闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

『点と線』と『虚無への供物』ーーチーズとボージョレ付き

2007-11-29 16:42:32 | 雑記
日曜日の夕方は、大家さんの部屋を訪ねた。
大家さんのお母さんから、銀座にあった伝説的ゲイバー、ブランシックについてさらにくわしく話をきくということもさりながら、知人からルロワ社のボージョレ・ヌーヴォーをいただき、一人では飲みきれないので一緒に飲むというのがとりあえずの目的だ。お昼過ぎに大家さんに電話をいれたところ、夜はチーズを食べる予定というので、それならボージョレにぴったりと、夕食にご相伴させていただくことにした。

で、夕食。
チーズを食べるというのが具体的にはどういうことなのか、大家さんの部屋を訪ねるまで私にはよくわかっていなかったのだが、食卓をみると、ほんとうにチーズだけが用意してある。これはどういうことなのかきいてみると、フランスでは、ワイン同様チーズにも季節感があるのだが(季節によって牛や山羊が食べる牧草が異なるので、チーズの味が異なる)、大家さんは秋に出回るラクレット・チーズが大好きで、しかし日本で買うと高いので、フランスに住んでいる友人に頼んで、毎年、新しいラクレットが出回るようになるとキロ単位で送ってもらっているのだという。このあいだの日曜日は、その到着したばかりの新しいラクレットを食べる夕食だったのだ。
大家さんのところでは、このラクレットの食べ方が(それをはじめてみる私からすると)とても本格的で、卵焼き用の調理器を小型にしたような10㎝四方のちょっとした耐火調理器具(取っ手のついた鉄板)を卓上コンロの上にのせ、その調理器具に薄く切ったラクレットをのせて加熱し、それが少し溶けかかったところで、あらかじめ用意してあった茹でジャガイモにのせてジャガイモと一緒に食べるのだという。ラクレット加熱用の調理器具(器具というほど複雑なものではないのだが)は日本にないので、それ専用にスイスから取り寄せたものを長年愛用しているという。
そんな説明を一通りきいたあとで、いざ食べ始めると、ラクレットが次々に熱くなるので、それをとるのに忙しく、じっくり話すとかそういうムードではない。要するに、わかりやすくいえば焼き肉を突っついているような状態なわけで、夢中になってラクレットをとっているうちにすっかりお腹が一杯になってしまい、ボージョレもあっという間に空になった。

一息いれて雑談タイム。あらためてきいてみると、大家さんのお母さんは、ブランシックに行ったことは行ったが、銀座に出たついでに友達に誘われて喫茶店として利用していたという感じなので、店がどんな感じだったか等の細かい記憶はあまりないという。ただ先日もこのブログに書いたように、ボーイさんがきれいな人ばかりだったということを覚えているのだという。ブランシックのことは、店名やシチュエーションを変えて三島由紀夫の小説『禁色』にいろいろ描写されているのだが、戦後まもない時代は、新宿二丁目どころかゲイだけが集まる専門のゲイバーもなく、一般の人も入れる喫茶店状の店の奥で、ゲイはひっそり相手を探していたのだ。そのブランシックが、当時の代表的ハッテン場であった日比谷公園からさほど遠くない三越横の路地裏にあったというのは、場所的にはなっとくできる。もしかすると、大家さんのお母さんも、それとは知らずに三島由紀夫や多くのゲイたちとすれ違っていたのかもしれない…。

ブランシックをめぐる話が一段落したところで、テレビで推理ドラマをみるのが好きというお母さんに会わせて、松本清張原作の『点と線』(テレビ朝日)をみる。私の部屋でテレビをみることはほとんどないので、高橋克典はかわいいとかなんとか、みんなでワイワイいいながら、お気楽にドラマをみた(そういえば私は、一時期カラオケで高橋克典の歌をよく歌っていた)。
このドラマ、前日に放送された前編をみていないし、松本清張の原作も読んでいないので、最初、宇津井健が老後の高橋克典を演じているといった設定がよくのみこめなかったのだが、みているうちにそれもあまり気にならなくなって、結局最後までみてしまった。きけば、大家さんのお母さんは、『点と線』も原作が雑誌『旅』に連載されていたころ毎月読んでいて、とても夢中になったのだという。ブランシックといい『点と線』といい、大家さんのお母さんは、きっと好奇心旺盛な乙女だったのだろう。ときどき、40歳を過ぎて独身の大家さんを目の前にして、「この娘をみてるとほんと変わってておもしろくって、私、この娘を産んどいてほんとよかったとおもうんですよ」などと、さりげなく言う。
ということでドラマ『点と線』自体の感想はあまりないのだが、私が気になったのは、この原作はいつごろ書かれたのだろうということ。それは、東京オリンピックを目前に控えて日本の復興と国土再建のシンボルとして、高速道路を建設しているという事実がドラマの背景にあったからだ(ドラマは、その高速道路建設をめぐる汚職が殺人につながるという展開だ)。つまり、国家が上から必死で叫び、当時の日本人がみな夢中になったとされるオリンピック・ムードの陰に、松本清張はなにかしら暗いものを見出しているという点が、私にはとても興味深かったのだ。こうした松本清張的な関心は、大きな出来事が済んでみるとその陰に隠されてしまい、少し時間がたつと、そうした疑問を抱きながらその出来事を見ていた人の存在など忘れられてしまいがちだ。そんな陰の記憶といったものを『点と線』がしっかり書きとめているという事実を、私はとても重要だとおもった。

さてドラマが終わってから大家さんのお母さんの本棚をさっと見回すと、そのなかにさりげなく中井英夫の『虚無への供物』が混じっていることに、はじめて気がついた。
この作品は中井英夫を代表する傑作推理小説だが、単に謎解きが秀逸だというだけでなく、ドラマの背景に、ゲイやゲイが集まる場所がさりげなく描かれているところが、同性愛者だった中井英夫にとってはとても重要なことだったのだろう(そんな事情を知らずに、単なる推理小説とおもってこの作品を読んだ人にはとてもショッキングだったのだろう)と私は考えている。要するに『虚無への供物』は、クィアネスを露出させた特異な風俗小説としても読めるように書かれているところがすぐれていると私はおもう。すると反射的に、私の思いはこの小説が東京オリンピック開催と同年の1964年に刊行されたことの意味にむかっていくのだが、上にも書いたように、日本中がオリンピックに酔いしれていた頃、中井はそうした一般の雰囲気とは相容れない鬱々としたものをなかに抱えながら、『虚無への供物』を書いていたのではなかっただろうか。この小説のタイトル<虚無への供物>とは、描かれているドラマを象徴したものであると同時に、中井英夫のそうした気持ちをストレートに表現したものではないだろうかという気がする。
証言の少ないゲイ集団の歴史は、過去の<点と線>をつなげることが難しく、ゲイリブなどの活動が表面化するまで、そこになにも動きがなかったかのように記されることも多いが、たとえば『虚無への供物』は、1960年代に一人のゲイがおかれていた心理状態やゲイの風俗を知るうえで、非常に貴重な証言だとおもう(そこに描かれているゲイの風俗は、私の大家さんのお母さんが語るブランシックの雰囲気とさほど遠いものではない)。

部屋に戻ってから、ウィキペディアにキーワード<点と線>を入力し、この小説が1957年から58年にかけて『旅』に連載され、58年に刊行されたということを知った。

翻訳にみる言語資源の表出ーー『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』を読んで③

2007-11-24 14:38:50 | 愉しい知識
『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』(日本放送出版協会)の読み、再開しよう。

第2章「「翻訳」のことばを読むーー再生産される言語資源」で、著者・中村桃子さんは、知識としての言語資源は、日常会話以上に翻訳のなかに典型的にあらわれるとして、翻訳の言葉に注目する。
そこで中村さんは、『風と共に去りぬ』(大久保康雄・竹内道之助訳)と『罪と罰』(米川正夫訳)を引用し、そのなかで白人と黒人・農民では日常会話が、日本語の「標準語」と「方言」という異なることばを用いて訳しわけられていることを紹介したうえで、日本語では「標準語」と「方言」の区別は優劣をともなっているという事実をあらためて指摘する。
「「標準語」と「方言」に与えられたこのような不均等な価値に気づくと、なぜ白人の翻訳には「標準語」が使われ、黒人や農民には架空の「方言」が使われたのかを推測することができる。それは、教育ある中流階級が使う「正しい標準語」と教育のない階級が使う「劣った方言」という区別を通して、<中流白人>と<非白人・農民>の区別を表現しようとしたからだろう。日本にはない集団間の区別は、国内の区別によって表現するしかないとも言える。」(本書57-8頁)
中村さんによれば、「これは恐ろしい偏見を再生産している。ここでは、「優れた標準語」と「劣った方言」を白人と非白人に区別して使い分けることで、日本国内にも<優れた白人>と<劣った非白人>という誤った偏見をつくり出しているだけでなく、この偏見にもとづいて、さらに、「優れた標準語」と「劣った方言」の区別を再生産している」(本書58頁)ことになる。
「ここで示されているのは、日本語の言語資源が非日本語の言語資源によって補強されるという現象である。「標準語(女ことば)」と「方言」の優劣関係が、「白人言語」と「非白人言語」の優劣関係によって必然性を獲得する。非日本人の発言を通して、<日本人>の中の区別が再生産される。翻訳は、言語資源に与えられた差別関係がグローバルに補強される場なのである。」(本書59頁)

しかし言語資源は不変ではない。いやむしろ、言語資源は時代とともにどんどん変化していく。中村さんはそれを、小説『風と共に去りぬ』の1957年版の翻訳(大久保康雄・竹内道之助)と1994年版の映画シナリオの翻訳(大場啓蔵・森田明春・竹村憲一・田邊直美)を比較することで確認する。この比較はおもしろいので、本書により、その違いの一部を再現してみよう。

 小説版「あなたは、僕がこれまで一緒に踊った女性の中で、一番美しい踊り手です」
 シナリオ版「今まで俺の腕に抱かれて踊った女じゃ、君が一番きれいだ」

これは男性主人公レット・バトラーのセリフだが、小説版とシナリオ版の違いを、単に字幕は少ない文字でセリフを伝えなくてはならないからとすることはできない。なぜなら、副主人公のアシュレーは、小説版でもシナリオ版でも一貫して「ぼく」という自称詞を使っているからである。

 小説版「ぼくはメラニーと結婚することになっている」
 シナリオ版「ぼくはメラニーと結婚するんだ」

中村さんは、この違いを、小説版(1957年)とシナリオ版(1994年)では、男性自称詞の社会的機能が変化したためとみる。つまり、小説版刊行後の1960年~70年代に「ハングリーで闘志むき出しのキャラクターがヒーローとして求められる」ようになると、「ぼく」と「おれ」によってつくり出される区別が大人の男性に適用され、「男性のセクシュアリティにも区別が生じる。レットを「官能的」だと描写することは、<おとなしい紳士>よりも<無頼漢>のほうが性的魅力があるとみなすことである。」(本書66頁)
しかし1980年代に言語資源はさらに変化する。「上下関係にもとづいた「おれとおまえ」の密着した親しさは、かっこ悪くなっていく」からである。この結果、「言語資源に、上下関係に加えて微妙な親疎関係を表現する機能が期待される」ようになる。それが敬語の使い方の変化である。80年代になると、学生の日常会話に、「お約束のプリントです」「どちらから、通っていらっしゃるんですか」などの表現が出現し、「従来、上下関係を表現する言語資源であった敬語が、ここでは相手と距離をおくために使われて」くる。
こうした言語資源の変化は、すべて日本国内で生じているわけだが、「日本国内での人間関係の変化が、言語資源を通して、国外の人間関係の描写に投影」されると、翻訳でも新たな事態が生じる。
「国内で上下関係よりもクールな距離感や親疎関係が重視されるようになったために、あたかも国外でも同様の変化が起こったように、国外の人びとの発言も訳し分けられるようになったのである。言語資源は、日本人が国外の人びとを日本語の枠組みでしか理解できないようにしている足かせにもなっていると言える。」(本書78頁)
これは痛烈な指摘だ。

本章では、中村さんは翻訳、新聞、漫画などから多様な引用を駆使して言語資源に生じる変化を分析しており、このブログで紹介したのは、その引用のほんの一部にすぎない。この紹介を読んで興味をもたれた方は、直接中村さんのオリジナルにあたることをお薦めする。その方が、この拙い抜粋紹介よりもはるかにおもしろくまた説得力にとむことは疑いがない。

   ☆    ☆    ☆

最後に本章の感想と私見を一言。
翻訳にみられる安易な言語資源の使い方に対する批判、たしかに中村さんが指摘しているとおりであり、最後に引いた理解のカテゴリー論もたしかにそのとおりであろう。しかしそれは、翻訳の読み手からする批判であって、訳す側からすると、日本語の言語資源をまったく用いない翻訳は、かなり平坦なものになってしまうのではないかという懸念がある。したがって、自分が外国語を翻訳する場合には、中村さんの批判を意識しながらも、ある程度、日本語の言語資源に応じた翻訳をせざるを得ないような気がする。
またたとえば、中村さんは、とりわけ「男ことば」「女ことば」に注目して日本語による翻訳のあり方を批判しているわけだが、日本語と外国語のあいだには、それ以外にも、時制、単数・複数の表示など、構造上の大きな違いがあり、外国語を日本語に翻訳する場合に一つの表現に対応したさまざまな表現が生じるだけでなく、逆に、日本語にはあらわれてこない外国語独特の表現の違いもある。
この違いを時制を例にして説明すると、最も極端なのは、中国語と日本語および印欧系言語の違いであろう。中国語の動詞には、基本的に人称変化がないだけでなく、時制の変化も存在しない(特に必要な場合は助詞を補う)。このため中国語の動詞(文章)は、初心者にはつねに現在の状態を示しているようにおもわれる。しかし実際の会話や文章では、中国人は、状況に応じてその文が過去を指しているか、現在(もしくは未来)を指しているかを、暗黙のうちに補って理解しているのだ。その永遠に現在を指しているような言語を日本語に置きかえるとき、翻訳の文章で現在形しか使わないとしたら、その翻訳はかえってミス・リードと批判されてしかるべきであろう。ここで有名な漢詩の表現を例にとると、杜甫の「国破山河在」という詩句は、無時制的表現によって、「国は破れているが山河は在る」という事態(現在)と「国は破れたが山河は在る」という事態(過去との逆説的因果関係)を同時に示していると考えられるであろうし、文脈によっては、「国は破れたとしても山河は在るだろう」という未来の事態の表現でもありうる。これらすべての時間的含意を、構造の異なる日本語や印欧系言語に置きかえることは不可能に近い。ただし日本語でも、たとえば到着する電車を見ながら、「ほらほら、電車が着いたよ」と表現することも「ほらほら、電車が着くよ」と表現することも可能であり、時間認識と時制表現には、正確な対応関係だけでははかれない多面的な要素が含まれているようにおもう。あるいはむしろ、時制の区別や時間認識は、人間の認識に本来的に備わったものではなく、言語とともに立ち現れてくる性質のものだというべきであろうか。
ゆえに翻訳とは、一般的に考えられているような無色透明なものではなく、本来的に「日本人が国外の人びとや事象を日本語の枠組みで理解」するようにする一種の創造行為であるととらえ、その限界のなかで翻訳に接するべきではないかとおもう。

お節介な?チョムスキー

2007-11-21 16:23:04 | テクストの快楽
アメリカの言語哲学者ノーム・チョムスキー(1928年~ )がニューヨーク・タイムズ通信社(『ニューヨーク・タイムズ』の発行元と同じ企業グループ内の別部門)に、2002年9月から2007年3月にかけて署名入り原稿として書いた論説記事をまとめた『お節介なアメリカ』(大塚まい訳、筑摩書房<ちくま新書>、原題『Interventions』)を読んだ。ニューヨーク・テロ事件一周年直前に書かれた記事からイラン問題をテーマとしたことし三月の記事まで、一貫してアメリカの外交政策を批判した政治論説集だ。最初の記事を読めばすぐにわかるのだが、チョムスキーの発言が注目されるのは、対イラク戦争(戦後処理)の失敗に導き出されて結果遡及的にアメリカの外交政策を批判しているのではなく、対イラク戦争開始以前からすでにイラク問題介入(intervention)を批判している点であり、またユダヤ人でありながらイスラエル政府の強硬政策(およびその背後にいるアメリカ政権)を強く批判し、政治的にはPLOやヒズボラを支持している点であろう。『お節介なアメリカ』の論説は、これら中東問題とラテン・アメリカの自治問題に関する発言を核とする。アメリカを代表する知識人の一人であるチョムスキーが、本書に記されているような政治倫理・政治論理をもっていることを知り得たことは、私にとり非常に有益であった。
なお、本書前書きによれば、本書で紹介されているチョムスキーの論説は、直接的にはアメリカ人に向けて書かれたものであるが、『ニューヨーク・タイムズ』を含めたアメリカの大手一流新聞からは掲載を拒否され、アメリカではほとんど読まれていないということである。
以下、本書のなかから注目すべき発言を二つ引用し、紹介する。

    ☆    ☆    ☆

まずは「あとがき」に記された本書全体を貫く基本視線である。
「アメリカの外交政策のおおまかな全容に関しては、明確なドクトリンがあり、これが西側のジャーナリズムや学界、さらには政治評論家の間にまで浸透している。その主題は「アメリカ例外主義」である。つまり、アメリカには、「超越的な目的」があるため、いまも昔も他の大国とは違う存在なのだという主張だ。「超越的な目的」とは、アメリカが「国内」はもちろん世界各地でも、「自由の平等を確立」するというものである。その根拠は「アメリカがその目的を擁護・促進していく活動の舞台となる領域は、いまや世界全体に広がってきている」からだという。
 私がいま引用した主張は、その出所を見ると非常に興味深い。これはハンス・モーゲンソーの言葉なのだ。しかし、この引用はケネディ政権時代、つまりこの上なく残虐なベトナム戦争が勃発する前のものである。冒頭で引用したのは、1970年、モーゲンソーが思想的にもう少し自己批判的な段階に移った時代の発言からのものだ。
 最も高度な知性や道徳的高潔さを備えた人物でさえ、「例外主義」の立場を支持したことがある。ジョン・スチュアート・ミルの古典的な論考「不介入主義についての小論」を検討してみるとよい。
 ミルは、イギリスが醜い世界に介入すべきか、それとも、自国のことだけを考え、野蛮人たちには好き勝手に残虐行為を続けさせておくべきか、という疑問を投げかけている。彼の結論は、微妙なニュアンスを含み複雑だが、結局はこうだ。イギリスは、他国に介入すべきであるーー結果としてヨーロッパ諸国から「誹謗中傷」や嫌がらせを受けることになるとしても、だ。彼らは、イギリスという国が自国のためには何ひとつ求めず、他国の利益のためだけに行動する「世界でもたぐいまれな存在」であることを理解できないため、「低劣な動機を探ってくる」ことだろう。[だが]イギリスは無私無欲で、介入にともなう犠牲を払いながら、そこから得られる利益を他国と平等に分配するのである。
 例外主義は、ほぼ普遍的に見られるもののようである。もしチンギス・ハンの発言を記録した資料が残されていたら、そのなかにもまったく同じような要素が発見されるのではないかと私は思っている。」(本書281-2頁、本書全体の後書きとして載せられた2006年7月13日付けの論説「権力の「偉大な精神」」より)

ここで述べられている「(政治的)例外主義」とは、要するに、自国は不謬であるとの暗黙の前提のもと、自国の論理を基準にして他国の政治に対する批判と介入は積極的に行うが、同じことを自国に対して行うことを許さないという態度といっていいだろう。チョムスキーが例外主義の存在を紹介し、アメリカの対外政策が例外主義的だと述べていることは、とりもなおさず、彼が不介入主義を支持するということの原理的な表明であり、それゆえチョムスキーは、対イラク戦争開始以前からこの戦争(介入・お節介)を強く批判していたのだ。彼によれば、他国の自立的な主権を尊重し不介入主義を貫くことこそが国際関係における民主主義の原点であり、他国の政治に介入した時点で、アメリカは民主主義国家の資格を喪失していることになる(外国の政治に対するアメリカの干渉は、結局、自国の権益擁護のための干渉を「民主主義」を守るためと言いつくろったものに過ぎないことを、チョムスキーは本書の中で繰り返し強く批判している)。
また以上の基本視線を前提にして読むと、ことし三月に発表された本書の最終記事は、アメリカ発のイラン問題に関する一般メディアの記事をどのように読むべきかという点で示唆にとむ。

「米国政府は、イランを国内的に不安定化させようと画策しているようだ。イランの民族構成は複雑であり、国民の多くは非ペルシャ系である。分離主義的な趨勢もあり、米国政府はたとえば、イランの石油資源が集中する湾岸地域のフージスターン州ーーその住民の大多数はアラブ系で、ペルシャ系ではないーーで、そうした趨勢を加速させようと動いている可能性がある。
 武力威嚇をエスカレートさせることは、イランを経済的に締めつけようというアメリカの取り組みに他国も加担するよう圧力をかけるのに役立つ。これに関しては[とくに]ヨーロッパでうまくいく見込みがある。他に予測される結果としてはーーおそらくは、これはねらいどおりになるだろうがーーイランの指導層がなるべく厳格で、抑圧的になるよう仕向けることだ。これが国内の混乱と、さらには抵抗を助長し、同時に、米国政府の作戦に激しく抗議する勇気あるイラン人改革者たちの努力を台無しにすることにつながる。また同時に、指導層を悪者扱いすることも必要だ。西側諸国では、イラン大統領マフムード・アフマディネジャドが、大胆な発言をしたら、それがどんなものであれ、いいかげんな翻訳でメディアの見出しになってすぐに広まる。しかし、よく知られているように、アフマディネジャドには外交政策の実権はない。実質的に実験を握っているのは、彼の上司である、最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイ師だ。
 アメリカのメディアは、ハメネイ師の発言をーーそれが融和主義的なものだった場合にはとくにーー無視する傾向がある。たとえば、アフマディネジャドが、イスラエルは存在してはならないと発言したときは広く報道される。しかし、ハメネイ師が、イランは「最も重要なイスラム-アラブ問題、つまり、パレスチナ問題に関しては、アラブ諸国と見解を同じくする」と発言したときは、まったく無視される。ハメネイ師のこの発言の趣旨は、イランがアラブ連盟の立場ーー二国共存方式という、国際的コンセンサスにもとづく、(そしてほとんどアメリカとイスラエルだけが拒否し続けている)イスラエルとの完全な関係正常化ーーを受け入れるということのように思われる。」(本書273-4頁、2007年3月5日付けの論説「アメリカとイランの冷戦」」より)

アメリカ発のイランおよびイスラーム関係の報道に関して、私は、本書を読む以前からそれだけで何らかの態度決定をすることはできないと基本的に判断を保留していたのだが、本書を読み、そうした保留の必要性をさらに強く感じるようになった。私は、イランの政治行動をすべて肯定するものではないが、であればこそ、それに対する批判は、イスラーム法に基づくイランの論理にも耳を傾けたうえで慎重に行うべきだとおもっている。

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ところで、イスラーム問題全般について、広い意味での東洋文化、東洋思想を取り巻く問題のひとつ(脱西洋中心主義問題)として私はかねてから強い関心をもっており、近年のさまざまな政治問題もその例外ではない。そうした関心のなかで、最近、『神の法vs.人の法ーースカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』(内藤正典、阪口正二郎編著、日本評論社、2007年)、『神の棄てた裸体ーーイスラームの夜を歩く』(石井光太、新潮社、2007年)の二冊の本を購入し、ちらちら眺めてはいるのだが、このところクィア学の関連で読まなくてはならないと感じている本が多く、どちらもすぐには読めそうにない。関心をもっているということで、とりあえず書名のみ記しておく。
また、チョムスキーの著作を読んだのは、実はこの『お節介なアメリカ』が最初だということも、ついでながら記しておこう。
近現代の言語思想というと、私は、スイスの言語哲学者ソシュール(1857年~1913年)の思想に強い関心をもっており、丸山圭三郎氏の著作をはじめとするソシュールの研究書はかなり読んでいるつもりだが、チョムスキーの言語思想には不案内で、この『お節介なアメリカ』が、チョムスキーの思想全体のなかでどのように位置づけられるのかを述べるには不適格でありその資格がないということをお断りしておく(これはつまり、本書『お節介なアメリカ』についての私の読みは、かなり強引で一面的なものである可能性をもつということだ)。

歴史学をとおし、「人のつながり」を考える

2007-11-19 16:02:02 | 雑記
昨日は、寓居近くの大学で史学会という歴史研究会の大会があり、研究発表、シンポジウム等が行われた。寓居から歩いていけるということで私もその一部を聴いてきたので、その印象と私の失敗談などを少し書いておきたい。

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史学会の大会では、日本史だけでなく、西洋史、東洋史でもいろいろな研究発表があり、また日本史の方も、古代、中世、近現代と分かれて、研究報告が行われた。私の関心は日本中世史にあるので、その最新の研究成果を聴くということ、より具体的には、私の友人が報告者の一人になっており、その報告を聴くという目的で、いつもより早めに起きて会場となる大学に向かった。
部屋を出る前に、ネットで中世史の分科会が行われる校舎を確認しておいたので、迷わず無事時間前に会場にたどりついた。会場となる校舎に入ると、会場前の廊下には歴史に興味をもっている友人が数人先着しており、会場はこの教室でいいんだよねと確認して大教室に入る。
ところがである。研究報告を聴けども、聴けども、待っていた友人の報告が行われない。四番目の報告を聴いているうちに、さすがにこれはおかしい教室を間違えたのではないかと気づき、報告途中に教室を出る。外でもう一度確認すると、私が聴いていたのは実は古代史の研究報告で、中世史の報告は向かいの側の教室だったとわかる。後の祭りである。
すでに中世史の研究報告を終えていた友人に、教室を間違えたために報告を聴くことができなかったと平謝りに謝り、後は、他の友人たちと雑談し、みんなで学食に行ったり、構内の池を散策したりして、それなりに楽しく過ごした。
しかし途中から、これではなんのために研究会に来たのかわからない、このままではいけないと反省し、中世史シンポジウムの最後に行われた報告に対するコメントと質疑応答だけでも聴くことにし、会場に戻った。
ということで、私が聴くことができたのは中世史シンポジウムのほんの一部に過ぎないが、それでもコメント自体とても興味深いものだったので、以下、簡単にその要点を記しておきたい。

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中世史シンポジウムのテーマは、「「人のつながり」の中世」。このテーマにそって、「中世の家と朝廷社会」(遠藤珠紀)、「国人・侍の一揆とその歴史的展開」(呉座勇一)、「中世僧侶集団の内部規範」(大塚紀弘)の三つの報告が行われた(私は未聴)。この報告に対するコメンテイターは、桜井英治さんと、岸本美緒さん。桜井さんは日本史研究者で、専門家の立場から、いくつかの疑問を指摘した(念のため記しておくと、報告そのものを聴いていないため、私にはこのコメントの意図がうまく把握できなかった。しかし私に把握できなかったからといってこのコメントが的はずれだったというものではない。これはあくまでも当日の私の理解の問題である)。続くコメンテイターの岸本美緒さんは、中国の明清時代史の専門家で、中国史の立場と比較しながら、三報告への疑問を提出した。これまで私は、中国史の専門家の考え方を聴く機会がほとんどなかったので、この岸本さんのコメントは、非常に新鮮で有意義なものとおもえた。
よって、このメモが記すのは、上に書いたようないくつもの限定をつけたうえでの岸本コメントの要旨と、それに対する応答のいくつかである。

岸本さんは、明清時代の中国というと中央集権的な皇帝独裁国家のイメージが強いとおもうが、一歩その内面に踏み込んでみると、実はルーズな専制国家であったという指摘からコメントをはじめた。そのルーズという中味は、まず社会の基盤として村といったものがなく、そもそも村の境というものがはっきりしないという点である。つまり、中国の専制政治という場合、中央の権力は強力だが、身分秩序や人間の支配というかたちでその権力が社会の末端まで到達することのない、曖昧な面をもつ政治だということだ。そうしたなかで中国には、宗族(そうぞく)と呼ばれる一人の祖先から出た子孫という仮定のもとに成立している団体・社会集団があったが、これはあくまでもパーソナルな団体であり、政治の下部単位とはならなかった。その宗族という視点からみると、日本中世の社会集団はかなり特異なものにおもえるが、そこから出てくる問題は、人はなぜ集団をつくるのか、どういう戦略をもって集団をつくるのかということであり、また、人間の結合が社会の一般秩序・全体秩序をつくれるのかということである。
また、「全国的な秩序づくりの原点として中国には「約(郷約)」というものがあったが、日本の一揆の場合、一揆の範囲は限定されていたのか、それとも可能性としては全国的なものをめざす拡張する運動体であったのかが問題ではないか。いずれにしても、約や一揆等の社会集団が成立した場合、どうしてもその内部に意見の違いが生じるとおもうが、その違いを一揆集団はどのように処理していたのか。集団内で意見の違いを解決する手段があったのか。そのあたりを具体的に知りたい」と質問した。
こうした見解と疑問に対し、報告者の呉座さんは、自分の報告の狙いは、最終的には一揆はなぜ人を結び付けることができたのかを考えることにあったとしたうえで、実際の一揆においては主導者と被主導者があり、すべての構成員が平等の立場で一揆に集結していたとはいえないということ(意見の違いは、主導者の側で調整していた)ことを認めた。
これと関連して、コメンテイターの桜井さんは、一揆をそれに集結した人の日常性のなかでとらえるか、非日常でとらえるかで、問題は違ってくるのではないかと発言した。
それを受けて呉座さんは、「日本の一揆の場合、その内部で身分的なものがなぜ超えられなかったかということに問題があったとおもう。それをつきつめていくと、社会の上にいかなくてもそこそこの生活で満足する人がおり、必ずしも上昇指向の人間ばかりではないということになるのではないか」という主旨の発言をした。
また、もう一人の報告者である大塚さんは、「(仏教界から人のつながりという問題を考えた場合、)仏教という汎世界的なフィルターをとおし、それが各国別にどのように受け入れられていったかをみることによって、その違いから、各社会集団の特徴がみえてくるのではないか」と述べた。

以上、全体として、「人のつながり」ということを歴史的に考えた場合、どのあたりに問題があるのかを明らかにした、有意義な質疑応答だったようにおもう。

ことばとアイデンティティーー『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』を読んで②

2007-11-16 16:26:03 | 愉しい知識
まずは『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』の第1章「ことばとアイデンティティ」を詳細に読んでみることにしよう。

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中村桃子さんは、冒頭で朝日新聞の記事「DO科学」に出てくるののちゃんと藤原先生の会話を例に引いて、日本語には文末に使われる「ね・わね・わ・よ」などの典型的「女ことば」と「男ことば」が存在することに簡単にふれたのち、ことばとアイデンテイティに関して「本質主義」と「構築主義」の二つの考え方が存在することを紹介する。
ことばとアイデンティティに関する本質主義とは、「アイデンティティをその人にあらかじめ備わっている属性のようにとらえて、人はそれぞれの属性にもとづいて言語行為を行なうという考え方」(本書26頁)である。「たとえば、アイデンティティのうちでジェンダーにかかわる側面を本質主義にもとづいて表現すると、人は<女/男>というジェンダーを「持っている」、あるいは、<女/男>というジェンダーに「属している」と理解される」(本書26頁)。しかし実際には、女性も男性もそれぞれの状況に応じてさまざまに異なる言葉づかいをしており、とりわけ、実際の場面で女性たちが用いている言葉づかいは、さまざまな要因によって多様に変化している(すべての女性がつねに藤原先生のように話すとはかぎらない)。したがって、「多様に変化する女性の言語行為から、自然に「女ことば」という一つの言葉づかいが形成されたとは考えられない」(本書27頁)というのが中村さんの見方だ。
それでは構築主義とはどのような考え方、捉え方であるのか。「そこで提案されたのが、アイデンティティを言語行為の原因ではなく結果ととらえる考え方である。私たちは、あらかじめ備わっている<日本人・男・中年>という属性にもとづいて言語行為を行なうのではなく、言語行為によって自分のアイデンティティをつくりあげている。(中略)ジェンダーでいえば、<女/男>というジェンダーを、その人が持っている属性とみなすのではなく、言語行為によってつくりあげるアイデンティティ、つまり、「ジェンダーする」行為の結果だとみなすのである。そして、私たちは、繰り返し習慣的に特定のアイデンティティを表現しつづけることで、そのアイデンティティが自分の「核」であるかのような幻想をもつ」(本書27頁)。このブログの記事でいえば、ベルイマンの映画作法はまさに本質主義的であり、ブレッソンの作法は構築主義的であるといえるとおもう(ブレッソンは、「幻想」でしかないアイデンティティの問題にほとんど拘泥しない)。この二つの考え方の違いがあらわれてくるのは、実は、言語行為という局面には限らないのだ。ゆえにそれはジェンダー(社会的性役割)にも、あるいはジェンダーにこそ強く反映される。中村さんは続ける。「哲学者ジュディス・バトラーは、「ジェンダーとは、身体をくりかえし様式化していくことであり、きわめて厳密な規則的枠組みのなかでくりかえされる一連の行為であって、その行為は、長い年月の間に凝固して、実態とか自然な存在という見せかけを生み出していく」(『ジェンダートラブル』竹村和子訳)と指摘している」(本書27-8頁)と。
ところで直前に、「とりわけ、実際の場面で女性たちが用いている言葉づかいは、さまざまな要因によって多様に変化している」と書いたが、それがなぜ女性たちが用いている言葉づかいに典型的にあらわれてくるかというと、中村さんによれば、「女ことば」と「男ことば」は非対称的な構造をもっているからだ。つまり、「「女ことば」は大人の女性一般のアイデンティティを表現するために利用することができる標準的な言語資源であるが、「男ことば」は特定の<男性性>と結びついているようだ。その結果、「女ことば」は、女性が実際に使っている言葉づかいだと考えられがちなのに、「男ことば」は、実際の男性でもスポーツなどの特別な場面で使う言葉づかいだとみなされるという違いが生まれる」(本書39頁)。さらには、「私たちが、「女ことば」を「女が話している言葉づかい」だとみなすのは、「女ことば」が、たんに女性の言葉づかいであるばかりでなく、女性の言葉づかいの規範、「女はこのように話さなければならない」というルールのようなものとして認識されているからである。「女ことば」は女らしさに不可欠な規範とみなされているが、男性はつねに「男ことば」を守らなければいけないとはみなされていない。その証拠に、女子は「女の子なんだから、もっとていねいな言葉づかいをしなさい」と注意されることがあるが、男子は「男の子なんだから、もっと乱暴な言葉づかいをしなさい」とは注意されない。不思議なことに、「女ことば」という言語資源には、「女はこのような言葉づかいをしている」という知識だけでなく、「女はこのように話さなければならない」という規範が含まれているのである」(本書38-40頁)。
そこで中村さんは、ミッシェル・フーコーが『知の考古学』に記している、言説とは、「言説によって語られる諸対象を体系的に形成=編成する実践」であるという指摘を手がかりにして、言語資源を「知識」としてとらえ直すべきであるとする。
すると、「標準語」には隠れた男性性が付与されており、「女ことば」は、「標準語」の女版、「標準語」の亜種として位置づけられていることが明らかとなり、(一種の丁寧語である)「女ことば」に対応するのは、「(男の)標準語」であることがわかってくる。また、「「男ことば」は、「標準語」の中でも特別な<男性性>を表現する資源として機能する」(本書45頁)ことも理解されてくる。
またこのように、一種の知識である「言語資源」という視点から言語行為をみていくと、「私たちの言語行為は言語資源と結びついているカテゴリーからのずれを生じており、この「ずれた行為」が画一的なカテゴリーと結びついた言語資源を変革する可能性を前提としている。日本語を言語資源という視点からながめることは、言語資源と言語行為がお互いに影響しあいながら変化していくダイナミズムを明らかにする道を開く」(本書47頁)という。

言葉、制度、ジェンダーについて考えるーー『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』を読んで①

2007-11-15 16:21:29 | 愉しい知識
10月27日に開かれたクィア学会のシンポジウムを聴講して以来、ジェンダー、セクシュアリティ、言葉、制度といった問題が私の頭のなかをぐるぐる渦巻いているのだが、そうした混乱した状態のなか書店で『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』(中村桃子著、日本放送出版協会<NHKブックス>、2007年10月30日刊)という本を見つけ、さっそく読んでみた。そして頭のなかの混乱がかなり整理されたのを感じた。
私のなかには、以前から「言葉=制度」と理解すべきではないかという考え方があり(これに関しては小ブログ内のフーコー『言葉と物』についての記事をご参照ください)、それがジェンダーやセクシュアリティの問題とどうつながっていくか、つなげていったらいいか、自問があった。そうしたなかでクィア学会の開会の辞(クレア・マリィさん)やシンポジスト・清水晶子さんの発言をとおし、「ジェンダーやセクシュアリティは制度である」という考え方の存在を知り、まさしく目から鱗が落ちるおもいがした。ただそこで、二つの考え方をどう接合したらよいかということが私のなかに生じた混乱だったのだが、本書のなかで、中村桃子さんは、「言葉という制度がジェンダー」を生み出すのだと明言している。それを読んで、混乱しながら自分が考えていたのは、まさにこういうことだったのだと納得した。
また同時に、日頃、自分では男女差につながる考え方や表現はなるべくしないつもりでいたのだが(このブログで「私」が選んでいる文体は、可能なかぎり透明なものを選んだつもりでいた)、本書を読み、それでもやはり、自分の考え方や表現は男目線にしばられていたのだなと強く反省した。日本語において男女を表現する言葉は非対称であるという中村さんの指摘は新鮮かつ鋭いとおもう。
そこで、以下、私の関心を軸にして、本書の内容を数回にわたって紹介してみたい。なお本書では、あらかじめ、ジェンダーは「社会的性役割」、セクシュアリティは「性的欲望・性的指向」と定義されているので、この二つの概念(用語)に関しては、その定義に従う。

さて、あとがきのなかで中村さんがみずから指摘している本書の新しさは次の四点。これに関しては、おおむねその狙いどおりの記述がなされているのではないかと肯首できる。

①日本語をセクシュアリティの側面から見る。
②日本語を消費社会の側面から見る。
③日本語には、特定の集団に特権を与えているイデオロギーとしての側面があると主張する。
④「イデオロギーとしての日本語」という考え方から、「正しい日本語」に縛られた息苦しい状況を打開する方策を導き出す。

またとりあえず、本書全体の構成は次のとおり。

はじめに

第一部 「わたし」はことばでつくられる
 第1章 ことばとアイデンティティ
 第2章 「翻訳」のことばを読むーー再生産される言語資源

第二部 日本語に刻まれた<性>
 第3章 セクシュアリティと日本語
 第4章 変わりゆく異性愛のことばーー「スパムメール」「スポーツ新聞」「恋愛小説」

第三部 創造する言語行為
 第5章 なぜ少女は自分を「ぼく」と呼ぶのか
 第6章 欲望を創造するーー消費社会と<性>
 終章 「日本語=伝統」観の閉塞を超える

あとがき

【参照】 『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』(日本放送出版協会サイト内ページ)
http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=00910962

アジア的クィアについて考えるためにーー中国の歴史から学ぶ

2007-11-10 18:41:53 | テクストの快楽
このところたてつづけに中国史の本を読んだ。講談社版の「中国の歴史」シリーズのなかから、06巻『絢爛たる世界帝国』(気賀澤保規)、07巻『中国思想と宗教の奔流ーー宋朝』(小島毅)、08巻『疾駆する草原の征服者ーー遼、西夏、金、元』(杉山正明)、09巻『海と帝国ーー明清時代』(上田信)およびそれと比較する意味で中央公論新社版の「世界の歴史」シリーズのなかから7巻『宋と中央ユーラシア』(井原弘、梅村坦)だ。私はもともと日本中世史に関心をもっており、日本史研究会という研究会等の会員でもあるのだが、日本中世史と比較する意味で中国の歴史をきちんと勉強してみたいとおもいつつそれが先送りになっていたのを、とりあえず手許のシリーズ本を読むことで果たしたという感じだ。
さて、日本史の叙述に接するのと同じ感じで中国史の叙述を読みはじめて、まず最初に気づいた大きな違いは、日本史の場合、その対象が非常に明確で、とりあえずは対象とする時代になかが起こったのかという事実を扱う「客観的学問」であるという理解が一般的であるのに対し、中国史といった場合、なに(どの地域)をもって中国史とするのかという対象が自明ではなく、まず対象確定に多くの言葉を費やさなくてはならないということだ。つまり、いわゆる「中国」は、たとえば、唐、宋、元、明、清といった代表的王朝をとっただけでも、領域が非常に異なるし、構成民族も違ってくる(中華本土に限定された宋と世界帝国といえる元で、その違いはもっとも顕著となる)。そこで現在の中国史叙述の主流的な考え方では、便宜的に、中華人民共和国の領域を「中国」と規定し、その地域およびそこに住む人々の歴史を対象とすることになるが、チベットや新彊が「中国」という通念と一致するかどうかは議論が残るところだし、中華人民共和国の領域を基準にして、その東北地域(旧満州)の人々がたてた清王朝は(国内の)少数民族支配の王朝で、モンゴル人がたてた元は(国外の)異民族支配の王朝だといってみたところで、その定義に有意が違いがあるように、すくなくとも私にはおもわれない。逆に、宋や明は、支配領域も比較的狭く、文字通りの中国王朝と呼べそうな気がするが(伝統的な中国史の叙述はそのようになっていた)、ではその時代のチベットや西域について記さずに「中国史」と呼べるのかというと、事情はそう簡単ではない。つまり、日本史と比較した場合、中国史という学問は、対象確定の段階で論者の判断がはいりこまざるを得ず、イデオロギー性のつよいものになってくる。逆にいえば、歴史学がほんらいもっているイデオロギー性が、日本史という学問では見えにくいのに対し、中国史はそれをまざまざと見せつけるともいえるとおもう。
(ちなみに、厳密にいえば、日本史にも同様な問題が存在しており、最近は琉球や蝦夷地を日本史のなかに組み込んで叙述すべきだという主張が行われるようになってきている。しかし少なくとも中世に関していえば、琉球や蝦夷地に関する史料はきわめてすくなく、かつそれが中央の王権に及ぼした影響も非常に限定されているので、こと日本中世史に関しては、琉球や蝦夷地について触れなくてもカタチにはなるという事情がある。)

さてそうしたなかで、とりあえず、「中国」の歴史について、いくつかの事実を知り、また新たな視点を得のだが、個々の事実(たとえばユーラシア大陸全体を一つの有機的なかたまりとしてみたときにあらわれている銀とモノの交換の動き)に関しては、それらの事実に関する知識が刺激的だったことを記すにとどめ、ここでは、このブログにとって重要な一つの指摘を引用し、紹介しておきたい。それは、小島毅氏による宋の思想に関するものだ。

前後する唐や元と異なり、日本では、宋[960年~1279年。1127年に女真(満州)族国家・金の攻撃をうけて南遷(南宋)。宋の時代は、日本でいえば平安時代中期から鎌倉時代中期にあたる]の明確なイメージがつかみにくい。これはまず、宋の対外活動が限定されており、とりわけ遣唐使、元寇といった日本との明確な関係ほとんどないことに起因すると考えられるが、いずれにしても宋のイメージは、強大な王朝からはほど遠い。また、広大な「中国」の一部しか支配しえなかった宋朝に関しては、その歴史は、同時代の中国史の一部に過ぎないという主張もある(「中国の歴史」シリーズのなかで、杉山正明氏は、キタン(契丹、遼)中心の叙述を提案している)。したがって小島毅氏は、宋が限定付きの中華国家に過ぎないことを指摘したうえで、自身の専門領域である思想史研究の成果をいかし、小さな王朝であった宋朝の歴史、社会、思想を明らかにしようとしている。するとそこからは、つねに領域外を意識することで漢人王朝としてのアイデンティティを確立していった宋の政治文化のあり方が鮮明にみえてくる。
そうした政治文化がその後の「中国」の排他的アイデンティティに結びつき、一種の停滞をもたらした側面は否定できないが、それでも小島氏は、宋文化は現代にとって重要な意義をもつとする。それは、端的にいえば、宋文化は印刷、軍事、医学などの分野で独自の合理思想を展開していたということであり、合理主義(理性主義)を西洋文明の専売特許とみなし、東洋的思惟を非理性的とすることへの批判である。
「文明の転換点に来ているからか、近年なにかと過去の見直しがはやっているが、それらの多くが対象にしている「過去」は、たかだかこの百数十年のことにすぎない。ひところもてはやされたポストモダンの思潮が結局は近代主義の変種にすぎなかったのと同様に、西洋的な枠組みを自明の前提とした上での問題設定というのでは底が浅い。より根底的な見直しは、これとは異質な知の体系に対する認識を踏まえて可能であろう。自分が属する文明を独善的に称揚し、異質な他者を排除して「文明の衝突」を唱えるような思考の堕落に見舞われないためにも」(小島毅氏)

つまり、「社会の多様性と異種混淆性の保持」「複数の知の体系の共存」という最近私が考えている問題を解くための鍵のひとつ、さらには「アジア的なクィアのあり方は存在しないか」という疑問に対するヒントのひとつが、中国史とりわけ宋の歴史にはありそうにおもえるのである。

瓢箪からブランシック、もしくは類は友を呼ぶ

2007-11-07 16:26:33 | 雑記
私の住んでいる賃貸マンションの大家さんのお母さん(80歳超)には、ときどきほんとうに驚かされる。先日の夜、気分転換に大家さんの部屋を訪ね、大家さん、お母さんと気軽な雑談をしたのだが、今日はここでその一部を再現してみたい。

   ☆    ☆    ☆

私「このあいだの台風の日、おかまの学会ができるというのでいってきましたよ」
大家さん&お母さん「何それ?」(ものすごく関心ありげ)
私「おかまというか、専門用語ではクィアっていうらしいですけど、ともかく東大におかまとかの変態を研究する講座ができて、そこの先生や他の大学の先生があつまって、まあともかくこれから一緒におかまを研究していこうって学会みたいでしたよ」
大家さん&お母さん「ふ~ん…」(やはりものすごく関心ありげ)
私「でね、開会の言葉をクレア・マリィさんていう津田塾の先生が読んだんですけど、中味もりっぱだったし、それに日本語がとてもうまくて感心しちゃった。ときどき言い違いもあったけど」
お母さん(津田塾出身)「津田にもそんな先生がいるの?」
私「うん、どうもオネェ言葉を研究してるみたいですよ。津田でオネェ言葉を教えてるんじゃないですか(笑)」
大家さん「でもオネェ言葉って不思議よねえ。日本語はともかく、男女の言葉の違いがあまりない英語やフランス語もオネェ言葉ってあるんでしょ。私はよくわからないけど」
私「フランス語は形容詞を女性形にすればそんな感じになるとおもうけど、英語の方はどうなるんでしょうねえ」
大家さん「不思議よねえ」
お母さん「で、その会はどんな感じだったんですか?」
私「台風が来てたというのに、予定してた会場に入りきれないほどおかまやレズの人が来て、急遽モニターで別室に中継するほどでしたよ」
お母さん「東大も変わったわねえ」
私「クレア・マリィさんもメンバーみたいだから、そのうち輪番で津田塾でもやるんじゃないですか」
お母さん「あら、そうかねえ。ふ~ん。でも、そういえば、あたしが通ってたころもそういう人たちがいましたよ。とても勉強のできる人たちでねえ、あの人たちどうなったのかしら」
私「ふ~ん、それはまあ、昔からいたことはいたでしょうねえ」
お母さん「そうそう、昔っていえば、あたしはそれとは知らずブランシックに行ったことがあるのよ」
私「え!!!三島の『禁色』の舞台のモデルになったっていう、あのブランシックですか?」
お母さん「そうよ。たしか最初は友達に連れられて行ったんだとおもうけどねえ。いつもきれいな男の人がいて、すごいわねえ、不思議だねえってずっとおもってた。あとからそれはそういう場所だったんだって知ったのよ」
私(唖然として)「う~む、すごいですねえ。それはどの辺にあったんですか」
お母さん「銀座四丁目の角を築地の方に少し行ったとこ」
私「三越の裏のあたり?」
お母さん「そうじゃなくて反対側ね」
私(たじたじしながら)「ふ~ん、そうだったんですか」
お母さん「でも、あたしは三島の作品はあまり好きじゃない。田辺聖子の方がずっといいわ。力んだところがすこしもないし」
私「田辺聖子といえば、こんど『ジョゼと虎と魚たち』貸してくださいよ。前から一度読んでみたいとおもってるんです」
お母さん「いいですよ。いつでもどうぞ」

   ☆    ☆    ☆

ということで、大家さんのお母さんには、今度ブランシックについてまた教えてもらうことにしよう(今日の記事は、できれば、背景に大島弓子もしくは川原泉の絵を想像しながらお読みください♪)。

現代アートとクィアネスの接点ーー異種混淆性の保持

2007-11-03 13:48:36 | アート
昨日は、森美術館で現在開催されている展覧会について某経済新聞からの取材があり、ちょっとそれに立ち会わせていただいた(失業者が経済新聞の取材に立ち会うというのは、皮肉といえば皮肉だが)。
取材の狙いは、現在たまたま、森美術館の『六本木クロッシング2007:未来への脈動』展と並行して東京都現代美術館で『アートとデザインの遺伝子を組み替える』展が開催されており、二つの現代アートの展覧会を取材して、今なぜ現代アートなのか、これからのアートの方向性はどうなるのか、出展アーチストはどんなことを考えているのか、1960年代から70年代にかけての「現代アート」と現時点での「現代アート」のつながりやかかわりを考え、記事にしてみたいというもの。美術館、出展者、マスコミは、それぞれどんなことを考えているのかがわかり、おもしろい経験だった。
取材(インタビュー)をとおしてでてきた問題の一つは、やはり、今なぜこうしたかたちで現代アートの展覧会が二つの美術館で大規模に行われているのかということであり、それが現代アートの方向性という問題ともかかわってくる。そこで改めて話題となったのは、森美術館の展覧会が「クロッシング」をコンセプトとしてかかげているということ。つまり森美術館の企画展が、アートを特定の表現領域、テーマに絞り込んでしまうのではなく、領域を可能なかぎりひろげて交差(クロス)させ、それによって「現代」という社会が直面しているさまざまな問題をとりあげようとしていること、その柔軟性の評価が、取材の最初の柱の一つとなった。つまり、こうした問題意識は『アートとデザインの遺伝子を組み替える』展も共有しているのだが、森美術館の展覧会では、それが展覧会のコンセプトとして明確に打ち出されているのがいいのではないかということがまず話にでた。ちなみにこの領域拡大ということは、先日開かれたクィア学会の開会の辞のなかでいわれた「社会の多様性と異種混淆性を保持」ということにも繋がる点であり、私はこの視点こそ同性愛者と非同性愛者を結ぶ鍵になるのではないかとおもっている。つまり、いたずらに社会やアートのなかの異種性(クィア性)を解消し均質化してしまうのではなく、異種性を保持するなかから、社会を活性化するエネルギーをくみ出していくことの重要性を、同性愛者もしくはLGBTはより強くうったえていくべきではないかとおもう。
さてこうした大きな問題意識から次にでてきたのは、日本における「アート」の歴史の特殊性という問題だ。つまり、江戸時代から明治への転換期にヨーロッパからartという概念が移入されたとき、そのartにあたる言葉(概念)が日本にはなく、そこで「芸術」もしくは「美術」という言葉が造語され、日本における近代美術史がはじまったわけだが、それは、江戸時代までめんめんと続いてきた工芸や玩具などの世界のartからの排除・抑圧の歴史でもあった。アートがようやくその事実に気づき、領域の見直しをはじめたとき、工芸や玩具の領域に属するとしてアートから排除されていたものが最も新鮮なものとして脚光を浴びるようになり、いわゆるアートの領域から生まれた脱アートの動き(作品)と、アートの領域から排除されていたものが、クロスオーバーをはじめるようになったのではないかといった話の流れになった(『六本木クロッシング』展では、たとえば同性愛者にとって天国に近い場所である銭湯の背景画家の作品も展示されている)。
ちなみに、ヨーロッパ言語のartは、ほんらい「芸術」という概念と「工芸」もしくは「技術」の双方を含んでいるのであり、ヨーロッパ言語のartという概念に即して考えるかぎり、「芸術」と「工芸・技術」はかならずしも背反するものではない。たとえば、バッハやモーツァルトの音楽は、芸術である前に一種の技術だったのであり、それをおとしめていったのが、「近代主義」ではないかと私は考えている(音楽の話に脱線したついでに書いておけば、よく知られているように、playは「演奏」であると同時に「遊び」である。playから遊びの自由を奪ってしまうのも近代主義の弊害といえるのではないだろうか)。
こうした視点から日本の近代アートの歴史をふりかえると、日本でも60年代70年代にすでにそうした脱領域やクロスオーバーの現象がひろくみられたわけで(取材のなかでは、寺山修司の活動や暗黒舞踏をどうとらえるかということが話題となった)、そうした近過去の現象と現在生じている現象は、どこが同じでどこが違うのかということになってくる。これにたいしては、まず表現媒体・手段の違いが一つは指摘でき、60年代70年代にはPCやインターネットを用いた表現など考えることもできなかったが、それらが身近なものとなって、そうした新しい手段によって新たな表現を実現しようという考え方が生じてきたということは無視できない。しかしではそれだけで現在の現象をとらえきれるかというとそうではなく、たとえば60年代70年代の表現者たちが既存の領域を突き崩し、それを超えることで表現しようとしたことが、批評家等によって言語化されカテゴライスされていった結果、今度は、その言語化されたものやカテゴリーを再度還元し、新たなカテゴリーをも超えていくということを表現者たちがめざしているのではないか(批評的/批判的創造力)、またそのエネルギーの高さが、二つの展覧会をおもしろくしているのではないかといったことが話題となった。

【参照】『アートとデザインの遺伝子を組み替える』展 http://www.sfyf.jp/

昼のGAY

2007-11-01 13:13:01 | 雑記
昨日はまた森美術館から連絡があり、あちらこちらと確認の電話やメールをしていたらすっかりお昼をすぎてしまった。
そんなわけで、いつもと少し違う時間に近所のスーパーA店にでかけたのだが、そこでおもいがけずも新宿のゲイバー・タックスノットでよくお会いするEくんにであった。Eくんとはタックスノットでも話をするし、名刺交換もしているので、二人のあいだでは互いの住まいが近そうだねということも話題になってはいたのだが、相互に訪問しあうわけではなし、なんとなくそのままになっていた。それが昼の日常のなかで出会うことになるとはまさに奇遇という感じだ(ちなみに、私は伊勢丹で偶然元カレとあったこともあるが、それが伊勢丹だと、場所柄があまりにもはまりすぎている感じで、ちっとも意外性がない)。
さて互いの買い物カゴをのぞき込みながら、そちらは実質的だとか、そっちこそ楽しそうなものをいろいろ買い込んでいるとか、まずはあたりさわりもない会話をしてから、話題が自然にN○Kの番組のことになった。
実は先日私が見学した番組のテキストはすでに完成していて、それをタックスノットにも置いてきたのだが、Eくん、すでにそれを読んでくれていて、とてもおもしろかったと言ってくれた。
まさか、昼のスーパーでこうした会話をするようになるとはおもってもみなかったが、実際にそこで友達と会い、いつも関心をもっている話題の続きを話してみると、当然のことながらなんの違和感もない。
   ☆    ☆    ☆
互いの生活圏がぴったり重なるということはわかったことだし、今度、Eくんの住まいを訪問してみることにしてみよう。