江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

石川島散歩

2012年06月14日 20時14分18秒 | 歴史を旅する
石川島、現在の月島を散歩。中央区の「月島百景」展示会を見に行ったついでに月島、晴海埠頭を自転車で散歩。

今でこそ、中央区内の 佃、月島、勝どき、豊海、晴海、の名称の区割りがあるが、そこにはそれなりの歴史がある。

徳川家康と上方で関係のあった、摂津の国西成群佃村・大和田村の漁民33名が江戸に下った。幕府に魚や野菜を提供することを認められ、石川氏が拝領の石川島の南続きの干潟を築立し、ここを出身地の名をとって佃島とした。ちなみに1649年慶安2年には、戸数80件、160余名の漁民がいたと。

隅田川河口の浅瀬の島は、明治5年に佃島と改名されるまでは、石川島であった。これは、1626年2代将軍秀忠の時代、旗本石川正次が御船奉行として、水主同心130人程度を統括し、幕府水軍として江戸湊を防衛する役目であった所からの命名と思われる。この役職は1590年の家康関東入国時から存在していたもので隅田川河口や品川沖の航行を司る役目であろう。

 それから約160年、徳川幕府も安定期をすぎると、内政上の各種問題を抱える時代変化の矛盾が生じて居た。当時の、火つけ盗賊改め・長谷川平蔵の建議により、隣接地の寄洲に人足寄場が設けられた。石川氏は永田町へ移転。

人足寄場とは、離村した者や、放浪者、人別帳に記載のない無宿者、以前刑罰を受け引き取り人のない者たちを収容した施設で、1790年寛政2年老中松平定信が長谷川平蔵の建議を受けて石川島に設置したものである。

鬼平犯科帳の時代は、無宿者や経犯罪者に対し仕事を教え出所後に自立させる授産・更生の機能を果たしていた。従来は無宿者対策と言えば、佐渡金山に送り強制労働をさせるのが中心であった。
 石川島人足寄場入所した無宿者は、まじめに作業し改心の様子が見られれば月日を問わず放免、農村出身者には相応の地所を与えられたり、江戸出身者には、店を営めるように取り計らわられることもあった。作業に対し賃金が支払われ、その1/3を強制貯蓄させ、出所の際にそれを与えた。また月3度の休業日には心学者による訓話もあったとか。
 人足寄場での作業は、藁細工、精米、堀の浚渫、炭団の製造、古紙の再生、牡蠣殻灰の製造など。特に1841年天保12年から、油絞りが加わり、これは人足寄場の大きな収入源となり、年間800両の収益となったとか。
 
しかし、1836年の天保の大飢饉による無宿人の増加、社会不安から、人足寄場は懲役的性格を強めていった。以後そして明治以降は、懲役場、監獄所と改称し、1895年明治28年、施設の老朽化などで、これら機能は、巣鴨へ移転し、石川島の役目は終わった。

隅田川河口や石川島あたりは本来自然堆積で水深が浅かった。明治になると大型船の航行の必要から、東京湾の浚渫工事とその付帯事業として浚渫の揚げ土を用いて、月島・新佃島の埋め立て工事がおこなわれることとなった。これはのちの大倉組、日本土木会社が行うこととなった。

明治政府の大計画は明治16年に計画され、月島第1号埋立地は明治25年竣工。つぎは月島第2号埋立地が明治27年竣工。新佃島が明治29年竣工。月島第3号埋立地が大正2年竣工。月島第4号埋立地が昭和6年竣工。そして最後の月島漁業基地が昭和37年竣工した。これを見ると、歴代政府、東京府のすごい執念が感じられる。一言で言うと、東京は隅田川河口&東京湾へ埋め立てしつつ、新領土拡大を行ってきたのだ。
 そして、月島は明治25年の埋め立て時期に、築島から月島に代わって現在に至る。

東京は日清・日露戦争を契機に産業が発達。月島はその適地であった。幕末の西欧軍艦の来航等もあり、石川島において、幕府や明治政府の造船対応があったが、それは官営の艦船事業。明治9年に平野富二が石川島平野造船所を設立し、民間部門の汽船需要を開拓していった。明治44年には芝浦製作所と提携し、造機、鉄道旅客用車両、大型橋梁建設等へも進出する大企業となっていく。

 しかし、時代は変わる。高度経済成長の時代が過ぎ、多くの産業が構造改革していく中で、石川島造船の跡地は現在、高層マンションにとって代わられている。
月島の向こう側の石川島播磨跡地でも、都市再開発され、豊洲高層住宅街となり急激な変化を遂げている。そして月島はいま「もんじゃ焼」のブランド地となっている。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする