江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

旧鎌倉街道 関戸(霞の関) 散策

2019年03月27日 19時28分37秒 | 歴史を旅する
3月27日 所用があって多摩センターまで行きました。所要の後 多摩センター駅からバスで 聖蹟桜ヶ丘に行きました。 理由は 旧鎌倉街道を見るためであります。

まず武蔵一宮の小野神社に参りました。
バス停に 一宮と言うのがあったので、ここで降りました。そして地図を頼りに武蔵一宮小野神社に参拝しました。




次に聖蹟桜ヶ丘まで行きました。ここから旧鎌倉街道を行くバスで熊野神社まで行きました。

ここは1213年に武蔵の国に(霞の関)が置かれたと吾妻鏡に書いてあると言われているところで、
この熊野神社境内に(南木戸柵)があったと言われています。



その想像略図です。


この関にちなんで 現在も関戸と言われており、現在 多摩市関戸5丁目に相当します。

ここに関戸古戦場跡がありました。

ここは1333年のは新田義貞の鎌倉攻めのときの激戦地であります。
この戦さは、3回行われ、新田義貞の2勝
一敗 となっています。1回目は新田義貞の勝ち。
2回目は有名な分倍河原の戦いで北条方の圧勝。
3回目に新田義貞が勝って鎌倉に攻め入るのですが、

その原因は、足利高氏が京都六波羅探題を攻め落とし、六波羅を守っていた北条さんが中山道を鎌倉に向かって退却してる途中、佐々木道誉の軍に囲まれ、中山道は番場の関 蓮花寺で六波羅の軍団300数十名が腹を切って壊滅したと言う報告が届いたので、北条軍は戦意喪失して、
鎌倉へ敗退した。

熊野神社の境内から府中方向を見ると、昔はきっと一面森であったと思われますが今は都市化が進み見る影もありません。


久しぶりに鎌倉時代の雰囲気の1部を味わいました。
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ギリシャ メテオラの修道院群(世界遺産)・・・ここはセンチメンタル・ジャーニーでない

2017年03月07日 17時29分41秒 | 歴史を旅する

ギリシャ中北部に メテオラという山岳修道院がある。ここはアメリカの モニュメントバレー や トルコの カッパドキヤ のような台地が浸食された奇岩のある地形で、そこに9世紀ごろから、俗世とのかかわりを断ち瞑想に生きるギリシャ正教の修道士たちが住みついたところとか。

ギリシャ正教つまり東ローマ帝国の国教の中心地は、トルコやスラブ民族の勃興のなかで 14世紀ごろから宗教の中心地・アトス山からおわれ、その西200kmぐらいのメテオラの地に移ってきたという。

宗教の教義は良く分からないが、メタモルフォシス=主の変容とかいう教義で修道士生活を送るいくつかの修道院があり、メテオラにはオスマントルコも一定の保護を与えていたので、現在まで宗教活動が残っている。現在6か所の修道院があるとか。

奇岩のなかで人間が近づきにくく、現在もなお交通の便がよくないところから、それが逆に観光客に人気で俗人の見物客が増えて、世俗を避ける修道士生活に適さなくなりつつありとか。今では、昔のアトス山に、峻厳な、現在も女人禁制・一般立ち入り禁止で、バチカン国のような宗教的自治政府的な性格の東ローマ帝国・ギリシャ正教の宗教中心地が復活しているとか。

大メテオロン修道院と言って、一番大きなもので、現在はこれを博物館に解放し、その他の修道院は必ずしも公開でない策をとっているようだ。 高い高い岩壁にどうやって石造りの修道院をたてたのかね?

ヴァルラアム修道院

ルサヌ修道院

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センチメンタル・ジャーニー  to ギリシャ

2017年03月02日 13時10分09秒 | 歴史を旅する

2月22日から3月1日まで、足掛け8日間のギリシャ旅行してきた。

なぜこの時期にギリシャか?理由は簡単、この時期 費用が安い団体旅行があるからこれにに乗った訳。それに吾輩にとって40年ぶりのセンチメンタル旅行だから、行ってみようという気になった。

ス二オン岬のポセイドン神殿。ただしこんな綺麗な完璧に近い神殿があったかな? 同じような神殿があり忘れてしまったな。

エーゲ海。この海のずーっと先に、シチリア島があり、ここはかってギリシャの植民都市であったアグリジェントには、このポセイドン神殿に勝る路も劣らない神殿が残っているのは、以前の旅行で発見した。

アテネのアクロポリス は修復工事の途中で大きなクレーン等で写真を撮りにくいのが残念。

アクロポリスのすぐ下に、ハドリアン・アーチというローマ時代の神殿ではない建物跡がごく一部残っている。これを見ると、ギリシャ時代からローマ・ギリシャ時代への変遷が具体的に見える。40年まえには分らなかったことが、見えるのは我ながら年のせいか。

 

その後ろには、近代オリンピックの開会グランドがある。

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GHQカメラマンが見た戦後の日本

2013年11月10日 21時33分22秒 | 歴史を旅する
九段会館の手前に昭和館という建物がある。

ここで表記のような写真展をやっていたからのぞいてみた。

  このほかに、戦艦ミズーリ-艦上での降伏調印式の写真もあったと思ったが。


  昭和22年12月の 銀座4丁目交差点

    ここで一句  敗戦を 終戦という 戦後かな

  作者はGHQお雇いカメラマンのデイミトリ―・ボリアという人。彼は占領下の時代からGHQの解散、高度経済成長が始まるまで、約3万点の写真を撮り、昭和36年米国へ帰った由。

 ちなみに昭和館の5階に映像コーナーが、6・7階に常設展がある。
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田原坂の戦い

2013年09月06日 15時59分14秒 | 歴史を旅する
今度は熊本に行ってきましたよ。半分雨だが半分お天気。

御承知のように明治10年の西南戦争。西郷隆盛が切腹して果てた国内最後の内乱。その激戦地が熊本城攻防戦と田原坂周辺の激戦である。

明治10年2月17日、13000人の薩摩軍が進軍。小倉か、東京へ、あるいは京都の天皇(行幸中)への嘆願か、さしあたり熊本鎮台の政府軍へ。

2月22日から25日まで、熊本城の鎮台4000人は薩摩軍に包囲攻撃されるが、守り通した。この間、西郷隆盛の末弟西郷小兵衛が戦死。
 熊本城は攻撃の前夜、失火か守備隊の付け火か原因は不明だが、天主閣を焼失。その後鉄筋の現天主閣が再建されている。



熊本鎮台攻撃中、薩摩軍一部を熊本城包囲に置き、主力はさらに北上して、2月25日熊本救援の政府軍を玉名市の高瀬で抗戦するが、政府軍に押されて、吉次峠・田原坂・山鹿の地に政府軍阻止の陣地を築いた。政府軍の援軍として小倉にいた熊本鎮台第14連隊乃木少佐(このときはまだ少佐なのだ)が援軍に熊本北方の植木に到着。これに熊本包囲軍の一部が攻撃、「向坂の戦い」が始まり、乃木少佐は軍旗を奪われて退却。

ここから田原坂の戦いが始まる。3月4日から3月20日まで17日間にわたる銃撃戦、白兵戦、抜刀隊ありで、小銃銃弾を日32万発消費したとか。

田原坂一帯は熊本城の北部防衛の要地で、当時大砲を引けるほどの道は田原坂しかなく、そこに色々間道が通じていくつかの台地を形成していた。そこを挟んで北に官軍の本営が、南に薩軍の本営がおかれ、田原坂攻防戦と吉次峠の攻防戦と横平山攻防戦が特に激戦であった。
 多大の犠牲と一進一退の攻防戦を決したのは、3月20日、夜中から続いた大雨のあとの深い霧の中で午前5時官軍が音もなく近づき急襲。通常は6時の夜明けとともに進軍ラッパで攻撃開始していたようだから、
薩摩軍は寝込みを襲われた形で、大混乱、4時間の戦闘で柿の木台場を制圧される。その勢いで官軍は田原坂を守っていた薩摩軍の背後から攻撃し、ついに薩摩軍全体の敗退となった。






田原坂記念碑


七本官軍墓地

 この南には薩摩軍の七本柿木台墓地がある。
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生麦事件

2013年08月27日 16時08分31秒 | 歴史を旅する
根岸線で大船まで行き、湘南モノレールで湘南江ノ島で常立寺・滝口寺を見た後、江ノ電で鎌倉に出た。実に久しぶりに鎌倉の材木座海岸へ小旅行だ。





鎌倉からバスに乗って金沢八景まで。昔はこの辺り車で何度も行ったことがあるが、歩いて朝比奈切通しを通り抜けたこともある。滑川沿いに浄妙寺、青砥橋、十二所、鎌倉霊園前をバスで行くセンチメンタルジャーニーみたいだ。

金沢八景から京浜急行で横浜まで。ここで各駅に乗り換え、ついに生麦駅までやってきた。
生麦駅の南に国道1号線(東海道)のバイパス国道15号線が走り、その南に、旧東海道が道幅6間=10.8mの昔の形を残して眠ったような住宅街を走っていた。

住宅街の家屋沿いに、生麦事件発生の地の標識があった。生麦事件といっても、いまは教科書で触れるぐらいだろうが、薩英戦争の原因であり、それに惨敗した薩摩が急速に兵力の近代化を図り、倒幕へ、そして明治維新へと走る歴史のターニングポイントの事件である。


そこを西に、キリンビールの工場沿いの旧東海道沿いに、生麦事件の碑があった。


生麦事件は旧東海道上で横浜居留地の英国人4人が薩摩の大名行列の前を馬に乗って横切った無礼で切られた事件だが、一人は死に、他の3人は神奈川宿まで約3km傷を負ったまま逃げたとか。神奈川宿に米国領事館があった。
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歴史を旅する・・北九州 その2

2013年08月02日 17時27分18秒 | 歴史を旅する
大宰府 水城跡






590年頃、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が覇を競っていた。日本では推古天皇、摂政聖徳太子の時代。
 618年には唐の建国。621年新羅はいち早く唐に朝貢。644年に唐は高句麗遠征。
663年唐の攻撃で百済が滅ぶ。この際、大和朝廷は百済を援けて唐・新羅連合軍と白村江の戦いで大敗。ここで半島の利権を放棄することになる。
 一方、唐の復讐を恐れた朝廷は、大宰府の博多湾寄りに全長約1.2kmの防御壁=水城を築いた。
水城は高さ約9m、基底部の幅約77mの2段式の土塁で、外側には60mの濠があった。水城内側に、大宰府を守る山城として、大野城・基肆城が築かれた。
 しかし、唐の攻撃がおこわれなかったため。これら施設は使われることなく、歴史のなかに消えていったが、現在、水城の一部と、大野城の石垣の一部が残るのみ。
 吾輩は、大宰府の政庁跡の裏を車で行き、大野城の跡を追跡したが、何しろ410mほどの四天王寺山の頂上あたりに総延長6.5kmのうち数10mの石垣跡が残っているとのことであり、酷暑の中、歩いて登る体力なくあきらめたが返す返す残念。






大宰府の政庁はその後、菅原道真、藤原伊周、藤原広嗣などの左遷の舞台と、藤原の広嗣の乱での混乱もあったが、1153年平清盛が太宰大弐のとき、平氏政権の基盤としての日宋貿易を進める意図から、政治的中心地は20km北の博多の地に移ることとなった。
 しかし大宰府政庁は元寇や南北朝の南朝方の拠点となる。
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歴史を旅する・・北九州 その1

2013年08月01日 11時51分55秒 | 歴史を旅する
歴史を旅する会会長として7月29・30・31日に、初めて北九州を訪れ、いくつか見せてもらいました。

1、伊都国歴史博物館











2、吉野ヶ里遺跡









3、岩戸山古墳 ここは八女古墳群のなかにあり、527年筑紫国磐井の反乱でヤマト朝廷に滅ぼされた磐井の前方後円墳である。そこに石人が見守る法廷場所らしき跡もある。












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長崎旅行 6

2013年07月06日 13時08分10秒 | 歴史を旅する
長崎港クルーズで軍艦島へ行きました。近代日本の産業遺跡だ。



当時長崎で建造中の軍艦土佐によく似ていたから、軍艦島とか。石炭採掘で一世を風靡した。




三菱造船所で改修中のイージス艦「ちょうかい」


この橋の下あたりに、江戸時代の西泊御番所と戸町御番所があり、外国船打ち払いの基地であったが、
うまく機能しなかったのが、長崎的か。


三菱100万トンドック


原爆記念碑  これは祈り。言葉にならない。
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長崎旅行 5

2013年07月06日 12時55分46秒 | 歴史を旅する
長崎丸山  ぶらぶら節の故郷  江戸吉原と京都島原に並ぶ格調の色街。八王子とは格が違う。









ここにも思案橋と思い切り橋があり、さらに見返り柳。吉原の見返り柳が懐かしい。


身代わり天神  ぶらぶら節の「愛八」姉さんが通った神社


近くに、砲術の高島秋帆の屋敷跡


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長崎旅行 3

2013年07月06日 11時08分09秒 | 歴史を旅する
長崎の地は、司馬遼太郎によると、大村純忠配下の長崎甚佐エ門(千石程度)が受洗後、その屋敷隣にトードス・オス・サントス教会が建てられたと。つまり私領を最初の外国人神父のルイス・デ・アルメイダに譲り教会領として、1580年この教会がたてられた。



ポルトガル人が平戸から横瀬浦・福田浦をへてこの長崎の地に移り、貿易と布教活動を表裏一体とする。
この背景は「時代というものは魔法のようなものだと思わざるをえない」と司馬遼太郎の言うように、16世紀後半では日本人は国家意識を持たず、外国人が勝手にその欲する土地を決めても別に不思議と思わなかったようだ。ポルトガルはインドネシアのゴアを根拠地とし、中国にマカオ、日本に長崎と構想していたと。

時代は急速に変転。秀吉の統一政権が九州に及ぶのは長崎が教会領になってから8年後天正15年(1587年)と。秀吉は長崎の実情に驚き、1587年バテレン追放、教会領をことごとく停止しここを官地とした。




 初代の長崎奉行は秀吉の部下で、以後明治元年1868年に長崎奉行所が廃止されるまで、277年間127代の幕府官僚が務めた。

1596年、26教徒を処刑。今は26聖人殉教地となっているが、昔は今の長崎駅あたりは海に接する辺鄙な地で刑場であった。

そして1612年の禁教の時代となると、長崎市内の南蛮寺関係は一切棄却され、何も残っていない。トードス・オス・サントス教会は完全に壊され、現在の春徳寺(真宗か?)に改築させられて今に続く。
1626年には踏み絵が、1637年には島原の乱が。

そして1859年に安政の開国となり、キリスト教教会がたてられると、大浦天主堂に隠れキリシタンが200年以上経って現れるという奇跡がおこった。


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長崎旅行 2

2013年07月06日 09時10分40秒 | 歴史を旅する
長崎は見学するところが多方面にある。結局、各人の関心の如何によってウェートが違うのだろう。
そこで吾輩の独断と偏見で。

1、「出島」と「西奉行所」あと。江戸のころ「へそ」のような出島は、その後の埋め立てで現在は町のなかになっている。















2、大波止の「鉄砲玉」 江戸時代から誰がなぜ置いたか分からないが、有名な鉄の弾丸?






文明堂は発祥の地で現在もなお営業している



3、西奉行所あとは、現在長崎県庁。奉行所で関係した人々の碑
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長崎旅行その1

2013年07月05日 10時08分42秒 | 歴史を旅する
市川森一氏の「夢暦 長崎奉行」という本を読んだ。遠山金四郎さくら吹雪の北町奉行の実父の長崎滞在記を、脚本家らしく史実に基づきながらドラマ風に書いた歴史小説である。
 これでいままで特段の興味もなかったが、「長崎=鎖国時代の出島」との単細胞から、時代背景と多くの英傑の活躍したドラマチックな町を知るほど奥深さが分かり、是非とも行ってみたいと。
 いつ行くか?「いまでしょう!」と万難を排して二泊三日の個人フリー切符(老人は安く上げる必要がある)を手配して、いざ、江戸時代みたいに「長崎街道」を行った気分。
 ちなみになかにし礼氏の「長崎ぶらぶら節」と司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の肥前・長崎を並行して読んでいくと、時空的に立体的になるね。

 長崎は懐の深い町。①歴史の重層構造、②都市の消費文化と経済的背景、③文化の蓄積とその拡大生産、④政治・経済・外交の活動があった町。このような特徴を有する町はそう多くはない。江戸と京都と長崎か。
そこに、吉原があり島原があり丸山があったのは決して偶然ではあるまい。




長崎奉行の本拠地、現長崎歴史文化博物館。ここで吾輩は300円で入館した。雨で観客が少なっかので、無謀にも受付嬢に、特段の約束もないが館長がおられたら表敬したいといった。てっきり市川森一氏化と思ったら別人の館長さんで大変ばつが悪かった。名刺交換し雑談。市川氏は二年前逝去。現館長は大学の先生から博物館協会の理事をしておられるようで、いまの「八重の桜」に関し、会津人の「ならぬものはならぬ」本を書いておられるとか。・・・恥ずかしかった。

 眼鏡橋を越えて、例の本でてくる1808年の「長崎奉行 松平図書頭 イギリス船フェートン号事件の責任をとって、切腹」のお墓、を大音寺に尋ねました。開国の50年前だ。優秀な幕府官僚だったのだ。






近くには、崇福寺(中国のお寺)を見るが、何しろ、その先は思案橋・丸山の色街もあり、・・・・・





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大宮八幡宮

2013年06月27日 20時48分52秒 | 歴史を旅する
昨日は大雨。テニスの予定は中止。鬱々の1日。
で図書館で、「紅楼夢」を借りた。清朝初期の時代背景で、中国の源氏物語といわれるような。

 今、中国の政治・文化・外交をいかに理解するか模索しているが、表面的な法治主義の下に、人冶主義という「暗黙のルール」が現に幅広く・強い形で存在しておるようであると。
その2000年の民族の性癖は、歴代王朝とその被支配民がやってきたことであるが、共産中国は解放改革経済に移行して以来、この30年は特に官民格差が、歴代王朝より激しい時代だと。
 曰く、官の支配と民の無能力、曰く、官の優遇と民の著しい差別などなど。百姓への厳しい支配など。
 これらは、おりおり研究してお知らせできればと思っている。

閑話休題。
 いいお天気だから、「歴史を旅する」に戻らなければと、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでいて、再度思った。同氏が亡くなってからだいぶ経つが、氏の精神を懐かしく思う。来週、長崎に行こうとして、唐津道を読んでいる。

 そこで今日、井の頭線「西永福」でおり、高千穂大学を過ぎ、大宮八幡宮に行きましたよ。







ここは、1051年 後3年の役で、陸奥の国の安部頼時が京都朝廷に税を払わず、謀反。
朝廷は、河内源氏の源頼義を陸奥鎮守府長官に任命し、陸奥の鎮圧を命じた。

 源頼義は、いろいろ紆余曲折のあと、陸奥を平定。 出征途中にここ大宮八幡宮に戦勝祈願したのち、
戦勝後の1063年、京の石清水八幡宮を分霊したと。
 その後、八幡太郎義家が、1000本の若松を植えたとか。

 過去のことはよく分からんが,本年は遷座950周年記念祭とか。

でも、格式より現生利益「夏越の祓い」の方が、吾輩なんかには良いな。



そのあと、和田掘公園の「杉並区立博物館」を訪問。あまり興味を引くほどの博物館でなかったが、
先日訪問した「武蔵の国御岳神社」の護符が展示してあったのには、驚いた。庶民のレベルでは、武蔵の国内でみんな結構動いていたんだと。



そのあと運動を兼ねて、善通寺川沿いを歩きました。
さすがに疲れた、地下鉄丸ノ内線の「中野富士見町」で地下鉄丸ノ内線に乗り新宿経由で、今日の冒険は、お・し・ま・い



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昭和・その動乱の時代・議会政治の危機・特別展&憲政記念館

2012年11月21日 19時01分56秒 | 歴史を旅する













 今日21日は日比谷公園でのテニス。
自転車で日比谷に行く前に、憲政記念館の昭和の議会政治史展覧会を見てきました。

憲政記念館は結構いい資料展示をしており、ほかの専門博物館に引けを取らない。
たまたま案内状が来ていたから、是非見させてもらおうと、訪問した。

結果論からは、昭和の時代に、なぜあのような国を滅ぼうすような意思決定・戦争に進んだのか?その本質はいろいろな角度から言及されているが、いまだなお、はっきり分からない。政治論的には、現代と変わらない。

その過程の一断面を、写真や手紙や過去の記録を展示することにより、何らかの角度から表示している。それはそれでよし。

 話は変わるが、憲政記念館の展示もいいが、久しぶりに、記念館の敷地内にある「日本水準原点」の石作り建物2m四方があり。明治24年1891年設置の、全国の土地の標高を決める基準点なのです。
 これを見てきましたよ。皆さんも是非見てください。憲政記念館は無料。
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