闇に響くノクターン

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スーフィズム探求⑥ーールーミーがみた奇蹟、信仰、コーラン

2009-03-04 00:18:06 | イスラーム理解のために
ごく簡単ではあるがスーフィズム興隆の背景をみてみたことで、ようやく『ルーミー語録』に正面から挑戦することができそうだ。

「今ここに集まっているもののうち誰かが、ここからメッカの聖所まで、仮りに一日で、いや一瞬にして行ってしまったとしとても、それはさして不思議なことでもないし奇蹟でもない。それしきの奇蹟なら砂漠に吹き荒ぶ熱風だってやっている。風は一日で、一瞬で、どんなところへでも吹いてゆく。
 本当に奇蹟と言えるのは、人が卑い段階から高い段階に昇らされるということだ。あんなところから出発して、こんなところまで辿り着いた、それが奇蹟なのだ。もともとわけも分からなかったものが理性的に考えるようになり、無生物が生命体となったことだ。考えてみれば、そなたも元来は土塊であり無機物だった。それが植物の世界に連れてこられた。植物界から旅を続けて血塊となり肉片となり、血塊と肉片の状態から動物界に出、動物界から遂に人間界に出てきた。これこそ奇蹟というものではなかろうか。
 神はこの長い旅をそなたが無事終えるように取り計らって下さった。途中でいろいろな宿に泊り、いろいろな道を取りながら、はるばるここまでやってきた。が、その間、そなたは自分でここへ来たいと思ったこともなかった。自分でどの道を選ぼうとか、どうやって辿り着こうとか考えたことも想像したこともなかった。ただ、ひとりでにここまで連れてこられてしまったのだ。だが、自分がここまで来たのだということだけは、まごうかたない事実としてそなたにも分っている。同じように、これとは違った種々様々な世界がまだ幾つもあって、やがて、そこにも連れてゆかれるのだ。」(談話其の26)

神秘主義といっても、ルーミーはとりたてて特別なことを言っているわけではない。人間の精神状態についても同じこと。ルーミーは、「神を崇める」という言動をけして特別視しない。いやそれどころか、「神を崇める」ことは「知識」だとしてそれを斥けさえする。

「人間の精神には三つの状態がある。第一の状態においては、彼は神のことなど全然関心がない。なんでもやたらに有難がって崇める。女でも男でも、財宝でも子供でも土でも。だが神だけは崇めない。
 少しばかり知識ができ、ものが分ってくると、今度は神だけしか崇めない。
 ところがこの状態がそのまま先に進むと、急に黙り込んでしまう。もう「私は神様を崇めない」とも「神様を崇める」とも言わぬ。そんな段階は二つとも超えてしまったからだ。こういう人々からはなんの声も世間には響いてこない。
 神はそなたのもとに現在するのでもなく、また不在なのでもない。その両方の、つまり現在と不在の創造主なのだ。だから両方を超えておられる。もし現在することが神の本性であるなら、不在ということは起らないはず。だが神の不在は厳然たる事実である。(もし現在しておられる時でも)実は現在しておられないのだ。というのは「現在のうちに不在がひそむ」からである。だから神は現在するとも不在であるとも言えない。もし現在と不在が神の属性であるなら、反対のものが反対のものを生むことになってしまう。なぜなら、不在の状態において現在を神が創造するとせざるを得ないから。しかし明らかに現在は不在の反対である。そしてこのことは不在の側から見ても同じことである。
 反対のものが反対のものを生み出すというのは不合理だ。しかし神が自らに似たものを創り出すと考えることもできない。「神に似るものは絶対にない」と言われている通りである。なぜなら、もし似たものが似たものを創り出すとすれば、当然、「根拠もないのに一方だけを重んじる」(これはイスラーム神学の有名な命題で、神が唯一でなく、二神ありとすれば、その一方だけをなぜ特に絶対者として立てるのか、根拠がないということを意味する)ことになってしまうし、また「何かが自分自身を創造する」(神が神自らを創造する)ということにもなり、これはもちろん承認できるようなものではない。
 だがここまで考えてきたら、もうそれ以上はああだこうだと考えないがいい。立ち止まってしまうことだ。理性はここではもう働けない。大海の岸まで来たら立ち止まるほかはない。もっとも、立ち止まることすらもう自分の力でできることではないのだ。」(談話其の53)

では、聖典『コーラン』はどのように位置づけられるのか。それは、読んだ者が誰でも信仰に入ることができるというような意味において卓越した言語表現が記されているわけではない。ルーミーによれば、『コーラン』は、たとえば先にみた外面的意味と内面的意味の二つの意味作用などをとおして、接する者に応じて容貌を変化させる。『コーラン』にむかう者がその外面的意味にとらわれる限り、その読解は「知識」のレベルにとどまり、どれだけ読んでも真理には到達しない。おそらく、『コーラン』の表層的な読解によってその字句を振りかざすことこそ、ルーミーのもっとも忌み嫌った態度だったのであろう。

「コーランは花も恥じらう新妻のようなもの。面紗(ヴェール)を引いて脱がせようとしても、いっかな顔を見せてくれぬ。
 コーランを幾ら研究してみても、なんの喜びもなく、悟ったということもないのは、こちらが面紗を脱がせそこなったからで、その上、向うはこちらを騙しにかかり、醜い顔を出してみせる。「私、貴方の憶っていらっしゃるような美人じゃなくてよ」というわけだ。どんな顔を出してみせるか、それは向うの思うまま。
 しかし、こちらがやたらに面紗を引っ張ったりせず、向うの満足のいくようにとのみ念願し、そっと畑に水をやるように遠くから世話をやき、向うが一番喜びそうなことを一所懸命やっていれば、何も面紗などはぎ取らなくとも向うから顔を現わしてくれる。」(談話其の65)

信じない者に対し『コーラン』が自己を開示することは絶対にない。しかし信じる者には、『コーラン』はその信仰に応じて信仰を開示する。その意味において、『コーラン』が開示する信仰に限界はない。ルーミーにとって、『コーラン』は一義的な意味作用の伝達を超越した究極の言語を記した無二の存在なのであった。

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