニスに死す』には使われていないのだが、それとは別にこのレコードは私の愛好盤となり、毎日のように「生は暗く、死もまた暗い」というこの曲に聴き入っていた。
今から考えると『大地の歌』を聴きながら、この頃なにを考えていたのか不思議でならないのだが、高校生当時すでにGAYの自覚はあったし(だから『ベニスに死す』に憧れるわけだけど<笑>)、マーラーの絶望感、没落感が、若いなりに自分にぴったりだと思っていたのだろう。

さて読みかえしてみると、この本には、ドイツ社会のことも音楽そのもののこともほとんど知らなかった20代の読みとは違う意味でいろいろ発見がありおもしろい。
読みかえしながらまず疑問に思うのは、ワルターがあまりにも自然な書き方をしているのでつい読み飛ばしそうになるのだが(現に、かつての私はその部分を読み飛ばしていた)、第一次世界大戦前のドイツ社会(共同体)のなかでは、「ユダヤ人社会」というのは、社会全体のなかに溶けこみ、その重要な構成要素をなしていたと同時に、内部的には「ユダヤ」の人種的・宗教的アイデンティティーのもと、強固な社会内社会をつくっていたのではないかということ。いってみれば、ユダヤ人は、ドイツ社会のなかで外に向かって開かれたインターナショナルな部分を構成していたのではないかと思う。しかし悪くとれば、このインターナショナルということは無国籍性ということに繋がってしまう。社会がうまくいっている時、このことは矛盾と考えられることはないが、いったん社会が行き詰まれば、インターナショナル派は異分子として社会から浮き上がってしまう。普遍が一挙に特殊に転落するのだ。『主題と変奏』のなかで、ワルターはこのことを意図的にかなり曖昧にして、ぼかして書いているのではないだろうか。
つまり、ワルターの幼年時代の記述を読むと、幼いときに音楽の天分を見出され、周囲からなんの反対もなくすんなりと音楽の道に進み、17歳で職業音楽家(ケルン歌劇場の練習指揮者)としてデビューするのだが、それがあまりにもすんなりいきすぎてかえって不自然な感じをうける。これは才能ある「ドイツ人」の音楽家がすべてこうした道を歩むことができたというのではなく、やはり、「ユダヤ人」であるがゆえの特殊性があったのではないだろうか。いずれにしても、ワルターはかなり恵まれていた人だと思う。
またワルターの場合、デビューまでの順調さと、デビュー後に短い期間でさまざまな歌劇場を転々と移動する落差が対照的だ。彼はこれについてもあまり詳しく語っていないが、個々の移動にはそれぞれ特殊な事情があったにせよ、それが繰り返された背後には、なんらかの別の事情があったのではないだろうか。ワルターの場合、さまざまな歌劇場を転々としたことでハンブルクでマーラーと出会い、マーラーにウィーンに呼び寄せられる。したがって、さまざまな歌劇場を転々と移動したことは結果的にプラスとなるのだが、一般的にいえば、若い音楽家がしっかりキャリアを積むという点からは、頻繁な職場移動はかなり不利だったのではないだろうか。
それはさておき、ワルターはこれまたあまり明確に語っていないが、当時のドイツ音楽界では、ユダヤ人の演奏家が相当の比重を占め、ユダヤ人にとっては、溶けこみやすい世界だったのではないかとも思う。
こうしたことを考えていくと、この本、一癖も二癖もあり、けして読みやすい本ではない。それはおそらくワルターの演奏に関してもいえるだろう。彼の演奏の特徴として「つねに優美でほほえみを忘れない」ということが指摘されることが多いが、これには相当の演出が入り込んでいるのではないかと、私は思う。

前置きはこのくらいにして、『主題と変奏』のなかでまず興味深かったのは、ワルターが語るベルリン気質とウィーン気質の違い(ちなみにワルターは、生まれからいえばベルリンっ子)。
彼によれば、第一次世界大戦に直面したとき、ドイツ人たちは「重大だが、希望がないわけではない」と評したその同じ状況を、オーストリア人たちは「希望はないが、重大ではない」と形容したという(同書183頁)。
このオーストリア人の絶望に、私は強くひかれる。

最初はgoo!

2006-10-26 01:43:53 | はじめに
みなさん、こんにちは。
50歳を過ぎて、目的もなく毎日なんとなく過ごすのはどうしようもないと切実に感じています。そんな自分が考えていることを書きとめ、できることならそれをきっかけに誰かと真剣に話がしてみたいと、ブログをはじめてみることにしました。ちょっとあまい希望かな(笑)。
簡易プロフは165*55*52*GAYです。それに少しつけ足せば、星座は乙女座、血液型はA型です。これまでいろいろと恋もしたし、涙もそれなりに流したけど、ここまでくれば、GAYであることを後悔してはいません。

さて、ブログをはじめるには名前がいるとのことで、まずはブログ名とID名を決めました。ご覧のとおり、ブログ名はちょっと恰好をつけて「闇に響くノクターン」とし、それとの関連でフランス語で「闇」を意味するtenebres(テネーブル)をID名にすることにしました。最初別の名前でID登録しようとしたら、その名前はすでに登録されているというので、それではと選んだのがこのtenebresです。でもこのID名はけっこう気に入っています。無機的な名前はいやですからね。
あ、ついでに書いておくと、とりあえずフランス語は特技の一つです。というか、せっかくフランス語を勉強してきたのだから、一冊ぐらいフランス語からの翻訳を出版してみたいというのが、最初にも書いた目的の一つです。

そんなことで、とりあえずは、日々の雑感を中心にいろいろ書いていきたいと思っています。どうぞよろしく。