闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

流動的ーー和歌のなかの「肉体性」

2006-11-19 13:19:09 | テクストの快楽
今朝は、イタリアの読者に伝えたいと思っている藤原定家の歌

  いつしかとかすめる空の気色かな たゞ夜の程の春のあけぼの

のことをずっと考えていた。
この歌、「霞」「春のあけぼの」といった決まり切った言葉を並べていて、陳腐といえばものすごく陳腐なのだが、読みかえしているうちに、いかにも定家らしいいい歌ではないかと思えてきた。「霞」も「あけぼの」も、要するに境界がさだまらない曖昧なものなわけで、定家に限らず中世歌人はみなこの曖昧性を好んだわけだが、読みかえしているうちに、この曖昧性は、すぐ前の記事に書いたhermeneuticという考え方と繋がってくるのではないかと思えてきたのだ。
当初の日本語の下書きでは、この歌は単なる一例として紹介するだけ、そのなかでこの歌の「意味(訳)」も必要になるというほどのことだったのだが、深く読み込んでみると、この歌は、今回の私の原稿の主題そのものとも、深く通底していると気づいた。
この歌のことはローマのMさんにはまだ伝えてないのだが、これまでのメールのやりとりのなかで、Mさんは「multiple, fluid, polyphonic and polymorphic sound-concept」を重視すると言ってきている。これは、「多元的、流動的、ポリフォニー的、多形態的な響きの概念」というほどのことだろうか(ーーついでにちょっと書いておくと、「流動的」「多形態的」というのはものすごくgay的な概念だと思う)。また、「the perspective of "the physical understanding" is very very important」つまり、「<肉体をとおしての理解>という見方は、とてもとても重要だ」とも書いている。おそらく彼はノンケだと思うが、このあたりの考え方は、私ともピタリと波長が合う。
そして、このMさんの言葉と定家の歌を照合すると、定家の歌は、まさに「多元的、流動的、多形態的」なのだ。

ちなみに私は、とあるものから喚起されたイメージや感情をストレートに書き記そうとした西行や実朝の歌よりも、そうしたイメージや感情の源泉となる世界を、多元的、流動的なままで書きとめようとした定家の歌を好む(実朝の歌など、ノンケぶっていていやになる)。

  おほぞらは梅のにほひに霞みつゝ くもりもはてぬ春の夜の月

流動的な世界を流動的なままに記したこうした歌は、定家といえどもそうたびたびは詠むことができなかった。今日の記事の冒頭に記した

  いつしかとかすめる空の気色かな たゞ夜の程の春のあけぼの

の歌も、この「おほぞらは…」の歌の世界と直結している。
定家のこうした歌はある意味でものすごく日本的なのだが、変に手を加えなくても、感情的なものや感覚的なものではなく、言葉のもつ「肉体性」をとおして、そのままのかたちでイタリア人にもきっとわかってもらえるのではないかと、今私は思い始めている。

註:場合によっては、fluidは「くねくね」とオカマチックに訳すべきかもしれない。polymorphicも、「男・女」などがそれに含まれてくるかもしれない。しかしこの場合にも、私はそのくねくねしたものが好きだ(笑)。

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