鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

薪割り、薪ストーブがなつかしい半世紀前

2010年09月06日 | Weblog
上鷹には○森鉄工所があった。防護マスクを当て、アセチレンガスバーナーを使っての溶接をしている姿を道路からよく見かけた。そこは、鉄工所だったが、途中からは燃料店に変わった。野球帽をかぶり、二輪車にプロパンガスボンベを積んで、忙しそうに鷹泊中に配送していた印象が強く残っている。
半世紀前、灯りは電気のない時のランプから、白熱電球、蛍光灯と変わっていき、暖房燃料も、薪から石炭、さらには石油への移行があっという間に進んだ。各家の周りにに薪が積み上げられていたのが、石炭置き場に変わり、さらには各家庭の灯油タンク設置となっていった。
これとともに、薪ストーブで煮炊きしていた時代から、プロパンガスでの煮炊きに変わり、便利な世の中になった。


写真は○森さんがあったと思われる付近から中鷹方向を望んで。左に見える家は一般住宅ではなく、○○産業の仕事場でその向こうに駐在所がある。
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昔の鷹泊は安全な場所だった

2010年09月03日 | Weblog
上鷹関連で、○○米穀店への米泥棒事件を思い起こして。
平成5年冷夏で米が不作で外国から緊急輸入した年があったが、この年各地で米泥棒が多発した。鷹泊も例外ではなく、この年○○米穀店に米泥棒との記事が全道版の新聞に載っていた。 安全で安心できる鷹泊での事件ということで目についた記事だった。昔は玄関は鍵なしでもよかったぐらいの鷹泊にこんな犯罪は考えられなかった。国道が整備されたのはいいことだが、その副産物でいろんな人が入り込みやすくなった負の側面ということだろうか。


 写真は人家のまばらになった上鷹から中鷹にかけての付近の遠景。左手前はリフレッシュプラザ鷹泊
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上鷹その昔の思い出

2010年09月01日 | Weblog
上鷹には○塚豆腐店があった。豆腐は、昔も今も、簡単に手に入る食品だが、コンビニもなく交通の発達していない当時の鷹泊で、豆腐の材料の調達、製造から販売まで完結していたといえる。豆腐の製造過程でおからが出来る。おからは古い時代の者には、豊かでなかった時代の食材というイメージがあるが、飽食の時代といわれる今、おからは健康食品という評価なのか、高級料理にもおからが添えられて出されることがあり、びっくりさせられる。
上鷹には、○沢米穀店もあった。米穀店というより、子供にとっては、テレビを見せてもらったことでお世話になったお店という記憶だ。テレビを見ることができるようになった昭和30年代前半、鷹泊ではまず商店でテレビが購入された。夕方の団欒時に、迷惑を顧みず、子供達がどっと押しかけ茶の間を占領した。6時から8時位まで見せてもらった。そのうち各家庭にもテレビが普及し、そのようなことはなくなった。


写真は1990年頃の上鷹、竜水方向へのT字分岐点付近(小学校記念誌より転載)
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