闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

さびしい葬儀

2010-03-29 00:54:16 | わが酒と薔薇の日々
今日はMくんの葬儀に行ってきた。
亡くなってから20日近くたち、祭壇にお骨を飾ってのさびしい葬儀だった。
彼とつきあっていたころ、家族の話をうすうすきいてはいたのだが、実際にお会いするのは今日がはじめてで、Mくんの面影とよく似た兄弟や家族を目の前にするのは、なにかとてもふしぎな感じがした。また家族としても、Mくんが亡くなったこととゲイであったことを同時に知って、非常に複雑な心境だったのだろう。今日は、互いに簡単な会釈をするだけで済ませて式場を後にした。それでも、式にはパートナーのKさん、私、先日の偲ぶ会でお会いしたゲイの友人の三人が参列し、親族といっしょに冥福を祈った。ただ、もともと社交的な性格でなかったことにくわえ、亡くなる1~2年前には、いろいろな人との交わりを自分から断ち切っていたし、そうした連絡先のリストをMくん自身が破棄してしまっているので、一般の友人・知人、学生時代の友達、仕事仲間などの参列がまったくなく、Mくんと個人的なつながりがあって式に参列したのがわれわれ三人だけであったのも、さびしい印象を強めた。
式のあと、三人で、Mくんが東京で過ごした最後の日に立ち寄って長い時間コーヒーを飲んでいたという店に行き、咲きはじめた桜の花を見ながらそれぞれの思い出を語り合って別れた。

葬儀の夢

2010-03-28 09:56:29 | わが酒と薔薇の日々
昨日の午後は、私の若い友人である小原くんと須藤くんがピンクや紫のきれいなお花をもって寓居に遊びにきてくれた。バラやトルコ桔梗は普通の発想だが、それに大輪のダリアとスイートピーが混ぜてあるというとてもふしぎな組み合わせで、でもその色合いとダリアの華やかさが、なぜかとても心になじむ。
三人で「ラクリマ・クリスティ(キリストの涙)」という名のイタリア・ワインなどをかたむけながらMくんの死をはじとするいろいろなことを話しこんだら、私もだいぶ気が楽になった(私にだって、パートナーのKさんの前では口に出せない、私だけのMくんの思い出というものがある)。すこしさびしいような気もするが、Mくんの死という事実はもう変えられないことなのだから、あとは自分でそれをどう受け止めていくかが大事なのだと考え方を切り替えることにした。
夜の9時近く二人は帰っていったが、部屋を片付けたあと、部屋の明かりを全部消して、しばらくぼおっとマーラーを聞いていた。
さて今日はこれからMくんのお葬式、そろそろ出かけなくてはならない。
Mくんが亡くなってからずっと、朝、ものすごく早く目覚めるという状態が続いていたのだが、小原くん、須藤くんといろいろなことを話してすっきりしたせいか、今朝はひさしぶりに遅くまで熟睡した。ふしぎなことに、その熟睡のなかでみた夢は、Mくんの葬儀に参列するというものだった。ただし夢のなかでは、その会場がなかなか見つからず、どこで葬儀が行われるのかといろいろさまよっていたのではあるが…。

「死を思え」

2010-03-25 23:58:52 | テクストの快楽
最近、集英社から『渋沢竜彦ドラコニア・ワールド』というビジュアル新書が出たので、このところ毎日、自室でもアルバイト先でもパラパラとそれを眺めている。
渋沢が死んだのは1987年で、それからもう20年以上経つのだが、北鎌倉にある渋沢の書斎は、1冊の本も動かさずに彼が死んだときと同じ状態で残されており、この新書は、渋沢邸に残されている彼の遺品とそれにちなんだ渋沢の文章をまとめた忘備録のような本だ(編者は渋沢未亡人の竜子さん)。
この本を眺めていると、渋沢の遺品が、その思い出とともにとても大事にされていることがひしひしと伝わり、故人を忘れないということがどれだけ重要かよくわかる。そして、今の私には、この死者に対する思いの濃さがとてもここちよい。ちなみに現在私が使っているPCは、電源を入れると主なき渋沢の書斎の画像がでてくるようになっている。そのかたわらにMくんの写真をならべておくと、なにか、自分が死者たちにやさしくとりかこまれているような気がしてくる。

「渋沢竜彦との結婚生活は18年、彼が逝ってからすでに20年あまり。今、彼がすり減っても替えずにいた椅子に坐り、生前そのままに、削りかすの入った鉛筆削りやボロボロになるまで使い込んだフランス語の辞典などが置かれた机に向かい、(中略)オブジェのあれこれを見渡すと、木の実や貝殻や石を夢中になって拾っていた姿を懐かしく思い出します。(中略)こうして「ドラコニア・ワールド」に集まってきた物たちを眺めながら、彼との来し方を辿ると、渋沢は永遠の少年だったという思いでいっぱいです。そしてこの王国がいつまでも続いてくれますように…。」(渋沢竜子さんの序文から)

渋沢の文章も引用しておく。これは、応接間の髑髏について書いたものだ。
「わが家の応接間の飾り棚に、一個の髑髏が安置してある。ぽかりと開いた眼窩といい、亀裂が走ったような冠状縫合といい、黒々とした鼻中隔といい、乱れた歯並びといい、全体に象牙色をおびた色艶といい、まさに迫真の相貌である。(中略)私が髑髏を手に入れたいと考えるようになったのは、別に物好きのためではない。よくヨーロッパの中世の木版画などに、机の上に置かれた頭蓋骨を、学者がじっと眺めている図があるのに気がついていたからである。中世の学者は死と慣れ親しむために、好んで頭蓋骨を身辺に置いたのだった。メメント・モリ(死を思え)というのが中世の合言葉である。私もまた、中世の学者にならって、日常坐臥、死を見つめていたいと考えるようになったとしても、ふしぎはあるまい。」(渋沢竜彦)

偲ぶ会

2010-03-22 00:30:09 | わが酒と薔薇の日々
今日は私鉄沿線のMくんとKさんが住んでいたマンションに数人のゲイが集まり、Mくんを偲ぶ会があった。このマンションを訪問するのは、二人がマンションを購入したときの転居のお披露目以来だが、聞けばそれから約5年経っているという。
今日の集まりでは、みんなでお茶やワインをのみながら、二人で行った旅行や食事の思い出の映像をいろいろみせてもらったが、残された映像の中では、Mくんはいつもすごくはしゃいでいて楽しそうだった。私とは実現できなかったゲイとしての充実した生活を、MくんはKさんと満喫していたのだとおもう。
またMくんが亡くなって一週間以上経ち、今日は、Kさんからいろいろないきさつをきくことができた。
自殺の原因はおそらく仕事をリストラされたことで、昨年の夏にリストラされ、それからさまざまな就職活動を行ったがどれもうまくいかなかったことが、仕事に自信をもっていた彼を傷つけ、死の引き金になったらしい。
遺書は1月1日付けのもので、それから二ヶ月あまり、死の決心と準備に時間をかけたらしい。一緒に生活しながら、その二ヶ月間、なぜ自分はその兆候に気づなかったのだろうと、Kさんは今日も自分を責めていた。
彼の東京での最後の日は、就職活動ののち、大好きだった伊○丹に行って一人で食事をし、それから自宅近くの喫茶店でじっくりとコーヒーを二杯のみ、その後マンションに戻って死の旅行のための準備をしたらしい。
この旅行は、Kさんには就職活動のための旅行と言っていたらしいのだが、現地で就職活動した形跡はまったくなく、旅先で数日さまよったのち死を決行したということのようだ。
残されたKさんはほんとうに気の毒だが、思いつめて、誰もひきとめることのできない死だったのだろう。
聞けば、リストラされて毎日自宅にいる生活のなかで、最後の旅行にでかける前に身辺をすべて整理し、いつもはちらかっていた部屋がすっかりきれいになっていたのも、覚悟のうえのことだったのだろうという。つらいのは、そうしたなかでいろいろな住所録を整理し、すべての友人リストを消したなかで、私の連絡先だけが残っていたということだ。帰る前に部屋を見せてもらったら、書棚のなかに私がすすめた加賀乙彦やユルスナールの本ならんでいたのもほんとうに口惜しい。
Mくんが大事にしていたアルバムのなかに、私とつきあっていたころに友人をよんで開いたクリスマスパーティの写真があったので、それをいただいてマンションを辞去した。

形見分け

2010-03-16 00:17:44 | わが酒と薔薇の日々
先ほど、Kさんから新しい連絡があった。
それによれば、本日、Mくんの家族からKさんに連絡があり、告別式の日程を決めたので、ついてはパートナーのKさんもぜひ参列して欲しいというものだったという。
Kさんは、Mくんの告別式に呼んでもらえるとはおもってもいなかったのでとてもうれしいと、泣いて喜んでいた。
それともう一つ。おもいがけないことに、Mくんの遺書のなかに私への言及があって、それによれば、彼が使っていたPCを私につかってもらいたいとのことで、家族からそれを受け取ってくれるよう私に伝えて欲しいと申し出があったと、Kさんから伝言を受けた。それをきいたら、ああやっぱりもうMくんとは会えないのだなということが、実感として伝わってきた。
またそれとは別に、Kさんからは、自分一人では告別式に参列しにくいとの申し出があり、私も告別式に同行することになった。
Mくん、さようなら。

エトロのジーンズ

2010-03-14 23:20:28 | わが酒と薔薇の日々
Mくんのことを考えると自殺するようなタイプではなかったのになぜ自殺したのかと、ついその原因を考えてしまう。すると同居していたKさんがなぜそれをとめられなかったのかとKさんを非難するような感じになってしまい、なるべくそれは考えないようにしている。実際、そのことで一番苦しんでいるのはKさんなのだから。
Kさんからの第一報によれば、遺書はあるらしいのだが、Mくんの死は地方でのことで、家族が遺体を引き取り、家族だけで密葬するらしい。彼を死に追い込んだ直接の原因は、結局わからずじまいということになりそうだ。
さて、Mくんが自殺するようなタイプできないとおもうのは、二年も彼とつきあった経験から言えるのだが、われわれが別れたいきさつは、どうもはっきりおもいだせない。私の方で彼につきあいきれなくなってふったようなかたちだったのだが、それをどう切り出したか、具体的なことを覚えていないのだ。
それでも、呑みに行く店がだいたい同じなので(知り合ったのもLという店、ここは週末にジャズ・ピアノの生演奏を聴かせてくれるしゃれた店だった)、別れてからもときどき会っていたし、しばらくすると新しい彼氏ができたといって、若い子を紹介してもらった。
それからまたしばらくたって、やっぱり若い子とは続かなかったという報告を受けたのだが、そのあとつきあいだしたといって紹介されたのがKさんだ。
その後も、PCのことでわからないことがあると、PC関係の仕事をしていたMくんを呼び出しては操作を教わったり接続してもらったりしていた。
そのうちこちらもカレシモドキができたのだが、ちょうどそのころ、MくんとKさんが一緒に生活をはじめて新居のお披露目をするというので、カレシモドキをともなってそのお披露目パーティーに行ったこともある(私のまわりでは、カレシモドキにだけは、電話でMくんの死を伝えてある)。
ころころには、互いの恋愛感情はすっかり消えていたが、セックスだけでなく、傷つけあうことも含めて、互いの心の深部に触れるようなことを何度か繰り返したので、私とMくんは、なんの気兼ねもなくいろいろなことが話し合える、ものすごくいい関係になっていたと自分ではおもっている。
と、ここまで書いたら思い出したのだが、二年ぐらい前、彼に誘われて赤坂のホテルを会場にしたあるデパートのバーゲンセールに行ったことがあった。つきあっていた当時も、われわれは一緒に買い物をするのがとても好きだったのだが、このときも、ああでもない、こうでもないとぶつぶつ言いながら、バーゲン会場を長いこと物色して回った。で、結局彼が気に入ったのがエトロのジーンズで、なんだかんだと理屈をつけながら、バーゲン価格で3万円ぐらいするそのジーンズを、いいものが見つかったととても喜んでいた。そのあと、無駄遣いをしたことをKさんに告げ口しないための口止め料とか言って、ホテルのケーキセットをMくんにおごらせて、暗くなるまでホテルのラウンジで雑談をしていた。
そういえば、そのあと、また私のPCがおかしくなって、それをなおしてもらうために来てもらったのが彼とあった最後になったような気がするが、その前にいっしょに行った買い物がとても楽しかったのだろう。エトロのジーンズをはいてきて私に見せびらかしていた。
とここまで書いたら、彼のことをおもいだしてちょっと考えがまとまらなくなってきたので、今日の記事はこれで終わる。

時間のないつらさ

2010-03-12 23:52:37 | わが酒と薔薇の日々
亡くなったMくんのことをじっくりおもいだしたいのだが、このところ雑事であまりにもあわただしいのに加えて、アルバイトを休むわけにもいかず、忙しくて彼のことを考える時間がないのがものすごく悲しい。
今朝は、出勤前のちょっとした時間に彼のことを思い出しながらマーラーの「大地の歌」を聴いていたら、パートナーのKさんから電話が来た。
おとといMくんの訃報を伝えてくれたのもKさんだったが、今朝の電話は、近くMくんをしのぶ会を開きたいので出席して欲しいという、泣きながらの依頼だった。
考えてみると、私がMくんとつきあっていたのは30代の終わり頃で、もう20年近く前のことになるが、恋人同士のつきあいをやめてからもたびたび会っていたし、もちろんKさんのことも紹介されていたので、彼のことをある程度冷静に考えることができるのだが、現にMくんといっしょに暮らしていたKさんは、なんで彼の苦しみに気づかなかったのだろうと、おとといから自分をせめばかりいる。力になってやれないのが残念だ。

再びポーランドに電話をする

2010-03-10 00:26:33 | 雑記
今日はアルバイトをしながらずっとポーランドのことを考えていた。
私が日本の仲介者から得た情報は、ポーランド(シレジア)では、規模が小さくてもいいから早急に友人の展覧会を開いたいと考えているのではないかということであり、それならばと、こちらも早めに連絡をとろうとしているのだが、先方のやり方から判断すると、ありがたいことに、向こうは、時間をかけてでもいいからきちんとした展覧会を開きたいと考えているのではないかという気がしてきた。またこれも仲介者情報によれば、先方には展覧会の予算がほとんどないというが、にもかかわらず電話のためにわざわざ通訳を手配するというのも、単なる誠意のあらわれだけではなく、多少人件費をかけてでも最初にきちんと話をしておきたいという先方の意思を読み取るべきではないかとおもえてきた。
その通訳の件も、昨日受け取ったメールには明日までに手配すると書いてあったが、逆に日本でポーランド語の通訳を手配するということを想定してみると、2、3日で簡単に手配できるとはおもえない。あれやこれやを考え合わせると、今日の電話会談は再延期ではないかとおもいながら部屋に戻った。
夕食を後回しにしてまずさっそくPCを開くと、案の定、通訳が見つからないので会談は来週の月曜日に延期したいという謝罪のメールが入っている。予想どおりの展開ではあるが、これでは案件がすこしも先にすすまない。
そこで、先方の様子を探るために、メールに書いてあった再延期を了承するということを電話で伝えることにした。
前日はじめて電話をかけたときには、電話番のような女性と秘書のような女性がいて、秘書のような女性と英語で少し話しをしたのだが(私の英会話能力からすると、「少し」以上の会話は無理である)、今日は男性が出た。
実は、電話をする前に、ネットで簡単なポーランド語の挨拶をチェックし、最初の一言を「ジェーン・ドーブルィ(こんにちは)」と話しかけてみたのだが、これが非常にうまくいって、かなり打ち解けて話をすることができた。きけば、彼は片言の日本語が可能で、昨年、グループ展の調査のために来日し、友人とも一度会っているという。
それ以上のポーランド側の意図を彼から聞きだすことはできなかったが、ともかく、ポーランドとしては友人とコンタクトをとるということを非常に重要なことと考えていることが、この短いやりとりで確認できた。
私の方からは、通訳の手配が月曜日まで間に合わないのならば、こちらとしてはそれ以降でもいいので無理をしなくてもいいと伝えたのだが、月曜日はほぼ確実だという。今度は、ともかく月曜日を待つことにした。
覚えたてのポーランド語で、最後は「ドヴィゼーニャ(さようなら)」と電話を切った。

手ごわい!

2010-03-09 00:40:29 | 雑記
う~む、ポーランドの敵(味方?)は、相当手ごわい。
最初のメールに、通訳もいるからまずは電話で話をしたいと書いてあったとおもったので、それならば早い方がいいとおもい、月曜日(本日)の夜の電話会談を指定しておいたのだが、アルバイトから戻ってみると、お返事は大変ありがたいがそんなにすぐには通訳が手配できないので電話を日延べして欲しいというメールが入っている。私にはちょっと考えられないペースだ。
それでも前のメールを読み返してみると、たしかに、「電話をするときには事務所に通訳を居させるようにする」と読める。
「Is there any chance of a telephone call? There would be a Japanese-Polish translator here, at our office.」
こちらの読み違いといえばそれまでなのだが、それにしても相手のペースがまったくつかめないので、共同作業がやりづらいことこのうえない。
ただ、先方から今日届いたメールを読むと、事務所のあるシレジアの町では通訳を簡単に見つけられないので、大学都市であるクラクフにあたってみるとあり、誠実なことは非常に誠実だ。
こちらとしては、そんなことよりも、メールでどのような規模の展覧会をいつ開催したいのか、先方の心積もりを伝えてもらう方がよほどありがだいのだが、先方の立場に立って好意的に解釈すると、まずはともかく挨拶をして互いの友好関係を築いてからでないと、一方的な企画提案を行うことは失礼だと、こちらに対して相当気をつかっているのだろう。
ともかくあまりにもじれったいので向こうのオフィスに電話をいれたが、ディレクターは外出しているということで(通訳の手配?)、英語のできる女性事務員に、今日の電話会談は取りやめにして明日話し合おう、もし不都合があったらメールして欲しいということだけ伝えた。
こうした互いの存在の一端に触れただけでも、今日は一歩前進というべきなのだろうか。