江戸の退屈御家人

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田原坂の戦い

2013年09月06日 15時59分14秒 | 歴史を旅する
今度は熊本に行ってきましたよ。半分雨だが半分お天気。

御承知のように明治10年の西南戦争。西郷隆盛が切腹して果てた国内最後の内乱。その激戦地が熊本城攻防戦と田原坂周辺の激戦である。

明治10年2月17日、13000人の薩摩軍が進軍。小倉か、東京へ、あるいは京都の天皇(行幸中)への嘆願か、さしあたり熊本鎮台の政府軍へ。

2月22日から25日まで、熊本城の鎮台4000人は薩摩軍に包囲攻撃されるが、守り通した。この間、西郷隆盛の末弟西郷小兵衛が戦死。
 熊本城は攻撃の前夜、失火か守備隊の付け火か原因は不明だが、天主閣を焼失。その後鉄筋の現天主閣が再建されている。



熊本鎮台攻撃中、薩摩軍一部を熊本城包囲に置き、主力はさらに北上して、2月25日熊本救援の政府軍を玉名市の高瀬で抗戦するが、政府軍に押されて、吉次峠・田原坂・山鹿の地に政府軍阻止の陣地を築いた。政府軍の援軍として小倉にいた熊本鎮台第14連隊乃木少佐(このときはまだ少佐なのだ)が援軍に熊本北方の植木に到着。これに熊本包囲軍の一部が攻撃、「向坂の戦い」が始まり、乃木少佐は軍旗を奪われて退却。

ここから田原坂の戦いが始まる。3月4日から3月20日まで17日間にわたる銃撃戦、白兵戦、抜刀隊ありで、小銃銃弾を日32万発消費したとか。

田原坂一帯は熊本城の北部防衛の要地で、当時大砲を引けるほどの道は田原坂しかなく、そこに色々間道が通じていくつかの台地を形成していた。そこを挟んで北に官軍の本営が、南に薩軍の本営がおかれ、田原坂攻防戦と吉次峠の攻防戦と横平山攻防戦が特に激戦であった。
 多大の犠牲と一進一退の攻防戦を決したのは、3月20日、夜中から続いた大雨のあとの深い霧の中で午前5時官軍が音もなく近づき急襲。通常は6時の夜明けとともに進軍ラッパで攻撃開始していたようだから、
薩摩軍は寝込みを襲われた形で、大混乱、4時間の戦闘で柿の木台場を制圧される。その勢いで官軍は田原坂を守っていた薩摩軍の背後から攻撃し、ついに薩摩軍全体の敗退となった。






田原坂記念碑


七本官軍墓地

 この南には薩摩軍の七本柿木台墓地がある。

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