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スーフィズム探求⑤ーーカリフの権威喪失とともに隆盛へ

2009-03-03 00:07:01 | イスラーム理解のために
前々回の記事のなかでは、イスラーム社会のなかにスーフィズムが生じてくる社会心理学的必然性をみてみたが、それに加えて、わたしは社会そのものの変化もこうした心性が生じてくるのに強く影響したのではないかとおもっている。つまり、9・10~13世紀のイスラーム社会を「ルネサンス」と呼んで片付けてしまうだけではなく、その背景にもう一歩踏み込んで、宗教的な現象を捉えてみたいのだ。

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13世紀にいたるイスラーム社会の歴史は、ムハンマド時代(614年頃~632年)、正統カリフ時代(632年~661年)、ウマイア朝時代(661年~750年)、アッバース朝時代(750年~1258年:日本では、752年に東大寺大仏完成供養)に大きく区分される。スーフィズムは、アッバース朝時代のなかほどに生じたことになる。
さて、ウマイア朝とアッバース朝の政権交代は、アラブ社会の二つの有力な家系の対立に、スンニー(スンナ)派とシーア派の宗派的対立、アラブ人とペルシア人の民族的対立などが結びついた複雑なものだが、成立直後のアッバース朝は、751年中央アジアのタラス川付近で唐軍の最前線と武力衝突し、唐軍に勝利を収めている(この戦いは、捕虜をとおして製紙技術がイスラーム圏に伝わったことでも有名である)。
カリフ位の交代(王朝交代)を実現し、辺境で勝利をおさめると、アッバース家は、バグダードを都に定め、当初自分たちを支えていたシーア派に距離を置きながら繁栄を極めていった。
このアッバース朝にとって大きな転機となったのは「ザンジュの乱」と呼ばれる黒人奴隷の反乱で、この反乱は869年~883年にかけて14年間も続き、王朝の基盤を揺るがした。またこの反乱と前後して、イスラーム圏の東部ではターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝が次々と成立し、アッバース朝からの独立を宣言した。一方西部では、エジプトにトゥールーン朝が成立した。
こうしたなかで、かろうじてイラク中部と南部を保持していたアッバース朝のカリフ・ラーディーは、936年、トルコ系の軍人イブン・ラーイクを「大アミール(首長)」に任命して、軍隊の指揮権と王国の統治権を彼に委ねた。イブン・ラーイクは942年に暗殺されたが、その直後の946年にシーア派のダイラム人軍事勢力がバグダードに入城し、カリフをその保護下においたことによって、「アッバース朝カリフによる支配体制は事実上崩壊した」(佐藤次高氏『イスラーム世界の興隆』)。バグダードがこのような混乱状態にあったとき、トルコ系セルジューク族のトグリル・ベクはイラン東部で建国を宣言し、1055年にバグダードに入城した。ここで、トグリル・ベクはアッバース朝のカリフからはじめて「スルタン」の称号を授けられた。「スルタンの保護下におかれたカリフは、実権をもつスルタンにイスラーム法執行の権限をゆだね、みずからは「スンナ派ムスリムの象徴」としての弱い立場に甘んじなければならなかった」(佐藤次高氏、上掲書)。
セルジューク朝は、第2代スルタンのアルプ・アルスラーン(在位1063年~72年)と第3代のマリク・シャー(在位1072年~92年)の時代に最盛期をむかえた。しかしマリク・シャーの没後は、一族のあいだに後継者争いが発生し、帝国の統一は急速に失われていった。キリスト教十字軍の侵入(1098年)がこれに続く(この時期、日本では1185年に平氏滅亡、1192年に頼朝の征夷大将軍就任)。
同じ頃、イスラーム圏東辺の中央アジアではホラズム朝がセルジューク朝から独立し、ペルシア全土へ勢力を拡大していく(1097年頃~1231年)。ルーミーはこのホラズム朝支配地の出身である。
その後、ホラズム朝を滅ぼし、その勢いにのってセルジューク朝の勢力を斥け、バグダードに侵入してカリフを殺害して、アッバース朝を名実共に終わらせたのはモンゴル人であった(1258年)。イスラーム社会、なかでも主流のスンニー派とって、カリフ殺害は、一アッバース王朝の終焉を告げるだけでなく、ムハンマド以来連綿と続いてきた正統的イスラーム世界の崩壊を象徴する大事件であった(シーア派はウマイア朝カリフの正統性もアッバース朝カリフの正統性も認めていない)。
[以上のイスラーム史の記述は、佐藤次高氏『イスラーム世界の興隆』(「世界の歴史8」、中央公論社、1997年)による。]

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イスラーム世界、なかでもアッバース朝の歴史を長々とみてみたが、現在私は、アッバース朝カリフの権威喪失の歴史は、そのままスーフィズム興隆の歴史につながるのではないかと考えている。
次第に実質支配権と宗教的権威を失っていくアッバース朝のカリフの存在は、どこかしら平安時代中期以降の日本の天皇と似ている。そしてカリフに代わって社会を実質的に支配する大アミールやスルタンは、日本で言えばまさに「征夷大将軍」であり、その統治は「幕府」と呼ぶべきものであろう。しかし軍事力を根拠とし、支配の根本的な正当性と権威を欠くアミールやスルタンの統治は極めて不安定なものでしかなく、その関心は、宗教や社会の安定よりも自己保全にむかう。いきおい、宗教的規制は弛緩し、社会道徳も低下せざるを得ない。こうした情勢のなかで、アッバース朝が奉ずるスンニー派の正統主義に異を唱えて登場し、民心を収攬していったのがスーフィズムではなかったか。
加えて13世紀にはモンゴルという新たな異民族が登場し、イスラーム社会の権威の核であるカリフさえ殺害してしまう。私は、スーフィズムの思想や運動に、どこかしら日本の末法思想に通ずるような、世界崩壊への不安感への反応すら感じてしまう。
これに対するアッバース朝カリフの対応は、当初はスーフィズムを弾圧し、そのなかでも目立った存在であったハッラージュを処刑するといった強権的なものであったが、次第にスーフィズムを弾圧する意志を喪失していったのであろう。
以上、前々回記したスーフィズム興隆の歴史、あるいは前回みたような「イスラーム」の根源性の探求は、こうした大きな社会変動と合わせて読むべきものと私は考える。