闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

スーフィズム探求②ーー一元論の果てに

2009-02-27 22:26:31 | イスラーム理解のために
今日、東京はみぞれだったが、私の方はというと、相変わらずペルシアの乾いた大地をおもっている。

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「もしも知識だけがそっくり人の内にあって、無知が全然なかったなら、人はたちまち燃え尽きてしまうであろう。だから、人間の存在がそれに依っているという意味で、無知にもそれなりの価値がある。一方知識は、それが神を識るための方便となるという意味で価値がある。とすれば、知と無知とは互いに相補い相助けるものとしなければならない。そして、すべて反対のものはそうである。例えば夜は昼の反対だが、それで昼を助け、昼と同じ一つの仕事をしているのである。いつも夜ばっかりだったら、人はなんの仕事もできないだろうし、なんの成果も生まないだろう。逆に、いつもぶっ続けに昼間だったら、目も頭も脳もふらふらになり、気が狂って、ものの役にも立たなくなってしまうのが落ちだろう。だから夜になると人々は休息し、安らかに眠って、その間に脳も思想も、手も足も耳も目も、あらゆる器官が元気を恢復する。そして昼間、貯えたその力を使うのだ。こういうわけで、全て我々にとって反対と見えるものも、真の悟達の人にとっては一つことをしているのであって、決して反対なのではない。世の中のいわゆる悪で、善を内に含んでいないような悪があったらお目にかかりたい。」(『ルーミー語録』~談話其の59)

反対のものは一つ、そうでなければ二元論になってしまうとルーミーは強く主張する。そしてその先で、「我こそは神」と、神と一体化した境地を言語化し、それゆえに処刑されたイスラーム神秘思想の先達ハッラージュ(857年頃~922年)を称賛する。

「例えばマンスール(偉大な神秘家ハッラージュのこと)だが、神への思慕の情が極限までに達した時、彼は己れの敵となり、己れ自身を無にした。そして絶叫した、「我こそは神!」と。すなわち、「私は消滅した。神のみがあとに残った」という意味だ。これこそ自己を卑下するの極みであり、神に対する恭順の至りである。神が在る、神のみが、というのだから(「我こそは神」は普通、傲慢不遜の極致と考えられている。またその故にハッラージュは処刑された)。実は、「汝は神、私は僕」と言うことこそ真の傲慢不遜なのである。なぜなら、これは人間が自分自身の存在を神と並べて措定することだから。そうなれば当然、二元論である。「彼こそは神」と言うこともまた二元論である。なぜなら、我が立てられない限り彼は立ちようがないからである。だから、(ハッラージュの場合)「我こそは神」というのは神自身の発言である。神以外には一物も存在せず、マンスールは完全に消え失せてしまっているのだから、神自身の言葉でしかあり得ない。形象の世界は、概念や知覚の世界よりはるかに広漠たる世界である。人間の心に浮ぶ一切のものは全て形象の世界に淵源するものであるから。しかし、その広漠たる形象の世界も、全ての形象が淵源してくるかの世界に比すれば狭いのである。言葉で説明できるのは、またこの程度までだ。実在の真相は到底筆舌を以て説き明かせるようなものではない。」(談話其の52)

ルーミーによれば、このようにして、蝋燭を前にした蛾のように自己を無化することができる者でなければイスラームの信仰に入ることはできない。そうではなく、あくまでも自己を放擲できない者にとり、信仰の真理は幾重もの幕帳でしっかりと閉ざされている。

「(神と人との間には)暗黒の幕帳(とばり)が七百もあり、光の幕帳が七百もあるというが、およそ形象の世界に属するものは暗黒の幕帳であり、霊的実在の世界に属するものはすべて光の幕帳である。形象の織りなす暗黒の幕帳は、全て黒一色で区別がつかない。違いがあまり微妙で見分けることができないのである。だが、霊的実在の方も、実に深遠な違いがそれぞれの間にあるにもかかわらず、この相違を識別することはできない。」(『ルーミー語録』~談話其の64)

信じない者にとって神は幕帳、しかし信じる者にとっても幕帳。その違いはその幕帳が暗黒からなるか光からなるでしかない。それゆえ、世界のなかに幕帳の存在しか見ず、みずから幕帳のなかに踏み込むことをしない者には、コーランの秘密は永遠に開示されない。

「それにしてもコーランというものは実に不思議な魔術師だ。秘密は絶対に知らさない。敵意を抱く者と見るやたちまち魔術にかけ、耳にはっきり分るように語りかけるのに、それでいて、相手は全然意味がつかめない。一向面白いとも感じない。ちょっと興が湧いても立ちどころに取り上げてしまう。「アッラーは封緘をもって彼らの心を閉ざし給うた」(コーラン2章6節)とある通りである。なんたる優雅さか、聞いても分らず、喋っても意味が分らぬ人の心を封緘で閉ざし給うとは。神は優雅だ。憤怒も優雅、閉ざすも優雅。だが一たんおろした錠前をはずして下さる、その優雅さに至っては、もう筆舌に尽せるものではない。」(『ルーミー語録』~談話其の35)

それでは、以上のような魔術的秘密という事実を前にして、言語表現はいったいなんの役に立つのか、だいいち、ルーミーの言葉もしくは言語的行為はなにを指し示しているのか。

「言葉の機能は人を鼓舞して探求に駆り立てることにある。探求の対象まで言語で捉えられるわけではない。もしそうでなければ、何もこんなにまで苦労して、自己を無化したりする必要がどこにある。言葉というものは、譬えば遠くに何やら動くものを認めた人が、はっきり見定めたいと思って、走って追いかけてゆくようなものだ。ただ向うが動いているだけでは、それが何であるのかつかめはしない。人間の言葉も内的には正しくそうしたもの。目には見えぬ何かを、見えないながらも追い求めてゆくように人を駆り立てる力、それが言葉である。(中略)或る人々にとっては、薔薇の蕾が開いて花が咲くのが楽しい。だが、薔薇を構成するすべての要素がばらばらになって、一切がその根源に還ってゆくのを見ることに無上の楽しみを味わう人々もある。つまり、友情も恋も愛も不信も信仰も、全てが存続することをやめて、根源に還ってしまう有様が見たいという人があるのだ。なぜなら、すべてこういうものは、畢竟するに、目隠しの塀であって、狭苦しさと二元性のもとであり、これに反して、かの世界は限りなき広袤と絶対的一者性のもとだからである。」(『ルーミー語録』~談話其の52)

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しかし、ここまでくると、この絶対的一者の探求は、どこかしら仏教思想の無の探求とも似た様相をおびてくるのではないかというおもいが、ふと私の意識をよぎる。それは単なる雪の中の妄想であろうか。

スーフィズム探求①ーその中にはその中にあるところのものがある

2009-02-26 00:50:13 | イスラーム理解のために
言葉と陶酔にはどのような関係があるのだろう。エクスタシーに達した言葉とはどのような言葉なのであろうか。ひとは言葉だけで陶酔に達することができるのであろうか。
『天地人』から話題は大きく飛ぶが、そんな関心から、ペルシアの詩人ルーミー(1207年~73年)が折にふれて語った言葉をその弟子たちがまとめた『ルーミー語録』(井筒俊彦訳、中央公論社、なお原題は「フィーヒ・マー・フィーヒ」で「その中にはその中にあるところのものがある」という意味)を読みはじめた。

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ルーミーは現在のアフガニスタン東部の町バルフに生まれ、モンゴル侵攻の脅威から小アジアのセルジュク・トルコ領に逃れ、この地でサマーウという音楽と踊りによる修行(かすかな記憶によれば、この音楽と踊りによる修行は『エロイカより愛をこめて』(青池保子)のトルコ編に出てくる)を開始し、同時にさまざまな機会に詩を書き、ひとびとに自分の思想を語ったイスラーム神秘主義(スーフィズム)の詩人だ。「象徴的物語、逸話、クルアーン注釈などの混在のうちに浮び上がる天上的世界の詩的表現として、13世紀イスラーム世界を代表するペルシア語の思想作品」(『岩波イスラーム辞典』)をものしている。

これではあまりにも漠然としているので、『語録』の訳者解説からルーミーの表現と思想の特徴を引用しておこう。
「常人には容易に窺い見ることのできない深遠な神秘主義的実在体験の底から、美しい形象が止めどなく湧き出してくる。それらの形象は互いに衝撞し合い、縺れ合いながら一種独特のリズムの起伏に乗って言葉に転成する。様々な段階と次元における実在体験を美しい詩的形象に移すことのできる天才的詩人はペルシャには幾らでもいる。だが、ルーミーの詩のリズムだけは誰にも真似のできない特異なものと言われている。彼の詩を名手が朗誦する時、聴く人は恍惚感に誘い込まれる。深い瞑想の境位において人の意識を包むあの不思議な陶酔の世界がそこに開示される。本書の一節でルーミーが自分で言っているように、それはもうルーミーの言葉ではない。言葉がどこからともなく現われて、どこかへ流れてゆくのだ。そしてこの言葉の流れには一種の名状しがたいリズムがある。このリズムの起伏と屈曲は神秘家の瞑想的意識の起伏と屈曲である。ルーミーにおける詩と神秘主義の融合とは、およそこのような性質のものである。神秘主義的体験の内容を詩的言語によって表現し描写したというようなことではそれはない。詩的体験がすなわち神秘主義的体験だというのである。ここでは言葉そのものが酔っている。表現された意味に陶酔があるだけでなしに、意味を離れて、言葉の流れそのものに陶酔があり、言葉がそれ自体で神秘主義的陶酔なのである。これがルーミーのポエジーの真髄だと私は思う。」(井筒俊彦氏)

前置きばかり長くなったが、『語録』のなかから、興味深い言葉を抜き出しておこう。ただしこちらは「詩」ではなく、あくまでも折にふれての言葉なので、陶酔的というよりかなり平明だ。

「言葉はほんのうわべごとだ。本当に或る人間を或る人間に引き寄せるものは二人の間にある適合性であって、言葉ではない。たとい預言者が無数の奇蹟を行い、聖者が無数の聖徴を見せたところで、それを見る人と預言者なり聖者なりの間に適合性の要素がなかったら、なんの効果もありはしない。それを見た人の心を矢も楯もたまらず沸騰させるものは、まさにその適合性なのである。」(『ルーミー語録』~談話其の2)

「元来、言葉というものは、言葉に頼らなくては理解できない人のためにあるものだ。言葉がなくとも理解できる人にとって、言葉の必要がどこにあろう。実は天も地も、分る人にとっては全て言葉なのではなかろうか。」(談話其の6)

このあたり、ルーミーがなぜ言語表現を否定して音楽と踊りによる修行を推奨したかという経緯を垣間見ることができるのではないだろうか。しかし次の言葉は大胆だ。

「一切のことは、神の見地からすれば善であり完全である。ただ我々にとって善くないというだけのこと。姦淫と貞節も、祈らぬことも祈ることも、無信仰も信仰も、偶像崇拝も一神崇拝も、神の見地からすればことごとく善である。」(談話其の7)

しかしなぜ、「姦淫と貞節も、祈らぬことも祈ることも、無信仰も信仰も、偶像崇拝も一神崇拝も、神の見地からすれば善」なのか。ルーミーに言わせれば、そうした行為はすべて「理性」に基づくものでしかなく、神の見地は、「理性」とは隔絶しているからだ。ゆえに「言葉はほんのうわべごと」とされるのであろう。しかし次の「うわべごと」は一瞬「うわべごと」を超えてしまう。それは「言葉そのものが酔っている」(井筒氏)からであろう。

「かのもの(神を指す)を、理性はどんなに力んでみたところで捉えることはできない。とはいえ、理性はどうしても力まずにはいられないのだ。力まなくなれば理性はもう理性ではない。常に、夜となく昼となく、対象を捉えようと努力して思い悩み、それで昂奮し落ち着けないのが理性の本性である。その対象がとうてい捉えられるものではなく、認識できるはずのものではないと分っていても、そうなのである。理性は譬えば蛾のようなもの。理性が恋い焦がれる相手は蝋燭のようなもの。蛾が燈焔にまっしぐらに飛び込んでゆけば、必ず燃え焦げて死んでしまう。わが身が火に焦げる。その苦しみがいかに辛くとも、蛾は蝋燭に飛び込まずにはいられない。それが蛾というものだ。もし蛾のような生き物がほかにあって、蝋燭の光を見るともう矢も楯もたまらず、その光の中に身を投げてしまうなら、その生き物は(本性上)蛾であるというほかはない。また、もし蛾が蝋燭の光目がけて突入しても、燃えてしまわないようなら、それは蝋燭ではない。この譬えを以てすれば、もし神の誘いに対しても平然と動ずることなく、全然奮発することもないような人間は人間ではない。また人間が神を認識できるとすれば、そんなものは神ではない。どうしても(神を認識しようとする)努力をやめられずに、煌々たる神の光のまわりを、堪えがたい不安に駆られてぐるぐる廻っている落ち着かぬ存在、それが人間というものだ。そういう人間を焼き焦がし、無と化してしまうもの、しかも理性にはどうしても捉えられないもの、それが神というものだ。」(同上~談話其の9)

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読み出したばかりで、『語録』全体についてはまだなにも言えないが、ルーミーの世界に少しでも近づくことができるよう、CD棚からシマー・ビナーの歌う『ペルシアの古典音楽』(Nimbus Records)を取りだして、BGMとして流している。
なお、『ルーミー語録』の一部は、以下のページで読むことが可能↓。
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/rumi_gor.html

GAYが観る『天地人』④ーー謙信の遺言とエクスタシー

2009-02-23 01:10:37 | 愉しい知識
21日にNHK大河ドラマ『天地人』第七回「母の願い」、22日に第八回「謙信の遺言」を観たので、その極私的感想をまとめてアップしておく。

まず第八回の「謙信の遺言」、なかでもタイトルになっている謙信が兼続と二人差し向かいで会い、兼続こそ自分の志を継ぐものと謙信が内心を語り、酒をつぐシーンは非常に感動した。

この回は信長が登場し、例によって謙信の行動や考え方と対比されるので、わかりやすくおもしろいのだが(そして信長がなかば寝そべって葡萄酒を飲むシーンもある)、そこでまず、このあいだ少し考えた同性愛の二つのパターンについてあらためて考えさせられた。
その第一は、信長における同性愛を快楽追求を主目的とするものとすると、謙信的同性愛には(身体的)快楽はともなわないのかということ。これはもちろん、謙信に同性愛行為があったかどうかが確認できないないので、あくまでも仮定的な設問ではあるのだが、仮に私が謙信型と考える人間関係構築を重んじる同性愛といえども、その入り口やきっかけとしては、なんらかの身体的快楽をともなったのではないかというのが、私の下世話な考え。ただ仮に入り口は快楽追求だったとしても、それを快楽追求だけにとどめないというのが、謙信型(献身型?)同性愛の特徴といえるのではないだろうか。少なくとも私はそう考える。
それと、これも前の記事に少し書いたが、信長のような前近代の権力者の場合、同性愛者(もしくは両性愛者)だったから同性の愛人を求めたというより、彼ら権力者にとっては、性的快楽の対象として異性も同性もほとんど区別がなく、自分の好みにあえば誰にでも手をつけたのではないかという気がする。というか、日本の権力者の場合、信長、頼通にとどまらずその同性愛的事実が知られている人物が非常に多く、これは遺伝や個人の性向だけでとらえることのできない権力者全般の傾向と考えた方がいいのではないだろうか。したがって、現代のような市民社会における同性愛と、こうした前近代の同性愛、特に権力者の同性愛は区別して考えた方がいいのではないかと私はおもう(前の記事で秀吉はこの点で例外的と書いたが、家康は水野忠元と井伊直政を寵愛したことが知られている。また秀吉の家系では、甥の秀次に不破万作という寵童がおり、秀次が高野山で自刃する折に一緒に死んでいる)。

次に人間関係全般についてだが、仮に謙信軍団が義、信長軍団が利で結束していたことを認め、また義をかざす謙信に天下統一の機会と意志がなかったことを認めた場合、では信長には果たして天下統一できたのか、またその統一した天下を保つことができたかというこれまた仮定の上での疑問が生じてくる。つまり謙信よりも明らかに天下統一に近い位置にいた信長は、明智光秀の謀叛にあってその野心を完遂させる前に倒れてしまうわけだが、信長の場合、この光秀の謀叛は偶然だったのか必然だったのか、もし仮に光秀が謀叛を興さなかったとしても、別の人間が謀叛を興す可能性があったのではないかということだ。すると天下統一に必要なのは義か利かという問題は、現実から回答を引き出すことはできず、結局振り出しに戻ってしまう(結果的には、天下人になったのは義と利をバランス良く兼ね備えた秀吉や家康だったわけだが)。したがってこの問題に関しては、現実に謙信が北陸の勇将の域をでなかったからといって、謙信的な考え方を一概に無力・無効として否定できないようにおもう。今回の大河ドラマの狙いも、もしかするとその辺の疑問を提起することにあるのかもしれない。

さてこうしたさまざまなことを考えている最中に、謙信と兼続の対面のシーンが映し出されたわけだが、するとこれは、政治や軍略を別にして、自分の理想を次の世代にどのように引き継いでいくかという、より普遍的な問題と深くかかわっているシーンのように私にはおもわれた。つまり、同性愛者であるにせよないにせよ、現実に謙信には実子がないので、自分のおもいや権力を子供に譲るという安易な解決はできない。すると結局、相手の器量を見定めたうえでその相手に自分のおもいを託すしかない。だから、これは謙信が普通に結婚し子供をもうけていたらありえないシーンというしかない。そしてこの特殊な男同士の対面のシーンは、別に身体的接触をともなうわけではないのだが、私には非常に同性愛的に見えてしまう。異性愛社会のなかでは例外的なものに過ぎないこうした場面も、同性愛という世界のなかでは非常に現実的な場面なのである。少なくとも、この「伝授」には、単なる言葉のやり取りや理解、主従の盟約確認等の日常的感情を超えたエクスタシーのようなものがともなったのではないかという気がしながら、私はこのシーンを観た。だからそこで酒を酌み交わす(一緒に酔う)というのは、非常に重要な意味をもつのだとおもう。

なお、兼続の母の死を描いた第七回「母の願い」は、これに比べると内容的にもドラマの構成的にもあまりにも平板で、私は楽しめなかった。

美大でのシンポ打ち合わせに立ち会う

2009-02-22 18:08:02 | 雑記
先日私の知人に、美術系の某学会から、この夏上野公園にある美術大学で開かれるシンポジウムでなにか話をしてほしいという依頼があり、今日はその打ち合わせに同席してきた。

先方からの依頼の趣旨を読むと、その学会は人間の身体表現と美術のかかわりあいをさまざまな角度から研究する学会だというが、一方知人は、人前で難しい話しをするのは苦手だし、まして「学会」といった堅苦しくところできちんとした話しなどはできないと尻込みしているので、今日行ったのは、ともかくまず依頼者と会って、知人になんらかの話しを依頼してきた先方の意図を直接確認し、あわせて、どのような内容や形式であればそれに応じられるかをすり合わせ、調整するための打ち合わせというわけ。

美大に行くというので、まず押入れから春物のシャツとネクタイを取り出したが、外はまだ肌寒いので、上は冬物の黒っぽいジャケットを合わせることにした。このところ外出といえば自室とアルバイト先のスーパーの往復がほとんどで、着る物に気を使うような人と会う機会がほとんどなかったので、どうでもいいようなことではあるのだが、何を着ていくかを決めるのはけっこう楽しんだ(いろいろ試した結果、ネクタイはポール・スミスのピンクのストライプ・タイで決まり)。

さて依頼者と会うまで、話し合いがうまくいくか若干の不安はあったのだが、打ち合わせはことのほかスムーズにすすみ、依頼者は昔から知人の作品や制作活動に興味をもっており、それを公の広い場所で、さまざまな社会背景をもった人たち、さまざまな年代の人たちと共有したいという非常に真摯なものであることがわかった。
同時にこちらからは、「講演」というような形式の話しは慣れていないし、また専門教育を受けていないので難しい芸術論などはできないという事情を説明し、いろいろ話し合った結果、インタビュー形式で、質問にこたえながら先方の趣旨にそった話しをするということで内容がまとまった。
シンポジウム&インタビューと合わせ、大学で知人の作品を展示するか(打ち合わせの場で先方からその希望が出されたが、知人はあまり乗り気ではない)など未解決の問題も残ったが、先方は非常に熱心なので、インタビューの企画自体は、まあなんとかうまくいきそうだ。

ここまで、大学付属の美術館内の喫茶店で打ち合わせたのだが、話しもほぼまとまったということで、研究室を案内してもらい、そこであらためて雑談して研究室を辞去した。
折から大学の付属美術館では学生たちの卒業制作展を開催しており、私はそちらにもすこし興味があったのだが、打ち合わせを終えた時点で美術館の閉館時間になってしまったので、そちらは機会があれば再訪することにした。

GAYが観る『天地人』③ーー同性愛の2パターン

2009-02-14 23:56:23 | 愉しい知識
今日(14日)、NHK大河ドラマ『天地人』第六回「いざ、初陣」の再放送を観たので、今回までの感想をまとめておく。ただし感想といっても、小ブログの場合は『天地人』の人間関係を同性愛的にみるとどのように読み解くことができるかという変態的、いや変則的なもので、正面からのドラマそのものの感想ではないので悪しからず。

さて『天地人』は戦国時代を舞台としているので、少なくとも今回までの展開では、強力な武士団を形成している上杉と織田が、男社会を中心に対比的に描かれている(この意味で私には、第五回の「信長は鬼か」が特におもしろかった)。
そのうち特に上杉軍団は、人間関係の非常に濃密な集団で、事実はともかくとして、兼続と謙信、景勝の主従関係、謙信と景虎の義理の親子関係などに同性愛的な雰囲気を感じるとることも不可能ではない。
これと比較すると、織田の軍団は勝つことだけを至上目的とする極めてドライな人間関係として描かれており、そこから同性愛的な雰囲気を読み取ることはまず不可能だ。

ところで実際には、信長は森蘭丸をはじめとする多くの小姓を寵愛していたことが知られており、戦国時代の武将と同性愛を語るならば、まっさきに言及しなくてはならない人物と言えるだろう。ただ信長の場合、性的欲望の達成と戦争での勝利を明確にわけて考えていたふしがあり、小姓や寵童を重臣としてとりたてることはなかった。

この辺までを考えると、上杉軍団と織田軍団の違いというのは、同性愛的集団と異性愛的集団の違いではなく、現代にまでつながる同性愛に対するアプローチの違いの2パターンを代表しているのではないかとおもえてくる。
つまり上杉武士団というのは、個人と個人の身体的つながりを軸にして、それを精神的つながり、社会的なつながりにまで延長していこうという、強固さと拘束力の強さが一体となった集団であり、ここから同性愛的な雰囲気を感じ取ることは容易だ。なんというか、必ずしもセックス(性行為)としての同性愛が強調されているわけではないのだが、「男に惚れる」という心情がかなり濃厚に漂っている集団で、そのなかの特定の人間がセックスとしての同性愛を実践したとしても違和感なく極めて当然のことと受けとれるような集団として描かれているように、私には感じられる。
これに対して織田の武士団には、身体的つながりや精神的つながりはほとんどなく、結果重視の社会集団といえる。信長の場合、同性愛をはじめとする恋愛や性的関係も、それによって人間関係を構築するためのものというより、より純粋な快楽追求を目的とするものであったと考えるべきであろう。ただしついでに言っておけば、私は、信長を現代的な感覚でゲイやバイとして位置づけることは不可能だとおもっている。このあたり、直前の記事に書いた藤原頼通と源長季の関係と似てなくもない。おもしろいことに、『天地人』のドラマでは、信長が登場する場面はワインを飲んでいるシーンが多いのだが、信長の同性愛というのはこのワインに対する指向と同じで、機会があって手に入るならば、珍しいもの、心地よいものはすすんで試してみようという快楽追求の好奇心からきているのではないだろうか。この点からすると、ワインを飲んでいる傍に着飾った小姓をはべらせたりしたら、演出はより完璧だったかもしれない。
(ただし、信長と同じような覇者の立場にありながら、秀吉は男には手を出さなかったようなので、男に対して性的欲望を感じるかどうかは体質等も関係していよう。)

まあ、男関係にかぎらず、信長の恋愛や性愛は、ドラマとしては描きにくい。信長的にとらえれば、ある男と男、あるいはある男と女のあいだに肉体関係があったかどうかは、その人間がどのような人間かを考えるときにほとんど意味をなさないのだが、そこまで割り切ってしまうとドラマは少しもおもしろくない(笑)。

私としては、同性愛的な関係があったようななかったような上杉軍団の今後を、もう少し観てみたいとおもっている。

訂正:藤原頼通の同性愛

2009-02-13 14:46:35 | 愉しい知識
このところ『人間の精神について』の翻訳が比較的順調にすすみ、きりのいいところまできたところで、毎日、今までの訳の見直しをしている。これまで一年近い時間をかけて訳しているので、著者の言いたいことや著者独自の言い回しも、自分なりにだいぶわかるようになってきた。そんなことで、最初に訳した部分を読みかえしていると不満もでてくる。そんな不満や不備を毎日少しずつ訂正し、合わせて全体の校正を行っているというわけだ。
当初との一番大きな変更は、フランス語の「utile」(英語でいうとuseful)という単語に、これまでは「有益な」という訳語をあてがっていたのだが、いろいろ考えた結果、「役に立つ」というより具体的な表現の方がいいのではないかとおもえてきて、すべてこの表現に置き換えることにした。これがけっこう手間がかかる。
具体的には、
「個別の社会同様、民衆は、判断において単に自分の利害という動機によって決定され、実直、偉大あるいは英雄的という名称を、自分に有益な行動にしか与えず、また、しかじかの行動に対する自分の称賛を、力、勇気あるいはそれを実行するのに必要な気前のよさにはけして比例させず、この行動の重要性そのものとそこから引き出す利益に比例させる。」
といった文章を、
「個別の社会同様、民衆は、判断において単に自分の利害という動機によって決定され、実直、偉大あるいは英雄的という名称を、自分の役に立つ行動にしか与えず、また、しかじかの行動に対する自分の称賛を、力、勇気あるいはそれを実行するのに必要な気前のよさにはけして比例させず、この行動の重要性そのものとそこから引き出す利益に比例させる。」
という風に改訂している。小さな改訂のようでも、全体では同じような用例がかなり出てくるので、これによって全体の印象が変わってくる。

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さてこれにあわせて、細かい事実や人名を調べるために、図書館にもかよっているが、あいた時間に『古事談』を調べて、1月27日付けの小ブログの記事「武士の髪型とイデオロギー」のなかの誤りに気づいたので訂正しておく。

まずは『古事談』の記事の原文。
「長季は、宇治殿の若気なり。仍りて大童まで首服を加へず、と云々。久しく参らざる時は、いみじく怨ましめ給ひけり。大飲の間、酒の事に依りて御おぼえはさがりにけり。」(2-63、岩波書店「新日本古典文学大系41/古事談・続古事談」)
ここから読み取れるのは、宇治殿(藤原頼通)の同性愛(若気)の相手は長季という者であったということ(そしてそれが公然のことでこの記事の筆者ならびに多くの者が知っていたということ)、そして長季が頼通の寵童だったために、適齢期になっても元服(首服を加へる)が許されなかったということだ。相撲のことはこの記事になにも記されておらず、私の記憶違いと訂正しておく。
ちなみに、『古事談』には頼通にかぎらず同性愛の記事が多く、比較的有名な次の記事も記されている。
「隆国卿頭と為て、(後一条天皇の)御装束に奉仕す。先に主上の御玉茎を探り奉るに、主上隆国の冠を打ち落とさしめ給ふ。敢へて事と為さずして本取(もとどり)を放ちて候ふ。是れ毎度の事なり。」(1-54、同)
要するにこの記事は、源隆国が蔵人頭だったとき、後一条天皇の着替えをその職務としていて、着替えのたびに天皇の玉茎に触れていたこと、そしてそのたびに天皇が隆国の冠を打ち落とし、隆国も髪を乱していたということであろうか。これも、そうした事実関係があったということに加えて、この時代の朝廷では、それが公然のことであったということを読み取るのが重要だと思う。