闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

パゾリーニ・シャワー

2006-11-07 13:29:39 | 映画
ブログを立ち上げて一週間ほどしかたっていないが、毎日数多くの人がアクセスしてくれている。アクセスしてくださった方、どうもありがとうございます。
このブログ、ネットをとおしていろいろな人と知り合いたいと思い、そのために等身大の自分を書くようにしているのだが、うまくいっているかどうか…。それと、現在の自分を知ってもらうためには過去のことも必要かとは思っているのだが、なにせGAYとして過ごしてきた時間が長いので(笑)、過去のことばかり書いているとなかなか現在に到達しそうにない。
ところで、ブログを立ち上げたばかりというせいもあるが、自分が書いた記事を読み返してみると、社会問題や時事的な問題についての書き込みがまったくなく、ひたすら自分のこと、それも自分の美意識のことばかり書いているような気がする。
私の場合、もともと社会問題にはあまり関心がなく、このブログでも、ゲイ・リベレーションの問題を含め、そうした問題にコミットすることはほとんどないだろうと思う(さまざまな社会問題に対する意見を書けば、私の「考え方」は手っ取り早くわかってもらえるかもしれないが…)。このため私が、新宿二丁目をはじめとする「リアル」の世界でも、「なんかもってまわったようなことばかり言って、わかりにくいヤツだ」と思われていることはある程度自覚しているが、基本的に社会問題にコミットしないというのは、私の価値観・人生観の問題でもある。なんというか私にとって、GAYであるということと社会問題にコミットしないということは、自分のなかの深いところでリンクしているように思う。そんな考え方はあまりにも幼すぎるという批判は、あまんじて受けいれよう。

   *    *    *

前置きはこのくらいにして、今日は、自分の高校時代のことなども振り返りながら、イタリアの映像作家パゾリーニ(1922年-75年)を例に、私の映画の見方、考え方を少し書いてみよう。

私が映画のおもしろさに開眼したのは高校時代だが、現在と違ってDVDやビデオがあるわけではなし、映画を観るというのは、文字通り映画館とテレビがたよりだった。しかし、地方には映画館そのものが少ないし、テレビで放送される映画も限られていた。高校生の私は、映画に強く憧れながら映画に飢えていた。
ちなみに、私に一人で映画を観にいくという習慣ができたのは中学三年のときだった。しかし、私が住んでいた小さな町には映画館がないので映画を観るためには隣の町まで行かなくてはならず、映画を観ること自体、中学生にはかなりの冒険だった。映画館のある隣の町というのは小さな城下町で、町の構造が迷路のように複雑だったが、私はそのまがりくねった道を駅から映画館と本屋までの近道だけ覚え込んでいた。
幸い高校はその映画館のある町だったので、高校に入ると、すぐ映画館(洋画封切館)に入り浸るようになった。
こうして、高校に入ると同時に本格的に映画を観だしたのだが、映画館に通いだした直後の夏ごろに観たパゾリーニの『テオレマ』にしびれるようなショックを受け、頭のなかからパゾリーニのことが離れなくなった。とはいえそれは、自分で映画をつくりたいという方向の関心ではなく、パゾリーニの語り部となりたい、パゾリーニをとおしてGAYとは何かを語りたいということだったように思う。高校時代の私のあこがれの職業は映画評論家だった。
実はこの年(1970年)、パゾリーニ映画は日本で三本公開され、ちょっとしたパゾリーニ・ブームという感じになっているのだが、地方都市には『豚小屋』は廻ってこず、私がみたのは『テオレマ』と『王女メディア』だけ。でもこれだけで、パゾリーニが当時の私の精神的な偶像になるには充分だった。
パゾリーニというと、発展場?で若者に惨殺されたという死に方がショッキングだったことと、亡くなる直前につくった『ソドムの市』(75年)がスカトロ&サド・マゾのグロテスクな作品だったので、一般的にはその印象が強烈に刻みこまれてしまっているように思うが、私は、パゾリーニの頂点は『奇跡の丘』(64年)、『アポロンの地獄』(67年)、『テオレマ』(68年)の三作だと思っている。このうち『奇跡の丘』と『アポロンの地獄』は田舎では観ることができず、たまたま観た『テオレマ』で、パゾリーニにはまったというわけだ。
さてパゾリーニのことを書きすすめようとして、ここで一瞬手が止まってしまったのだが、パゾリーニ作品の凄さを一言で簡単に表現するのはとても難しい。
上にも書いたように、一般には、パゾリーニに凄さというのは性表現の過激さという風に考えられているように思うが、そうではなくて、なんというか、対象の本質にずばっと切り込んでくる、その鋭さ、斬新さがパゾリーニの身上だと思う。パゾリーニ以降、性表現でも感覚的なものでも、ある意味でパゾリーニを上回る過激な映像作家は出たかもしれないが、パゾリーニが切り開いた心的表現のリアリズムということでパゾリーニを超える作家は、いまだ出ていないのではないだろうか。
この「心的表現のリアリズム」ということを一番よくわかってもらえるのは『奇跡の丘』だろう。この映画は聖書の『マタイ伝』を映画化したものだが(原題はずばり『マタイ伝』)、一般の教養娯楽的聖書映画やハリウッド・スペクタクルのように、大量の資金を投入し、きちんと時代考証をして、西洋人の心の原点である聖書の世界をいかにもそれらしく描いたものではなく、逆に、直接目に飛び込んでくる映像は少しも聖書の世界らしくないところに特徴がある。
この映画が撮影された当時のイタリアでは、パゾリーニはマルクス主義者、無神論者とみなされており、その彼が聖書を題材とした映画を撮るというだけで、聖書に対する冒涜ではないかと思われていたらしいが、できあがった作品は、聖書を真っ正面から見据えたストレートなもので、その剛直なまでのストレートぶりが、習慣でなんとなく神を信じているといった人々に強い衝撃を与えた。
私は大学時代に、たぶん当時京橋にあったフィルム・センターでこの映画を観たのだが、そのとき最もショックを受けたのは、キリストがガリラヤ湖をわたるシーンだった。それは、金をかけられないのでどこかの浅瀬で撮影してそれをキリストが徒歩で湖をわたるシーンにあてているのがバレバレの拙い映像なのだが、「こんなちゃっちい水上歩行シーン、嘘じゃん」とたかをくくって観ていたら、次に、パゾリーニにものすごいうっちゃりを喰らわせられた。
聖書を読むとわかるが、キリストはあまり奇跡を行っておらず、したがってキリストの人間性を強調したような読み方、映画のつくり方も可能なのだが、このガリラヤ湖の場面は、そんなキリストが奇跡を行った非常に重要な場面だ。
そのシーンのなかで、キリストが行った水上歩行の奇跡を見た弟子のペテロが「主よ、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」というと、キリストは「ここまで来い」と命じる。そこでペテロが水上を歩こうとするとすぐに溺れてしまう。すかさずキリストは、「私の言葉を疑いましたね」と言う。このあたり、パゾリーニは文字通り聖書のテクストにそって画面を構成している。ただ視覚的映像が、われわれが頭のなかに組み立てようとするイメージを裏切るようにできているのだ。
このペテロとキリストのやりとりを観ていたとき、私は、こんなシーンはどうせ嘘と思いながら観ていた自分の弱点をつかれたようで、ものすごい衝撃を受けた。そのシーンの映像が嘘というのなら、そもそもキリストの奇跡も嘘であり、この映画を観る意味などどこにもないのではないか。逆に、何らかの意味でキリストの存在や奇跡を信じるならば、あるいは少なくとも、キリストとは何だったのかを自分なりに真剣に考えようとするならば、一つ一つのシーンのリアリティーをどうこういうことにはまったく意味がないのではないか。要するにここでパゾリーニは、あるシーンのもつ映像としての部分的リアリティーを問題にしているのではなく、何か(誰か)を信じるということのリアリティーそのものを問題にしているのだ。
そのことに気づいて文字通り脳天が割られるようなショックをうけながら続く展開を観ていると、パゾリーニの意図、パゾリーニが誰にでも嘘だと見破れるちゃっちい映像で聖書を映画化した理由がものすごくわかるような気がした。観客の目にうつる映像をほんものらしくすればするほど、その映像は嘘になってしまう。聖書の真実を伝えようとしたら、映像はそれらしく見えない方がいいのである。映像表現のリアリティーということについて、これほど深く考えている作家を、私は他にほとんど知らない。
これに続いて制作された『アポロンの地獄』も、この『奇跡の丘』の方法をさらに徹底させて、それにGAYであるパゾリーニ自身の自伝的要素をからめたものすごい傑作であった。去年ある機会があって、GAY映画とは何か、自分にとってベストのGAY映画とは何かをいろいろ考えたのだが、私からすると、この作品はパゾリーニのGAY性とからんだ、最高のGAY映画だ。
で、『テオレマ』。こちらはうってかわって舞台を現代イタリアに移し、GAYであることの問題を正面からとりあげているよりストレートな、それでいて非常に象徴的な作品だ。タイトルの「テオレマ」は、定理や一般規則を意味する。
話は極めて単純。
あるブルジョア一家にある日ある青年がやってきて、父、母、息子、娘、女中のすべてと性的関係を結ぶ。それによってすべての人が変化する。やがてある日青年が去る。その不在によって一家はさらに大きく変化し、家族は崩壊する。女中だけが神に近づく。
こう書くとなんとも色情狂的な内容なのだが、高校一年の私は、この映画にもうれつに興奮し、自分がGAYであるということを明確に自覚し、それを受け止めて生きようと決意したのだった。まあ、当時の幼い私には、青年(テレンス・スタンプ)の股間が執拗に映されることや、青年と息子がベッドインするシーンがあるだけで衝撃的だったのだが(笑)。

ところでパゾリーニは、『テオレマ』を完成させたあと、ある達成感から、それまでの自分の生き方と方法論を反省し、新しい生き方とそれを反映したまったく新しい方法論を模索していたのだと思う。しかし自分を極限まで追い詰めながら新たな映像表現を追求するという厳しい試みの途中で、彼は殺されてしまった。だから『ソドムの市』は、結果的にはパゾリーニの遺作ではあるが、パゾリーニの最終到達点とはいえないと私は思っている。

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今日の記事、社会問題への私のコミットというようなことから書き始めたのだが、考えてみると、パゾリーニは、マルクス主義者として社会問題にアクチュアルに反応していたというイメージに反して、実際には、社会問題を直接の題材とした映画がほとんどないことに気がついた。そんなところ、パゾリーニは思っていた以上に深く、私の考え方に影響しているような気がする。
それは、ヴィスコンティやフェリーニなどの戦後のイタリアを代表する監督とくらべてみてもはっきりしているし、世代的にパゾリーニに近いゴダールとくらべるとさらに明確になる。なんというか、パゾリーニの関心は、時代や社会を飛び越えて、ひたすら根源へ根源へと向かっていく。その根源とは性の問題なのか、神の問題なのか。いやおそらく、パゾリーニはさらにその先にある虚無との境を見ようとしていたのではないだろうか。