はじめに。
今日まで、滅多に無い出張のため暫定更新です。
詳細版は、また後日に。
----------------
時刻は、午前5時半頃。
朝まだき。
宿泊していた宿坊を抜け出して、一ノ橋へと向かう。
そこを入り口とする、高野山 奥の院を訪ねるために。
8月も下旬とはいえ、季節はまだまだ夏。
朝日こそまだ山間から顔を覗かせてはいないものの、空はすっかりと白んできている。
今回泊まった宿坊から一ノ橋までは、徒歩で約15分ほど。
気が付けば、かなりな人が同じ方向へ漫(そぞ)ろ歩いている。
早い人は、既に帰路について戻ってきている。
思いは様々だろうが、皆、何かしらの動機を持って、今、同じこの道を歩いている。
そう思うと、すれ違う人にも、自然に挨拶が出来るから不思議なものだ。
やがて、奥の院への入り口である一ノ橋へ到着。
ここからは、車道を離れて杉木立を抜けていくことになる。
参道の両側には、そうそうたる名士達の墓石が立ち並ぶ。
目についただけでも、北は奥州秋田家から、南は薩摩島津家まであるからなぁ。
殆どは遺骨は入っておらず、モニュメントなのかもしれないが。
奥の院に墓所があれば。
(この稿、暫定了)遥か未来、阿弥陀如来による救済に際して、救い上げられるのだという。
これほどに名を、罪を成した人たちでも尚、またはだからこそ、来世の救済を希求するのだろうか。
高野山という聖地を歩みながら、無神論者の僕が考えるのも何なのだが。
やがて、中間点の中の橋へ到着。
もう一度手水で手と口を清めてから、橋を渡る。
連綿と墓碑は続く。
空気の清々しさは、いや増してくる。
そして、灯籠堂下へ。
写真撮影禁止と並んで、脱帽の指示も出てくる。
ここまでのものは、初めて見た気がする。
さすが、真言宗の総本山と畏まりながら、石段を上がる。
灯籠堂では、ちょうど朝の読経中。
沢山の善男善女が手を合わせている中、僕も軽く手を合わせて裏の御廟に回る。
この奥に。
あの、空海が眠っているんだ。
彼(と、気安く言っていいんだろうか?)が成し得たことの大きさに思いを馳せれば、自然に手も合わさり、頭も垂れてくる。
御廟から回り込むと、灯籠堂から地下に入る入り口を発見。
どうやら参拝コースに入っているようなので、降りてみる。
と、そこには。
無数とも言っていいくらいの、空海のミニチュアが祭られている。
よく見れば、一体毎に台座に名前が書かれている。
これを奉納した人の思いが、まるで銀河のように空間に渦巻いているような感覚に襲われ、息が苦しく、動悸がしてくる。
その思いの渦から場違いさを糾弾されるようにして、地上に戻る。
そこは、ようやく朝日が差してきた世界。
ふう。
と、大きくため息をついて、参道を下る。
中の橋を渡り切ったところで、振り返る。
先程の息苦しさが嘘のように参道は、超然と静寂に包まれている。
御廟に参拝した人には、空海が中の橋まで見送りにきてくれる。
そんな話を思い出しながら、もう一度、そっと手を合わす。
さて。
俗世に還るとするか。
(この稿、暫定了)
今日まで、滅多に無い出張のため暫定更新です。
詳細版は、また後日に。
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時刻は、午前5時半頃。
朝まだき。
宿泊していた宿坊を抜け出して、一ノ橋へと向かう。
そこを入り口とする、高野山 奥の院を訪ねるために。
8月も下旬とはいえ、季節はまだまだ夏。
朝日こそまだ山間から顔を覗かせてはいないものの、空はすっかりと白んできている。
今回泊まった宿坊から一ノ橋までは、徒歩で約15分ほど。
気が付けば、かなりな人が同じ方向へ漫(そぞ)ろ歩いている。
早い人は、既に帰路について戻ってきている。
思いは様々だろうが、皆、何かしらの動機を持って、今、同じこの道を歩いている。
そう思うと、すれ違う人にも、自然に挨拶が出来るから不思議なものだ。
やがて、奥の院への入り口である一ノ橋へ到着。
ここからは、車道を離れて杉木立を抜けていくことになる。
参道の両側には、そうそうたる名士達の墓石が立ち並ぶ。
目についただけでも、北は奥州秋田家から、南は薩摩島津家まであるからなぁ。
殆どは遺骨は入っておらず、モニュメントなのかもしれないが。
奥の院に墓所があれば。
(この稿、暫定了)遥か未来、阿弥陀如来による救済に際して、救い上げられるのだという。
これほどに名を、罪を成した人たちでも尚、またはだからこそ、来世の救済を希求するのだろうか。
高野山という聖地を歩みながら、無神論者の僕が考えるのも何なのだが。
やがて、中間点の中の橋へ到着。
もう一度手水で手と口を清めてから、橋を渡る。
連綿と墓碑は続く。
空気の清々しさは、いや増してくる。
そして、灯籠堂下へ。
写真撮影禁止と並んで、脱帽の指示も出てくる。
ここまでのものは、初めて見た気がする。
さすが、真言宗の総本山と畏まりながら、石段を上がる。
灯籠堂では、ちょうど朝の読経中。
沢山の善男善女が手を合わせている中、僕も軽く手を合わせて裏の御廟に回る。
この奥に。
あの、空海が眠っているんだ。
彼(と、気安く言っていいんだろうか?)が成し得たことの大きさに思いを馳せれば、自然に手も合わさり、頭も垂れてくる。
御廟から回り込むと、灯籠堂から地下に入る入り口を発見。
どうやら参拝コースに入っているようなので、降りてみる。
と、そこには。
無数とも言っていいくらいの、空海のミニチュアが祭られている。
よく見れば、一体毎に台座に名前が書かれている。
これを奉納した人の思いが、まるで銀河のように空間に渦巻いているような感覚に襲われ、息が苦しく、動悸がしてくる。
その思いの渦から場違いさを糾弾されるようにして、地上に戻る。
そこは、ようやく朝日が差してきた世界。
ふう。
と、大きくため息をついて、参道を下る。
中の橋を渡り切ったところで、振り返る。
先程の息苦しさが嘘のように参道は、超然と静寂に包まれている。
御廟に参拝した人には、空海が中の橋まで見送りにきてくれる。
そんな話を思い出しながら、もう一度、そっと手を合わす。
さて。
俗世に還るとするか。
(この稿、暫定了)