闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

神とスキャンダルーーパゾリーニの場合

2006-11-30 14:40:21 | 映画
ブログの更新がまたとどこおっているが、とりあえず、パゾリーニ論にいちおう区切りをつけておこう。
高校生時代の私がみたパゾリーニ映画は『テオレマ』『王女メディア』『デカメロン』の三作だった。それ以外の作品はみようと思ってもみることができなかった。
ただ当時講談社から、パゾリーニが映画撮影と並行して書き上げたrecit(レシ、物語)『テオレマ』が刊行されており、こちらは何度も何度もよく読んだ。それともしかすると『生命ある若者たち』というパゾリーニが若い頃に書いた小説も読んでいたかもしれない。レシ『テオレマ』も『生命ある若者たち』も、今、私の手もとにはないのだが、レシ『テオレマ』はいわゆる映画の「原作」のようなものではなく、ある意味で映画から独立した、パゾリーニの思想を直接伝える媒体となっていた。これによってパゾリーニの「言葉」に触れていたことの影響は強かったと思う。
今手もとに映画『テオレマ』が公開された当時のパンフレットがあるので、レシ『テオレマ』に代わるものとして、このパンフレットのなかからパゾリーニの言葉(Q&A)を抜き出しておきたい。きわめて短いものだが、それでも、パゾリーニの考えははっきりと記されているように思う。

   *    *    *

「現代生活における前後関係の中に大きな寓話的伝説が常に存在していることに、私はつねに心を奪われてきましたが、それ以上に、聖なるものがわれわれの日常生活に絶えず干渉してくることが気になっていました。私が文字で書いたり、映画撮影した私の作品の中で抉りだそうと試み、「テオレマ」の中で寓話の形で説明しようとするのは、異議をさしはさむことができないと同時に理性的な分析からすりぬけてしまうこの聖なるものの存在です。」
ーー数学的な証明と類似するようなお伽噺と結びつく過度の単純化を心配なさらないのですか?
「私は今なお表現としての詩情だけに心を惹かれますし、お伽噺は、その意味するものが複雑であればあるだけ詩的だと思っています。私はリアリズムをもってしては何も見ることができない現実を見出します。私が映画にますます惹きつけられるのは、この現実が私の唯一の一大関心事だからです。」
ーーあなたはスキャンダルを探し求めていられるのですか?
「神はスキャンダルなのです。キリストは、もし再来したとしたら、スキャンダルとなるでしょう。彼は彼の時代にもそうであったし、今日生きていてもそうなるでしょう。私の映画に出てくる見知らぬ男ーーテレンス・スタンプが演じ、その男前の点からも明白なのだがーーは、現実の前後の関係の中に挿入されたイエスでもなければ、エロスでもないのです。それは、具体的な徴候、不可思議な様相によって、人類をその誤った安泰から抜けださせる冷酷な神の、エホヴァの使者なのです。それは、ごく僅かの費用で手に入れ、そのお陰で、正統派的な考えを持つ人たちやブルジョワ階級の人たちが生きているというよりも草木のように無為に世を送っている良心というものを破壊する神なのです。」

   *    *    *

このなかで私がひかれるのは、「お伽噺は、その意味するものが複雑であればあるだけ詩的だと思っています。私はリアリズムをもってしては何も見ることができない現実を見出します」ということと、「神はスキャンダルなのです」ということの二点だ。この二点だけをとりだしても、パゾリーニは21世紀の現代の安閑とした状況のなかに鋭く屹立していると思う。
ところで、パゾリーニのいう「お伽噺」が先に書いた「解釈学」の問題と直結してくるのはいうまでもないが、「神」も、パゾリーニにとっては同じ問題を含んでいたと思う。つまり、それは「善なるもの」などではけしてなく、逆に、それを観てしまったもの、知ってしまったものを破壊してしまう可能性のある根源の「叫び」だ。そして、さまざまな現象に対してつねに一義的な「意味」を求めてやまない近代の異性愛社会を突き崩していく可能性を秘めた多義的で流動的なもの以外のなにものでもない。したがってパゾリーニにとっての性(同性愛)とは、世界に対して異議を申し立て、世界そのものを変革していく根源的な役割を担うものであった。パゾリーニのいうスキャンダルとは、この根源的な多義性・流動性そのものであり、これにくらべれば、世に言う一義的なスキャンダルなどスキャンダルでもなんでもない。ゆえに性の表現は、多義性を求めてお伽噺(寓話)へと回帰していく。
高校時代の私は、パゾリーニのメッセージをほぼこのように受け止めていたように思う。

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2006-12-01 08:18:04
最近すごい古い映画にハマって1950年代とか60年代の映画を見るようになったんだけど、パゾリーニの映画はまだ一度も見たことがないです。すごく見たい。
テレンス・スタンプの「コレクター」と年とってからの「プリシラ」は見ました。
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意外に… (闇太郎)
2006-12-01 13:47:31
パゾリーニの映画って、甘いところとか全然なくて、普通はものすごくとっつきづらいんだけど、そのきついところが意外に幹くん向きじゃないかって気もしてきました。
最初に観るんだったら『テオレマ』より、『奇跡の丘』あたりがいいかな。それがよかったら『王女メディア』『アポロンの地獄』『テオレマ』と観てみるのがいいような気がします。『アポロンの地獄』は、父親、母親との葛藤が主題だから、幹くんだったら、闇太郎には見つけられなかった別のすごさが見つけられるかもしれない。
TSUTAYAとかにもあると思うので、時間があるときにでも探してみてください。
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Unknown ()
2006-12-03 20:40:16
闇太郎さん、ありがとうございます。
そういう順番で見れるようにがんばってみる(笑)
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Unknown (やすくん)
2007-01-27 10:23:39
古い記事にごめんなさい。お久っす。よくわかんないんで教えて。
「神はスキャンダル」ってのはその通りだと思うんですね。三位一体とかの話は置いておいて、神が遣わされたイエスは過去も現在もスキャンダルですよね。「ブルジョワ」云々のコメントもあるんで、ここでパゾリーニさんの言いたいことを、多分、僕はほぼ理解しているように思うんです。だとしても、わかんない①挿入されたイエスでもなくエロスでもない・・・だとしたら何? ②「それを見てしまったもの」の叫びと多義性・流動性との関連て? 「見てしまったもの・知ってしまったもの」の叫びって「ほんとうのこと」でしょ? 
ごめんなさい。頭の整理がつかないです。
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冷酷な神が支配する (闇太郎)
2007-01-28 16:28:37
やすくん、こんにちは。
古い記事でもなんでも、コメントありましたら遠慮なくどうぞ。

さて、昨日までずっと仏様のことを考えていたので、急に神様の話題をふられても、すぐには頭の切り替えがきかないのですが(笑)、①の方は、パゾリーニ発言の文脈からすると冷酷な神(エホヴァ)の使者ということじゃないですか。普通の人は、イエスがそれだとか、エロスがそれだとか、神の使者というものを、一種プラス価値でとらえようとするわけだけど、パゾリーニは、それはプラスかマイナスかわからない、いや、おそらくはマイナスだろうと言おうとしているんだと思います。
もっと俗にいうならば、あるときふと男の視線(もしくは指先かな?)を感じてはっと思う、それがわれわれに対して「目覚めよ!」とつげる「使者」なわけだけど、それがプラスかマイナスかはわからない。
②の方は、少し待ってね♪
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カンタータ第140番 (闇太郎)
2007-01-29 00:37:46
②の方は、私の文章だから自分で説明しなくちゃいけないんだけど、どうも、これを書いたときの気分にさっと戻れなくて、ちょっと四苦八苦してしまいました。
ただ、文章全体は「それを観てしまったもの、知ってしまったものを破壊してしまう可能性のある根源の<叫び>」と書いているので、前のコメントを利用していえば、<「目覚めよ!」と呼ぶ声>のことを言おうとしたんです。ややこしくてごめんなさい。この<声>あるいは<叫び>というのは、外からのものであると同時に、自分の内面からのものなのかな。多義性・流動性との関連でいえば、その<声>によって、多義性とか流動性に目覚める、要するに、そこで世界そのものが変わってしまうということじゃないんだけど、世界のもつ意味が変わってしまう。やすくんの言葉を借りていえば、<世界のもつほんとうの意味>に目覚めるといっていいのかもしれない。ものそのもののありようとしては、目覚めていようといまいと同じなんです。
とりあえず、こんなでいいでしょうか。「納得できん」ということであれば、またそこのところを書いてください♪

ところで、やすくんのブログ、いつのまにかなくなっちゃったんですね。このところ忙しくて訪問できなかったので、気がつかなかった。最後に読んだのは『隣の女』の記事だったかな。
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Unknown (やすくん)
2007-01-29 23:10:23
闇太郎さん、丁寧に説明してくれてありがとうです。ちょっとだけわかってきたような気がします。まだモヤーとしてることろがあるんで、もう少し考えてみます。オレ、どうしても「一義的」なキリスト教的思考から抜けられない。これって脅迫観念だわ。ホントいうと頭がトロいんだけどね。
で、あのブログね、アクセス数が増えてきたからメンド臭くなって閉じちゃった。ハハハハハ! オレってヘンなヤツ。
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Don Giovanni (闇太郎)
2007-01-31 14:43:42
自分をフツーだと思ってる人間て、すごく気持ちが悪いと思ってるんで、「ヘン」と明言するやすくんの気持ちはわかる気がします。
それと、たとえ結果がどうなろうとも「目覚めよ」と呼ぶ声に向かっていく気持ちって、前のコメントのタイトルではたまたまバッハをつかったけど、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の心境かな。あのオペラのなかで騎士長(石像)は「世間の声」なんだろうけど、ドン・ジョヴァンニにはもう一つ別の声が聞こえてくるので、身を滅ぼすことがわかっていても、それに従わざるをえない。その辺、モーツァルトはやはりすごいと思いますね。
ちなみに『テオレマ』は『ドン・ジョヴァンニ』はつかってないけど『レクイエム』をつかってる。
それとこれは私信ですけど、今年は、『リンツ』をチャーミングに演奏する人の伝記を訳そうと思っています。よろしくね~
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