闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

スーフィズム探求⑧ーー永久に咲き続ける薔薇

2009-03-07 00:01:27 | イスラーム理解のために
  花瓶の薔薇花が汝のため何の役に立とう、
  汝は私の薔薇園から花弁を摘め!
  その薔薇花は僅か五、六日の生命に過ぎぬ、
  されど私の薔薇園は永久に楽しかろう!

『薔薇園』とはいかなる書か。
サーディーは世に伝えるべき金言や忠言を薔薇の花に、そうした言葉の集成を薔薇園に譬えた。花瓶に挿した薔薇はすぐに色褪せてしまうが、言葉の薔薇は色褪せることはない。彼は、そうした永久に色褪せることのない「薔薇」を残そうと決意し、自伝的なエピソードを含むさまざまな物語(小噺)を丹念にあつめ、その言葉を磨きあげて一冊の書にまとめたのだ。
「薔薇園は天才サアディーの学問と人生経験の粋を集めた花園で、彼がその序(一部を上に引用)に述べているように、永久に凋落の秋を知らぬ薔薇の園であり、時と場所とを超越した実践的道徳の貴重な宝庫でもある。彼はきわめて簡潔ながら、強く私らの心を打つ言葉を以て、きわめて大胆率直に言いたいことを述べている。この薔薇の園に盛られた金言、忠言の薔薇花は花園の薔薇花と異なり永久に馥郁たるその香を失わないであろう。」(蒲生礼二氏「薔薇園 訳者の言葉」)

同じ時代の神秘主義者といっても、その関心がつねに形而上的なものに向かっていくルーミーと異なり、サーディーの主要な関心は社会生活にある。語り口も、酔ったような言葉を連ねていくルーミーと異なり簡潔で平明、ときには諧謔的で、自在。教訓文学の古典的傑作とされる。また全体の基調は散文で述べられ、そのなかに詩が織り込まれていく。
『薔薇園』全体の構成は、序に続いて、1.王者の行状について、2.托鉢僧の徳性について、3.満足の徳について、4.沈黙の利について、5.愛と青春期について、6.衰弱と老齢について、7.訓育の効果について、8.交際の作法についてーーの8章からなり、最後に短い結語がつく。
ではさっそくその内容をみてみよう。

「ある王者が囚人を処刑するよう命じたということである。哀れな囚人は絶望のきわみ王を罵り、言いたい放題の悪口雑言をついた。昔からこう言い伝えられている。「生き永らえる望みを失ったものは心中あらん限りを語る!」と。(挿詩省略)王は囚人が何と言ったかと尋ねた。善良な性質の一大臣が答えて言った。「おお陛下!…そして怒りを制する者、他人の非を許すものーー神は恵み深きものを愛すると申しておりまする」と。王は不憫に思い、囚人の死刑を思い止った。ところが、さきの大臣を憎んでいたいま一人の大臣が言うことには、「私どもの如く大臣の職を奉ずる者にとりましては、陛下の御前に、真実をこそ申し述ぶべきで、決して虚言などついてはなりませぬ。この者は陛下を罵り、臆せず悪口雑言を口にしました」と。王はこの言葉を聞き眉を顰めて言った。「彼が述べた偽りは其方が語った真実よりも好ましい。かれは善意を旨とし、これは悪意に基づいている。古の聖賢も『善意を交えた虚言は禍いを醸しだす真実に勝る!』と述べているではないか」と。」(以下省略、第一章物語1)

これは巻頭に配されている「物語」だが、どこかしら、同時代の日本の説話集をおもわせる語り口だ。以下第七章まで、サーディーは長短さまざまなひねりの効いた物語を取り上げている。

「人々が聖者ロクマーンに向かって言った。「誰から礼節を学ばれたか?」と。答えて曰く、「礼節に欠けたものから学んだ。彼らの行ないのうち、自分の眼に不快に映じたところは、行なうことを避けたのだ!」と。(以下省略、第二章物語21)

王者に向かっても少しも臆するところはない。

「ある不正な王者が修行者に問うた。、「いかような信心が最もすぐれたものか?」と。答えて曰く、「汝のためには午睡こそ望ましきところ。しばしの間でも人民を虐げないことになろうから!」と。」(以下省略、第一章物語12)

「ある王者が聖者を見て言った。「其方は私のことを想い出すことがあるか?」と。答えて曰く、「さよう、神を忘れた時に…」と。」(以下省略、第二章物語15)

「ある孤独の托鉢僧が荒野の一隅に隠棲していた。ある王がその側を通りかかったが、満足の境地に憂いを知らぬこの男は頭をあげて王を顧みようとしなかった。王者の権威の手前彼はこの托鉢僧の態度にあきたらずして言った。「襤褸を纏うこの一味の輩は全く獣のようで、礼節の道はおろか、人の道をも弁えない!」と。宰相が彼の側に近よって言った。「この世の王者が側を通りかかられるを何故に御前に侍らず、礼儀を尽そうとしないのか?」と。答えて曰く。「王にこう申されよ。『其方からの好意を求めようとする者に礼節の期待をかけられよ。さらに民を護るは王者の責務であって、民は王者に従わんがためのものではない!(挿詩省略)托鉢僧の言葉はまことにもっともと思われたので王は言った。「何か所望するがよい!」と。答えて曰く、「再び悩ますことをやめられよ!」と。曰く、「忠言を所望する!」と。答えて曰く、
  「たとえ恵みが今汝の手にあろうとて、知れ
  富と国土は手から手に移って行こう!」と。」(第一章物語28)

以上のような『薔薇園』のさまざまな物語からは、つねに永遠なるものを見つめ、世俗の権威にとらわれない托鉢僧たちの自由闊達な精神を読みとることができる。
最後の第八章は物語形式ではなく、より短く直接的な処世訓で全体を締めくくる。そのなかでサーディーは、人間の価値や信仰が外観や社会的地位に左右されないということを強調する。それは当時の社会と信仰のあり方に対する強い批判精神に結びついているといえよう。

「外観が善いものが内面に美しい性質を蔵するとは限らない。質は内にあって外にあるのではない。」(以下省略、第八章41)

「誰が犯そうと罪悪は好ましいものでないとはいえ、博士(ウラマー)が犯すことは忌まわしい極みである!すなわち知識は悪魔との戦いの武器である。そして武器を帯びたものが捕虜となったら、恥辱を受けることは甚大であるから!」(以下省略、第八章57)

ゆえに、サーディーにとっても、『コーラン(コラーン)』は、そこに書かれた内容をそのまま読んだり誦称したりすればよいというものではない。しかし目覚めたものに対して、信仰はみずから語りかける。

「コラーン啓示の意義は善性を得ることが目的で、書き記された章句の誦称にあるのではない。無学の信心者は徒歩の歩行者のようで、怠慢な学者は眠っている騎者のようである。(祈願に)手を差し上げる罪人は自惚れで頭の満たされた修行者に勝る。」(以下省略、第八章70)

「ある人が、「実践を伴わぬ学者は何に似ているか?」と尋ねた。答えて曰く、「蜜のない蜂のようである!」と。(以下省略、第八章71)

「その信心の耳を遠く造られた者にどうして聞くことができよう!幸福の輪索を引きずるものは行くまいと思っても行かずにいられまい!」(以下省略、第八章90)

最後にサーディーは、自由(絲杉)と永遠不変なるものをとりあげ、それと対比させながらカリフ殺害について一言だけふれる。

「人々が哲人に問うた。至尊至大の神が造り給うた名高く、果実を結ぶあまたの樹々のうち、実のない絲杉のほかに一として自由であると呼ばれるものがないのはいかなる理由か?」と。答えて曰く、「どの樹も実を結ぶ時が定まっている。かように定まった季節の間実を以て繁茂し、その時が去ったら凋落する。そして絲杉にはこうしたことがさらになく、常に麗しい。囚われないものの性質もこの通りである!」と。
  遷り行くものに意をかけるな、ディジレの河(ティグリス河)は
  皇教(カリフ)のない後の世もバグダードを過って流れよう!
  もし汝が手を以て為し得るなら、棗椰子のようにおおらかであれ、
  もしまた手を以て為ることができぬなら、絲杉のようにものにとらわれるな!(第八章103)

そして心のひろさを讃えながら『薔薇園』全体を締めくくる。
「二人の人が死んで悔いを遺した。一人は持ちながら享楽まなかった。今一人は知りながら履行なわなかった!
  自分の欠陥を語るに努めない、
  博識の守銭奴を人は知るまい!
  心の裕い者が百の罪を犯そうとも、
  その仁行は欠陥を覆い隠そう!」(第八章104)

最新の画像もっと見る