goo blog サービス終了のお知らせ 

闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

『民衆のイスラーム』を読む⑥ーー反同性愛法はなぜ不当なのか

2009-04-04 17:30:27 | イスラーム理解のために
次に、『民衆のイスラーム』の議論からは離れるが、イスラームと同性愛の問題について私がどのように考えているか、個人的な見解を記して、一連のイスラーム関連の記事をとりあえず結んでおくことにしよう。ただしこれは、あくまでも現在私がもっているイスラーム関連の情報から導き出されたものであって、社会状況や情報が変われば変化しうる暫定的なものであることをあらかじめお断りしておく。

     ☆     ☆     ☆

さて、すでに何度か記しているように、この問題に対して私が関心を抱かざるを得ないのは、一部のイスラーム国家ではイスラーム法に由来する「反ソドミー法」が制定されており、これによって同性愛者が処刑されているからである。
ただし私がまず言いたいことは、イスラームと同性愛の問題は、前回の記事に記したようなイスラームに対する総合的な観点からとらえるべきであって、同性愛の問題を対イスラームの最大の問題ととらえるべきではないということだ。そうではなくて、なにがなんでもまず同性愛の問題を最初に解決しなくてはならないというなら、それは同性愛エゴイズムというべきではないだろうか。
またこれとからんで、同性愛解放や性的自由の問題は、政治や宗教・信条の問題と切り離して考えるべき「人権問題」であって、人権というテーマは、民族や人種にはかかわりのない人類にとっての普遍的課題であるがゆえに政治や宗教の問題の解決より優先させるべきだというならば、私は、人権問題が人類の普遍的問題であるという考え方そのものが、特定の地域の社会性や歴史性を捨象した欧米中心主義的な考え方ではないかといいたい。すなわち、人権重視や生命尊重という考え方は、非常に美しくはあるが、経済力が強く、また社会的達成のすすんだ欧米の現状と表裏一体の一つの「思想」であって、そもそもそれがあらゆる社会に対して不変妥当性をもつのか、まず検証されなくてはならないのではないだろうか(ちなみに私は、人権思想を含む欧米流の「近代主義」こそ、社会にさまざまな差別を生み出した元凶ではないかと考えている)。
同性愛者としてまったく容認しがたいものではあるが、イスラーム社会にはイスラーム社会として独自の同性愛に対する捉え方があるということを認めない限り、この問題は解決に向かって前進しないのではないかと私はおもう。

またこれとからんで、スーフィズムや原理主義といった特定の宗派や教説を、同性愛に対して寛容かどうかという観点のみから論じるのも、同様に、全体性を無視した偏った議論にならざるをえないであろう。

そのうえで、イスラーム法ならびにそれに準じた同性愛の処罰(処刑)に関してわれわれが批判しなくてはならないのは、その裁判が公正なものではありえないということだとおもう。
すなわち、同性愛者ならびに同性愛行為を法的に処罰するためには(これは逆に同性愛者を庇護する場合もほぼ同じ)、「同性愛者」ならびに「同性愛行為」を法的に定義しなくてはならないが、これが正当に行われることはまずありえない。
比較的定義の容易な同性愛行為でこれをみていくとしても、手紙やメールのやりとり、抱擁や握手、キス、フェラチオ、肛門性交、その他、これらの行為のどこからどこまでが性的行為の範疇にはいるのか、(好意的にも敵対的にも)厳密な定義は不可能である。イスラーム法では慣習的に肛門性交をもって明確な禁止の対象としているようだが、たとえばキスが性的行為にはいるかどうかは、状況によってかなり判断が違ってこよう。またフェラチオは明確に禁止される行為のなかには含まれていないようだが、これも、射精をともなうかどうかで微妙な判断の違いがでてきそうだ(イスラーム法は膣外射精を強く禁じているので、そうした事態が生じうる)。
以上のような同性愛行為の定義・認定の不明確さから、同性愛者の定義・認定はさらに困難である。
よって、このような曖昧な定義に基づく処罰は、容認されるべきではないと私は考える。
また具体的な裁判の場において、定義以上に困難なのは事実認定で、特定の人の同性に対する好意が、単に気持ちのうえだけのものか、それ以上の具体的行為をともなうのか、行為をともなう場合、それはどのような行為であるかを、(裁判によって)どのように客観的に論証できるのであろうか。
要するに、同性愛に対する処罰は、それが「人権侵害」であるかどうかという以前に、公正な裁判制度と馴染まないものであり、ゆえに法としては無効と言わざるをえないというのが現時点での私の結論だ(結局それは、風説や状況証拠による裁判でしかありえないであろう)。

いわゆる反ソドミー法の無効性については、以上のような観点から論じることが可能だとおもうが、そもそもイスラームという宗教の反同性愛的性格ということになると、私はこれを変えることは個別の法の改廃以上に困難だと考える。
たとえば『民衆のイスラーム』のなかでとりあげられている民衆もしくはスーフィズムの寛容さや信仰の多様性、柔軟性は、信仰のなかの核心的な部分に限られており、それ以外の生活規定や性行為における寛容さの現状や今後の展望は、この本のなかからは読み取りづらい。そうしたなかで示唆的なのは、インドネシアにおける中華食浸透の現状をレポートした「『ハラール・チャイニーズ』レストランーージャカルタ最近食生活考」という久保美智子氏のショート・コラムである。
インドネシアは、1億7000万人のムスリム人口を抱える世界最大のイスラーム国家であるが、中華文化圏とも強い接触をもつ。ところで、中華料理には豚肉や豚骨スープで味付けしたものが多く、それとは知らずにイスラームでタブー視されている豚肉を食べてしまう可能性が高いことから、インドネシアでは長いこと中華料理そのものがタブー視されてきた。ところがシンガポールなどに住む裕福なインドネシア人などによって、インドネシア本国にも中華料理のおいしさの評判が伝わり、タブーを犯さずにおいしい料理を食べたいというインドネシア人のために、豚肉や豚骨スープをまったく使わない宗教的に「安全な」中華料理(ハラール・チャイニーズ)が考案され、こうした安全な中華料理店がジャカルタで賑わっているというのである。このコラムは、時代に応じてムスリムの食生活が変化してきつつあることを示すと同時に、(豚肉に対する)禁忌そのものは合理性の陰でむしろ強まっているのではないかという雰囲気も感じさせ、イスラーム社会における寛容と禁忌の今後についていろいろ考えさせられた。
いずれにしても、スーフィズムが同性愛に対して寛容だといっても、それは、「反イスラーム的ではあるが黙認する」といった意味での寛容さであり、そうした態度そのものが反同性愛的で不満だと主張することは、結局、逆原理主義的に、イスラームという宗教の存在そのものを認めないということと同じではないだろうか。私は、そうした頑なな態度に手放しで賛同することはできない。

     ☆     ☆     ☆

最後に、イスラーム研究者にお願いしたい。
イスラームと性的禁忌の問題は、非常に難しいテーマではあるとおもうが、今後、そうした領域にも研究を広げて頂きたい。そしてより豊富な情報に基づいて、この問題をさらに掘り下げて行けたらいいと私は考えている。

『民衆のイスラーム』を読む⑤ーー次のステップのために

2009-04-01 21:55:22 | イスラーム理解のために
最後に、小ブログでのこのところのイスラーム(スーフィズム)関係の記事のとりあえずのまとめの意味を兼ねて、『民衆のイスラーム』を読みながら考えたことを記しておこう。

     ☆     ☆     ☆

まず、宗教全般に対する私の基本的な考え方だが、これはイスラームに限らず、宗教・宗派に関しては、こちらがよい(優れている)とかこちらが悪い(劣っている)とかは、原則として存在しないとおもう。宗教に関しては、さまざまな違いをもちながらいろいろな宗教・宗派が存在し、それをいろいろな人が信仰している(または信仰していない)というだけではないだろうか。その多様性を、多様なままとらえていくべきだとおもう。

たとえばこれを仏教でいうと、仏教を大別して「小乗仏教」「大乗仏教」という二つの呼称(区分)があるのは多くの人が知っているとおもうが、そうした区分や違いがあるのは事実にしても、それぞれに属する宗派を小乗・大乗と呼ぶのは、「大乗仏教」の側から自分たちのグループの優位を美化するために行われた呼称であって、大乗仏教側から「小乗」と呼ばれた側は、「小乗」とは自称しない。つまり、大乗・小乗とは、それぞれの教説のもつ救済能力の大小(優越)を大乗側から判断したときの一方的な呼称であるが、それはあくまでも考え方・捉え方の問題であって、はたして大乗仏教が真に大きな救済力をもつか(それゆえ優れているか)は証明不能というのが、「小乗」と呼ばれる側の立場である。ゆえに、いわゆる小乗仏教のことは、「小乗」という呼称の差別性を認めて、現在、「部派仏教」と呼ぶのが普通である。要するに、部派仏教と大乗仏教のあいだに教説の違いはあるが、それぞれの教説の優劣は単純には論じられないというのが仏教の場合、ある程度のコンセンサスを得、それぞれが尊重しあう基盤ができてきているのではないかとおもう。
また救済能力と同時に、教説や宗派成立の新旧も、教説や宗派の優越とは関係しないと見なすべきであろう。
実は部派仏教と大乗仏教の関係は、完全に同じではないにしてもイスラームの伝統派とスーフィズムの関係に似たところがあるのだが、部派仏教と大乗仏教がどのように異なるかといえば、部派仏教が釈迦入滅後の原始仏教教団の教説に比較的忠実で、出家主義、戒律重視主義をとるのに対し、これを批判しながら登場した大乗仏教は、在家主義的でありしたがって戒律も比較的緩い。伝統的釈迦教団に一歩距離をおき、原始仏典の言葉尻にはとらわれず、釈迦の意図したことを社会実態にあわせて解釈し直しながらそれを流用していくところに特徴をもつ。故に、厳密にテクスト中心主義的な立場をとると、大乗仏教は釈迦の言説からの逸脱以外のなにものでもない。では大乗仏教は誤りかというと、現に多くの人が「大乗仏教」の名のもとに信じている信仰は、オリジナルのテクストに忠実かどうかを問わず、そのような信仰として、存在を認めていかなくてはならないとおもう(この点は、私の考え方と『民衆のイスラーム』の考え方はほぼ同じである)。またこれはより微視的に、浄土宗や曹洞宗といった教団やその信者が、祖師である法然や道元のテクストに忠実かといったことを問題にするときにも適用されなくてはならない原則だとおもう。
以上は仏教に即した考え方ではあるが、こと宗教を問題とするときは、「正統」という考え方は存在しにくいとおもう。それぞれの人がそれぞれの信仰をもち、そうした信仰をもつ人にとっては、それがどのように奇妙なものであり少数の支持しか得ていないとしても、自己の信仰こそが正統なのであって、それ以外の正統は存在しようがない。

イスラームについても、私はだいたい以上の原則にのっとって考えるのだが、するとその教説の救済力の大小も教説の新旧も、教説の宗教的価値とは無縁だと見なさざるをえない。ゆえに、スンニー派もシーア派もスーフィズムも改革主義(原理主義)も、宗派(教説)としては等価値であり、その間の優越を論ずることはできないと私は考える。
さてこの原則に基づいて『民衆のイスラーム』を読むと、その論点は以上に掲げた私の原則と微妙に食い違うのだが、これは、私と『民衆のイスラーム』の論者のあいだにある宗教に対するアプローチの違いに由来するのではないかと私は考えている。
すなわち、『民衆のイスラーム』に集められている論考には、人類学、もしくは社会宗教学の色彩が強く、それからすると、宗教の理念的なものはほとんど問題とならず、社会実態としての信仰が問題となる。ゆえにイスラームを問題とするときには「民衆のイスラーム」こそひたすら問題としなくてはならないということになるのであろう。一方私の方は、宗教について考えるとき、それがどのように信仰されているかという現象面だけでなく、理論や言説の違いにもこだわりたいとおもっている。
したがって私は、イスラームを問題にする場合には、改革主義者の主張やそれを支持している知的階級の信仰意識も含めて考えてみたいとおもっている。それはひとつには、改革主義者の主張や方法論があまりにも極端過ぎるにしても、彼らがイスラーム社会の現状を憂えている心情はある程度大事にしたいからであり、また知識階級にしても、迷信や魔術からの解放と社会の停滞のギャップのジレンマが、トルコのようにイスラーム中心主義への支持となってあらわれているのではないかと考えるからである。いずれにしても、改革主義とスーフィズム(その対立軸はこれまでの一連の記事をとおし多少整理できたかとおもっている)のあいだにあるのは、教説としての二者択一の問題ではないとおもう。
スーフィズムも改革主義も、すでに見たように、イスラーム社会のなかである歴史性をもって登場してきた教説であり、それぞれの改変を考えるにしても、それは歴史性、社会性のなかで行わなくてはならないのではないだろうか。つまり、スーフィズムのもつ寛容性を評価するにしても、単純にそれに回帰するといったことは、現代のイスラーム社会には不可能である。ゆえに、スーフィズム回帰が不可能なことをふまえたうえで、(イスラーム社会は)硬化した伝統主義にしがみつくのではなく、次の思想的ステップを考えていかなくてはならないのではないだろうか。
実はこの時点で、私の考察はすでにイスラーム社会の政治性の問題に踏み込んでしまっているのだが、政治性や国際情勢とのからみを抜きにしてイスラーム思想の次のステップを考えることができないというところにも、この問題の困難さは存在する。
しかしいずれにしても、イスラーム社会がよりよい方向に変化していくためには、時間がかかり迂遠なようでも、欧米や日本との緊張緩和、格差是正が不可欠であり、そうしたことへの配慮や環境づくりが、欧米諸国や日本には必要なのだとおもう。

『民衆のイスラーム』を読む④ーー新たな模索のはじまり

2009-03-30 11:35:52 | イスラーム理解のために
『民衆のイスラーム』終章の赤堀雅幸氏の論考「民衆イスラームの時代」をさらに追ってみよう。後半は簡にして要を得たイスラーム思想史の要約だ。

「多様性や地域性、寛容さなどを特徴とする民衆のイスラームが勢いを得た時代というのがあり、それは、イスラームの歴史の全体を俯瞰すれば、およそ12世紀から18世紀にかけてと見定めることができる。簡単に言えば、教養が洗練され、社会の制度化が進む一方、(イスラームが強制的な改宗を戒めていることもあって)多くの民衆がムスリムになることなく旧来の信仰にとどまっていた古典期を過ぎたのが12世紀であり、成熟が停滞へと転換しようとしていたこの時代に、それまでとは異なる方向への展開として、スーフィズムや聖者崇拝の普及を核に、民衆に親しみやすいイスラームのかたちが広まっていったのである。それは同時に、それまでにイスラームが広まっていた地域では、民衆のイスラームへの改宗を促し、また東南アジア、中央アジア、サハラ以南アフリカなどにおいて、イスラームそのものの浸透を進めていった。その後、民衆イスラームの広まりは持続したが、やがて18世紀末になると、潮勢は逆転することになる。ヨーロッパ近代がムスリムたちのあいだにも移入され、明治維新期の日本と同じように、近代化の受容と達成、伝統の改廃と変容が迫られる時代になって、イスラームの民衆的要素はしばしば「迷信」や「逸脱」として批判にさらされるようになり、わずかずつではあるが民衆の暮らしからも退潮していくこととなった。」

では、現代のイスラーム思想界はどのような状況にあるのか。
「現代に関していえば、いわゆる原理主義的な思想をもつ人びとは、民衆的な実践には極めて冷淡である。彼らは初期イスラームへの回帰を主張しているため、後代になってイスラームの一部分となった民衆イスラームは、当然のことながら不要な混じりものとして扱われることになる。これらの人びとは初期伝統へ戻ることを主張しているが、彼らは近代を忌み嫌う伝統主義者ではない。彼らは初期イスラームを理想とすることによって、一方では前近代的イスラームを嫌い、返す刀でヨーロッパ的近代に異議を申し立てているのであり、これによって彼らがめざすのは独自のイスラーム的近代とでもいうべきものである。近代化をめざす運動が、古い伝統の掘り起こしを提唱するのは何も意外なことではなく、かつてルネサンスがグレコ・ローマン的伝統の復活をめざして、近代という新しい時代にいたったことを思い浮かべれば納得できるだろう。そもそも、ただ一つの「正しい」イスラームの存在を信じて、それを他者に押しつけるなどというように、理非を突き詰めようとする姿勢自体が、民衆のイスラームとは相容れない、近代的な生真面目さによっていると言わざるをえない。」
近代化のプロセスのなかで、近接する過去の歴史を否定し古代を理想視するのは、なにもイスラームばかりではない。赤堀氏のいう明治維新期の日本もそのように中世から江戸時代にかけての過去を否定し、それによって強制的な社会の近代化を達成したのではなかっただろうか。そしてそのとき、日本的精神の原点として古代が理想化されそれへの精神的回帰が強く叫ばれたことがなかっただろうか。それゆえわれわれは、イスラーム的近代をめざしイスラーム社会を改革しようとする人々を単純に断罪することはできないとおもう。それは、「近代社会」のモデルや理想は欧米にしかないという、それこそ欧米中心主義を絶対化することではないだろうか。
また現に、こうした主張は、イスラーム社会の一部で行われているだけでなく、「生真面目な」イスラーム知識人の共感をも得ていると、赤堀氏は指摘する。
「その意味では、民衆イスラームへの批判は、原理主義の思想傾向をもっているとは限らないムスリム知識人のあいだにも広まっている。世俗的な高度の学校教育を受けたそれらの人びとのなかには今なお、合理主義の名のもとにウェーバー流の「魔術の園からの開放」を信奉するような流れがあり、しばしば近代化の阻害要因として民衆の「迷信」は非難され、またさげすまれる。」
問題は、こうした改革派の、あまりにも単純で性急な方法論と、みずからの主張を、赤堀氏言うところの「民衆イスラーム」とつなげる回路をもたないところにあるのだろう。またそれには、イスラーム社会をとりまく政治的緊張の持続も影響しているのではないだろうか。しかしこれでは、明治維新どころか、青年将校らによるいわゆる「昭和維新」の再現にしかならないとおもう。そしてイスラーム社会の現実に、こうした昭和維新的な気配が感じられないわけではない。

しかしこれに関して赤堀氏はやや楽観的だ。
「だが、原理主義や合理主義が勝利をおさめて、民衆のイスラームが衰微すると考えるのは早計だろう。すでに書いたように、人びとの暮らしがある限り、民衆のイスラームはそこにある。1970年代以降の原理主義の興隆に、私たちは目を奪われてきたが、近年の動向をみる限り、原理主義はすでにかなり行き詰まったところまで来てしまっている。イスラームの原理主義は、その米国版の兄弟分である新保守主義と並んで、やがて衰えていかざるをえないだろう(そう願いたい)。」
そして次のようにイスラーム思想界の今後を展望する。
「事実、これまであまり注目されてこなかったが、原理主義とは異なる方向で、新しいイスラームのかたちを求める動きは、世界各地で起こっている。21世紀にはいって、研究者のあいだでも、ポスト原理主義のイスラームを論ずる議論が、さまざまなかたちでなされるようになった。新しいイスラームを求める動きのなかには、クルアーンに対する大胆な新解釈の提示や、イスラーム法の斬新な改変の試み、近代西洋哲学とイスラーム思想との調和の努力など、ムスリム知識人によって意欲的に推進されている取り組みがある。また、米国でみられるように、世界各地からの移民やキリスト教からの改宗者などが参集することによって、前近代に成立したイスラームの地域性や土着性が解消されて、新たな普遍性を回復しようとする流れもみられる。米国と同様、ヨーロッパや南米、中国、また日本などにおいて、マイノリティとしてムスリムが生きていくその生き方が問い直されている場も注目される。」

『民衆のイスラーム』を読む③ーー サイードを超えて

2009-03-29 09:49:20 | イスラーム理解のために
『民衆のイスラーム』の終章「民衆イスラームの時代」のなかで赤堀雅幸氏は記す。本書によって「(イスラームの)民衆実践についての知識が深まり、イスラームの現実の多様さに目が向き、イスラームの全体について、いたずらにこれを褒めそやすことも貶めることもなく理解されることを、編者は期待している」と。
赤堀氏によれば、民衆のイスラームのおもしろさは、もちろんそれ自体のおもしろさではあるのだが、「より一般的には、人間のなかにある異質なもの(この場合には異文化)に引きつけられる気持ち、異国情緒(エグゾティシズム)と呼ばれるものに由来している」という。赤堀氏の用いる「異国情緒」という概念をそのままあてはめることはできないが、同性愛者と異性愛者の理解にとっても、この「異質なるものに引きつけられる気持ち」は重要なのではないだろうか。そうでない限り、「同性愛とは何か」という問題は、同性愛者、異性愛者それぞれの内部だけで語られる自閉的なものになってしまい、真の理解を生み出さないとおもう。
しかし赤堀氏はエキゾティシズムを手放しで賞讃しているわけではない。「エキゾティシズムのなかには、批判されるべきもの、例えば、異文化をむやみに称揚し、その一部だけをみて全体を理解したと思い込み、現実をみないものも多い」という。
一方これに対して、「周辺民族を古代ギリシア人がバルバロイと呼び、漢人が東夷南蛮北狄西戎と呼んだことや、ナチズムと結合したアーリヤ民族優越説、またユダヤ選民思想のように、自分たちが何に関しても優れていて、他の人びとが劣っているという見方を、自民族中心主義(エスノセントリズム)と称する」というが、赤堀氏によれば、「セスノセントリズムと過剰なエキゾティシズムは、相反する考え方であると同時に、あるがままを全体としてみないという意味では共通した問題をかかえている」とされる。
そうしたエキゾティシズムやエスノセントリズム双方の問題点を指摘する議論は、これまでもしばしばおこなわれてきた。赤堀氏によれば、「とくに、1978年にエドワード・サイードというパレスティナ系の知識人が『オリエンタリズム』という書物を著してからは、安易な異文化理解への視線は厳しさを増している。サイードはその大著で、ヨーロッパ人による中東やイスラーム理解が誤っているにとどまらず、それらが意識的・無意識的に、他者としての中東の人びとやムスリムに対する植民地支配を助長してきた事実を暴き出して指弾した」のである。
私は、欧米や日本で行われているイスラームについての一見ヒューマニスティックな議論の多くも、欧米や日本の社会状況とイスラーム社会の状況、さらにはその歴史性の違いを意識せずにイスラーム社会を一般化する(欧米型の社会モデルにひきつけて欠陥を暴く)かたちで行われており、これでは結局、欧米や日本の社会的優位を固定し維持するのに役立つだけではないかと危惧する。よりわかりやすく言えば、そうした議論の多くは、イスラーム社会に資するものはなにもなく、安全な場所から、「イスラーム社会って、やっぱり野蛮よねえ」といった結論を導き出すためだけに行われている、自己満足のための議論ではないかということだ。そうした議論がイスラーム社会から有効な反応を引き出すことができないのは当然であろう。
しかしこのサイードの批判にも陥穽があると赤堀氏は指摘する。
「サイードの指摘はおおむね正しいものであり、イスラーム関係に限らずポストコロニアリズムなどの運動に大きな影響を与えたが、それがある意味、素朴で健全な、他者や異文化への関心を阻害した面も、今となっては否めない。事実、1990年代の人類学では、とくに米国を中心に、黒人女性の研究は黒人女性によってしかされえないとするような、内向的・縮退的な傾向が生まれて、かえって人類学の危機を招いた。」
われわれならば、この指摘は、同性愛についての言論は同性愛者によってしかなされえないのかと置き換えることができるであろう。同性愛者の権利擁護や権利拡大の問題が、同性愛者による同性愛者のための議論として行われるかぎり、それが社会的広がりをもつことはできないのではないだろうか。その閉塞状況を突き破るためには、議論を純化していくだけでなく、その議論にまったく異質な視点を導入して、議論を多元化していかなくてはならないのではないかと私はおもう。
さて『民衆のイスラーム』終章の赤堀氏の論旨を紹介する予定が、紹介から大きく脱線してしまったが、それは、ひたすらイスラームについて語りながら、赤堀氏の議論が、現代社会のさまざまな問題、なかでも同性愛者という少数者の問題に適用可能な、ある普遍性をもった議論、方法論の模索のように私にはおもわれるということでお許し頂きたい。
赤堀氏の議論自体は、次のように続く。
「民衆のイスラーム実践は、私たちにとって風変わりであると同時に親しいものであり、それこそがイスラーム理解に重要な長所となる。そもそも、異質であるということは、まったく共通性を欠くことを意味しているわけではない。異なる風習や信仰をもつからといって、お互いを理解不能だと、はなから思い込むなどは愚の骨頂である。人として、あるいは生活者として、多くを共有しているからこそ、お互いのあいだの差異は、同じ問題に対する異なる対応として興味深く、お互いのあいだにエキゾティシズムという他者への関心を励起する。民衆実践からもたらされるイスラーム理解とは、そのような性質のものである。」

『民衆のイスラーム』を読む②ーー聖なるイメージ

2009-03-28 14:44:29 | イスラーム理解のために
『民衆のイスラーム』紹介、続いては阿部克彦氏による第6章「民衆のなかの聖なるイメージ」。イラン(スンニー派)を中心にして、イスラームと具象的イメージによる表現の問題が取り上げられる。

阿部氏の議論の出発点は、「神アッラーは不可視であり、直接見ることはできない存在である。ムスリムが礼拝の中心にすえるメッカのカアバ神殿もキスワ(黒布)で覆われいてる。「聖なるもの」「大切なもの」はベールの向こうに隠されるべきものであるとされている」という原則である。
しかし、イランにはこの原則に反するとおもわれる事例が数多く見うけられる。
「現代イランの墓地を見てみると、例えばテヘラン郊外にあるベヘシュト・ザフラーは、おもにイラン・イラク戦争で亡くなった兵士や空襲の犠牲になった人びとの墓地として建設された。なかにはいってみると、墓石の上には小さな祠のようなガラスケースが建てられ、生前の愛用品、殉教者の写真などがかざられている。(中略)しかし、預言者ムハンマドのハディースのなかには、墓に画像を描くことを厳しく断罪しているものがある。ムハンマドは、弟子たちが訪れたことのあるエチオピアでは、死者を祀るために祠を建て、その壁面には人物像が描かれていることを知り、神が彼らを罰するであろうと述べるという伝承が残されている。イスラームでは、死者は土葬され、副葬品なども認められていない。そして墓もモスク内部につくることは許されないなど、厳しい規定が存在する。」
そこで、現実を前に阿部氏は自問する。「このような制約があるなかで、どうして現代のイランでは、とくに殉教者の写真をおくことが許されているのだろうか」と。そしてそれを、シーア派に見られる殉教者哀悼の伝統と結び付けて考えようとする。
またイランには、現代における墓地の光景に限らず、歴史的にもイスラーム信仰の根幹にかかわる具象的なイメージが数多く残されている。
「預言者ムハンマドの姿を描くことは、現代の多くのムスリムにとっては許しがたい行為であるが、歴史上は写本絵画に多く登場し、現存する作例も多い。とくにムハンマドの言行や生涯を描いた作品のなかに描写され、顔をベールで隠した作品もあるが、なかには顔が描かれたものも存在する。13世紀のラシードゥッディーンによる『集史』の写本は、モンゴルのイルハン朝期にイランで制作され、いくつかの作例が現存しているが、このなかでムハンマドの事績を描いたページには、ムハンマドの誕生の図から、生涯のさまざまなできごとや「昇天」の図が描かれ、ターバンをかぶり、髭を蓄えた姿で描写されているのである。これらの図像が生まれた背景は明らかではないが、写本は、非ムスリムも多かったモンゴル系、あるいはトルコ系の王朝の支配層のために制作されたものである。その意味からも、特殊な作例であると考えられるが、ムハンマドの「夜の旅」図に関しては、その後ティームール朝以降も文学作品の写本に繰り返し描かれた。」
小ブログの記事(「スーフィズム探求⑤ーーカリフの権威喪失とともに隆盛へ」3月3日)でも考察したが、阿部氏はイルハン朝がこうした図像表現の転機になったのではないかと推測し、その背景にスーフィズムの存在を推定する。
「預言者の神秘的な体験を描いた図像の発達の背景には、宮廷や王侯貴族から、広く民衆のなかに浸透したスーフィズム(イスラーム神秘主義)があった。」
なぜ、スーフィズムがこうした図像表現と結びつくのか。阿部氏の推論をもう少しくわしく追ってみる。
「スーフィズムは、長らくイスラーム世界で信仰の中心にあった。有力なスーフィー教団は時として権力層と結びつく場合もあったが、多くの場合、民衆の信仰の中心的存在として機能してきた。歴史的には、宮廷内で活躍した画家たちの多くがスーフィー教団の一員であり、神秘主義的思想に感化されていたことは間違いない。スーフィズムの思想やシンボルが、芸術作品のなかに隠されたかたちで挿入されたが、現代のわれわれがその意味するところを正確に解釈することは難しい。光と闇、神との合一、神への愛などは、スーフィーの好んだテーマであったが、具体的に芸術作品にあらわされたとき、れを正しく読み解くことは現代人にとって困難な作業である。しかし、「夜の旅」図は、預言者ムハンマドの神秘的体験を追体験し、神の御許に達しようとするスーフィーにとっての象徴であると解釈される。あるいは、神との合一をめざすための道のりを象徴する霊的な旅ととらえることもできるのである。」
こうした推論の結果、阿部氏は、聖者やスーフィーが民衆の信仰の拠り所となるシンボル表現と深く結びついていると結論づける。
「イスラーム世界の民衆は、偶像崇拝をかたく禁じているイスラームの教義上の制約のなかでも、身近な存在として、信仰の拠り所となる画像、シンボルを要望した。その受け皿となったのが、聖者やスーフィーであり、またイスラーム以前から受け継がれたさまざまな文様、図像をうまく取り込んできた。」
しかし阿部氏の指摘はこれで終わりではない。議論を終えるにあたりこの記事の冒頭で紹介した原則に立ち返り、イランにおいてこうした具象的表現が数多く見うけられるにもかかわらず、基本原則はあくまでも貫かれていると、阿部氏は最後に指摘する。
「ただし、民衆、法学者、支配層の区別なく、ムスリム共通の認識としてあるのは、誰にも等しく「神は見えない」のである。」

『民衆のイスラーム』を読む①ーームハンマドの遺品信仰

2009-03-27 23:38:23 | イスラーム理解のために
このところアルバイト等が忙しくなかなか読書の時間がとれなかったが、合間に赤堀雅幸氏編の『民衆のイスラーム スーフィー・聖者・精霊の世界』(山川出版社、2008年、以下「民衆のイスラーム」と略す)を読んだので、その内容を簡単に紹介してみたい。

     ☆     ☆     ☆

この本は、2005年に国際交流基金主催の異文化理解講座で行われた連続講演会を元に、若手研究者のコラムを加えて編集されたもの。内容は、タイトルがスバリ伝えているようにおもうが、イスラームの教義によって許容される境界線上にある聖者信仰、遺物信仰、護符、呪術などの世俗的信仰に、現代のイスラーム社会の民衆がどのようにかかわっているかを民俗宗教学的に調査し、テクスチュアルな教義だけからは見えてこないイスラームの多様性を明らかにしようとした好企画だ。もちろん、スーフィズム(イスラーム神秘思想)が民衆の信仰とどのようにかかわり、それが現在どのようなかたちで残存しているかは、論者たちの関心のなかでも非常に大きな部分を占めている。

本書の基本構成は次のとおり。
序 章 民衆のイスラームを理解するために (赤堀雅幸氏)
第1章 イスラームの聖者論と聖者信仰ーーイスラーム学の伝統のなかで (東長靖氏)
第2章 預言者ムハンマドの遺品信仰ーー南アジア・イスラーム世界の聖遺物 (小牧幸代氏)
第3章 ムスリム社会の参詣と聖者生誕祭ーーエジプトの歴史と現況から (大稔哲也氏)
第4章 聖者崇敬の祭り、精霊信仰の集いーーモロッコとエジプトを舞台に (赤堀雅幸氏)
第5章 邪視と村の精神世界ーートルコ西黒海地方から (中山紀子氏)
第6章 民衆のなかの聖なるイメージーーイランの聖者像から (阿部克彦氏)
終 章 民衆イスラームの時代 (赤堀雅幸氏) 

全体の序章「民衆のイスラームを理解するために」のなかで編者の赤堀氏は次のように問題提起する。
「イスラームの基本的な教義を踏まえつつも、それを突き詰めるという方向ではなく、暮らしのなかに溶け込ませておこなわれてきたイスラームのかたちを、本書は「民衆のイスラーム」ないし「民衆イスラーム」と呼んでいる。
「民衆のイスラームを、イスラームのなかにはいった余計な混じり物とみる見方は、かつてのムスリムの学者たち(ウラマー)や、合理主義をもって任ずる現代のムスリム知識人、また「正しい」イスラームの追求に燃える原理主義的思想傾向のムスリムのあいだに根強い。またそうした民衆のイスラームに目を向けたヨーロッパの民族学者たちも以前には「民間信仰」や「迷信」といった言葉でもって、民衆のイスラームを理解してきた。だが、長い歴史のなかに営まれてきたイスラームの現実とは、民衆性に彩られ、生活に根づいたイスラームであり、それを知ることが大切だというのが、本書の主張するところである。」

これを受けた各論から、小ブログは第2章「預言者ムハンマドの遺品信仰」と第6章「民衆のなかの聖なるイメージ」に注目してみたい。

まずは第2章。小牧幸代氏の議論の出発点は次のとおりである。
「アフガニスタンのターリバーン政権との親密な関係からも推察できるように、南アジアのムスリム多住国家すなわちインド、パキスタン、バングラデシュでは、改革主義的なイスラーム思想・運動が非常に活発に展開されている。しかし、そこに住まう約3億~4億人のムスリムが日常的に接しているイスラームは、必ずしも改革主義的なものばかりではない。各地のモスクや廟などの宗教施設には、預言者ムハンマドの髪や髭、足跡、履物、外套、錫杖といった古めかしい色やかたちの遺品が大切に保管され、巡礼や参拝の対象となっている。ステッカーや壁掛けなど、極彩色でポップな形状の遺品の複製品は、巡礼や参拝の際に購入されて護符・御守あるいは聖地土産となる。本章では、南アジアの事例に基づいて、イスラームの聖遺物信仰の具体相に迫ってみたい。」
以下小牧氏は、カシュミールのハズラトバル廟、デリーのジャーマ・マスジト、ニューデリーのニザームッディーン廟、北インドの「サソリの聖者」の廟、ラホールのバードシャーヒー・マスジト、バングラデシュのカダム・ラスール廟を紹介する。そのなかでたとえばハズラトバル廟には預言者の髪の毛が祀られており、しかもそれは20世紀の半ばに一度盗まれ、しばらくして人知れず舞い戻ってきたという。また同廟は、預言者祭、預言者による夜の旅と昇天の日に多数の参拝者が訪れておおいに賑わっているという。
小牧氏によれば、こうした預言者をめぐる行事にはイスラームの教義に反するとの見方もあるという。
すなわち、「イスラーム法は預言者の慣行に基づいて五行のうちの断食と大巡礼に直接関連のある二つの大祭を認めるにすぎない。イスラーム法はこれ以外を正式な行事としないだけでなく、預言者とはいえ一人の人間を対象として行事や祭礼をおこなうことを禁止している。そのため、上述のような預言者祭のあり方は、とくに改革主義者の見地からすれば恥ずべき、非難されて然るべき行為といえるかもしれない」という。しかし、そうした見解や非難にもかかわらず、現実に預言者祭に参加する人の数は決して少なくない。「聖遺物崇拝という機会は、人びとが預言者(とその家族ら)に遺品を介して接する機会を提供するものであり、彼らはそこでイスラームを実際に体験し感得するのだといえる。このことは、改革主義者ターナヴィーが一方で預言者祭や聖遺物参拝にかかわるいくつかの行為を非難しつつも、他方では聖遺物参拝自体を根底から否定していなかったことからも明らかであろう」と、聖遺物崇拝や預言者祭が、改革主義者によって黙認されてきた事実を重視する(これは、民衆の支持を得るために、改革主義運動そのものもある種の妥協や曖昧性を含まざるを得ないことの暗黙の示唆でもある)。
こうした分析をとおした小牧氏の結論は次のとおりである。
「聖者や聖遺物を中心とした「民衆」のイスラームは、改革主義的イスラームの活性化や「近代化」「世俗化」などにより、衰退しつつあるとの議論がなされて久しい。だが、ここで紹介した事例は、「民衆」のイスラームがなおも活気と熱狂に満ちあふれたものであることを力強く物語っていた。聖遺物参拝や預言者祭の盛況ぶりもその証左となりうるが、もうひとつ注目したいのが聖遺物をかたどった極彩色でポップな形状の護符・御守の流通である。聖遺物をモチーフとした護符・御守の存在は、重厚で古めかしい遺品がカラフルでコンパクトに複製されたのちもなお、バラカ(神に起源する祝福の力)を宿すものとして信仰の対象となっていることを示している。しかも、そうした護符・御守は多くの場合、各地の聖者廟で廉価で購入することができる。聖遺物は保管場所への巡礼や参拝だけでなく、それをかたどった護符・御守の購入を通じて、より個人的で日常的な空間においても信仰されているというわけである。つまり、聖遺物信仰は決して「前近代的」で衰退が予測される「死にかけた」信仰ではない。むしろ、時代に即したかたちで間断なく「創出」と「変容」とを繰り返しながら、現在に「生きる」力に満ちた信仰だといえるのである。」

ハーフィズを読む②ーー神秘主義、遊蕩との関係から

2009-03-16 12:31:44 | イスラーム理解のために
ハーフィズの詩でもその基調を構成しているイスラーム神秘主義(スーフィズム)について、ハーフィズ詩集の翻訳者・黒柳恒男氏の解説から引用しておく。

「この思想の土壌になったのはイスラーム初期におこった禁欲主義であった。(中略)女聖者ラービア(801没)が現れると、禁欲主義における神への畏怖が神への愛に変った。神への熱烈な愛、人格的な愛、愛における神と人間との一体化は神秘主義の基本的性格の一つとなり、ハーフィズの思想の基調をなしている。その後9世紀になると、神への愛の他に二つの性格が導入された。即ち霊知・神秘的知識(マーリファ)と陶酔の境地(ファナー)で、神秘主義は以上の三つの基本的性格から成っている。マーリファとは書物から学ぶ思弁的、間接的な知識ではなく、神との瞬間的合一の時に得られる神からの直接的、感性的知識を意味し、ヘレニズム的接神論グノーシスと同じである。ファナーとは自我を滅却して神との合一をはかる陶酔の境地を意味し、論理を超越し、直観によって人間の魂が入神の境地に達するのをいう。神秘主義は民衆宗教運動の形態として発展し、正統的宗教学者(ウラマー)とは発展過程において激しく対立した。しかし教理至上主義を唱え抽象的論議に終始したウラマーの弾圧にも拘らず、神秘主義は民衆の信仰生活と密着してイスラーム圏全域に広がり、12世紀には正統派神学と神秘主義の間に調和、協調関係が樹立され、神秘主義は一層発展した。」

以上はもちろん神学的な説明であるが、私はこの「(神との)瞬間的合一の時に得られる(神からの)直接的、感性的知識」「自我を滅却して(神との)合一をはかる陶酔の境地」は、「神」をはずして一般論的に考えれば、同性愛の感覚に通ずるのではないかとおっている。異性愛の場合は、どうしてもそこに「生殖」という強度に目的論的な要素がかかわってくるために、「知・愛・陶酔」という三位一体となじまないような気がするのである(これってヤオイ的?)。
ファナー(陶酔)について、『イスラーム辞典』から捕捉しておく。

「ファナーという概念は、9世紀にバグダードで活躍したハッラーズが創唱したとされる理念であるが、前近代においてこれを否定するムスリムはほとんどいなかった。ただし、すべてのムスリムが、アッラー以外のあらゆるものを見なくなり、主体的意識を喪失するような第3段階のファナー(自らがファナーに到達したという意識すら消滅する段階)を認めていたとは必ずしもいえず、悪しきエゴの消滅といった倫理的な意味に限って認める人びともいたと思われる。アッラーへのファナーという語そのものを否定する論者が現れるようになるのは、近現代になってからである。」

さてハーフィズの詩の紹介、同性愛の主題を含むものだけというのではさすがに方手落ちとおもわれるので、以下により一般的なものを引用しておくことにする。といっても、詩集に含まれる約500篇の詩に内容的な大きな違いがあるわけではなし、代表作といっても選びにくいので、イラン人がハーフィズの詩集で占いをするときのように、適当なページを開いてそこに出てきた詩を記しておく(ハーフィズ占いというのは、彼の詩集の適当なページを開き、そこに記してある詩によって運勢等を占うもの)。

敬虔な行いはいずこ、酔い痴れる私はいずこ(訳注1)
見よ、道の相違はいずこからいずこまで
わが心は僧庵と偽善の弊衣に倦いた
拝火教徒の寺院(訳注2)はいずこ、美酒はいずこ
放蕩は善行や敬神となんの関りがあろう
説教の聴取はいずこ、楽器の調べはいずこ
恋人の面から敵の心がどうして分ろう
消えた燈火はいずこ、太陽の燭はいずこ(訳注3)
わが目の睫墨(訳注4)はそなたの門辺のほこりゆえ
この宮居からいずこに行こう、言ってくれ
顎のくぼみを見るな、行手に落し穴がある
心よ、そなたはこんなに急いでいずこに行く
想い出楽しい結ばれた日々は去り
かの秋波はいずこに去り、かの謗りはいずこ
友よ、ハーフィズに安らぎと熟睡を望むな
安らぎとは何か、忍耐とは、熟睡はいずこ
(『ハーフィズ詩集』2)

【訳注】
1 両者の大きな違いを示す。
2 酒場を指す。
3 敵の暗い心が消えた燈火、恋人の明るい面が太陽の燭。
4 ソルメともいい、アンチモニーの粉末を目の縁につけると涼しさを感じる。

黒柳氏の訳注にもあるが、「中世において酒場をイランではわずかに残っていた拝火教徒が営んでいたことを示す」(黒柳氏)という。

来たれ神秘主義者よ、酒杯は鏡の如く澄む
紅玉の色をした美酒の清らかさを視よ
帳の内にある秘密(訳注1)を酔える遊蕩児に問え
高い位の隠者にはこの状態が分らない
鳳凰(訳注2)はだれの獲物にもならない、網(訳注3)を解け
かなたで網にかかるのはいつも風だけ
世の宴では一、二杯を飲んで去れ
つまり永遠の契りを望んではならぬ
心よ、青春は去り、そなたは愉しみの薔薇を摘まず
老いては徳を示し、名声を求めるな
今ある愉しみに努めよ、泉が涸れた時
アダムは平安の都、天国の楽園を去った
われらはそなたの門辺で仕える権利を持つ
大人(訳注4)よ、憐れみの眼差しを奴隷に向けよ
ハーフィズは酒杯の弟子、微風よ、行って
ジャームの老師(訳注5)にわが挨拶を届けよ
(『ハーフィズ詩集』7)

【訳注】
1 愛の秘密。
2 恋人を指す。
3 手練手管の意。
4 恋人またはハーフィズの保護者カワーム・ウッディーン・ハサンを指す。
5 ジャームはこの句で二つの意味を持ち、一つは酒杯、他は現在のアフガニスタンにおける地名。ジャームの老師とは著名な神秘主義者シェイフ・アフマド・ナーマキーを指す。

また、ハーフィズの詩における「酒」が意味するところのものについてさまざまな見解があることはすでに記したが、黒柳氏によればザッリーンクーブ教授は、「ハーフィズにおける酒は神秘主義的陶酔と現実の酒の双方を恐らく意味していよう」と述べているという。ただし、「学者たちの論議とは関係なく、イラン人大衆がハーフィズを愛唱するのはその表面上の意味をそのまま現実的に受け取り楽しんでいるら」ともいう。同性愛を含む恋愛に関しても、学問的なレベルにおける真意の追求を別にすれば、現実的な享受においては、彼の詩が内包する象徴的意味と具体的意味を区別してとらえるのは不可能であろう。
最後にもう一度、ハーフィズのいう遊蕩と神秘主義の関係を黒柳氏の解説からみておく。

「彼は詩の中でたびたび「遊蕩児(リンド)」を自認し、またそれを誇っているので、まず彼が言う遊蕩児とは何かについて考えねばならない。何故ならこの語は日本語における放蕩者、道楽者とは同意でないからである。英語ではこの語は一般にlibertine訳されるが、リンドの場合は第一義の放蕩者よりもむしろ第二義の宗教上の自由思想家、懐疑論者の意に近い。彼が生活信条とした遊蕩道(リンディー)は、彼の思想の大きな特色の一つである思想の自由に合致している。換言すれば遊蕩道は神秘主義道よりもはるかに幅広く、束縛されていない。確かに彼の詩には現世の全ての出来事、現象を象徴的に見て、あらゆるものに神を見るという神秘主義的傾向が強く作用しているが、これで全てを律することはできない。彼の思想の底流には神秘主義と遊蕩道が平行して流れているようであるが、さらに深く観ると両者にはかなりの共通点があり、必ずしも矛盾はない。ここでいう神秘主義とはハーフィズの時代に堕落した神秘主義者が売りものにしていたえせ神秘主義ではなく、本来の真の神秘主義をいう。元来神秘主義とは儀礼、形式に囚われないものであったが、時代とともに本来の姿は失われた。そこでハーフィズは当時のゆがめられた神秘主義と区別するために、11世紀後半以降カランダリー托鉢僧(デルヴィーシュ)たちが唱えてきた遊蕩道(リンディー)を人生哲学としたのであろう。全般的に彼が神の存在と慈悲、コーランの真理、来世を信じた真の敬虔な回教徒であったことは彼の詩から理解できよう。しかし彼は世の一般の宗教家、信者のように宗教的儀礼、慣習、形式、伝統、制約等に束縛されるのを何よりも嫌った。真の信仰と人間生来の欲求とを調和させようと努めたといえよう。彼が何よりも嫌悪したのは既述のように偽善、欺瞞であった。人前では欲求を克服しているように見せかけ、かつそれをもっともらしく説きながら、隠れてこそこそと欲求を満たしている、当時の神秘主義者の姿が彼には我慢できなかったのであろう。そこで彼は自ら遊蕩児であることを公言し、二心の表裏なく自由に恋もし、酒も飲み、かつ真の信仰を抱いて世を渡ろうとしたのであろう。ハーフィズの詩を神秘主義的に解釈する者は遊蕩児(リンド)を神秘主義者(スーフィー)と同意にしているが、これが誤りであることは彼の詩から明らかである。彼がいう遊蕩児とは要約するならば、真の信仰を抱いているが宗教上の束縛に拘束されることなく、人間生来の欲求に即しながら自然に生き、現世に囚われず清貧に甘んじ満足を旨とする自由なる思想家の謂われであろう。」

ハーフィズを読む①ーー同性愛の視点から

2009-03-15 16:17:53 | イスラーム理解のために
直前の『スーフィズム探求』の記事の補遺として、サーディー(1210年頃~92年頃)と同じシーラーズ生まれのペルシア詩人ハーフィズ(1326年頃~90年頃)の詩集(黒柳恒男氏訳、平凡社<東洋文庫>)から、数編の詩を引用・紹介しておく。

ハーフィズは叙情詩(ガザル)に関してペルシア最高峰とされる詩人で、時代と文化を隔ててゲーテの『西東詩集』にも強い影響を与えている。その詩の大半は酒と恋愛(異性愛)を主題としたものだが、そのなかに同性愛に言及したものも数篇混じっており、以下に紹介するのそうした同性愛詩篇(ハーフィズの詩の魅力は同性愛への言及とは異なるところにあるので、念のため)。なお象徴的で表裏で複雑な意味をもつハーフィズの詩は、訳者・黒柳恒男氏によれば、「真意についてはさまざまな論議があり、未だに未解決」とのことであり、ハーフィズが自分の詩に書いたようにイスラーム法で禁じられている飲酒や遊蕩を実践したかどうかも見解がわかれるという。読むにあたってご注意いただきたい。

ではまず、サーディーの『薔薇園』(第五章物語1)でも紹介されていたスルタン・マフムードとアヤーズに言及した詩二篇(小ブログ『スーフィズム探求』⑩参照:ただし蒲生礼一氏訳の『薔薇園』ではマハムード王とアイヤーズ)。

望みがかないそなたに再会できたとは有難い
誠実と清さからそなたはわが心の友になった
道(訳注1)を進む者たちは茨の道を歩む
愛の友が盛衰をどうして悲しもうか
恋人への悲しみを秘めるは恋敵に語るにまさる
悪意を抱く人たちの胸は秘密を明かすに値しない
そなたの美が他人の愛を必要としなくとも
私はこの恋を断念する者ではない
心の火をどう見るか私がそなたにどうして言えよう
涙に話を聞け、私は告げ口をしない
運命の美容師は何たる騒ぎを起したのか
うるんだ彼女の黒い目に媚の眉墨をつけた
恋人で宴が輝くのに感謝して
虐げられても、蝋燭の如く燃えて満足せよ
目的は美の秋波、さもなくばマフムードの幸運の美は
アヤーズの巻毛を必要としない(訳注2)
ハーフィズが声を上げるところでは
金星(訳注3)の歌声もかなわない
(『ハーフィズ詩集』258)

【訳注】
1 恋路又は神秘主義道を指す。
2 ガズニー朝スルタン・マフムードと美少年アヤーズの恋は史上名高い。幸運なマフムードがアヤーズを愛した目的はただ彼の美しい秋波であったの意。
3 天上界の楽師金星もハーフィズが叙情詩(ガザル)を詠むのにはかなわないの意。

そなたの巻毛の端に再びわが手が届くなら
私はそなたの打球棒(訳注1)で多くの頭を球のように打とう(訳注2)
そなたの巻毛は私には長寿だが
その長寿の一本の毛さえわが手にはない
おお燈火よ、安らぎの蛾を与えよ、今宵
そなたの前で私は心の火で蝋燭の如く溶ける
そなたの微笑みで私が生命を壺の如く捧げる瞬間
そなたを愛する者たちに私への祈りを捧げてもらいたい
わが汚れた礼拝は礼拝でないゆえに
私は酒場にていつもいつも身を焼きやせ細る(訳注3)
回教寺院や酒場にてそなたを想い出すと
私はそなたの二つの眉で壁龕やルートを作る
一夜でもその顔でわが私室を輝かすなら
私は朝のように世界中の地平線に頭をもたげよう
アヤーズ(訳注4)に焦れわが頭が滅びても
恋路におけることの結末は賞讃(マフムード)されよう
ハーフィズよ、心の悲しみを私は誰に言おう
この世では酒杯の他に親友に値する者はない
(『ハーフィズ詩集』334)

【訳注】
1 恋人の眉の意。
2 恋敵たちに恋の競技で勝てるの意。
3 後悔のため。
4 恋人を指す。

スルタン・マフムードはガズナ(現アフガニスタン)を首都としたテュルク系の王朝カズナ朝(カズニー朝)の君主(971年~1030年、在位998年~1030年)。彼の時代にガズナ朝は大いに栄え、現在のペルシア、アフガニスタン、パキスタン、北インドを支配した。文芸も盛んだったという。なお、ガズナ朝はシーア派ながらアッバース朝カリフ(スンニー派)の宗主権を認めている。アヤーズはマフムードの奴隷という以外詳細不明。またウィキペデイア(英語版)のMahmud of Ghazniの項には、マフムードの事績だけでなく、マフムードとアヤーズの図版も掲載されている(ただしそこに描かれているアヤーズはハーフィズの詩から受けるイメージとまったく異なるのでご注意を!)。

次に酌人(サーキー)の魅力に言及した詩を一篇。

いく年も私は遊蕩児たちの宗派を奉じ
知性の法令にて貪慾を獄に投じてきた
私は独りで不死鳥の住処(訳注1)に行けぬので
この旅路をソロモンの鳥(訳注2)と共に歩んできた
おお魂の宝(訳注3)よ、傷ついたわが心に蔭を投げよ
私はこの館(訳注4)をそなたに焦れて荒廃させた
酌人(サーキー)の唇に口づけすまいと思い私は後悔した
なぜ愚か者に耳を傾けたかといま私は唇を噛む
慣習に逆らうことで願望をとげよ
私はかの乱れ髪から安らぎを得た
禁欲と酩酊の図はわれらのままにならぬ
私は久遠の帝王(訳注5)がなせと言ったことをした
いかに私がいく度も酒場の門番を務めたとて
神の恵みで天国に入るのを渇望する
老いの身で私がヨセフ(訳注6)と交われたのは
悲哀の小屋で耐え忍んできた賜物
早起きと安らぎの求め、私がハーフィズの如く
したことはみなコーランのおかげによる
叙情詩の集いにて私が主賓になるは不思議でない
いく年も私はこの集いの主人に仕えてきた
(『ハーフィズ詩集』319)

【訳注】
1 恋人の家を指す。
2 道案内の意。
3 恋人を指す。
4 わが心を指す。
5 運命の意。
6 若く美しい恋人を指す。

15行目で言及されているヨセフの比喩的な意味は黒柳氏が訳注で解説しているが、直接的には旧約聖書に登場するエジプトのヨセフのことで、典型的美男。酌人の魅力に言及した詩はこれ意外にも数多い。

スーフィズム探求⑫ーー象徴としての同性愛

2009-03-13 11:21:25 | イスラーム理解のために
ルーミー(1207年~73年)の『語録(その中にはその中にあるところのものがある)』とサーディー(1210年頃~92年頃)の『薔薇園』の読解を中心とした今回の「スーフィズム探求」の記事をいちおうまとめておこう。

     ☆     ☆     ☆

ルーミーもサーディーもスーフィズム(イスラーム神秘思想)の流れのなかに位置づけられるペルシアの思想家、詩人である。
スーフィズム自体はイスラーム史のなかでアッバース朝の中期におこってきた思想運動であるが、それは、イスラームの根源性を問うという極めてラディカルな側面とイスラームを民衆化していくという平俗な側面の二つの様相をもっていた。同時にスーフィズムは、この二つの側面から、アッバース朝(スンニー派)の体制化した信仰のあり方を問うというもう一つ別の様相をももっていた。
それゆえアッバース朝カリフ政権は、当初スーフィズムに対し高圧的にのぞみ、ハッラージュの処刑などを断行した。しかしそうした高圧的態度とは裏腹に、カリフ体制の弱体化がすすみ、カリフたちは新興軍事的権力にイスラーム社会の支配権をゆだね、みずからは名目的な地位を維持するに甘んじざるをえないという状態が続く。こうしたなかでカリフから支配権をゆだねられた軍事的勢力は次々に交代する。また一方で、地方にはアッバース朝カリフの権威を認めない独自のイスラーム政権が分立していく(その典型がスペインを根拠とし、前政権であるウマイア朝の正統的後継者を自認する後ウマイア朝)。ハッラージュ以降、スーフィズムの内部から優れた思想家が次々と生まれ思想運動が理論的に強化されたという事実を見逃すわけにはいかないが、全体的には、イスラーム社会の動揺、不安定化、分裂が、スーフィズムの運動を加速させたといっていいのではないだろうか。
私はそれは、平安時代から鎌倉時代にかけての日本社会の大動乱期に、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮といった新たなタイプの仏教思想家が次々と登場した状況と非常によく似ているとおもう。そう考えて単純比較を行うと、ルーミーとサーディーは、親鸞(1173年~1262年)、道元(1200年~1253年)、日蓮(1222年~1282年)の同時代人であり、また二人の生きた時代に、日本同様ペルシア社会もモンゴル襲来という事態を迎え、最終的にアッバース朝のカリフが殺害され、異民族・異教徒によって支配されることになる(イル汗国の成立)。
こうなると、世俗的権力はもはやイスラームの宗教問題に対して権威をもって臨むことはできない。
一方、飲酒や同性愛は、イスラームの世界では宗教的=社会的禁忌であるが、アッバース朝の中期からその締め付けも弛んできた。社会全体のなかでそうした弛緩がどの程度進捗したかは不明だが、『薔薇園』を読むと支配階級や社会の上層部では、その禁忌はなかば公然と無視されていたことが窺える。またそれと同時に看過すべきでないのは、アッバース朝期には、たとえばペルシア社会は未だ完全にイスラーム化されておらず(「『中世におけるイスラームへの改宗』を著したリチャード・バレットは、イランの人名辞典に記された有力者の家系をたどり、いつからムスリム名(ムハンマド、ハサン、アリーなど)が登場するかを調べることによって、イスラーム化の進展度を類推しようとした。それによれば、アッバース朝が成立した750年の時点では、イランの全人口にしめるムスリムの割合はわずか8%にすぎなかった。しかし、9世紀はじめになると40%、10世紀には70~80%に達したという」佐藤次高氏『イスラーム世界の興隆』)、そうした非イスラームのペルシア人にとって、酒も同性愛も禁忌ではなかったという点である。そうした複合的社会での酒や同性愛への取締りの有効性にはおのずから限界があろう。
またいつの時代からかは不明であるが、公的には飲酒が禁じられているなかで飲酒が行われたため、非公式の酒場の酌人(サーキー、酒姫とも訳される)は少年が務めることが一般化し、飲酒と同性愛(少年愛)が結びつく要素が、イスラーム裏社会では強かったようだ。
さて、スーフィズムとイスラーム的禁忌の関係の歴史は不明だが、全体として、最後の審判による裁きと救済よりも、現実における神人合一を重視するスーフィズムが、禁忌を軽んじる傾向にあることは否定できないであろう。また、神人合一の恍惚感を「酩酊」と表現するスーフィズムの伝統からいっても、個人としての実行はともかく、飲酒も同性愛も観念的・比喩的表現としては否定されなかった。サーディー『薔薇園』に見られる同性愛の記述、続く世代であるハーフィズの詩に見られる酒の讃歌は、彼らが個人的にどのような行動をしていたかの証言としての前に、そうした観念的・象徴的なものとして受けとめられるべきであろう。
とりあえず同性愛にしぼってスーフィズムがらみのこの時代の様相をまとめると、ちょうど小ブログのNHK大河ドラマ『天地人』の記事(2月14日)に書いたような「信長型」と「謙信型」の2パターンの同性愛に似たものが、当時のイスラーム社会にも認められるのではないだろうか。それはつまり、法や社会的禁忌にわずらわされない権力者を中心とした快楽追求のための同性愛の実行(信長型)と、同性への愛をとおして理念的なものを求め、性欲の充足には必ずしも重点をおかない観念性の強い同性愛(謙信型)の2パターンであり、社会一般の同性愛傾向が「信長型」だとすれば、スーフィズムの文脈なかで言及される同性愛は「謙信型」に近かったようにおもう。実は『薔薇園』は、その二つの型の同性愛の存在をともに紹介している。
もちろん、思想としてのスーフィズムは以上のような同性愛に対する寛容にとどまらないさまざまな面をもち、それらの面もまた興味深い問題を含んでいるのだが、今回はとりあえず、13世紀イスラーム社のなかでスーフィズムと同性愛がどのような関係にあったかの一端を示唆しながら記事をおえたい。

最後に、その後のイスラーム社会の思想運動の展開について、ごく簡単な個人的見とおしを記しておく。
モンゴル侵入後、世俗化する一方のイスラーム社会のなかで、イスラーム法が規定する社会手的禁忌はかなり緩やかなかたちで運用されてきた。これは一つには、イスラーム社会には、キリスト教社会における教会のような組織がなく(ムハンマドはこうした組織をつくることを禁じている)、宗教法上の禁忌に対する違犯を取り締まる組織や権限の所在が不明確であったことが大きく影響しているとおもう。オスマン朝はたしかにアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる大国家を構築しイスラーム世界の再統一を実現したが(ただしペルシアでは、モンゴル人の支配を脱した後、サファヴィー朝などの王朝が成立し、オスマン朝には従属していない)、スルタンの内政的権限は本質的に治安維持を中心としたものであり、歴代のスルタンはイスラーム法を厳格にまもることに強い関心をいだかなかったのではないだろうか。
近代に入り、ヨーロッパとイスラーム世界の社会格差が逆転するとともに、イスラーム社会のなかからも改革の動きがでてくる。思想的には、一方でイスラーム社会の世俗化・脱宗教化をさらにすすめて社会を近代化しようという動きが権力の側からでてくると同時に、そうした世俗化・脱宗教化への批判や抵抗も生じてくる。具体的には、それはスーフィズムへの批判、スーフィズム以前の状態への回帰と聖典の原典研究というかたちで登場し、しだいに民衆を巻き込んでいく。私はこれは、江戸時代の国学研究、『古事記』や『万葉集』への回帰に似た動きだとおもっている。
そして第二次世界大戦後は、一方で国家としての独立を達成しながら欧米との格差の拡大に悩み、それに石油、パレスチナなどの利権が複雑にからみ混乱を増しているのが現在のイスラーム世界の状況ではないだろうか。
どのようにしたらこの状況を改善できるか、即応的なこたえを出すといったことは私の手には負えないが、少なくともそれは、イスラーム社会のなかに人権思想を普及させるといった理念的提言では解決できないと私は考える。
現在のイスラーム社会がかかえる問題に対し、外部からなにか提言が可能だとすれば、それはまず現在のイスラーム社会が構築されてきたプロセスを詳細にふまえたうえで、イスラーム社会が耳を傾けうるものとしてなされるべきできないだろうか。小ブログのささやかな記事が、そのために少しでも役に立てばいいと、私はおもっている。

スーフィズム探求⑪ーー彼が甘い唇をもっていたら

2009-03-11 00:18:17 | イスラーム理解のために
蒲生氏と澤氏の解釈が大きくわかれるのは前回の記事で引用した二つの物語くらいで、澤氏の解釈(訳)を採っても、『薔薇園』第五章は同性愛の雰囲気に強く浸されている(すべてが同性愛の物語ではなく、異性愛の物語も含まれているが)。以下、蒲生氏の訳によって第五章の残りの部分を少し紹介する。

「私はある賢者を見たが、この賢者はある人に迷い、その秘密が明るみに曝されので、ひどく世人から誹りを受け、限りない苦痛を忍ばねばならなかった。ある日私は彼を慰めてこう言った。「貴方の愛情は忌まわしい目的によるものでなく、卑しい動機に基づくものでもない。しかし、世間の非難に身を曝し、粗野なものどもから迫害を受けるようなことは賢者の威厳にふさわしからぬところと思われる!」と。答えて曰く、「友よ!叱責の手を裳から引かれよ!私はたびたびそなたがこうしてはと思われるようにしようとは考えたが、その迫害を堪え忍ぶことは、見ないでいるより容易であるように思われた。先哲も『争う肚を決めるのは見まいとて目を反けるより容易である』と言っているではないか。」(以下省略、第五章物語9)

スーフィズムは神との合一を重んじ、その恍惚状態を「酩酊」と比喩的に表現する。恋と酒はひとにその酩酊状態をもたらすものであり、それゆえ、いったんそれに目覚めたならば、いずれも世の誹りをこえて身を投ずるべきものと見なされたのであろう。またその場合も、その恋が禁じられたものであるということと、生殖を目的としない「恋ゆえの恋」であるということは、大きなポイントとなったのではないだろうか。上に引用した物語9も、対象の性が明確には示されていないが、世に知られ誹謗の対象となるとあるところから同性愛の物語であるとおもわれる。
さて次に紹介する若い托鉢僧と王子の物語は、短いながら同性愛文学の傑作の一つではないだろうか。

「ある人が失望落胆のあまり生き永らえる希望を失ってしまった。というのは行手は見渡す限り危険きわまりない荒野と、破滅の断崖で、一口の糧を求めるに由なく、一鳥の網に掛かる希望もなかったがためであった。
  恋人の眼には汝の黄金の価さえさらにあるまいから、
  汝のためには、黄金も土に変りあるまい!
  (中略)
人々が彼が想い焦がれている王子にその様子を伝えてこう言ったということである。「ある若者がこの原に留まっておりまする。その性質は善良で言葉も優しく、面白い話をもいまするが、また珍しい機知を口にすることもありまする。しかし心は乱れてある人への想いに焦がれているようでありまする」と。王子はこの若者が自分に心をひかれ、そのためにこの不運の砂塵がまきおこったということを知ったので、その方へと馬を躍らせた。王子が近づいて、自分のそばに立ちよろうと決心した様子を見るや、彼は泣いてこう言った。  「私をあやめた人が私の前に立ちかえって来た、
  自分が殺したものに恋い焦がれるように!」と。
「そなたは何故ここに留まっているのか?何処から参ったか?名前は何と申し、どのような技能を弁えているか?」と王子は懇ろに尋ねたが、若者は愛情の海底に身を潜めて、語る術を知らぬもののようであった。
汝が親しくコラーンの七部をそらんじようと、
心が狂っているから、アリフ、バー(アラビア文字のABC)すら判りはすまい!
王子は言った。「そなたは何故私に話し掛けぬのか?私もまた托鉢僧の仲間である。いや、その下僕に過ぎぬ!」と。かように愛人の慰めにより、彼は愛情の波間に頭をもちあげて言った。「不思議や汝が私の側にいるのに私の生命は未だ尽きない!汝が語り始めたのに、私の言葉がいまだに遺っているとは!」と。こう述べて、高らかに叫び声をあげて、こと絶えてしまった。
友の天幕の門に果てたものに、何の不思議があろう、
  いかにして、かく安らかに生き永らえられたか、実に生きるものこそ不思議というもの!」(第五章物語4)

全体的に『薔薇園』で紹介される同性への恋物語は、未達成の憧れを謳いあげるものが多いのだが(達成されたものに対しては、物語1の例のようにやや皮肉な調子で見ているものが多いようにおもう)、そうした物語のなかに、粋な小咄もそっと挿しはさまれている。最後にそれを紹介しておこう。

「私はこんな夜のことを記憶している。その夜親しい友が戸口から入って来た折、私は我を忘れ席を蹴って立ち上がったので、着物の袖で灯火が消えてしまった。
  その顔で、闇黒を照らす幻影が現われた、
  私は自分の運命を訝った、この幸は一体何処からと!
彼は坐って私を責め始めた。「私を見て灯火を消したのは、どういうわけか?」と。曰く、「それには二つの理由がある。一つは太陽が昇ったと思ったこと、もう一つはこの対句が心に浮んだがためである。
  厭わしい人が灯火の前に来たならば、
  起って満座の中にそれを消せ!
  しかし、彼が快い笑と、甘い唇をもっていたら、
  その袖をとって灯火を消せ!」と。」(第五章物語6)