江戸の退屈御家人

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将門塚  平将門の乱(天慶の乱)

2012年06月29日 09時19分49秒 | 歴史を旅する
将門塚  平将門の乱 (天慶の乱)   千代田区大手町1-1-1 

平将門の父、平良将は下総国佐倉に所領を有し、その子の平将門は京に上って中級官人として出仕し、摂政藤原忠平の従者となっていた。
良将の死亡により将門は帰郷。すると父の所領が伯父の平国香や叔父の平良兼に横領されていたといわれる。
将門は下総国豊田郡、猿島郡を本拠にして勢力を培った。
935年(承平5年) 前 常陸大掾 源護の娘をめぐる争いで、源護の三人の息子と紛争。将門は源三兄弟を討ち破り、源護の館真壁に攻め入り、更に将門は伯父の常陸大掾平国香をも討ち取る。
この間、平将門は関東で軍事力伸長。
源護の訴えにより朝廷からの召喚命令があり将門は上京し検非違使庁で尋問を受ける。朝廷はこれを微罪とし放免。将門は東国へ帰る。
逆に、平将門は元主人の藤原忠平に平良兼の暴状を訴え、朝廷から良兼らの追捕の官符が発せられる。これにより、以後、平良兼の勢力は衰える。
937年(承平7年) 平良兼の息子平貞盛は上京し将門の暴状を朝廷に訴える。貞盛は東国へ帰国し、常陸介藤原維幾に平将門追捕召喚状を渡すが、将門はこれに応じなかった。
この間、平貞盛は平将門側に追われ、東国各地を流浪することとなる。
このころ、関東各地では、新任の国司や介などの間の紛争、現地勢力等との紛争が頻発。軍事実力者としての平将門はこれら現地紛争に巻き込まれていく。
常陸国の藤原玄明が受領と対立して租税を納めず、乱暴をはたらき、更に官物を強奪したとして国衙から追捕令が出されていた。平将門は玄明を保護し、常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は応じなかった。
939年(天慶2年)、この対立が高じて合戦になり、常陸介藤原維幾は3000人の兵を動員したが、将門に撃破され、国府に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、藤原維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくしたといわれる。
将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との間の「私闘」であったが、この事件により朝廷に対して反旗を翻す形になってしまう。
将門は戦勝によりおごり高ぶり、周辺にあおられ血気盛ん。軍を進め、同年、下野国、上野国の国府を占領、「新皇」と称して、朝廷とは独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。将門の軍事力の勢いに諸国の受領や国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国など、関東全域を手中に収めた。
  (これが、人間の性・さがなるものかもしれない。動きがついて動き始めると、行きつくところまでいかないと止まらない。個人レベルでもグループレベルでも同じ。アドレナリンが分泌し精神が高揚すると、天にも昇る気になり、それは止まることを知らない。大成功に終わるか破滅かまで突き進んでしまうかだ。その時の政治・軍事が往々にしてかような偶然性によって動き、また偶然にも左右される。その結果が歴史となることもある。世の中にはそんな例がごろごろしている。平将門の場合もその一例のようにも見える。)

この時、関東8カ国を平らげた将門が任命した関東諸国の国司は、下野守、上野守、常陸介、上総介、安房守、相模守、伊豆守、下総守など。軍事的実力を背景に、国司任命など人事権を行使するなど、まさに独立王国と言わざるを得ない。これを英雄視する立場からは当然将門伝説が生まれる。

940年(天慶3年)、将門謀反の報と、同時期に西国では藤原純友の乱の報もあり、朝廷は驚愕。関東には参議藤原忠文が征討大将軍に任じられ、追討軍が発出。これに対し、将門側は兵5000人を率いて常陸国へ出陣して、実質的な敵対勢力平貞盛と藤原維幾の子為憲を捜索するも貞盛等の行方は知れなかった。
しかしこのとき、将門は一時武装を解いて、下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。(結果的にはこれが平将門の命取りとなる最大の判断ミスといえよう。)
間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と連合して兵4000人を集めているとの報告が入った。このとき将門の手許には兵1000人足らずしか残っていなかったというが、そのまま出陣する。
  (ここでも無理して戦うという大きな判断ミスを犯している。負け戦とはそういうもので、途中での致命的なミスを何度も指摘できるが、勝ち戦ではかような判断ミスは結果オーライで消えてしまう。)
貞盛と秀郷は将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃する。合戦になっても、将門の軍勢いはふるわず、退却。
貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠地に攻め寄せた。将門は兵を召集するが形勢が悪く集まらず。やむを得ず、兵400人を率いて対陣。貞盛と秀郷の軍に為憲も加わり、将門勢力と合戦がはじまった。
最初、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし急に風向きが変わり、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じる。将門は自ら先頭に立ち奮戦するが、飛んできた矢が将門の額に命中し、あっけなく討死した。享年38歳。

将門の死により、その関東独立王国は僅か2ヶ月で瓦解。残党が掃討され、関係者は誅殺。将門の首は京にもたらされ梟首された。将門を討った藤原秀郷には従四位下、平貞盛には従五位下がそれぞれ授けられ、関東は昔の律令制が緩んだ地方秩序が回復。

将門伝説
 将門の首は京に送られ、梟首獄門にかけられた。  しかしこの首は、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵の国豊島郡柴崎の地に落ちた。この際、大地鳴動し太陽も光を失ったという。村人は恐れてここを将門の首塚としたと。
この地は、現在東京都千代田区大手町1-1-1、三菱UFJ銀行の向かい側、三井物産の東隣の文句なしの1等地である。この地は神田明神の故地であり、ここに、1307年徳治2年、真教上人が将門の霊を供養した供養碑があり、その後焼損の度に復刻し、現在に至ると。なお、この地は明治2年から第2次大戦まで大蔵省があり、大蔵大臣阪谷芳治が後人のため、古跡保存碑を作ったと。
更になお、この地は、江戸時代の寛文年間、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、ここで、歌舞伎「先代萩」、山本周五郎「樅の木は残った」の伊達安芸・原田甲斐が殺害された場所でもある。



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