闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

百万遍郵便局からの封書

2013-01-23 23:59:52 | 翻訳への道
今日アルバイトから戻ったら、古都の百万遍郵便局から出された封書が届いていた。
何かとおもいながらあけてみると、私の翻訳を担当しているB先生の、大学での最終講義と退官記念パーティーの案内だ(ちなみに、B先生は教官としては退官するが、その後も出版担当として大学に残られることを、私はすでにきいている)。
こうしたパーティーの案内がもらえるのも、大学から関係者として認識されているからかと、うれしくおもった。
パーティーは3月なかばとのこと。実は12月~2月にかけては、アルバイトの出勤日数が少なく、いつにもまして金穴気味なのだが、大学側からの誘いであり、また関係者と交流できる絶好のチャンスでもあるので、なんとしてもこのパーティーに出席しようと決めた。

「急がずに」

2012-12-27 23:13:22 | 翻訳への道
昨晩、試訳の開通直後に、古都の大学の出版担当者であるB先生に試訳開通の報告メールを出したところ、今日さっそく返信メールをいただいた。それによれば、「翻訳ご苦労様でした。見直しはぜひ急がずにお願いします」とのこと、「急がずに」というので、ちょっと安心した。

本日のBGMは、フリードリヒ・グルダのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ集(ザルツブルク・ライブ)

翻訳が一通り開通

2012-12-26 21:42:01 | 翻訳への道
2008年の5月にはじめた『人間の精神について』の翻訳が、先ほどようやくすべて一通り終わった。作品全体の結びは次のような文章である。

     ☆     ☆     ☆

この主題について、私はこれ以上詳述しないであろう。そして私は、より徳高くより啓発された人間を形成することを望むであろう熱意ある市民に、優れた教育のすべての問題は以下のことに帰することを喚起させることに甘んじよう。それはまず、幸運がわれわれを置く異なった身分それぞれのために、若い人々の記憶に課さなくてはならない対象と観念の空間を固定すること、次に、彼らに栄光と称賛の情念を燃え上がらせるためにもっとも確実な手段を決定することである。
これらの二つの問題が解決されたならば、現在は状況の盲目的な符合の作品である偉大な人間が、立法者の作品となるであろうこと、また、偶然に生じることを少なくしながら、大国家において、優れた教育が才能と美徳を無限に増やすのが可能であることは確かである。

     ☆     ☆     ☆

ほっとしたところで、今はワーグナー『ラインの黄金』~「ワルハラ城への神々の入場」を聴いている。

すばやい返答

2012-11-12 23:00:28 | 翻訳への道
昨晩送ったメールに、今朝、古都の大学からさっそく返事があった。
「原稿ありがとうございました。フランス啓蒙が充実してきました。スコットランド啓蒙も進めています。残りの仕上げ、楽しみにしています」といった内容だ。
短いメールではあるが、反応がすばやいので、こちらとしても励みになる。

翻訳のコピーを発送

2012-11-11 23:20:18 | 翻訳への道
昨日、今日と、だいぶ根をつめて作業したので、『人間の精神について』の翻訳がだいぶすすんだ。夕方には、コピーをとって古都の大学に発送した。予定よりやや遅れ気味の進行ではあるが、なんとか年内には、本文全体の翻訳が終わりそうだ。
また、コピーは1部よけいにとって、カレシモドキにも発送した。カレイモドキとはもう2年以上会っていないが、電話をすればとりあえずうれしそうに相手をしてくれるし、翻訳の進行のこともそれなりに気に掛けているようなので、経過報告をしておくことにした。こういうやりとりがないと、恋愛とか友情とかいっても曖昧なものになってしまいそうなので、ちょっと面倒ではあるが、フォローしておこうとおもった。コピーが届いたころには、これをネタにまた電話ができるので、まあいいか。

「それ」ってなあに?

2012-09-12 23:37:18 | 翻訳への道
国際講演会の余韻を感じながら『人間の精神について』の残りの部分の翻訳をすすめているが、難しいものはどうしても難しい。下方の引用部分では、多用されている「en(それ)」という代名詞が何を指すのか、かなり悩んだ。
仮にそれをフランス人に質問するにしても、私の疑問をフランス語でどう表現するか、回答をどうとらえるかが、また難しい。
結局は一人で悩むしかない。

【仏語原文】
Si les conseils sont quelquefois utiles, c'est pour se mettre en état de se mieux conseiller soi-même : s'il est prudent d'en demander, ce n'est qu'à ces gens sages qui, connaissant la rareté et le prix d'un bon conseil, en sont et doivent toujours en être avares. En effet, pour en donner d'utiles, avec quel soin ne faut-il pas approfondir le caractere d'un homme ? Quelle connaissance ne faut-il pas avoir de ses goûts, de ses inclinations, des sentiments qui l'animent, et du degré de sentiment dont il est affecté ? Quelle finesse enfin pour pressentir les fautes qu'il veut commettre avant que de s'en repentir, pour prévoir les circonstances où la fortune doit le placer, et juger, en conséquence, si tel défaut, dont on voudrait le corriger, ne se changera pas en vertu dans les places où vraisemblablement il doit parvenir ? C'est le tableau effrayant de ces difficultés qui rend l'homme sage si réservé sur l'article des conseils. Aussi n'est-ce qu'à ceux qui n'en donnent point qu'il en faut toujours demander. Tout autre conseil doit être suspect.

【英訳】
If advice is ever useful, it is when it puts us in a condition to judge better for ourselves: if it is prudent to desire it, it is only so when it is asked of those wise men. who, knowing the scarcity and value of good counsel, are very frugal in giving it. In fact, in order to such as will be of use, it requires the greatest care to dive into the character of the man: what knowledge is necessary for the adviser to have of his taste, his inclinations, the sensations by which he is animated, and the degree of those inward feelings by which he is affected? What skill to foresee the faults he would commit and the circumstances in which he may be placed by fortune, and to judge, in consequence of this, whether the fault he would correct, would not be changed into a virtue, in the station in which he will probably be placed? This is the picture of those difficulties which render the wise so reserved on the article of giving advise. Thus it is only of those , who scarece even give any, that we ought to demand it. All other counsels may be justly suspected.

【試訳】
もし助言がときどき役に立つならば、それは、自分を、自分自身に対してうまく助言する状態に置くためである。もし彼がそれを求めることに慎重ならば、求めるのは、良い助言の希少さと価値を知っており、それを出し惜しみするし、またつねに出し惜しみするはずの賢明な人々にでしかない。実際、役に立つ助言を与えるためには、どれほどの配慮で人間の性格を深く究める必要がないであろうか。彼の趣味、彼の性向、彼を動かす感情、彼が作用を受けている感情の度合いについてのいかなる認識をもつ必要がないであろうか。彼が犯すことを望む過ちを後悔する前に見抜き、幸運が彼を置くはずの状況を予見し、したがって、ひとが矯正しようとするであろう欠陥はおそらく彼が達するはずの身分においては美徳へと変化しないであろうかを判断するためには、結局、いかなる細やかさが必要であろうか。賢明な人間を助言の問題についてあれほど控えめにするのは、こうした困難の恐るべき一覧表である。それゆえ、つねに助言を求めなくてはならないのは、すこしも助言しない者にのみである。他のすべての助言は疑わしいはずである。

     ☆     ☆     ☆

私の疑問を具体的に言うと、まず最初は「s'il est prudent d'en demander(もし彼がそれを求めることに慎重ならば)」の「en(それ)」。私はこれは、内容からいうと「助言」だと考えている。ちなみに同じ箇所を英訳は「if it is prudent to desire it」としているが、ifの次のitはheでないとおかしいと私はおもう。
次は「en sont et doivent toujours en être avares(それを出し惜しみするし、またつねに出し惜しみするはず)」の「en(それ)」。私はこれも「助言」もしくは直前の「bon conseil(良い助言)」だとおもう。ただしここでは、それが、「être avares de(ケチな<出し惜しみすると意訳>)と表現と結びついているために、非常に訳しにくい。ちなみに英訳は、「are very frugal in giving it(それを与えることを非常に倹約する)」として、直訳を避けている。

引用した文章全体は、人間の過ちと美徳が相対的であることを指摘するなど、皮肉ではあるがとてもおもしろいとおもう。

ソルボンヌの協力

2012-09-09 22:45:43 | 翻訳への道
今日は、豊島区内の大学で開催された国際講演会の2日目↓。

http://www.rikkyo.ac.jp/events/2012/09/10980/

昨晩早く寝たのですっきり目ざめ、余裕で会場に着いた。
私の一番の関心は昨日の第3報告でほぼ尽きているので、今日は、しっかり聴講するというより、聞き流すという感じの気楽な気持ちで講演会に参加したのだが、2日目の報告も充実していて収穫があった。

なかでもおもしろかったのは、C・S氏による第1報告で、内容はルソーの政治論を扱ったものだが、従来の方法論とは異なり、これを感覚論をとおした一種の快楽主義の主張として読み解くというもので、新鮮な印象を受けた。
また、A・O氏による昨日の第3報告も、実は政治思想を感覚論をとおして解釈するというものだったので、フランスでは現在、18世紀の政治論を感覚論、身体論の視点から捉え直すという試みがさかんなのだなということが感じられた。

ところで、昨日、今日と二日続けて顔を合わせていると研究者同士の親近感もわき、今日は、コーヒー・ブレイクを使ってA・O氏、C・S氏と短いながら会話することができた。なかでもC・S氏は、今後もまた私とコンタクトしたいと、レジュメにわざわざ自分のメール・アドレスを書き入れてくれた。

講演会は午後5時前に終了したが、辞去する前に、もう一度A・O氏、C・S氏に挨拶すると、A・O氏は、今後私の翻訳に協力したいので、わからないことがあったら躊躇せずになんでも訊いて欲しいと言われた。パリ大学(ソルボンヌ)の研究者にそこまで言ってもらえるとはまったく考えていなかったので、非常に感激した。

こうして、おもしろい報告がきけたことと、自分が行っている翻訳行為がフランスの研究者に評価されたことで、二重の充実感をかみしめながら帰宅した。

フランス人研究者に疑問をぶつける

2012-09-08 22:58:50 | 翻訳への道
今日は、予定どおり豊島区内の大学に行き国際講演会↓を聴講してきた。

http://www.rikkyo.ac.jp/events/2012/09/10892/

今回の講演会は、フランス、アイルランド、日本の研究者が近世のフランス政治経済学について報告したのだが、報告も質疑応答もすべて英語で行われたため、報告についていくのが大変だった。
報告内容は、数日前に明らかになったのだが、すぐに、すべてを予習するのは不可能と諦め、結局、自分の研究や翻訳にもっとも関係が深い、本日の3番目の報告に的を絞って予習した。
それでも昨晩までに予習が終わらす、あとは成り行きにまかせようと1時過ぎに寝たのだが、今朝は6時前に目が覚めた。それから、報告主旨(英語)と関連テクスト(フランス語)を読む。眠い目をこすりながらだったが、予習はことのほかスムーズに進み、ともかく9時過ぎに寓居を出る。大学に着いたときには10時を少しまわっていたが、幸いお目当ての報告は午後からなので、午前中を、残りの予習にあてることにした。
お昼は大学近くのレストランでスパゲッティを食べて早めに済ませ、キャンパスに戻ると、6月に中京地区の大学で開かれた学会で話を交わした古都の大学の院生さんにお会いした。まったく勝手のわからないところで、わずかとはいえ顔見知りに会うと心強い。院生さんとは、もともと関心分野が近いうえに共通の知り合いもあり、講演会が終わるまで昵懇にさせてもらった。
さて、肝心の報告は、予習の効果がばっちり出て、わたされたレジュメを見なくても内容がほぼ把握できた。報告後は、簡単に質問までしてしまった。

夕方から大学構内で行われた懇親会では、この報告者A・O氏に、私がフランスの思想家の著作を翻訳していることを伝えたうえで、C(1715年~1780年)という哲学者について、ふだん疑問におもっていたことを直接質問した。疑問の内容は、Cにはドイツの哲学者L(1646年~1716年)に関する著作があるのだが、Lをどの程度読んでいたのかということ。というのは、CがL研究をしていた時期には、Lの重要な著作、とりわけ『人間知性新論』がまだ出版されておらず、Cが手稿などのかたちで『人間知性新論』を読んでいた可能性があるか、もしないとすれば、人間の認識に関するCの思想とLの思想の一種の類似をどのようにとらえたらいいかということだ。私は、日本には、私の疑問にこたえられる研究者は一人もいないだろうといつも残念におもっていたのだが、さすがパリ大学に在籍するCの研究者だけあって、「おそらくCはLの手稿を読んではいない。二人の思想の類似は、別々に同じような認識論に達したものであろう」という適切なこたえをもらって、長い期間の不審がほぼ解決した。
その後、ワインなどを飲みながら、A・O氏、大学関係者らと歓談し、心地よい酔いを感じながら帰宅した。

講演会聴講の予習中

2012-09-04 20:38:16 | 翻訳への道
9月8日と9日の両日、豊島区内の大学で開催されるフランス政治経済学の講演会を聴講したいとおもい、現在、その予習や準備をすすめています。
このため、講演会が終わるまで、しばらくブログの更新ができなくなるとおもいますが、ご了解ください。

コピーが間に合わない!?

2011-06-16 23:44:28 | 翻訳への道
古都を訪問した後、ヘミングウェイの小説を読んだり、アルバイトをしたりしているうちに、私が参加している某学会の年次大会が迫ってきた。今回の大会の共通テーマは「表象(representation)」。「表象」の多義性、変容と展開などをさまざまな視点から論じることになっている。会場は、西池袋の立○大学。会場が近いのぜひ出席したいとおもい、アルバイトのシフトも、あらかじめしっかり休みをいれている。
もっとも、ただ学会に出席して他人の報告をきくだけではつまらないので、先日古都の大学に提出した『人間の精神について』の翻訳の一部を持参し、主要な会員に配布して、ここまで翻訳が進んだので、意見をききたいし、刊行されたらぜひ読んで欲しいと、<営業>もしようとおもっている。
で、週末の大会までにそのためのコピーをつくらなくてはならないのだが、量が半端ではないので、それが一苦労だ。
部数が少なければ、自分のプリンターを使うとか、コンビニで間に合わせるということもできるのだが、大量のコピーなので、なんとか安く済ませたい。
そのためには、近所のスーパーのコピー機を利用するのが一番よいのだが、このスーパーは午後11時で閉店してしまう。私のアルバイトの業務終了が午後9時で、自室に戻るのが午後10時。だから、部屋に戻ってからスーパーに駆け込んで、ようやく目標の半分程度のコピーができるかできないかという感じだ。
というしだいで、今日もともかく10時過ぎにスーパーに飛び込んだのだが、せっかく急いで行ったというのに、コピー機が故障しており、コピーができない。明日、コピー機が修理されることを期待し、そのうえで、1時間でできるだけコピーし、コピーできた分を綴じるしかないのだが、大会までにうまく間に合うか、どうも自信がなくなってきた。
コピーが少しでも進んでいれば、今頃はコピー綴じでてんてこ舞いのはずなのだが、時間がないというのにできることもなく、やむを得ずヘミングウェイの短編を読む合間に、八つ当たり気味でこの記事を打ちこんでいる。