次に、『民衆のイスラーム』の議論からは離れるが、イスラームと同性愛の問題について私がどのように考えているか、個人的な見解を記して、一連のイスラーム関連の記事をとりあえず結んでおくことにしよう。ただしこれは、あくまでも現在私がもっているイスラーム関連の情報から導き出されたものであって、社会状況や情報が変われば変化しうる暫定的なものであることをあらかじめお断りしておく。
☆ ☆ ☆
さて、すでに何度か記しているように、この問題に対して私が関心を抱かざるを得ないのは、一部のイスラーム国家ではイスラーム法に由来する「反ソドミー法」が制定されており、これによって同性愛者が処刑されているからである。
ただし私がまず言いたいことは、イスラームと同性愛の問題は、前回の記事に記したようなイスラームに対する総合的な観点からとらえるべきであって、同性愛の問題を対イスラームの最大の問題ととらえるべきではないということだ。そうではなくて、なにがなんでもまず同性愛の問題を最初に解決しなくてはならないというなら、それは同性愛エゴイズムというべきではないだろうか。
またこれとからんで、同性愛解放や性的自由の問題は、政治や宗教・信条の問題と切り離して考えるべき「人権問題」であって、人権というテーマは、民族や人種にはかかわりのない人類にとっての普遍的課題であるがゆえに政治や宗教の問題の解決より優先させるべきだというならば、私は、人権問題が人類の普遍的問題であるという考え方そのものが、特定の地域の社会性や歴史性を捨象した欧米中心主義的な考え方ではないかといいたい。すなわち、人権重視や生命尊重という考え方は、非常に美しくはあるが、経済力が強く、また社会的達成のすすんだ欧米の現状と表裏一体の一つの「思想」であって、そもそもそれがあらゆる社会に対して不変妥当性をもつのか、まず検証されなくてはならないのではないだろうか(ちなみに私は、人権思想を含む欧米流の「近代主義」こそ、社会にさまざまな差別を生み出した元凶ではないかと考えている)。
同性愛者としてまったく容認しがたいものではあるが、イスラーム社会にはイスラーム社会として独自の同性愛に対する捉え方があるということを認めない限り、この問題は解決に向かって前進しないのではないかと私はおもう。
またこれとからんで、スーフィズムや原理主義といった特定の宗派や教説を、同性愛に対して寛容かどうかという観点のみから論じるのも、同様に、全体性を無視した偏った議論にならざるをえないであろう。
そのうえで、イスラーム法ならびにそれに準じた同性愛の処罰(処刑)に関してわれわれが批判しなくてはならないのは、その裁判が公正なものではありえないということだとおもう。
すなわち、同性愛者ならびに同性愛行為を法的に処罰するためには(これは逆に同性愛者を庇護する場合もほぼ同じ)、「同性愛者」ならびに「同性愛行為」を法的に定義しなくてはならないが、これが正当に行われることはまずありえない。
比較的定義の容易な同性愛行為でこれをみていくとしても、手紙やメールのやりとり、抱擁や握手、キス、フェラチオ、肛門性交、その他、これらの行為のどこからどこまでが性的行為の範疇にはいるのか、(好意的にも敵対的にも)厳密な定義は不可能である。イスラーム法では慣習的に肛門性交をもって明確な禁止の対象としているようだが、たとえばキスが性的行為にはいるかどうかは、状況によってかなり判断が違ってこよう。またフェラチオは明確に禁止される行為のなかには含まれていないようだが、これも、射精をともなうかどうかで微妙な判断の違いがでてきそうだ(イスラーム法は膣外射精を強く禁じているので、そうした事態が生じうる)。
以上のような同性愛行為の定義・認定の不明確さから、同性愛者の定義・認定はさらに困難である。
よって、このような曖昧な定義に基づく処罰は、容認されるべきではないと私は考える。
また具体的な裁判の場において、定義以上に困難なのは事実認定で、特定の人の同性に対する好意が、単に気持ちのうえだけのものか、それ以上の具体的行為をともなうのか、行為をともなう場合、それはどのような行為であるかを、(裁判によって)どのように客観的に論証できるのであろうか。
要するに、同性愛に対する処罰は、それが「人権侵害」であるかどうかという以前に、公正な裁判制度と馴染まないものであり、ゆえに法としては無効と言わざるをえないというのが現時点での私の結論だ(結局それは、風説や状況証拠による裁判でしかありえないであろう)。
いわゆる反ソドミー法の無効性については、以上のような観点から論じることが可能だとおもうが、そもそもイスラームという宗教の反同性愛的性格ということになると、私はこれを変えることは個別の法の改廃以上に困難だと考える。
たとえば『民衆のイスラーム』のなかでとりあげられている民衆もしくはスーフィズムの寛容さや信仰の多様性、柔軟性は、信仰のなかの核心的な部分に限られており、それ以外の生活規定や性行為における寛容さの現状や今後の展望は、この本のなかからは読み取りづらい。そうしたなかで示唆的なのは、インドネシアにおける中華食浸透の現状をレポートした「『ハラール・チャイニーズ』レストランーージャカルタ最近食生活考」という久保美智子氏のショート・コラムである。
インドネシアは、1億7000万人のムスリム人口を抱える世界最大のイスラーム国家であるが、中華文化圏とも強い接触をもつ。ところで、中華料理には豚肉や豚骨スープで味付けしたものが多く、それとは知らずにイスラームでタブー視されている豚肉を食べてしまう可能性が高いことから、インドネシアでは長いこと中華料理そのものがタブー視されてきた。ところがシンガポールなどに住む裕福なインドネシア人などによって、インドネシア本国にも中華料理のおいしさの評判が伝わり、タブーを犯さずにおいしい料理を食べたいというインドネシア人のために、豚肉や豚骨スープをまったく使わない宗教的に「安全な」中華料理(ハラール・チャイニーズ)が考案され、こうした安全な中華料理店がジャカルタで賑わっているというのである。このコラムは、時代に応じてムスリムの食生活が変化してきつつあることを示すと同時に、(豚肉に対する)禁忌そのものは合理性の陰でむしろ強まっているのではないかという雰囲気も感じさせ、イスラーム社会における寛容と禁忌の今後についていろいろ考えさせられた。
いずれにしても、スーフィズムが同性愛に対して寛容だといっても、それは、「反イスラーム的ではあるが黙認する」といった意味での寛容さであり、そうした態度そのものが反同性愛的で不満だと主張することは、結局、逆原理主義的に、イスラームという宗教の存在そのものを認めないということと同じではないだろうか。私は、そうした頑なな態度に手放しで賛同することはできない。
☆ ☆ ☆
最後に、イスラーム研究者にお願いしたい。
イスラームと性的禁忌の問題は、非常に難しいテーマではあるとおもうが、今後、そうした領域にも研究を広げて頂きたい。そしてより豊富な情報に基づいて、この問題をさらに掘り下げて行けたらいいと私は考えている。
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さて、すでに何度か記しているように、この問題に対して私が関心を抱かざるを得ないのは、一部のイスラーム国家ではイスラーム法に由来する「反ソドミー法」が制定されており、これによって同性愛者が処刑されているからである。
ただし私がまず言いたいことは、イスラームと同性愛の問題は、前回の記事に記したようなイスラームに対する総合的な観点からとらえるべきであって、同性愛の問題を対イスラームの最大の問題ととらえるべきではないということだ。そうではなくて、なにがなんでもまず同性愛の問題を最初に解決しなくてはならないというなら、それは同性愛エゴイズムというべきではないだろうか。
またこれとからんで、同性愛解放や性的自由の問題は、政治や宗教・信条の問題と切り離して考えるべき「人権問題」であって、人権というテーマは、民族や人種にはかかわりのない人類にとっての普遍的課題であるがゆえに政治や宗教の問題の解決より優先させるべきだというならば、私は、人権問題が人類の普遍的問題であるという考え方そのものが、特定の地域の社会性や歴史性を捨象した欧米中心主義的な考え方ではないかといいたい。すなわち、人権重視や生命尊重という考え方は、非常に美しくはあるが、経済力が強く、また社会的達成のすすんだ欧米の現状と表裏一体の一つの「思想」であって、そもそもそれがあらゆる社会に対して不変妥当性をもつのか、まず検証されなくてはならないのではないだろうか(ちなみに私は、人権思想を含む欧米流の「近代主義」こそ、社会にさまざまな差別を生み出した元凶ではないかと考えている)。
同性愛者としてまったく容認しがたいものではあるが、イスラーム社会にはイスラーム社会として独自の同性愛に対する捉え方があるということを認めない限り、この問題は解決に向かって前進しないのではないかと私はおもう。
またこれとからんで、スーフィズムや原理主義といった特定の宗派や教説を、同性愛に対して寛容かどうかという観点のみから論じるのも、同様に、全体性を無視した偏った議論にならざるをえないであろう。
そのうえで、イスラーム法ならびにそれに準じた同性愛の処罰(処刑)に関してわれわれが批判しなくてはならないのは、その裁判が公正なものではありえないということだとおもう。
すなわち、同性愛者ならびに同性愛行為を法的に処罰するためには(これは逆に同性愛者を庇護する場合もほぼ同じ)、「同性愛者」ならびに「同性愛行為」を法的に定義しなくてはならないが、これが正当に行われることはまずありえない。
比較的定義の容易な同性愛行為でこれをみていくとしても、手紙やメールのやりとり、抱擁や握手、キス、フェラチオ、肛門性交、その他、これらの行為のどこからどこまでが性的行為の範疇にはいるのか、(好意的にも敵対的にも)厳密な定義は不可能である。イスラーム法では慣習的に肛門性交をもって明確な禁止の対象としているようだが、たとえばキスが性的行為にはいるかどうかは、状況によってかなり判断が違ってこよう。またフェラチオは明確に禁止される行為のなかには含まれていないようだが、これも、射精をともなうかどうかで微妙な判断の違いがでてきそうだ(イスラーム法は膣外射精を強く禁じているので、そうした事態が生じうる)。
以上のような同性愛行為の定義・認定の不明確さから、同性愛者の定義・認定はさらに困難である。
よって、このような曖昧な定義に基づく処罰は、容認されるべきではないと私は考える。
また具体的な裁判の場において、定義以上に困難なのは事実認定で、特定の人の同性に対する好意が、単に気持ちのうえだけのものか、それ以上の具体的行為をともなうのか、行為をともなう場合、それはどのような行為であるかを、(裁判によって)どのように客観的に論証できるのであろうか。
要するに、同性愛に対する処罰は、それが「人権侵害」であるかどうかという以前に、公正な裁判制度と馴染まないものであり、ゆえに法としては無効と言わざるをえないというのが現時点での私の結論だ(結局それは、風説や状況証拠による裁判でしかありえないであろう)。
いわゆる反ソドミー法の無効性については、以上のような観点から論じることが可能だとおもうが、そもそもイスラームという宗教の反同性愛的性格ということになると、私はこれを変えることは個別の法の改廃以上に困難だと考える。
たとえば『民衆のイスラーム』のなかでとりあげられている民衆もしくはスーフィズムの寛容さや信仰の多様性、柔軟性は、信仰のなかの核心的な部分に限られており、それ以外の生活規定や性行為における寛容さの現状や今後の展望は、この本のなかからは読み取りづらい。そうしたなかで示唆的なのは、インドネシアにおける中華食浸透の現状をレポートした「『ハラール・チャイニーズ』レストランーージャカルタ最近食生活考」という久保美智子氏のショート・コラムである。
インドネシアは、1億7000万人のムスリム人口を抱える世界最大のイスラーム国家であるが、中華文化圏とも強い接触をもつ。ところで、中華料理には豚肉や豚骨スープで味付けしたものが多く、それとは知らずにイスラームでタブー視されている豚肉を食べてしまう可能性が高いことから、インドネシアでは長いこと中華料理そのものがタブー視されてきた。ところがシンガポールなどに住む裕福なインドネシア人などによって、インドネシア本国にも中華料理のおいしさの評判が伝わり、タブーを犯さずにおいしい料理を食べたいというインドネシア人のために、豚肉や豚骨スープをまったく使わない宗教的に「安全な」中華料理(ハラール・チャイニーズ)が考案され、こうした安全な中華料理店がジャカルタで賑わっているというのである。このコラムは、時代に応じてムスリムの食生活が変化してきつつあることを示すと同時に、(豚肉に対する)禁忌そのものは合理性の陰でむしろ強まっているのではないかという雰囲気も感じさせ、イスラーム社会における寛容と禁忌の今後についていろいろ考えさせられた。
いずれにしても、スーフィズムが同性愛に対して寛容だといっても、それは、「反イスラーム的ではあるが黙認する」といった意味での寛容さであり、そうした態度そのものが反同性愛的で不満だと主張することは、結局、逆原理主義的に、イスラームという宗教の存在そのものを認めないということと同じではないだろうか。私は、そうした頑なな態度に手放しで賛同することはできない。
☆ ☆ ☆
最後に、イスラーム研究者にお願いしたい。
イスラームと性的禁忌の問題は、非常に難しいテーマではあるとおもうが、今後、そうした領域にも研究を広げて頂きたい。そしてより豊富な情報に基づいて、この問題をさらに掘り下げて行けたらいいと私は考えている。