





敷居が高いといわれる歌舞伎だが、もともとは、庶民の娯楽です



「隈取」といわれる独特の化粧ですが、種類も多数有り、それぞれに意味が有ります

下瞼にそって紅をぬる、「助六」が代表です









「大向う」といい、その役者の屋号を叫んでいます

*歌舞伎役者の屋号の始まりは、市川宗家の「成田屋」です
*初代団十郎が、成田山に祈願したところ、二代目を授かったのが縁です

*江戸時代、庶民は名字を持たなく、役者は、庶民よりも下の地位で、苗字有りませんでした
*歌舞伎役者は、今でいうところのタレントショツプを経営していた為金持ちでした
*経営していた店名が、そのまま、歌舞伎役者の屋号になりました






*阿国らが行った芝居は、女性が男装して舞台に上がるなど、従来の芸能と違う斬新なものでした
*「かぶき踊り(奇妙・奇抜)」と呼ばれ、その様な芸人の一座が次々と生まれ「女歌舞伎」と言われました
*幕府より、「女性歌舞伎」が風紀を乱すとして禁止されました
*その後、美少年たちが演じる「若衆歌舞伎」が人気を得ましたが、「女歌舞伎」と同じ理由で禁止されました
*嘆願により、少年の前髪を剃るという条件で、「野郎歌舞伎」として再会されました
*「野郎歌舞伎」が現代に続く歌舞伎になり、「西の藤十郎、東の団十郎」の東西の名優が登場しました
*上方の“和事”、江戸の“荒事”という、それぞれに趣の違う芸が確立されました
*『曽根崎心中』で有名な近松門左衛門も登場し、近松は、市中に生きる名もない人々を描きました
*それが、圧倒的な支持を受けた、歌舞伎は、庶民にとって最大の娯楽になりました
















*5歳~12歳の男子がする大人顔負けの熱演は、見物客の拍手喝采を浴びています
*又その前 に行われる「役者タ渡」も見ものです