闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

満足感でいっぱい

2010-11-16 23:48:15 | 東欧滞在記
モスクワに向かう飛行機のなかの私の席は、3人掛けの席の真ん中。当然、搭乗員からのサービスを受けるときや、小用のときに、通路側の人をわずらわせることになる。
ところで、機内で私が広げていたのは、波蘭(ポーランド)の歴史地図なのだが、隣の波蘭人ビジネスマンが広げていたのは、ムラカミハルキの小説。波蘭に関心をもつ日本人と日本に関心をもつ波蘭人ということで、自然とわれわれは会話することになった。彼は仕事でモスクワに向かうとのことだったが、珍しいだろうといって、キーボードがキリル文字になっているロシア語用のPCを見せてくれた。モスクワまでの所用時間は、2時間なので、あっという間に「懐かし」いモスクワのシェレメチェヴォ空港に着く。ビジネスマン氏に別れを告げ、ターミナルに移ったが、ここで運良く日本に観光旅行に行くという波蘭人の一行を見つけ、今度は彼らについてターミナルを移動することにした。
往路と違って、今回のボディチェックは1回しかなかったが、それでも極めて厳重である。なかでもアラブ人風の人たちは、かなり入念に全身をチェックされていた。
すべての煩瑣事から解放されて東京行きのターミナルに移動したのがモスクワ時間で午後3時半ほど。東京行きの出発時間は午後7時40分なので、それまで約4時間をこのターミナルで過ごさなくてはならない。
搭乗ゲートを確認したわれわれは、ワルシャワ市内で失敗しているというのに、また、ロシア人の若者たちが手招きしているオープン形式のブラスリーに入ることにした。この店は、店内の雰囲気も若者たちの制服も、アメリカを意識している。現代のロシアの若者には、アメリカ風ということになんの抵抗もないのだろう。
さてテーブルに置いてあるメニューを見ても、ロシア語ばかりでちんぷんかんぷんだし、若者たちが他のメニューをもってくる気配はすこしもないので、カウンターまでメニューを取りに行く。メニューを要求すると、今までの笑顔とはうってかわってものすごくいやそうなそぶり。私がメニューをテーブルまでもっていこうとすると、「ここでオーダーしろ」とかなり高圧的だ。それを強硬に振り切って、テーブルまでメニューをもってきたのだが(そうしないと友人は選べない)、店内は客がいなくて超ひまそうだというのに注文をとりにくる様子はまったくない。
やむをえず、メニューをもってまたカウンターに行き、「メニューに載っている○○が欲しい」というと、あっさりと「ない」という返事。「では、この△△は」ときくと、やはり「ない」という返事。それではいったい何があるのかときくと、悪びれることもなく、「オンリー・ビア」という。要するに、ビールであればグラスに注ぐだけで簡単なので出せるが、それ以外の手間のかかるものは面倒なのでつくりたくないということなのだ。やむをえずビールを注文。今度はしかたなくテーブルまでもってきてくれたが、これでも、彼らからすれば大サービスということなのだろう。われわれにビールを運んできたあとは、客がいなくてがらんとした店内の席にすわりこんで、店員同士の会話に夢中。たまにまたアホな観光客が通りかかると、笑顔で愛想をふりまいて、客引きをしている。
われわれはまったくあきれてしまったが、それでもいいことがないわけではない。
要するに、この店は何時間いようと、グラスが空になろうと、追加注文を要求されることも追い出されることもないことがわかったので、ここを空港内の仮の根城にすることにして、友人とかわるばんこにターミナル内を見て歩くことにした。疲れたらこの店に戻ってきて交代すればいいわけだ。
こうしてターミナル内を探検しているうちに、少し気の利いた土産物店を見つけたので、われわれは交代で日本へのお土産を買うことにした。
私が選んだのは、ベルーガのウォッカ、ロマノフ王朝の紋章入りのショット・グラス、CCCP(ソ連)のロゴ入りのTシャツなど。一方、ポーランドであまり買い物をしていない友人は、そのうさばらしと、キャビア、ウォッカなどを大量に買いあさっている。ウォッカはともかく、たしかにキャビアは小瓶が6,000円程度ととても安い。
買い物の合間には、暇そうな店員をつかまえて写真をとってもらったり、店員と一緒に写真をうつしたりした。
こうしてだらだらと時間を過ごすうちに、さすがにのどがかわいてきたので、ビールを追加注文。支払う時になって、買い物のしすぎでもう小銭がほとんどないことに気づいたが、高額紙幣はあるが小銭はないと告げると、最初ちょっといやそうな顔をしたものの、すぐに笑顔に戻り、「あなたたちはさっき写真をとるときに私にチップをくれたので、その小銭を置いていってくれれば、それでいい」と、わけのわからない対応。
要するに、自分が損をしなければ、店の損得はどうでもいいということだ。
ロシアという国のモラルは、ここまで崩壊してしまったのかと、われわれはまたもや驚かされた。

あきれているうちに、ようやく搭乗時間間近のアナウンス。荷物はまた重くなってしまったが、それを大事に抱えてアエロフロート機に乗り込んだ。

     ☆     ☆     ☆

アエロフロート機の成田到着は、日本時間で翌5日の午前10時。時間感覚がマヒして、機内ではあまり眠れなかったが、ともかく無事に到着した。
成田空港では、友人がワルシャワで大量に買い込んだ肉類などが検疫等に引っかからないか心配だったが、荷物検査もなく、また入国審査も2、3の質問で簡単に済み、同日の昼頃に帰宅した。

     ☆     ☆     ☆

帰宅してから今回の波蘭旅行と展示会を振り返ると、出発するまでは現地の対応も展示の内容も不安だらけで、ともかく展示会が開けさえすればよいという感じだったのだが、現地スタッフがとても親切に対応してくれ、またマスコミ対応などの宣伝等も行き届き、とてもいい展示会になったと思う。
また、観光という意味でも、クラクフもブロツワフも予想以上にすばらしい町で、これまた現地スタッフのおかげてガイドにもめぐまれた。アウシュヴィッツを見たことも、私のなかで一生忘れられない記憶として残るだろう。
今は、いい旅行をした、波蘭に行けてほんとうによかったという思いでいっぱいである。

渋谷で旅行記の報告会

2010-11-14 22:54:35 | 雑記
昨日は渋谷の某ギャラリーで、現在小ブログで紹介している「波蘭(ポーランド)滞在記」の報告会があった。そんなに大きく宣伝しているわけではないが、定員どおり約30名の人が集まって、1時間近く、つたないレポートをきいてくれた。ご来場頂頂いたみなさんには、ほんとうに感謝である。小ブログで紹介できなかった波蘭の画像も、おおむね好評だった。
来場者の半数ほどは全然面識のない人たちだったのだが、そうした人に交じってウノアキラさんやコウヒデキさんらのアーチストもお見えになり、レポーターとしてはかなり緊張した。
それでも、聴衆のなかにたびたび我が家に遊びに来てくれている俊右衛門さんの姿が見えたのには安心した。ちなみに昨日の俊右衛門さんは、山高帽をかぶってダンディに決めていた。
また、ギャラリー経由で、M美術大学の学生さんも2名来場し、雑ぱくな報告会に華を添えてくれた。M美大の学生さんは、2人ともタイプの異なる美形で、俊右衛門さんは2人がとても気に入ったらしい。
みなさん、ギャラリーだけでは話したりなかったらしく、イタリアンレストランでの2次会、ショットバーでの3次会まであったが、なかなか人数が減らず、最後まで盛り上がった。波蘭という国はなかなか行く機会がないので、話も画像も、それなりに新鮮だったということなのだろう。
絶好の機会と、2次会、3次会で私が学生さんたちと話をしたのはいうまでもないが、俊右衛門さんを2人に紹介できたのも、満足な成果といえる。

ところで、私はすこしも気がつかなかったのだが、印刷にくわしいウノさんによれば、波蘭側がつくった展覧会のパンフレットは、モノクロのページも4色刷りで、非常に丹念に印刷してあるとのことだった。

     ☆     ☆     ☆

次回は、20日の19時15分から同じギャラリーで続きの報告を予定なので、ご興味のある方は私までメールでお問い合わせ下さい。折り返し、会場や申し込み方法等をご連絡させて頂きます。

ワルシャワの空港で思わぬトラブル

2010-11-12 23:28:07 | 東欧滞在記
10月4日、今日はいよいよ波蘭(ポーランド)で過ごす最後の日だ。
ショパン空港からの出発予定時間は午前11時で、安全を見て、主催団体が8時30分に迎えのタクシーを予約してくれている。ゆっくりしている時間はない。
それでも、前日早く寝ていることと時差ボケの複合効果で早朝に起床。7時過ぎ、これが見納めと、友人と二人でワルシャワを散歩することにした。
時間はまだ早いが、月曜の朝なので、人々は急ぎ足で町中を歩いている。改めてじっくり見ると、朝のイェロゾリムスキェ通りは相変わらず殺風景なのだが、それでもブロツワフにもK市にもない独特の雰囲気がある。言ってみれば、大都市のにおいのようなものだ。あまり時間がないが、新世界通りまで行って、取り残した町の風景をデジカメに納める。私としては、もう一度バルバカンまで行ってみたかったのだが、時間がないのでそれは断念し、急いでホテルに戻る。
このホテルは、フロントもポーターもきちんとしているので、空港までのタクシーを予約してもらっていると告げると対応もスムーズだ。タクシーを待っている間、日本人の滞在客とも何度かすれ違ったが、その大半はショパン・コンクール目当ての人たちらしく、音楽コンクールとは無縁の風情のわれわれを怪訝そうに見てすれ違っていく。
待つことしばし、予約してあるタクシーが来たというが、これまで乗った波蘭のタクシーの運転手は、大半がくたびれたような私服を着た中年男だったので、どこに運転手がいるのかと一瞬とまどう。実は、目の前に止まっているベンツにスーツケースを積み込んでいるのが、その運転手だったのだが、黒づくめの出で立ちにサングラスをかけた背の高い若者で、外見はどう見てもアメリカ人のおにいちゃんという風情だ。ふーん、とともかく乗り込むと、カーステレオからリズム・アンド・ブルースなどを流して、どこまでもアメリカ風を気取っている。無許可のタクシーではないのでまあいいさと彼にまかせて、30分ほどで空港に到着。スーツケースが重いのでチップをはずんで、波蘭語でありがとうというと、サングラスをはずしてにっこりする顔は、やはりポーランドのいもにいちゃんだ。

時間は早いし余裕があるとアエロフロートのカウンターにいくと、ここで思わぬトラブル発生。前日、友人が生ハムや肉をあまりにも買い込み過ぎたため、スーツケースが重量オーバーで追加料金を払わないと積み込めないというのだ。さらに説明をきくと、その料金は、ユーロではなく波蘭の通貨であるズウォチで、カウンターとは別のフロアにあるアエロフロートの事務所で支払う必要があるという。外国人にとっては、ややこしいことこのうえない。友人も私も、手元にまとまったズウォチが何もないので、まず両替所探し。追加料金は約1,300ズウォチ(約4万円)だとメモしてもらってあるので、急いで両替。次にアエロフロートの事務所を探して、担当官に事情説明。すると、1,300ズウォチでは足りないのではないかと、こちらの説明が腑に落ちない雰囲気で、先ほどのカウンターの担当者に電話してなにやら確認している。しばらくして確認がとれ、支払いを済ませてあわててカウンターに向かう。安いはずの肉がとても高くついたと友人は苦笑い。いずれにしても、カウンターでの手続きが定刻までに間に合ったことで私は一安心。あとは出国手続きが残るのみ。
さてその手続きはいたって簡単で、スムーズに窓口を通貨。先ほどの追加料金の為の両替と釣り銭で、手元にズウォチが残ったので、免税店でこまごまとしたおみやげ品を買い込む。ショパン生誕200年の大きなポスターの前で、あらためて記念撮影。
搭乗前に友人はまた係員に呼び止められたが、きいてみると、荷物に4万円も追加料金を払って気の毒だというので、エコノミークラスの席をビジネスクラスに変更してくれるということらしい。こういうのをけがの功名というのだろうか。
ともかくこうして、われわれは無事ワルシャワを離陸した。

日曜の午後のワルシャワ

2010-11-11 11:26:19 | 東欧滞在記
特急列車がK市を出発したのは、午後1時過ぎ。これだとワルシャワに3時半くらいに到着する。K市に名残はあったものの、あまり遅くまで残っているとワルシャワが何も見れなくなるので、無理にと、午後の早い時間の列車を希望したのだ。
列車が発車してから、スーツケースを引きずって車内を移動すると、コンパートメントはすぐに見つかった。今度の列車は、日曜の昼のせいか、来るときの列車より空いており、コンパートメントの同室者は1人だけ。スムーズに同室できた。途中、来るときと同じように飲み物のワゴンがやってきたので、ジュースをもらうと有料。このワゴン・サービスのシステムはよくわからない。ともかく、のんびりと窓の外の田園風景を眺めているうちに、列車は無事ワルシャワ中央駅に到着した。

われわれが最初に滞在したホテルはホリデイ・インだったが、ヴィッティさんが新たに押さえてくれたのはポローニア・パレス・ホテル(「ポローニア」というのは波蘭<ポーランド>のこと)。ワルシャワのメイン・ストリートの一つイェロゾリムスキェ通りに面している。ホリデイ・インと比べればワルシャワ中央駅からちょっとだけ遠いが、ホリデイ・インよりも格上の豪華ホテルだ。第二次世界大戦末期にワルシャワの建物の大半がナチスによって破壊されたなかで、このホテルは例外的に破壊を免れており、戦前のワルシャワの栄華をしのばせるたたずまいだ。駅からホテルまで、歩けない距離ではないが、荷物が重いのでタクシーでチェックイン。フロントの対応も部屋も申し分ない。
一呼吸入れて、われわれはただちにワルシャワ見物に行くことにした。メインの目的地は最初に訪問することができなかったショパン博物館だが、その前に、ワジェンキ公園のショパン像を表敬訪問することにした。ホテルに横付けしてあるタクシーに乗り込んで、いざ出発。
ワジェンキ公園のショパン像、私は、往路ですでに訪ねているのだが、友人はまだ見ていないので、ともかく訪問して日本人らしく記念撮影。私が最初に訪ねたのは雨の早朝で人気がまったくなかったが、今回は日曜の午後なのでかなり人がいる。それでも静かなたたずまいにはかわりはない。像を見て感慨にふけるというより、われわれの場合、「それはこういうもの」という確認作業という感じなので、ショパン像との対面を手短かに切り上げる。見ると、つごうよく公園横の交差点にタクシーがとまっていたので、ちょっとうさんくさい気はしたが、それをつかまえてショパン博物館に行きたいと告げる。
このタクシー、うさんくさいとおもったのは、いかにも観光客目当てで、しかも他にタクシーが停まっていないおそらくは乗り場以外のところに停まっていたからだが、こちらは疲れているし、他に適当な移動方法がないのでやむを得ない。乗ってみると愛想はいいのだが、案の定、変な脇道にぐるぐると入りこんで、やたら距離を伸ばそうとしている。だまされているなとはおもったが、それは最初からある程度織り込み済みなのであきらめていると、さんざん迂回したあげくようやくショパン博物館に着いた。料金は25ズウォチで予定(15ズウォチ)の倍ほどだ。この程度ですめばいい方だろう。ただしこの日のタクシー料金は、全般に私の予想よりもやや高い。もしかすると平日と日曜では料金体系が違うのかもしれない。
ようやく訪問することができたショパン博物館の前で、まずは記念撮影。それからチケット売り場に行くと、入場制限があってすぐには入れない。こちらもいい商売だ。友人と相談の上、6時の入場を予約して、それまでぶらぶらと市内見物。博物館は、ワルシャワの繁華街・新世界通りからそれほど遠くないので、通行人に道を聞きながら、ひとまず新世界通りに出る。日曜日の新世界通りは、道路の中央でオープンマーケットをやっていることもあって、ものすごい人出だ。
このあたりで、やや空腹を覚えたわれわれは何か軽いものをつまもうということになったが、店選びでまた失敗したくないので、最初に訪問して感じがよかったカフェ、バ○ィダを再訪することにする。
ドアを開けると、例の黒人のギャルソンがいる。われわれのことをよく覚えていて、すぐに席をとってくれた。ただしこの日はバ○ィダも客が非常に多くて混み合っており、十分なサービスができないことを申し訳なさそうにしている。サンドイッチとビールを頼んだところ、アルコールはおいていないというので、飲み物はカプチーノ・コーヒーに。それでも、われわれが頼んだサンドイッチがすぐに出でくるように他の担当者に指図したりして、かなり気をつかっている。サンドイッチは、フランス・パンにハムやチーズをはさんだもので、波蘭に来てからフランス・パンを見るのはこれがはじめて。このあたりが、バ○ィダのこだわりということなのだろう。バ○ィダでは、日本へのおみやげにと、クッキーを買う。帰国してから食べたら、ミルクの風味が強い独特の味で、とてもおいしかった。こうしてバ○ィダで時間をつぶしてから、再度ショパン博物館に向かう。バ○ティダからショパン博物館までは、徒歩で10分ほどの距離だ。
さてそのショパン博物館だが、展示の方は意外に見るべきものが少ない。ショパン手書きの楽譜、当時の楽器、ショパンが訪れた場所の風景などが細かく手際よくならべてあるし、ショパンの曲もいろいろと試聴できるようになっているのだが、ショパンその人に触れている感じがあまりしない。このあたり、個人を記念する博物館、なかでも音楽家の博物館というのは、「見せ方」が難しいとおもった。
博物館を出てもう一度新世界通りに戻る。今度は、バ○ィダとは反対方向、オープンマーケットに折れる。
午後7時近くになって、店もそろそろしまいはじめているが、まだかなりの人出だ。いろいろな店を覗いたのち、「これはうまそうだ」と、友人は肉屋の前で足を止める。肉屋の亭主もよくしたもので、「閉店間際にいい鴨が来た」とばかりに、「これはどうだ」「こっちはどうだ」と、いろいろなハムや肉を切ってつまませてくれる。それが気に入った友人は、「うまい、安い」と生ハムや薫製の肉をブロックごと大量に買い込む。店の写真を撮ってもいいかと言うと、「どうぞ、どうぞ」と大サービスだ。
さて、さまざまな食品や飲み物の香りに激されたせいか、このあたりで、さすがに疲労と空腹が激しくなってきた。そこで一気に新世界通りを抜け、イェロゾリムスキェ通りに出る。ここを右に折れて少し歩くとホテルやワルシャワ中央駅だが、その途中に、われわれがワルシャワに到着した夜に入ったレストラン、ス○ィンクスがあるので、その店をめざす。
ス○ィンクスでは、通りに面して張り出したテラスが空いていたので、そこに陣取る。注文したのは、最初の時に注文しておいしかったホット・サラダと豚肉の料理。飲み物はビールだが、最初の夜、隣の席にいた南アフリカからの旅行者たちが、ビールにジュースを入れて飲んでいたのがとてもおいしそうだったので、今回は、それをたのむ。このジュースは、「ビール用」としてメニューにもちゃんとのっており、ジュースというより、やや濃いめのシロップのような感じだ。さっそくそれをビールのなかに少したらすと、風味が増してとてもおいしい。出てきた料理の方も、サラダも豚肉もとてもうまい。おなかがいっぱいになったところで、早めにホテルに引き上げた。
部屋に戻ってスーツケースを開けると、洗面用具が入っていない。あわててK市のホテルを引き上げたので、入れ忘れてしまったのだ。探検を兼ねて、歯ブラシを買いに町に戻る。駅まで行けばなんとかなるだろうとおもい、駅に隣接した地下街をあちこち覗いて見るのだが、大半の店はすでにしまっていて用をなさない。キオスクのような雑貨屋でようやく歯ブラシを見つけたが、いろいろ訊いても歯磨き粉は置いていないという。歯磨き粉はドラッグストアでないと買えないらしく、かつほとんどのドラッグストアはもうしまっている。こうなれば歯ブラシだけでもいいと、歯磨き粉は断念。ちなみに歯ブラシの値段は1ズウォチほど。とても安いが、日本の歯ブラシに比べると柄がものすごく短い。歯ブラシをもったときに、握り拳のなかに柄がすっぽりはいってしまう長さだ。だからといって歯ブラシとして用をなさないということはない。これも、所変われば品変わるということの一例だろう。
その後、地下街の出口にネットカフェを見つけ、そこに入ってみる。料金体系などがいまいちよくわからないのだが、外国人だからといって特にぼられるわけではない。店の中はほぼ満席で、暗い店内で、みんな好き好きな画面をみている。ただこのネットカフェのPCの画面も、ホリデイ・インのPCの画面と同様、日本のサイトは文字化けで何も読めない。ツールバーも波蘭語表記で操作するのがかなり不自由なので、しばらくいろいろなサイトにアクセスしてから、すぐに店を出た。
とりあえずはホテルに戻り、することはないし疲れているので、歯を磨いてただちに就寝。

帰りの列車でまた大あわて

2010-11-09 23:11:50 | 東欧滞在記
10月3日、快晴。いよいよK市で過ごす最後の日になってしまった。
この日は日曜日なので、ホテルでもみな起き出すのが遅い。友人と二人で朝食をとったが、ダイニング・ルームもがらんとしている。なかに一人、正装の紳士がいて、なにやら考え込みながら朝食をとっている。好奇心から、どういう人だろうと側をとおるときにテーブルの傍らにおいてある本にさりげに目をやったら、ユニヴァーサル社版のマーラー第五交響曲のスコアだった。渋い!

朝食後、これが見納めだとK市の街並みを散策。ブラブラ歩いていたら、ヴィッティさんに会った。きけば、ワルシャワまでのわれわれの列車の指定席と滞在するホテルの予約をとりにいくところだという。「後ほど会いましょう」と約束して、散策を続ける。友人は、公園で、日本へのいいおみやげだと枯葉をひろっている。
K市のちょっと汚れた街並みも、市街電車も、これが見納めだとおもうと、どこか寂しい。
数刻後、ホテルのロビーでヴィッティさんらと落ち合う。記念に、ポスターにサインして行って欲しいというので、求められるままにサイン。出発まではまだ時間があるので、K市の劇場内のカフェに移動。ここで、日本へのおみやげに展覧会のパンフレットを少しもらっていきたいと言うと、若いジャックさんが美術館まで取りに行ってくれることになった(劇場と美術館は2~3分の距離)。ところが、戻ってきたジャックさんが息せき切って言うには、昨日までの来場者が予想以上に多く、用意していたパンフレットが全部なくなっていたという。うれしい悲鳴だ。私の分は、昨日、ブロツワフでガイドのマリアさんにプレゼントしているので、私にも友人にも、手元にパンフレットが一冊もないがしかたがない。
出発時間が迫り、いったんホテルに戻ってスーツケースを車に積んで駅に移動。
みんなで駅前のベンチに腰をおろし、「ほんとうにありがとう」と別れを惜しむ。
そろそろ時間だ。
例によって改札のないホームをとおって特急列車の到着を待つ。「席を確かめるからちょっとチケットを貸して」とヴィッティさん。慣れた人に確認してもらえば、今度は安心だ。
ところがである。列車が到着してヴィッティさんが確かめてくれたコンパートメントに入ろうとすると、すでに別の人たちがいる。あわててもう一度確認してもらうと、ヴィッティさんの見間違いで、われわれの予約が入っているのは違う車両だ。あわてるみんな。「あっち、あっち」と言われるままにスーツケースを引きずって車内を移動していると、もう発車時間。おもわぬ小事件で最後はなんだかとてもあわただしくなってしまったが、こうしてわれわれはK市を後にした。

     ☆     ☆     ☆

昨日、展覧会主催団体から連絡があり、それによれば、われわれの帰国後、日本大使が展覧会を観にきてくれたとのこと。うれしいことだ。

ボヘミア料理で別れの会食

2010-11-08 11:21:11 | 東欧滞在記
K市に戻るともう夕方。一休みの後、今度は展覧会主催団体との別れの会食。ヴィッティさんは、町の中心から少し離れたところにあるボヘミア料理の店を選んだ。
この店は、実は30日に市内の1920年代の建築物を回った際に見学した由緒ある建物の一つで、直線的でモダンな外観もいいが、内装はさらにしゃれた感じだった。静かなダイニングルームに案内されると、いわゆる豪華さとは違う、どちらかといえばシンプルで控えめな基調のなかに、ハリウッド・スターたちのモノクロ写真が飾られている。エントランスの空間では暖炉が燃えている。ボヘミア風というよりは、コロニアル風で特定の国柄を感じさせないつくりだ。クラーク・ゲーブルなどのハリウッド・スターたちの写真も、アメリカを感じさせるというより、インターナショナルな雰囲気を感じさせるようにさりげなく飾ってあって、とてもセンスがいい。あえていえば「ボヘミアン調」だ。
われわれは、大きなラウンド・テーブルに案内されて、ほの暗いろうそくの明かりで食事をしたが、出された料理(メニューがよくわからないのでヴィッティさんに選んでもらった)も、しつこくなくてとてもおいしい。
主催団体のメンバーたちは、ともかく展覧会が順調にはじまったのでみんなほっとしている感じで、行ったばかりのブロツワフの印象を聞いてくる。「あの町は波蘭(ポーランド)で一番美しい町だ」と、みんなブロツワフを誇りにおもっている雰囲気がひしひしと伝わってくる。また、今回波蘭のいろいろな町を回って、どの町が一番好きかときかれたので、私と友人は実感からK市をあげた。ヴィッティさんたちはみな驚いた表情を見せて、「この町は特別な建物もほとんどないし、汚れた感じがするのに」というのに対し、われわれは、「でも、ブロツワフにしてもクラクフにしても、街並みがみなよそ行きの顔をしてるけど、K市は人が住んで生活しているという感じがあって、その人なつこさみたいなのがいいんだ」というと、怪訝そうな顔をしながら頷いている。
食事がすんで、ホテルに戻るにはまだ少し早いしどうしようかというところで、じゃあこんどはアメリカ風のジャズ・クラブに行きましょうと誘われる。おもしろいことに、このジャズ・クラブというのは、K市の文化センターのなかにある。波蘭では、ジャズも一つの「文化」ということなのだろう。
さっきまでのレストランと違って、この店はさまざまな人々であふれかえっている。われわれはここでも例のフランス人グループと会い、彼らの席にまぜてもらって雑談し、薦められるままに1、2杯のカクテルをとって、適当なタイミングで切り上げさせてもらった。

【ボヘミア・レストランのサイト】
http://www.restauracjabohema.com/

夢の町プロツワフ

2010-11-07 00:27:54 | 東欧滞在記
10月2日、今日は波蘭(ポーランド)に来てからもっとも天気がいい。展覧会主催団体の配慮で、この日はシレジアの中心都市ブロツワフを見物することになっている。
疲れているし、他にすることもないので、いつもより少し遅目に起床。昨日の今日で、友人がすっきり起床するとは思えないので、彼の部屋には声をかけず、一人で朝食。ホテルの周りを歩いて時間をつぶしているところに、彼も起き出してきた。やはり朝食は食べたくないという。

10時過ぎに主催団体のプジョーがホテルまでわれわれを迎えに来た。プロツワフまでは約2時間のドライブ。例によってほとんど起伏のないなだらかな景色が続くが、これまで見た光景と比較すると森が多い。森がとぎれると畑だ。そのくりかえしのなかで、私は生まれてはじめて地平線を見た。しかしこうして穏やかな光景を見ているうちに、私も友人もうとうとと寝込んでしまい、「あとしばらくでプロツワフですよ」という声に起こされた。

ブロツワフ(ドイツ名ブレスラウ)は古くからのシレジア地方の中心で、歴史も古い。現在はシレジア地方の一部、低シレジア(ドルヌィ・シロンスク)県の県庁所在地で、政治的な重要性は低下しているが、それでも波蘭で第4の大きな都市だ。
私がブロツワフを尋ねてみたかったのは、ここがユダヤ系の指揮者オットー・ク○ンペラー(1885年~1973年)が生まれた町だからだ。
ク○ンペラー一家とブレスラウの関係をピーター・ヘイワースが書いた評伝『オットー・ク○ンペラー:その生涯と時代』から簡単にさらっておこう。
ク○ンペラーの父ナタンはプラハの生まれで、商売を目的としてシレジアに移住し、1869年にブレスラウに定住した。この町で、小間物とおもちゃを販売していたという。1881年に、たまたまブレスラウを訪問したイダ・ナタン(彼女はピアノがうまく、ク○ンペラーに最初に音楽的な教育をしてのは、この母親である)と結婚し、83年に長女レギナが、85年に長男オットーが、89年に次女マリアンネが生まれている。次女が生まれた89年の暮、ク○ンペラー一家はイダの実家があったハンブルクに転居し、このためク○ンペラー自身は、自分をハンブルク育ちと見なしていたという。したがって、ブレスラウのイメージが彼の脳裏に明確に刻まれることはなかったかもしれないが、それでも原光景として、彼の人格のどこかにこの町の印象が残っているのではないだろうか。

先を急ごう。
われわれが乗ったプジョーは、ブロツワフの中心にあってこの町を守護している洗礼者ヨハネ大聖堂横に止まった。ここでガイドのマリアさんを紹介してもらい、後ほど落ち合う場所と時間を打ち合わせ、ブロツワフ見物のはじまりだ。主催団体が予約を入れて手配してくれたマリアさんは、フランス語のガイドだが、ゆっくり発音するので私でもききとれる。
13世紀以来の歴史をもつ洗礼者ヨハネ大聖堂では、まず尖塔に登ってブロツワフの町を一望。ブロツワフは、もともとオドラ(オーデル)川とその中州を中心に広がった町で、橋がとても多い。北のヴェネツィアという異名もあるそうだ。また大聖堂の周囲には、カトリック関係の建築物が非常に多い。大聖堂自体は第二次世界大戦で大きな被害を受け、内陣の大半は戦後に再建されたものだというので、その状況をくわしくきいてみると、戦前のブロツワフはドイツ領だったため、ソビエトの空爆によって徹底的に破壊されたという。ワルシャワとアウシュヴィッツではナチス・ドイツの蛮行をまざまざと見せつけられたが、ブロツワフに来ると、蛮行の主はソビエトで、結局、戦争には善も悪も、正義も不正義もないのだということを強くおもいしらされた。
さて大聖堂から中州へと続く橋をわたったとき、橋桁にたくさんの鍵がぶらさがっているのでマリアさんにその理由を尋ねると、結婚した男女が、二人の仲が永遠に続くことを祈願して、結婚式後に橋桁に鍵をかける習慣があるのだという。
中州をとおって左岸に着くと、橋のたもとに20世紀のはじめに建てられた巨大な市場があるので、今度はそれを見物。この市場はとても活気があり、店の種類もさまざまだ。八百屋の店頭には、見たこともない野菜や珍しい茸が並べてあり、おもわず足が止まる。木の実の店もおもしろい。友人と私は、菓子売り場で、日本への土産を物色。肉も菓子も驚くほど安い。
市場から方向を転じて、今度はブロツワフ大学へ向かう。この大学は18世紀にハプスブルク家によって創建されたもの。この大学も戦争で大きな被害を受けたのだが、幸いなことに創建当時の講堂が残っていて、バロック様式による過剰なほどの装飾をとおして、ハプスブルク家の栄華をしのぶことができる。またブラームスの「大学祝典序曲」はこの大学から名誉博士号をもらった返礼として作曲されたもので、音楽ホールにはブラームスを記念するプレートが残っている(ただしこの音楽ホールは再建された建築物)。
大学を出で次に案内されたのは、昔の肉屋横町。長屋のようにつらなった一画に、昔は小さな肉屋がたくさん入っていたという。横町の傍らにある動物の小さな像がかわいい。ただしこれらは、横町のほんらいの意味からすると、「材料」ということになる!現在の肉屋横町は、大半が美術商の店になっており、説明を聞かなければ単なるおしゃれな一画として見過ごしてしまいそうだ。
肉屋横町を抜けて少し歩くと、旧市庁舎のある旧市場広場。この広場は大聖堂同様、13世紀からの歴史をもつといい、市庁舎のなかには、中世以来のビア・ホールもある。ちなみにこの広場の一画にも、クラクフ同様、動物の表札をつけた家が建っていて、その古さをしのばせる。広場を取り囲む建物の多くは戦争の被害を受け、戦後に再建されたものだというが、それらが連なる夢のような美しさは、ちょっと表現のしようがない。ワルシャワの旧市街も美しかったが、ブロツワフの旧市街はそれを上回る。陳腐な表現だが、おとぎの国に迷い込んだようだ。カトリックの町ブレスラウは、ユダヤ人のク○ンペラー一家には無縁だっただろうが、この広場には、彼らも何度か足を運んでいるのではないだろうか。
感心して次から次へと写真をとっていると、ガイドのマリアさんにそろそろ食事にしましょうと誘われる。ブロツラフにレストランのあては何もないのでマリアさんにまかせたところ、学生食堂のようで雰囲気はあまりよくないが、オープンスタイルで好きなものが選べる店があるのでそこにしましょうと薦められる。行ってみると、ほんとうに好きなものを好きなだけとって重さで勘定するという合理的なシステムの店だが、味もそこそこいける。おいしいからと料理の写真をとっていたら、ちょうどそこでデジカメのバッテリーが切れてしまった。要するにブロツワフは、一日でデジカメのバッテリーが切れてしまうような美しさだ。こんなことはワルシャワでもクラクフでもなかった。ブロツラフでは、なにもかにもがすべてフォトジェニックだ。
食事を済ませたところで市内見物に予定していた時間もちょうど終わり、プジョーに乗り込んでブロツワフを後にした。

バーゲンでイギリス古楽のCDを買う

2010-11-04 23:14:06 | 楽興の時
今日はアルバイトが休みなので、銀座の画廊に、11月13日(土)と11月20日(土)に予定されているポーランド旅行の報告会(10月24日の記事をご参照ください)の案内に行き、帰りに山野楽器のバーゲン・コーナーで珍しいCDを見つけ、思わず6枚も購入してしまった。衝動買いといえば衝動買いだが、1枚630円だったので、まあよしとしよう。
購入したのは以下の6枚。イギリスの古楽が中心だ。ポーランド旅行のレポート作成の合間に聴くとしよう。

『オルランドゥス・ラッスス/ミサとモテット』
ヒギンボトム指揮/オックスフォード・ニュー・カレッジ合唱団
・ミサ曲「すべての後悔は(トゥ・レ・ルグレ)」他

『ヘンリー・パーセル/ヴァース・アンセム集』
ヒギンボトム指揮/オックスフォード・ニュー・カレッジ合唱団
・器楽伴奏付きのイングランド国教会讃美歌集

『イングランドの大聖堂の古典音楽』
ヒギンボトム指揮/オックスフォード・ニュー・カレッジ合唱団
・タリス、バードなど16世紀から20世紀までの聖歌のアルバム

『ジョージア期のアンセム』
ヒギンボトム指揮/オックスフォード・ニュー・カレッジ合唱団
ベートーヴェンと同じ時代にイングランドで活躍したウェズレイなどの賛美歌集

『ディートリヒ・ブクステフーデ/カンタータ』
クリストファーズ指揮/ザ・シクスティーン
連作カンタータ「我らがイエスの四肢(メンブラ・イェズ・ノストリ)」

『チューダー期音楽/儀式と信仰』
クリストファーズ指揮/ザ・シクスティーン
・タリス、バード、シェパードの合唱曲

言葉の壁を越えて歌合戦

2010-11-03 23:33:58 | 東欧滞在記
打ち上げ会場は、われわれが主催団体のメンバーと最初に会食したホテルのレストランで、細長いテーブルに20~30人ほどが陣取って、すでに飲みながらわいわいやっている。顔見知りの主催団体のメンバー、フランス人グループの他、会った記憶が全然ない人たちも大勢いるが、要するに、友人の展覧会が気に入った人は誰でも出席可ということなのだろう。会場に着いてから特別に挨拶したような記憶はないので、おなかがすいていた友人と私は、先着していた人たちにまじってすぐに食事をとりはじめたのだろう。
ややあって、祝意とともに、友人と私に主催団体からプレゼントがわたされた(あとで開封したら、波蘭(ポーランド)の民族衣装を着たかわいい人形だった)。友人の謝辞の後、また歓談。
とりあえず座は盛り上がっているものの、テーブルが細長くて隣の人としか話ができないこと、全員に共通する言語がないこと(テーブルでは、波蘭語、フランス語、英語、日本語が飛び交っている)のために、全員が共通の事を話すのではなく、3~4人ずつ小さなグループになって別々のことを話している。これではいけないと立ち上がって、「お静かに」と呼びかけてから、日本の歌だといって「荒○の月」を披露した。私の歌が特にうまかったわけではないが、このとっさの思いつきがうけて、満座の喝采を浴びた。
すると今度は波蘭の人たちも、負けてはいられないと波蘭の歌で応答、こたえて私が「津○海峡冬景色」を歌う。さびしい北国の歌ならば、言葉がわからなくても波蘭の人にも情感が伝わるだろうという戦略だ。
このあたりから座がさらににぎやかになり、軽いものやエロチックなものまでいろいろな歌の応酬に続いて、皮肉屋のポールさんが「オー・○ャンゼリゼ」を歌うと立ち上がった。それなら私も歌えると私も負けずに立ち上がり、ポールさんと二人で「オー・シ○ンゼリゼ」をフランス語でデュオ。
このあたりまで、日本人と波蘭人の狂乱ぶりを距離を置いてみていたフランス人たちも、波蘭人と日本人にフランス語で自国の歌を歌われては負けてはいられないと、次々に歌い始めた。
いつのまにか、テーブルにはズブロッカが運ばれ、波蘭の人たちはみなそれをストレートであおりはじめている。
それまでこの騒ぎをだまってじっと見ていた友人も、こうなればもう我慢できないと「ウ○・セラ・ディ東京」を歌う。展覧会の主賓のこのサービスがうけないはずはない。みんなから盛大な拍手が集まった。
こうして打ち上げのパーティはいつ果てるともなく続いていったが、気づくと午前1時近くになったので、私は途中で失礼させてもらうことにした。次の日聞いたところでは、さしもの大パーティも、私が帰るとすぐにお開きになったらしい。

人間存在の希薄化

2010-11-01 00:07:34 | 東欧滞在記
その後少し間をおいて、今度は3階の特別室で、波蘭(ポーランド)側の学芸員ルイさん、友人、私の3人の公開ディスカッション(通訳はリシャールさん)。若い人を中心にまずまずの入り。B市の市長も後ろに陣取っている。

ディスカッションでは、まずルイさんが簡単に展覧会の概要を説明したのち、戦後の日本の文化状況を含めて、より詳細にこの展覧会の背景を説明するよう、私に振りがあった。
そこで私は、展覧会全体にかかわる基調として、次のようなことを指摘した。
まず最初に、一般的には、戦後の波蘭が社会主義体制に組み込まれて辛苦を重ねていたあいだ、日本は早い段階で戦後の混乱から抜け出し経済的な繁栄を謳歌していたように受け止められているかもしれないが、日本の戦後にも複雑な問題があったということ、そのなかでも大きな問題がアメリカとの同盟関係で、アメリカと同盟を結ぶことが日本が独立を回復するための必須条件だったために、日本はアメリカと安全保障条約を結ばざるを得なかったこと、この条約が10年ごとの改定だったために、60年と70年には、大規模な反安保運動があったことをアウトラインとして述べた。このあたりは、聴衆が理解しやすいように、戦後の波蘭の状況と日本の状況を比較しながら考えて欲しいという配慮をはたらかせている。
さて、1964年の東京オリンピックは、日本の復興を内外にアピールする大イベントだったいっていいが、繁栄の一方では、それを疑問視する人たちもいた。たとえば、三○由紀夫、渋○竜彦らは、そうした日本の戦後のあり方に疑問を抱いていた代表的な存在だったとも考えられる。渋○にとって、戦後の日本は力ある者が蟠踞する野蛮な時代で、それは、サド侯爵の作品世界とオーバーラップしてみえたのではないか。また三○もそのことに気づいており、それゆえ渋○のサドの翻訳をいち早く支持したのではないか(今回の展覧会では、三○が推薦文をよせた渋○による『ジュスティーヌ』の翻訳の初版も展示している)。彼らが気づいていた人間性の希薄化が一方ではサディズムの紹介という形であらわれ、もう一方で、波蘭出身のあるアーチストの紹介につながっていったのではないか。友人は、渋○によるそのアーチストの紹介にもっとも強く受けた者の一人で、それによって作風をまったく変更し、そのアーチストの影響を強く受けた作品を発表し続けて現在にいたっている。そのことが、結果的に今回の波蘭の展覧会につながっているのだが、それゆえ友人の作品も、人間の希薄化をどのように表現するかというアプローチの一つという視点からとらえて欲しいと指摘して発言を結んだ。
ディスカッションは、その後ルイさんと友人のあいだでかなり盛り上がり、ギャラリーが予定していた時間をかなり超過してしまったようだ。それでも、聴衆は熱心に最後まで聴いてくれた。

ディスカッションが済むと、今度はワルシャワから来た放送局の記者のインタビュー。主催者の方で友人の疲労を心配し、インタビュー時間を10分程度にして欲しいと申し入れたようだが、記者は非常に熱心で、結局1時間近く、いろいろなことをきいてきた。
そのなかでも最大の関心は、やはり、なぜ友人は波蘭のアーチストに注目したのか、その作品のどこが友人を引きつけたのかということだった。
話がかなりこみいってきたところで、最後に私が日本の十一面観音に言及し、その説明で記者も納得したのか、われわれはようやくインタビューから解放された。
それがどのような内容だったかというと、十一面観音の頭部には、喜び、怒り、祈り、蔑みなどの表情をもった十一の顔がついているが、それは、単に人間のさまざまな感情を一体の像に封じ込めて表現したものではなく、人間は喜んでいる時に心のどこかで怒っており、祈っているときに心のどこかで蔑むといった複雑な存在であり、人間のそうしたあり方をリアルに表現しようとすれば、結果として観音像の頭部にさまざまな顔(表情)をつけざるをえないということではないか。結果として、リアリズムにはさまざまの種類や幅があり、表現スタイルは変わっても、波蘭のアーチストや友人が求めているのは、そうしたリアリティーではないか、ということだ。

こうしてわれわれがインタビューに応じている間に、いつの間にか時間は10時をまわり、ギャラリーにはわれわれの他誰もいない。みなK市で首を長くしてわれわれを待っているとのことで、急ぎ、K市の打ち上げ会場に回った。