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『民衆のイスラーム』を読む③ーー サイードを超えて

2009-03-29 09:49:20 | イスラーム理解のために
『民衆のイスラーム』の終章「民衆イスラームの時代」のなかで赤堀雅幸氏は記す。本書によって「(イスラームの)民衆実践についての知識が深まり、イスラームの現実の多様さに目が向き、イスラームの全体について、いたずらにこれを褒めそやすことも貶めることもなく理解されることを、編者は期待している」と。
赤堀氏によれば、民衆のイスラームのおもしろさは、もちろんそれ自体のおもしろさではあるのだが、「より一般的には、人間のなかにある異質なもの(この場合には異文化)に引きつけられる気持ち、異国情緒(エグゾティシズム)と呼ばれるものに由来している」という。赤堀氏の用いる「異国情緒」という概念をそのままあてはめることはできないが、同性愛者と異性愛者の理解にとっても、この「異質なるものに引きつけられる気持ち」は重要なのではないだろうか。そうでない限り、「同性愛とは何か」という問題は、同性愛者、異性愛者それぞれの内部だけで語られる自閉的なものになってしまい、真の理解を生み出さないとおもう。
しかし赤堀氏はエキゾティシズムを手放しで賞讃しているわけではない。「エキゾティシズムのなかには、批判されるべきもの、例えば、異文化をむやみに称揚し、その一部だけをみて全体を理解したと思い込み、現実をみないものも多い」という。
一方これに対して、「周辺民族を古代ギリシア人がバルバロイと呼び、漢人が東夷南蛮北狄西戎と呼んだことや、ナチズムと結合したアーリヤ民族優越説、またユダヤ選民思想のように、自分たちが何に関しても優れていて、他の人びとが劣っているという見方を、自民族中心主義(エスノセントリズム)と称する」というが、赤堀氏によれば、「セスノセントリズムと過剰なエキゾティシズムは、相反する考え方であると同時に、あるがままを全体としてみないという意味では共通した問題をかかえている」とされる。
そうしたエキゾティシズムやエスノセントリズム双方の問題点を指摘する議論は、これまでもしばしばおこなわれてきた。赤堀氏によれば、「とくに、1978年にエドワード・サイードというパレスティナ系の知識人が『オリエンタリズム』という書物を著してからは、安易な異文化理解への視線は厳しさを増している。サイードはその大著で、ヨーロッパ人による中東やイスラーム理解が誤っているにとどまらず、それらが意識的・無意識的に、他者としての中東の人びとやムスリムに対する植民地支配を助長してきた事実を暴き出して指弾した」のである。
私は、欧米や日本で行われているイスラームについての一見ヒューマニスティックな議論の多くも、欧米や日本の社会状況とイスラーム社会の状況、さらにはその歴史性の違いを意識せずにイスラーム社会を一般化する(欧米型の社会モデルにひきつけて欠陥を暴く)かたちで行われており、これでは結局、欧米や日本の社会的優位を固定し維持するのに役立つだけではないかと危惧する。よりわかりやすく言えば、そうした議論の多くは、イスラーム社会に資するものはなにもなく、安全な場所から、「イスラーム社会って、やっぱり野蛮よねえ」といった結論を導き出すためだけに行われている、自己満足のための議論ではないかということだ。そうした議論がイスラーム社会から有効な反応を引き出すことができないのは当然であろう。
しかしこのサイードの批判にも陥穽があると赤堀氏は指摘する。
「サイードの指摘はおおむね正しいものであり、イスラーム関係に限らずポストコロニアリズムなどの運動に大きな影響を与えたが、それがある意味、素朴で健全な、他者や異文化への関心を阻害した面も、今となっては否めない。事実、1990年代の人類学では、とくに米国を中心に、黒人女性の研究は黒人女性によってしかされえないとするような、内向的・縮退的な傾向が生まれて、かえって人類学の危機を招いた。」
われわれならば、この指摘は、同性愛についての言論は同性愛者によってしかなされえないのかと置き換えることができるであろう。同性愛者の権利擁護や権利拡大の問題が、同性愛者による同性愛者のための議論として行われるかぎり、それが社会的広がりをもつことはできないのではないだろうか。その閉塞状況を突き破るためには、議論を純化していくだけでなく、その議論にまったく異質な視点を導入して、議論を多元化していかなくてはならないのではないかと私はおもう。
さて『民衆のイスラーム』終章の赤堀氏の論旨を紹介する予定が、紹介から大きく脱線してしまったが、それは、ひたすらイスラームについて語りながら、赤堀氏の議論が、現代社会のさまざまな問題、なかでも同性愛者という少数者の問題に適用可能な、ある普遍性をもった議論、方法論の模索のように私にはおもわれるということでお許し頂きたい。
赤堀氏の議論自体は、次のように続く。
「民衆のイスラーム実践は、私たちにとって風変わりであると同時に親しいものであり、それこそがイスラーム理解に重要な長所となる。そもそも、異質であるということは、まったく共通性を欠くことを意味しているわけではない。異なる風習や信仰をもつからといって、お互いを理解不能だと、はなから思い込むなどは愚の骨頂である。人として、あるいは生活者として、多くを共有しているからこそ、お互いのあいだの差異は、同じ問題に対する異なる対応として興味深く、お互いのあいだにエキゾティシズムという他者への関心を励起する。民衆実践からもたらされるイスラーム理解とは、そのような性質のものである。」